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閑話7

夜に歩く者

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 男はそこを独房と呼ぶべきだろうか? と考えていた。
 そこは確かに人一人が動き回るには辛い空間ではあったが、全く動けない訳でも無く、自力で座れる便座まである。
 従軍経験があり、懲罰房に入ったこともある男からしてみれば、あまりにもお粗末な独房もどきであった。

「他国と直接国境を接していないってのは、こんなに国をふぬけにするもんかね」

 男は一人うそぶく。

 男はこの国に発生した迷宮ダンジョンに無許可で侵入し、あまつさえ国の調査部隊に攻撃を仕掛けたという罪状で拘束されているのだ。
 しかし、彼に掛けられた実際の嫌疑はもっと重いものである。
 勇者血統と呼ばれる、国々が独自に保有している対怪異における人類の守護者、怪異という、生命いのち持つモノと切り離せない災厄に対する切り札を奪おうとしたというのが国防側の認識であった。
 いわば死病に対する特効薬を奪おうとしたということであると考えれば、この事態に対する人々の嫌悪感が理解出来るかもしれない。
 それも、国中に普及する程にはその薬は多くはないのだ。

 男が収容されている独房には、厳重なロックが掛けられていて、更に複雑な軍隊式魔術による封印も施されていた。
 いわば周囲の世界から隔絶された状態にあって、いかなる手段を持ってしても彼はここから脱出しようもない。
 その身体も隅々まで医学的にも魔術的にも検査され、どのような道具も術も持ち込めはしなかったはずだ。
 しかし、男には余裕が見える。

 やがて精神まで探査され、廃人寸前まで意識を絞り取られるとの宣告がなされているのだが、男は飄々たる態度だった。
 もちろん外国人である彼を正式に取り調べるには、ある程度の国家間の申し送りが必要となるだろう。
 今この一晩の猶予はそれゆえだ。
 しかし、明日には宣言は実行されるだろうし、単なる脅しではあり得ないことは、様々な裏の事柄に精通したこの男こそが最も知る所ではある。

 だが、男には奥の手があった。

「まぁ近頃の近代文明とやらに侵された連中は総じて呪術に疎いからな」

 せせら笑い、男は自らの歯で親指の腹を噛み切ると、上着をまくり上げて腹に直接呪印を血で記す。
 床や壁には街などに使われている電気式の対魔の結界が張り巡らされていて、その上ではいかなる術式も起動しない。
 だが、人の肉体はその限りではない。
 とは言え、たとえ肉体上の術が有効であったとしても発動した途端に封じられることとなる。
 それがこの結界の効果であり、男の行いは無駄であるはずだった。

 しかし、男の行ったのは現象としての術の発動ではない。
 召喚の術式だ。
 これが空間と空間を結ぶ術式であったのなら、やはり発動はしなかっただろう。
 だが、それは縁を血で結ぶ術式だった。
 縁を通じた術式は外部からは防ぎようがない。
 もし彼の行いを防ぎたかったのなら、拘束衣を着せるべきだったのだ。
 だからこその男の嘲りであった。

不死の王ノスフェラトゥ、闇の私生児たる御身、その灰を受けし下僕たる我の声に応えよ」

 陰々たる声に腹の呪印が蠢く。
 のたうつ赤い蛇のようにその印が文字を綴った。
 男は一瞬痛みに耐えるようにぐっと身を屈めるが、直ぐにニヤリと笑って立ち上がる。

「はい、私はその御力を望みます」

 そこに綴られた文字に男は自身の勝利を確信し、間を置かず契約を結ぶ。
 男の持つ切り札は強力だ。
 それは、人の身に他者の力や人格を転写する写身うつしみの呪術である。
 この術は大きな代償を必要とするものの、無能の者でも転写元さえ存在すれば最強の存在にすらなれた。
 代償には魂が一つあれば良い。
 その場から逃れればいくらでも調達出来るだろうと男は思う。
 男にとって命など軽い代償なのだ。
 人など放っておいてもいくらでも死ぬ。
 それならば自分がそれを利用してやることこそ、無駄のない世の摂理というものだと、そう理解していたのだ。
 いや、そう考えるからこそ、男は他人の命を気軽に売り買い出来るのだ。

 腹部の印が更に大きく蠢き、目に見える程大きく波打った。

「がはっ!」

 さすがにたまらず男は膝をつき、激しい痛みをなんとかやり過ごそうとする。
 すぐに過ぎる痛みであろうとも、内臓をかき回されるようなその痛みは尋常のものではなかった。

「くそっ、俺をこんな目に遭わせたこの国の連中に、絶望を与えてやる」

 他人の嘆きや痛みは男にとっての福音であった。
 それを思い描くだけで、身の内の激しい痛みをも笑みを浮かべて耐えられる。
 特に抵抗の出来ないか弱い者が泣き叫ぶ様は彼に生きる喜びを与えてくれるのだ。

「ひへっ、へっへ、絶望せよ、島国の猿共め」

 笑みを刷く口元から血が溢れ落ちる。

「ふ? へ?」

 男の腹から腕が生えていた。
 ずぶりと何かが這い出てくる。

「がはっ! 王……よ、何……を?」

 腹から顔が生えるとそこに切り込みが入り、ぱかりと割れて口になった。

「望んだだろう、力を。我以上の力はあるまいに」
「お? ……オレは、写身を……」

 男の目からとめどなく涙が溢れる。
 口元から赤く染まったよだれがこぼれ落ちた。

「うむ、実はな、貴様の存在に価値が無くなったのだよ。顔が知られ、生体波形も記録されては、例え地下世界であろうと、もはやまともに動けまい。であるから、いままで仕えた労をねぎらい、下僕たる身に最高の誉《ほまれ》たる我が糧となることを許そうと思ったのだ」

 感情の乗らない平坦な声が、淡々と丁寧に理由を説明する。
 既に腹から胸までを自ら以外の存在に喰われた男の開いた口からは、血の泡しか溢れない。
 だが、男の腹から這い出しつつあるモノは男の意を汲んで説明を続けた。

「我をこのような食卓に招いたことは手柄である。それゆえ、そなたは特に我に喰われる感覚を詳細に味わう栄誉を賜るのだ。喜べ」

 そう言うとその赤い口はニヤリと嗤う。

 メキメキという骨が引き裂かれる音、呼吸が漏れる「ヒッ、ヒ」という音、ピチャピチャと濡れた何かが弾ける音、それらの音はまるで永遠に続くがごとく暗闇を埋め続けた。
 しかし、やがてその永い時間も終わりを迎える。
 音の途絶えたその独房に、赤く濡れすぼった何かが佇んでいた。

「ふむ、よいよい、醜悪を極めた者なりのこのアクの強い魂は、長く熟成させた腐肉のごとく。……ふむ、貴様はよく仕えてくれたものよ。はて、コレの名はなんといったかな?」

 ソレはしばし首をかしげるような仕草をすると、すぐに止める。

「まぁよいか、口にする肉の名など知らぬのは当然のこと、もはや存在しない者に名はいるまい。クハハ」

 ソレは壁に触れると、感触を確かめるようにその表面を撫でた。

「人の子の術はどうも優雅さに欠ける。このような混沌たる波紋は無粋の極みよな。だが、今は我は気分がよい。下種なる下僕の魂と血肉によって力に満ちておるからのう」

 そう言いながらソレは軽く腕を押し出した。
 分厚い、数メートルの厚みを持つコンクリートと、その内部の配線と、銀を塗布された鉄骨、その全てが、まるで柔らかいケーキのスポンジででもあるかのように容易く抜けた。
 途端にけたたましい警報が鳴り響く。

「やれやれ、人の子は夜を楽しむすべも知らぬと見える。全く無粋の極みよ」

 ソレは空中に足を進めると、夜風を楽しむように目を細める。

「この国の風は少し湿気っておるの。以前住まったロンドンとはまた違う匂いだ」

 人の叫び、あちこちから響く靴音に耳を澄ませていたソレは、しかし、一つ伸びをすると、ふわりとその姿を夜の中に溶かした。

「舞台を演じるにもカーニバルを催すにも、やはり念入りに準備が必要であろう。何事も急いではつまらない。ゆえに、しばしの微睡みを、人の子よ」

 ソレは夜の大気にその声を散らすと、そのままその気配を消し去ってしまう。

 ひっそりと月だけが照らす夜の中、閉じられた箱庭のような街が一枚の影絵のようにただ静かに佇んでいたのだった。
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