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明鏡止水
その三
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落ち着いてよく考えてみよう。
俺と伊藤さんの関係は現在はとてもデリケートな感じになっている。
伊藤さんは俺の事を命の恩人だと思っている。
そしてその恩を返すため俺のために何かをしたいと思って色々と献身的に奉仕してくれている。
それに対して俺ときたら、それを断固として拒絶することもせずに、さりとて据え膳だと受け止めて責任を取って想いを受け入れるという方向にも踏み出せず、曖昧にしたまま流されてひたすら彼女の献身だけを受け止めるという卑怯千万な状態だ。
なんでそんなことになっているのかというと、これはひたすら俺の我が儘にすぎない。
恩義がどうとか貸し借りとかで人の心を得るのは気が引けるという、頭でっかちのロマンチスト極まりない理由なのだ。
伊藤さんは本気だ。
それはここまでずっと付き合って来て理解している。
それなのに俺は彼女に答えを出さないまま、この気楽でぬくぬくとした状態を続けたいと無意識に思っているのだ。
だから受け入れることも突き放すことも出来ないのである。
「あの……」
伊藤さんがおずおずと言葉を継いだ。
「私は木村さんの負担になるつもりはありません。両親には、その、なんとかごまかしておきますから。何か言って来ても知らぬ存ぜぬで通していただけたらそれで」
「それは、駄目だろ」
俺にひたすら都合のいい提案に対して、思わず否定の言葉を口にする。
それってどんな厚顔無恥野郎だよ。
彼女にばっかり負担を掛けて悠々楽しく過ごすのか? さすがにそれは男として無理な話だ。
正直な話、俺は彼女が好きだ。
可愛らしいし、優しいし、頭のいい女性で、それでいながらどこか芯のある強さがある。
これ以上は望めないぐらい、素晴らしい女性だと思う。
俺が引っかかっているのは、彼女の献身は全て俺への感謝の念による義務感に近い想いからの物ではないかということだ。
一目惚れとかは有り得ないと、身の程を知っている。
そんなことはわかっているが、だからと言って自分の内面に他人を惹き付ける何かがあるかと言えばそれも怪しい。
何と言っても、俺は今まで夢を追うと言いながら、ひたすら現実から目を逸らして逃げて来たのではないか? という漠然とした自分に対する不信があるのだ。
自分自身を信じ切れていない人間が、どうして他人に愛されると思えるだろうか。
いや、それでも恋愛に夢を持っていること自体が、もう俺の駄目な所なのかもしれない。
「木村さんは、私を信じられませんか? ……いえ、この言い方は卑怯ですね。私が木村さんを好きでいることが感謝からの義務感だけとお思いですか?」
「えっ!」
俺は内心を読まれたように感じてドキリとする。
伊藤さん、本当に読心能力お持ちじゃないですよね?
「私、無理なんかしていません。すごく楽しいんです。木村さんと一緒にいるととても楽に息が出来る気がするんです。木村さんは、……あなたはとてもキラキラとしています。私は僻地育ちだから、都会の空気が合わなくて、ずっとなんだか息苦しいと感じていたんです。でも、あなたと一緒にいるとそうじゃなくなる。上手く言えませんけど、私は決して義務感であなたの傍にいたい訳じゃないんです。むしろ我が儘がすぎるぐらいだと、そう思っているんですよ」
「う……あ」
なんだろう、もしかしてこれって、今って、女性からの告白を受けているんだろうか?
そんなことが妄想以外で有り得るんだろうか?
え? マジでか?
途端に、俺は自分が貧乏揺すりを始めていることに気づいてコップの水を一気に煽った。
落ち着け、大丈夫だ、問題ない。
何が問題ないかよくわからないけど、大丈夫だ。
そんな混乱のさなか、突然、背中にひやりとした寒気が走った。
俺は反射的に立ち上がると、何かを感じた方向に視線を向ける。
「木村さん?」
たちまち頭が冷えて、意識が切り替わる。
どこかで異常事態が起こっていた。
そんな俺の様子を見て何かを悟ったのか、伊藤さんはさっと顔を引き締めると、
「行ってください」
と俺を促した。
なにこの娘、凄いカッコイイ。
俺は一瞬真剣な顔で俺にそう告げる伊藤さんに見惚れて異常事態を忘れた。
そして、既に異常事態そのものが消え去ったことに気づく。
「あ、いえ、終わった? みたいです」
伊藤さんは一瞬キョトンとして、ホッとしたような笑顔を見せた。
「よかった」
あ、さっきのキリッとした顔は無理をなさってたんですか?
俺、ちょっとドキドキしたんですけど。
結局僅かな間に感じた異様な気配は直ぐに消えて再び発生することは無かった。
最近は迷宮の影響で瘴気が濃くなる傾向にある。
はっきり言ってこの街ではいつ怪異が発生してもおかしくない状況なのだ。
しかし一方で、今、この街には怪異を自分の糧とする冒険者達がたむろしている。
連中は基本的には特区から出て来ないが、許可を取れば一般の街に出ることも出来た。
そして連中は緊急措置ライセンスを持っているのが大半だ。
怪異が発生しても、そいつらが気づいてすぐに狩ってしまってもおかしなことではなかった。
だが、気掛かりなこともある。
お上からの情報によれば、例の迷宮で確保した犯罪者のリーダーが拘束場所から逃げてまだ捕まっていないのだ。
正直何やってんだって気持ちはあるが、言っても仕方ないしな。
あんな邪悪な野郎がこの街を闊歩しているかと思うと、不安でならない。
「なんか変な感じになっちゃいましたけど、ええっと、俺も真剣に考えてみます。少し時間をもらってもいいですか?」
「はい。私、慌てたりしません。両親がどう言おうと、あなたが心を決めるのを待ちますから、ちゃんと自分の気持ちを大事にしてくださいね。……ふふ、って偉そうに言ってますけど、私、今すごくドキドキしてるんですよ。こんな我が儘な女いらないって言われるかもしれないって」
「いや、その、伊藤さんの我が儘は俺は好きです」
咄嗟に言って、自分で顔が赤くなるのを感じた。
何ナチュラルに好きとか言ってんだ? 俺。
こわごわ目を上げて伊藤さんを見ると、彼女も顔を赤く染めている。
俺たちいい大人なのに、なんか恥ずかしいよな。
伊藤さんを駅まで送り届けた後、俺は少し遠回りして帰ることにした。
先程感じた異物感のような物は今は消え去って、特に騒ぎが起こっている場所もない。
最近は当たり前のように薄い瘴気があちこちに溜まっているが、それも活性化しない限りは毒にはならないだろう。
俺はゆっくりと夜の街を歩いた。
今は伊藤さんとのことを考えても結論は出ない気がして、ごまかすように仕事のことを考える。
夢のカケラを利用するにあたって一番の問題はそのエネルギー変換だ。
完全な封印状態で術式を発動させてそこで生じた波動エネルギーを鉱物体に蓄積させる。
だが、この方法には絶対に術式が必要であり、それは家電製品には使えない。
う~ん、無理っぽいよな、どう考えても。
街灯の少ないほう少ないほうへとなんとなく歩いて、夜の公園に足を踏み入れた。
何気なくこんなとこに来ちまったけど、ここってこの時間はカップルだらけなんじゃないか?
今の俺には刺激が強すぎる。
なんとなく気が引けて、元の道に戻ろうかと思った俺は、そこでふと、獣の気配を感じて足を止めた。
夜の公園には犬を連れて散歩する人は多い。
だから別におかしい気配ではないはずだった。
闇を透かして見た先に、確かに中型犬程度の犬らしきシルエットがあった。
興奮した風に地面に顔を突っ込んでいる。
何かを食っているらしい。
ガフガフと息遣いも荒くがっついているその犬には、リードを握っている飼い主はいなかった。
見ると、その犬が食っているのは、誰かの弁当のようだ。
弁当箱がそのままぶちまけられて中身が全部露出してしまっている。
「なんか、おかしくないか?」
一人で呟いて、俺は気配を探った。
犬の頭を撫でてやりながら周りを見渡すが、別におかしな気配はない。
いや、
「どうして誰もいないんだ?」
夜とは言ってもまだ八時を過ぎた程度、この公園は普段散歩をする老若男女や、カップルの憩いの場となっているはずだ。
それなのに、この飼い主からはぐれたらしい犬しかここにはいない。
俺は漠然とした不安を感じながら一人その場に佇んでいた。
俺と伊藤さんの関係は現在はとてもデリケートな感じになっている。
伊藤さんは俺の事を命の恩人だと思っている。
そしてその恩を返すため俺のために何かをしたいと思って色々と献身的に奉仕してくれている。
それに対して俺ときたら、それを断固として拒絶することもせずに、さりとて据え膳だと受け止めて責任を取って想いを受け入れるという方向にも踏み出せず、曖昧にしたまま流されてひたすら彼女の献身だけを受け止めるという卑怯千万な状態だ。
なんでそんなことになっているのかというと、これはひたすら俺の我が儘にすぎない。
恩義がどうとか貸し借りとかで人の心を得るのは気が引けるという、頭でっかちのロマンチスト極まりない理由なのだ。
伊藤さんは本気だ。
それはここまでずっと付き合って来て理解している。
それなのに俺は彼女に答えを出さないまま、この気楽でぬくぬくとした状態を続けたいと無意識に思っているのだ。
だから受け入れることも突き放すことも出来ないのである。
「あの……」
伊藤さんがおずおずと言葉を継いだ。
「私は木村さんの負担になるつもりはありません。両親には、その、なんとかごまかしておきますから。何か言って来ても知らぬ存ぜぬで通していただけたらそれで」
「それは、駄目だろ」
俺にひたすら都合のいい提案に対して、思わず否定の言葉を口にする。
それってどんな厚顔無恥野郎だよ。
彼女にばっかり負担を掛けて悠々楽しく過ごすのか? さすがにそれは男として無理な話だ。
正直な話、俺は彼女が好きだ。
可愛らしいし、優しいし、頭のいい女性で、それでいながらどこか芯のある強さがある。
これ以上は望めないぐらい、素晴らしい女性だと思う。
俺が引っかかっているのは、彼女の献身は全て俺への感謝の念による義務感に近い想いからの物ではないかということだ。
一目惚れとかは有り得ないと、身の程を知っている。
そんなことはわかっているが、だからと言って自分の内面に他人を惹き付ける何かがあるかと言えばそれも怪しい。
何と言っても、俺は今まで夢を追うと言いながら、ひたすら現実から目を逸らして逃げて来たのではないか? という漠然とした自分に対する不信があるのだ。
自分自身を信じ切れていない人間が、どうして他人に愛されると思えるだろうか。
いや、それでも恋愛に夢を持っていること自体が、もう俺の駄目な所なのかもしれない。
「木村さんは、私を信じられませんか? ……いえ、この言い方は卑怯ですね。私が木村さんを好きでいることが感謝からの義務感だけとお思いですか?」
「えっ!」
俺は内心を読まれたように感じてドキリとする。
伊藤さん、本当に読心能力お持ちじゃないですよね?
「私、無理なんかしていません。すごく楽しいんです。木村さんと一緒にいるととても楽に息が出来る気がするんです。木村さんは、……あなたはとてもキラキラとしています。私は僻地育ちだから、都会の空気が合わなくて、ずっとなんだか息苦しいと感じていたんです。でも、あなたと一緒にいるとそうじゃなくなる。上手く言えませんけど、私は決して義務感であなたの傍にいたい訳じゃないんです。むしろ我が儘がすぎるぐらいだと、そう思っているんですよ」
「う……あ」
なんだろう、もしかしてこれって、今って、女性からの告白を受けているんだろうか?
そんなことが妄想以外で有り得るんだろうか?
え? マジでか?
途端に、俺は自分が貧乏揺すりを始めていることに気づいてコップの水を一気に煽った。
落ち着け、大丈夫だ、問題ない。
何が問題ないかよくわからないけど、大丈夫だ。
そんな混乱のさなか、突然、背中にひやりとした寒気が走った。
俺は反射的に立ち上がると、何かを感じた方向に視線を向ける。
「木村さん?」
たちまち頭が冷えて、意識が切り替わる。
どこかで異常事態が起こっていた。
そんな俺の様子を見て何かを悟ったのか、伊藤さんはさっと顔を引き締めると、
「行ってください」
と俺を促した。
なにこの娘、凄いカッコイイ。
俺は一瞬真剣な顔で俺にそう告げる伊藤さんに見惚れて異常事態を忘れた。
そして、既に異常事態そのものが消え去ったことに気づく。
「あ、いえ、終わった? みたいです」
伊藤さんは一瞬キョトンとして、ホッとしたような笑顔を見せた。
「よかった」
あ、さっきのキリッとした顔は無理をなさってたんですか?
俺、ちょっとドキドキしたんですけど。
結局僅かな間に感じた異様な気配は直ぐに消えて再び発生することは無かった。
最近は迷宮の影響で瘴気が濃くなる傾向にある。
はっきり言ってこの街ではいつ怪異が発生してもおかしくない状況なのだ。
しかし一方で、今、この街には怪異を自分の糧とする冒険者達がたむろしている。
連中は基本的には特区から出て来ないが、許可を取れば一般の街に出ることも出来た。
そして連中は緊急措置ライセンスを持っているのが大半だ。
怪異が発生しても、そいつらが気づいてすぐに狩ってしまってもおかしなことではなかった。
だが、気掛かりなこともある。
お上からの情報によれば、例の迷宮で確保した犯罪者のリーダーが拘束場所から逃げてまだ捕まっていないのだ。
正直何やってんだって気持ちはあるが、言っても仕方ないしな。
あんな邪悪な野郎がこの街を闊歩しているかと思うと、不安でならない。
「なんか変な感じになっちゃいましたけど、ええっと、俺も真剣に考えてみます。少し時間をもらってもいいですか?」
「はい。私、慌てたりしません。両親がどう言おうと、あなたが心を決めるのを待ちますから、ちゃんと自分の気持ちを大事にしてくださいね。……ふふ、って偉そうに言ってますけど、私、今すごくドキドキしてるんですよ。こんな我が儘な女いらないって言われるかもしれないって」
「いや、その、伊藤さんの我が儘は俺は好きです」
咄嗟に言って、自分で顔が赤くなるのを感じた。
何ナチュラルに好きとか言ってんだ? 俺。
こわごわ目を上げて伊藤さんを見ると、彼女も顔を赤く染めている。
俺たちいい大人なのに、なんか恥ずかしいよな。
伊藤さんを駅まで送り届けた後、俺は少し遠回りして帰ることにした。
先程感じた異物感のような物は今は消え去って、特に騒ぎが起こっている場所もない。
最近は当たり前のように薄い瘴気があちこちに溜まっているが、それも活性化しない限りは毒にはならないだろう。
俺はゆっくりと夜の街を歩いた。
今は伊藤さんとのことを考えても結論は出ない気がして、ごまかすように仕事のことを考える。
夢のカケラを利用するにあたって一番の問題はそのエネルギー変換だ。
完全な封印状態で術式を発動させてそこで生じた波動エネルギーを鉱物体に蓄積させる。
だが、この方法には絶対に術式が必要であり、それは家電製品には使えない。
う~ん、無理っぽいよな、どう考えても。
街灯の少ないほう少ないほうへとなんとなく歩いて、夜の公園に足を踏み入れた。
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何かを食っているらしい。
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見ると、その犬が食っているのは、誰かの弁当のようだ。
弁当箱がそのままぶちまけられて中身が全部露出してしまっている。
「なんか、おかしくないか?」
一人で呟いて、俺は気配を探った。
犬の頭を撫でてやりながら周りを見渡すが、別におかしな気配はない。
いや、
「どうして誰もいないんだ?」
夜とは言ってもまだ八時を過ぎた程度、この公園は普段散歩をする老若男女や、カップルの憩いの場となっているはずだ。
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