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閑話1

日常の片隅で、語られる事無く続く物語

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 空気の中に、その近代的な見た目に似つかわしくない半田づけ作業でのものと思われる焼けた松脂の香りが漂うオフィスに、一人の男のどんよりとした雰囲気が梅雨時の空気もかくやという具合にたちこめていた。
 普段は肉体的にも精神的にもタフ過ぎるぐらいタフな男だが、そんな男がどんよりと暗いと、周囲もなんとなく引きずられてしまう。

 しかも、雰囲気がおかしいのはこの男だけでは無かった。
 この男以上にこの職場のムードメイカーである、元気で一生懸命な女子社員も、何かに悩んでいる様子で、どこか心此処にあらずといった具合なのだ。
 その二重の暗雲が、ただでさえ気重な休み明けの職場を葬儀場さながらの陰鬱な場へと変貌せしめていたのである。

 彼らの上司は、部下との年齢と性別の違いを考慮した末に、それぞれに適任と思われる相手に状況改善を、あくまでもそれとなく依頼した。
 しかし、どう言い繕おうと、それはいわゆる敵前逃亡には違いなかった。

「若い者のことは若い者に任せないとな」

 自分に言い訳をする彼の呟きを聞く者はいない。

「で、どうしたんだ?」

 昼休み、早々に食事を済ませ、自分のデスク前でぼんやりとしていた木村隆志の肩を叩いたのは、隣接する部署のチーフであるところの、友人の一ノ宮流であった。
 隆志は、その友人に対して、うっとおしそうにしっしっと犬でも追い払うかのような動作を行いつつ言った。

「お前に心配される程のことはなにも無い。自分のデスクに帰れ」

 そっけない拒絶である。
 しかし、相手はそこいらの通常な神経の持ち主ではなかった。
 流は、友に拒絶されたなどとはカケラも感じられない気軽な口調で、そのまま隣のデスクの椅子に居座ると勝手に話を進めだす。

「その様子だと女性に袖にされたという所か。確か二年前、散々貢がされた挙句に仕事上の付き合いだったと宣言された美晴というホステスの女性の時も、三日ぐらいそんな調子だったよな。あれ以来ホステスがいるような店に決して足を向けなくなったお前の意思の強さには感心させられたものだ」

 しみじみと語り出した。
 さすがに堪らず、隆志は猛然と抗議する。

「いらんことを覚えてんな! しかも嫌な感心の仕方はよせ、自分が哀しくなるわ!」

 ひとしきり文句を言った隆志は、一つ溜め息を吐くと、諦めたように傍らのケロリとした顔の流に内心を吐露した。

「失恋がどうこうってことより、俺は自分のそういう所が情け無いんだよ。前の時も今回も、勝手に思い込んでさ、相手に非がある訳でもなんでもないのに、相手の顔を見るのが嫌だなんて、どう考えても勝手が過ぎるだろ? なんで俺ってこうなんだろうと思うと情けなくって」

 ぐしゃりと掴んだせいで、ただでさえきちんとしているとは言い難いその頭髪がみっともなく乱れる。
 傍らの、整髪剤を使っているようにも見えないのに見苦しさとは無縁のすっきりとした髪型の流と並ぶと、その有り様は尚更情けなさが強く感じられた。
 そもそも、隆志の髪は普段から頑張ったのはわかるという感じの、社会人としては少し奔放な髪型だったのである。
 全体をトータルで見ると、ヘタをすると学生気分が抜けないと揶揄されそうな外見なのだが、開発という内向きの部署なのでさほど気にされずに過ごして来た。
 そのため本人的には身だしなみはそんなに気にしていないがゆえの行動かもしれない。

「そうかそうか、わかった。落ち込んだ時は飲むに限るぞ。ということで今晩お前のおごりでどっか飲みに行こう。厄は賑やかな場所で落とすのがいいそうだからな」
「厄なんか憑けるか! それになんで俺のオゴリなんだよ、こういう場合はお前が奢るもんじゃないか?」
「こないだは俺がおごっただろう? 順番だよ」

 流はしれっと答える。

「お前、金持ちのくせにせこいぞ」
「いや、お前が考え違いをしている」

 流は真剣な顔になると、隆志に真っ直ぐなまなざしを向けた。

「俺たちは友人同士だろう? 友人というのは実質はどうであれ気持ちの上では対等でなくてはならない。そうでなければ単なるタカリになってしまうぞ」
「タカリとはなんだ! 人聞きの悪い!」
「だろう? そういう訳でお前の奢りだ。ああ金額的対等は求めないからな、安心しろ」

 もはや流のペースである。
 隆志は自分の悩みのことを一時的に忘れ去ると、本気でその理不尽に応じた。

「当たり前だ! お前の普段クラスの飲み屋なんぞに行ったら破産するわ! ……くっ、それなら居酒屋はどうだ?」
「いいな、適度に雑多で混沌としていて楽しい場所だ。俺は好きだな」

 居酒屋と言えば庶民の飲み屋という感じだが、この見た目からいかにも血統書付き、育ちのよさそうな男は、そんな場所ですら浮くこと無く、それでいて華がある存在でいられるのだ。
 恐るべき順応性である。
 おそらく、その辺の有象無象とは根本的な素材自体が違うのだろう。

 思いっきり脱力しながらも、まあいいかと、隆志は思う。
 この友人の傍若無人さになんだかんだと言いつついつも救われているのである。
 なんとなく釈然としない思いを抱きながらも、隆志は自分自身に対する苛立ちを酒で流せればと考えた。
 何と言っても彼が顔を合わせにくく感じている相手は同じ職場にいるのだ。
 いつまでも引きずっていては相手にも迷惑を掛けてしまうのだから。
 


 さて、時間という物は、違う場所の違う顔ぶれにも同様に流れるものだ。
 男達が仕事場であるオフィスで友情を温めていた同じ頃、休憩室のテーブルでは女性陣が食後のささやかなティータイムを過ごしていた。
 持ち込みで給湯室に備えている紅茶を淹れ、各自持ち寄りの菓子を交換し、量としては少なくとも、華やかな見た目になったテーブルはいかにも女性陣らしい。

「それで伊藤ちゃん、いったいどうしたって言うの? 課長が心配して私にそれとなく聞いてくれって言うし、いつものシャキシャキした伊藤ちゃんじゃないとみんな心配しちゃうでしょ?」

 全然それとなくではないが、この女性は腹芸の出来るタイプではない。
 彼女にそんな物を求めた課長の人選ミスであった。

「伊藤さん、何か困っているのではないの?」

 同じ席でお茶を飲む、おつぼね様こと園田久美が、真剣な顔で身を乗り出して優香を見る。

「え? ええっ?」

 当の本人、伊藤優香は、思わぬ事態に困惑気味だ。
 本人としては自分の内心は隠してちゃんと仕事を頑張っていたつもりなのだ。

「もしかすると、あのけだもの男、木村くんが何かしつこく迫ってるのではないの? どうもこのあいだから伊藤さんを見る目がおかしかったし」

 そんな優香に構わず、同僚達はどんどん話を深刻に進めて行く。

「え? なに? ストーカーですか? セクハラですか? サイテーですね、恥を知るべきです!」

 たちまち優香の友人の幸奈がその話に同調した。
 この手の話題に対する女性の食い付きは恐ろしい程である。
 後数秒もあれば、彼女等の脳内で木村は恐るべき女性の敵としてバラバラに分解されていただろう。

「ち、違います! やめてください! 木村さんは私と家族の恩人なんです。そんな酷い中傷、冗談でも絶対に許せません!」

 その優香の過剰とも言える反応に、同僚の二人は驚き、次いで何かを期待するかのような笑みを浮かべた。

「何? ナニナニ? いつの間にそんなことになっていたの?」
「え? 付き合っていたのあなた達。意外な組み合わせね。正に美女と野獣というべきね」

 そんな二人の反応に、優香はうんざりしたかのように首を振る。

「またそうやってみんなすぐ茶化すんですから。そんないい加減な話じゃないんです。本当なら大金を掛けないと受けられないようなサポートをしてもらったのに、木村さんは一切謝礼はいらないって言うんですよ。同僚に相談されて手助けしただけなのに金銭を要求とかしたら最低だろうって言って。私もう申し訳なくって、いったいどうしたらいいのかわからなくって困ってるんです」

 そう悩ましげに眉間にシワを寄せる様子は、真剣であればあるほど、どこか困惑する小動物を彷彿とさせて可愛らしい。
 同僚達は心の中で(伊藤ちゃんは可愛いな)等と感想を呟く。

「ほほう、それはあれよ。金はいらないから体を寄越せとか」

 そんな、普段仲の良い幸奈の、ノリで発言したような度を越したからかいに、とうとう優香は顔を真っ赤にして席を立った。

「そういう破廉恥な事を言うような人とはもう口を利きません!」

 周囲で休憩時間を思い思いに過ごしていた社員達が、何ごとか? と彼女達を注目する。
 年長の園田が、落ち着いた笑顔で周囲に何でも無いと会釈をし、幸奈が慌てて伊藤を宥めた。

「まあまあ、熱くならない、からかったのは悪かったからさ」
「伊藤さんが凄く真剣になやんでいるのはわかったから。でも、破廉恥なんて言葉、ここ何年も聞かなかったわ」
「ほんとですよ、絶滅危惧種クラスですね」
「二人とも、酷いです」

 場を和ませるためか、軽い調子のからかいを挟んで、幸奈は言葉続けた。

「でもまあそれはそういうものだって流してあげたほうがいいよ。男にはなんていうの? プライドみたいなのがあってさ。おなか空いてるのに空いてないって言ったり、喉から手が出る程お金が欲しいのにいらないって言ったりするのよ。そういうのをちゃんと受け止めてあげるのも女の度量ってものよ」
「そうね、うちの旦那も時々くだらない見栄をはったりするけど。でもね、そういう矜持が無い男は最低な奴よ。そういう意地を張れるだけ木村くんはまともな男ってことなんだし、いいことじゃない。伊藤さんだって男と付き合ったことぐらいあるんだろうし、その辺わからなくも無いでしょう? 少々気持ち的に負担かもしれないけど、そういうのを汲んであげるのも優しさだわ」

 その園田の言葉に、優香は困ったように「そうですよね」と呟いたきり赤くなってもじもじし始めた。
 その様子に、流石に付き合いの分思い当たることがあったのか、幸奈がずばりと指摘する。

「まさか、男と交際経験が全く無いとか? 別に清い交際でもいいんよ? ホレホレ、言ってみなさい」

 うっ、と、明らかに言葉に詰まる優香に、同僚二人は何か眩しい物を見る目を向けた。

「なんてこと、正真正銘のネンネちゃんとは!」
「凄いわ、そのままのあなたでいてね」

 二人の目にはどこか遠い清らかな場所を見ているようだった。
 彼女達のあまりなリアクションに、優香は抵抗を試みる。

「ち、違うんです! 父の仕事の都合で大学に入るまで過疎地を転々とする生活だったから、出会いとか、そんな余裕が無かっただけで!」

 苦しいが事実でもある。
 ちなみにその父の仕事を、つい先日まで土地開発関係の仕事だと思っていた彼女であった。
 真実は、開けてびっくり、冒険者というヤクザな仕事だったらしい。
 父親が職業についてはっきりと言った訳では無いので、優香としても責めるようなことも無かったが、その事実も彼女の中に、どうにも収まりの付かないもやもやとして残っている。
 だが、一方で腑に落ちる部分もあり、優香としては今のもどかしい気持ちを整理して、体験を共有した木村に、家族に話せない部分の本音を聞いてもらいたいという思いもあった。

「まあまあ、ふ~ん、なるほどね。大体の事情はわかったわ。さっきも言ったけど、男が意地を通そうとしている時に無理に何かを受け取らせるのは感謝の押し付けでしかないわよ。そうね、伊藤さんの気持ちがずっと変わらないような物なら、今後彼が困っている時にさりげなく助けてあげるのがいいと思う。男の意地もいいけど、女の意地も通させて貰うって感じでね」
「おお、流石オシドリ夫婦で二十余年。年季の光るお言葉ですね」

 園田の旦那持ちらしい提案に、いかにも感心したように幸奈が頷く。

「でも、それって、機会が無ければずっと恩返しが出来ないんじゃないでしょうか?」

 言い募る優香に、同僚二人はニッコリと微笑む。

いやつよ、そのへんはじっくりこの経験豊かなおねえさんが教えてしんぜよう」
「チーフ、ノってきましたね? いや、こういう話はいいですね、もっとじっくりイジリ倒したいです」

 モロに自身の欲望を垂れ流し状態の幸奈であった。

「そうね、こういう話はいくつになってもいい物ね」

 もはや四十を過ぎて、落ち着きのある女性の代名詞であるお局様と呼ばれている園田の声も、心なしか弾んでいる。

「そうと決まれば今晩何か美味しい物でも食べながらじっくり作戦会議ね」
「お姉様、今流行の居酒屋で、平日三人様以上三割引きサービス期間に突入いたしましたよ!」
「流石お主マメよのう」
「ククク、このチラシハンター御池幸奈に見逃しはありませんぞ」
「あの……」

 すっかり別世界へと旅立った二人へ、優香は遠慮がちに声を掛けた。

「まあ悪いようにしないから。まかせなさい」

 ドンとお局様こと園田が胸を叩いた所で、社内放送の音楽が切り替わり、業務へ戻る時間を示す穏やかなチャイムが響く。
 すっかり時間を忘れていた三人は、慌ただしく片付けをすることとなった。
 
 そうしつつも伊藤は不安を禁じ得ない。

(私の求めていた助言とは違う気がするのは気のせいかな?)

 彼女の不安は更に変化球として的中する。
 その夜、奇しくも合流した二組が、当初の目的を見失ったグダグダな飲み会に突入するのは、自明の理であった。
 だが、何が幸いとなるかわからない物で、そのおかげでそれぞれの悩みを無理矢理うやむやにされた隆志と優香の二人は、なんとか元通り、通常勤務を行えるようになったのである。

 いや、元通りというには語弊ごへいがあるかもしれない。
 それは未来のどこかへと続く、細い道が生まれた出来事、取るに足りない当たり前の日常の物語でもあったのだから。
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