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終天の見る夢
その三
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前門の虎後門の狼、役人達の会議は踊り、サボった会社は心理的に遠い。
それでも朝はやって来る。
「おはようございます」
「おはよう。あ、木村君、あとでちょっといいかな?」
出社早々課長にそう声を掛けられて、ただでさえ重い気分が更に重くなった。
もはや気持ち的には深海に漂うと言うマリンスノーだ。
聞いた話だが、あれって生物の死骸らしい。
「はよー! 木村ちゃん、昨日は風邪でもひいたん?」
そう言って、何故か親指を突き出してみせた佐藤がウザイ。
だが、迷惑を掛けたのは確かなので無視するのは勘弁しておこう。
「佐藤さん、俺、実は……」
眉間に皺を寄せ、苦悩を滲ませた口調で応えておく。
オフィスが禁煙なのに火が点いてないとはいえ咥え煙草でいつものお気楽な調子だった佐藤は、まるで間違って死人に石でも投げたかのように凍り付いた。
びっくりするような想像力の持ち主だし、もしかしたらこの瞬間、こいつの中で俺は不治の病を患っていることになったのかもしれない。
気軽に声を掛けたのを後悔している真っ最中らしい固まった顔を見ながら、どうやらこいつの中にも人並みに罪悪感というものが存在したらしいことを知った。
驚くべき発見だ。
恐らく数秒後にはそんな物は異次元の彼方にでも消え去っているんだろうけどね。
―― ◇ ◇ ◇ ――
朝礼の後、課長に呼び出された俺は、極偶に正式な用途で使われることも無いではない手狭な接待室で課長と向かい合っていた。
途中の休憩室で紙コップコーヒーを奢ってもらい、それを手にした状態での話し合いである。
上層部からの話とかではなく、あくまでも課長の権限内の深刻ではない軽いスタンスの話だという表明なのだろう。
課長はその紙コップのコーヒーに口を付け、おもむろに話を切り出した。
「俺もあまり詳しくは無いが、お前実家を飛び出して一人暮らしなんだろ? 昨日の件はその実家がらみか?」
学生時代の生活指導の先生を思い出すな。
もしかして社会人になってまで説教されんのかな、俺。
憂鬱だ。
「ええっと、昨日もお話しした通り、ちょっと詳しい事情は明かせないんです。身勝手な話で仕事に支障をきたして申し訳ありませんでした」
まあでも考えてみれば俺も社会人の言い訳じゃないよな。
課長だって困るはずだ。
「そうか。うん」
課長は少し何かを言いよどみ、紙コップのコーヒーを再び啜ると改めて口を開いた。
「実はだな。昔、俺は随分な仕事人間でな。帰宅は家族が寝てからが当たり前だった」
ん? なんだ? どうして課長の打ち明け話が始まったんだ?
「うちには息子が一人いるんだが、中学生の時になぜだかグレてしまってな。妻はあちこちに頭を下げに行ったり息子とぶつかったり、随分大変だったようだ。それで当然の話だが、俺に手助けを求めて来た訳だ。だが、俺は仕事を理由に全てを妻に任せた」
「はあ」
俺の困惑を余所に、課長の打ち明け話は続いた。
「だがある日、弁当を開けて見たら、弁当箱一面に梅干しが敷き詰めてあってな。ご飯は無くて梅干しだけだぞ? これはやばいと流石に思った。真面目で冗談なんか口にしない妻でな。ともかく俺は仰天した。こりゃうちのかみさんそうとう追い詰められている! そう思った途端に背中がぞわっと冷たくなってな。そういえばここんとこ目を合わせたことがあったか? と。思い浮かべてみたんだが、前夜も、朝に弁当を渡してくれた時も、言葉は交わしたはずなのに、妻の顔をはっきり思い出せないんだな、これが。思い出せるのは新婚の頃とか、息子が産まれた前後の頃の穏やかで幸せな顔ばかりだ。さすがに自分が何か間違っていることに気づいてな。それで、翌日会社を休んで、起き出して来た息子を捕まえて、今まで迷惑を掛けたという相手に片端から頭を下げて回ったのさ。暴れて俺を罵り続けていた息子も、夜に帰宅する頃には疲れ切ってグッタリしてたな。今考えるとよくもまあやれたもんだと思うが、あん時は必死だったからな。それで、最後に二人して妻に土下座してね。俺はやっとかみさんの顔を正面から見れた訳だ。たった一日のそれで何もかも解決には当然ながらならなかったが、それを切っ掛けに少しずつ家族らしくなっていけた。と、まあ俺にもそんな経験があった訳なんだが」
かなり気まずそうに課長は口を噤んで間を置いた。
だが、聞いてるほうはもっと気まずい。
上司の家庭問題とか、知りたくない情報の最たるものだ。
しかし、話の流れとして課長が何を言わんとしているかはわかって来た。
「自分がそんな経験をしたからな。俺は仕事が全てに勝るとは思っていないし、人には色々な事情があるもんだと知ってるつもりだ。その上でだな、聞いて欲しいんだが。会社組織において、社員は全ての要だ。だから、他の部署においても勿論社員は全員大事な戦力なんだろうが、うちは特に一人一人の占める重要度が高い。一人抜けたら仕事が足踏みすることすらある。君も経験があるだろう」
「はい」
誰とは言わないが、うちの課には気分で仕事をしている奴がいるからな。
しかし、やっと仕事の話になってほっとした。
他人のプライベートに触れるにはそれなりの覚悟が必要だ。
それだけにどうしても身構えてしまう。
いや、今されてるのは、間違いなく俺に対する注意なんだから、ここでほっとしちゃいけないんだろうけどさ。
「今後また何かあるようなら、よかったら事前に相談してくれないだろうか? 俺でもそこそこは年取った分の頼り甲斐ぐらいはあるだろう。ともかく一人で煮詰まって、突然辞表を出すような真似だけはしてくれるなよ」
「それは勿論です。社会人としての常識ぐらいはあるつもりです」
言って、昨日の休み方はあんまり常識ある社会人ぽくは無かったなとかえりみる。
「……なので、出来得る限りは今回のようにならないようにします」
うわあ、自分で言っておいてなんだが、駄目な社員だよなあ、これじゃ。
課長もせっかく自分の家庭事情まで持ち出して腹を割って話してくれたってのに、俺の事情が明後日のほうにあるせいで無意味な物になってしまっているし、本当に申し訳ない気持ちで一杯になる。
「そうか、ともかくちゃんと相談するんだぞ」
「今の所は大丈夫です。本当にご心配をお掛けしてすみませんでした」
もうね、穴があったら入りたいってこういう気持ちなのかな。
課長のご心配は全くの見当違いですとか、言える訳ないしなあ。
「ところでその後息子さんはどうされたんですか?」
あんな話を聞いた者の義務としてこれは聞いておくべきだろうと思った俺はそう尋ねた。
なんにもコメントしないと聞き流したみたいに思われるかもしれんし。
「ああ、あれも高校に上がる頃には落ち着いて、今じゃすっかり大人になってな。良縁に恵まれて去年はとうとう俺もおじいちゃんになってしまったよ」
なるほど、ハッピーエンドは俺も大好きだ。
語られない様々なことがあったのだろう人生の先輩に、心からの尊敬の念を抱くことが出来たのが、ここ最近災い続きの身としては最大の収穫なのかもしれないな。
怪異にかまけて地道な人生を投げ捨てる気はさらさら無いんだし、ちゃんと仕事頑張らないとな。
それでも朝はやって来る。
「おはようございます」
「おはよう。あ、木村君、あとでちょっといいかな?」
出社早々課長にそう声を掛けられて、ただでさえ重い気分が更に重くなった。
もはや気持ち的には深海に漂うと言うマリンスノーだ。
聞いた話だが、あれって生物の死骸らしい。
「はよー! 木村ちゃん、昨日は風邪でもひいたん?」
そう言って、何故か親指を突き出してみせた佐藤がウザイ。
だが、迷惑を掛けたのは確かなので無視するのは勘弁しておこう。
「佐藤さん、俺、実は……」
眉間に皺を寄せ、苦悩を滲ませた口調で応えておく。
オフィスが禁煙なのに火が点いてないとはいえ咥え煙草でいつものお気楽な調子だった佐藤は、まるで間違って死人に石でも投げたかのように凍り付いた。
びっくりするような想像力の持ち主だし、もしかしたらこの瞬間、こいつの中で俺は不治の病を患っていることになったのかもしれない。
気軽に声を掛けたのを後悔している真っ最中らしい固まった顔を見ながら、どうやらこいつの中にも人並みに罪悪感というものが存在したらしいことを知った。
驚くべき発見だ。
恐らく数秒後にはそんな物は異次元の彼方にでも消え去っているんだろうけどね。
―― ◇ ◇ ◇ ――
朝礼の後、課長に呼び出された俺は、極偶に正式な用途で使われることも無いではない手狭な接待室で課長と向かい合っていた。
途中の休憩室で紙コップコーヒーを奢ってもらい、それを手にした状態での話し合いである。
上層部からの話とかではなく、あくまでも課長の権限内の深刻ではない軽いスタンスの話だという表明なのだろう。
課長はその紙コップのコーヒーに口を付け、おもむろに話を切り出した。
「俺もあまり詳しくは無いが、お前実家を飛び出して一人暮らしなんだろ? 昨日の件はその実家がらみか?」
学生時代の生活指導の先生を思い出すな。
もしかして社会人になってまで説教されんのかな、俺。
憂鬱だ。
「ええっと、昨日もお話しした通り、ちょっと詳しい事情は明かせないんです。身勝手な話で仕事に支障をきたして申し訳ありませんでした」
まあでも考えてみれば俺も社会人の言い訳じゃないよな。
課長だって困るはずだ。
「そうか。うん」
課長は少し何かを言いよどみ、紙コップのコーヒーを再び啜ると改めて口を開いた。
「実はだな。昔、俺は随分な仕事人間でな。帰宅は家族が寝てからが当たり前だった」
ん? なんだ? どうして課長の打ち明け話が始まったんだ?
「うちには息子が一人いるんだが、中学生の時になぜだかグレてしまってな。妻はあちこちに頭を下げに行ったり息子とぶつかったり、随分大変だったようだ。それで当然の話だが、俺に手助けを求めて来た訳だ。だが、俺は仕事を理由に全てを妻に任せた」
「はあ」
俺の困惑を余所に、課長の打ち明け話は続いた。
「だがある日、弁当を開けて見たら、弁当箱一面に梅干しが敷き詰めてあってな。ご飯は無くて梅干しだけだぞ? これはやばいと流石に思った。真面目で冗談なんか口にしない妻でな。ともかく俺は仰天した。こりゃうちのかみさんそうとう追い詰められている! そう思った途端に背中がぞわっと冷たくなってな。そういえばここんとこ目を合わせたことがあったか? と。思い浮かべてみたんだが、前夜も、朝に弁当を渡してくれた時も、言葉は交わしたはずなのに、妻の顔をはっきり思い出せないんだな、これが。思い出せるのは新婚の頃とか、息子が産まれた前後の頃の穏やかで幸せな顔ばかりだ。さすがに自分が何か間違っていることに気づいてな。それで、翌日会社を休んで、起き出して来た息子を捕まえて、今まで迷惑を掛けたという相手に片端から頭を下げて回ったのさ。暴れて俺を罵り続けていた息子も、夜に帰宅する頃には疲れ切ってグッタリしてたな。今考えるとよくもまあやれたもんだと思うが、あん時は必死だったからな。それで、最後に二人して妻に土下座してね。俺はやっとかみさんの顔を正面から見れた訳だ。たった一日のそれで何もかも解決には当然ながらならなかったが、それを切っ掛けに少しずつ家族らしくなっていけた。と、まあ俺にもそんな経験があった訳なんだが」
かなり気まずそうに課長は口を噤んで間を置いた。
だが、聞いてるほうはもっと気まずい。
上司の家庭問題とか、知りたくない情報の最たるものだ。
しかし、話の流れとして課長が何を言わんとしているかはわかって来た。
「自分がそんな経験をしたからな。俺は仕事が全てに勝るとは思っていないし、人には色々な事情があるもんだと知ってるつもりだ。その上でだな、聞いて欲しいんだが。会社組織において、社員は全ての要だ。だから、他の部署においても勿論社員は全員大事な戦力なんだろうが、うちは特に一人一人の占める重要度が高い。一人抜けたら仕事が足踏みすることすらある。君も経験があるだろう」
「はい」
誰とは言わないが、うちの課には気分で仕事をしている奴がいるからな。
しかし、やっと仕事の話になってほっとした。
他人のプライベートに触れるにはそれなりの覚悟が必要だ。
それだけにどうしても身構えてしまう。
いや、今されてるのは、間違いなく俺に対する注意なんだから、ここでほっとしちゃいけないんだろうけどさ。
「今後また何かあるようなら、よかったら事前に相談してくれないだろうか? 俺でもそこそこは年取った分の頼り甲斐ぐらいはあるだろう。ともかく一人で煮詰まって、突然辞表を出すような真似だけはしてくれるなよ」
「それは勿論です。社会人としての常識ぐらいはあるつもりです」
言って、昨日の休み方はあんまり常識ある社会人ぽくは無かったなとかえりみる。
「……なので、出来得る限りは今回のようにならないようにします」
うわあ、自分で言っておいてなんだが、駄目な社員だよなあ、これじゃ。
課長もせっかく自分の家庭事情まで持ち出して腹を割って話してくれたってのに、俺の事情が明後日のほうにあるせいで無意味な物になってしまっているし、本当に申し訳ない気持ちで一杯になる。
「そうか、ともかくちゃんと相談するんだぞ」
「今の所は大丈夫です。本当にご心配をお掛けしてすみませんでした」
もうね、穴があったら入りたいってこういう気持ちなのかな。
課長のご心配は全くの見当違いですとか、言える訳ないしなあ。
「ところでその後息子さんはどうされたんですか?」
あんな話を聞いた者の義務としてこれは聞いておくべきだろうと思った俺はそう尋ねた。
なんにもコメントしないと聞き流したみたいに思われるかもしれんし。
「ああ、あれも高校に上がる頃には落ち着いて、今じゃすっかり大人になってな。良縁に恵まれて去年はとうとう俺もおじいちゃんになってしまったよ」
なるほど、ハッピーエンドは俺も大好きだ。
語られない様々なことがあったのだろう人生の先輩に、心からの尊敬の念を抱くことが出来たのが、ここ最近災い続きの身としては最大の収穫なのかもしれないな。
怪異にかまけて地道な人生を投げ捨てる気はさらさら無いんだし、ちゃんと仕事頑張らないとな。
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