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日常と非日常は交錯する

7 美味しい食べ物は人を幸福にするものだ

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 家に帰るのが怖い。

 仕事が終わり、周囲が帰宅ムードにモードチェンジした途端、俺に押し寄せた感情はそれだった。
 妹が待っている家に帰る。
 字面だけ見るとなにかほのぼのした雰囲気だが、俺にとっては地雷原へと踏み込むような覚悟が必要な言葉だ。
 俺が固まっていると、それを察したながれが声を掛けて来た。

「なんだ、妹さんと二人きりでどう過ごしていいか不安なのか? まぁお前が女子高生を理解出来るとは確かにカケラも思えないが」

 ニヤリとして見せる優男面にじわりと殺意が沸くが、正直それどころではない。
 ムカツクがここは素直に助言を受けるべきか?

「妹さんですか?」

 モテ男の余裕に、何か理不尽な憤りを感じていると、同じ課の同僚である伊藤さんが話に加わった。
 以前は野性的な見掛けのせいか(段々この言い回しも辛くなってきた)、なんとなく女性陣には敬遠されている感じだった俺だが、給湯室の一件以来同僚らしく気軽に話し掛けて貰えるようになった。
 面倒な案件だったがこの点だけはありがたかった。
 そういえば、あの件もながれが俺に回したんだったな。
 自分が面倒だから俺を紹介するとか友達甲斐の無い野郎だが、少しは感謝してもいいかもしれない。
 絶対口にはしないけどな。

「実は妹が受験のためにこっちに出て来ていて、うちに泊まっているんですよ。お年頃の女の子の上に受験生でしょう? もうどう扱っていいかお手上げですよ」

 俺は情けなくもバンザイの形に両手を上げて見せる。

「それは大変ですね」

 伊藤さんは俺を笑いもせずに真剣に相槌を打ってくれた。なんて良い娘なんだろう。

「若い女の子なら食べ物で懐柔するのが一番よ」

 更にお局様……っと、うちの課の女性陣の一人、園田女史が話に加わった。
 どうやら女性は思ったより好奇心が強いようだ。

「食べ物ですか?」

 俺は夕食の献立をレベルアップしてみるかと考える。が、

「あ、それはいいですね! 駅前のケーキ屋さんのミルフィーユとかいいんじゃないですか? あそこなら午後からの分が会社帰りでも残っていると思いますよ」

 女性陣の言う食べ物とは主食のことでは無かったらしい。

「そうだね、花とケーキは女性への贈り物ではまず間違いが無い物だよ。ダイエット中だったりすると逆効果の場合もあるけどね」

 ながれも太鼓判を押している。
 ケーキか? 確かになるほど、あれは美味いよな。
 俺なんか高校ぐらいまでケーキは偉い人しか食べられない物だと思っていて、依頼を持ってくる政府の担当者が手土産に持ってきたりすることがあれば、思わず食べる前に拝んでたぐらいだ。
 いや、うちの家族連中のせいなんだけどね。主に両親とかジジイとか、世間の常識からわざと遠ざけてたんじゃないかという節がある。

 誕生日ケーキとかの存在を社会人になってから初めて知るとかどんだけ恥ずかしかったか。
 でもそうか、ケーキか。由美子もあんま食ったこと無いんだろうし喜ぶかな?

「おかげで家に帰る気力が湧いてきた。ありがとう」

 思わず女性陣に心からのお礼を言うと、

「家に帰るのが嫌だったんですか? 恐妻家ならぬ恐妹家?」
「顔に似合わず神経の細い男ね、そんなんじゃ妹さんのほうが不憫だわ」

 等と、なぜか吊し上げを食らったのだった。なんか理不尽だぞ!



 そんなこんなで作戦を決め、行動に移した俺は準備万端だ。が、それでもあえて硬質な音を響かせる階段を、普段以上に緊張して音を立てないように上がる。
 階段を上り切った所で一通り装備の確認をしてみた。
 右手にケーキの入った箱。左手に仕事用のカバンと食材を詰め込んだ風呂敷を手提げ仕様に包んだブツ。
 ケーキだけ別個に持っているのは、その余りにも繊細な作りに、下手な衝撃を与えることを恐れた結果だ。
 うんよし、問題ない。問題ないはずだ……多分。

 自分の部屋の扉の前に立つ。
 内部に気配あり。というか近い……。

 荷物を一旦少し離れた床に置き、コンコンとノックをして「ただいま」と声を掛けドアノブを捻る。

 ……開かない。

 おかしい、何も間違ったことはしてないよな? うん。
 もう一度同じことを繰り返す。
 しかしドアノブはガチャリと引っ掛かり、無情にも回る気配が無い。
 これはあれか、今朝やったように非常時的手段で開けろということか?
 だが、妹の気配がかなり近い。具体的に言うとドアの真ん前玄関口にいるような気配だ。
 これは、不用意に手を突っ込めば俺の何かが失われる気がする。
 主に右手とかそういう感じの物が。

 しばしの沈黙。
 そうだ! 今こそ助言を活かすべき時だ!

「あ、ゴホン、ユミ、ドアを開けてくれないかな? 今日は腕によりを掛けて夕食を作るつもりで色々買ってきてるからドアが開けにくいみたいなんだ」

 中の気配が少しだけ揺らぐ。
 いける!
 確信を得た俺は最後の切り札を繰り出す。

「実は美味しいと評判のケーキも買ってきたんだ。昔は滅多に食べられなかったろ、ケーキとかさ」

「……ケーキ!」

 今度ははっきりとした反応があった。
 直後にガチャリと扉が開く。

「ドアを開けてくれてありがとう。すぐに飯作るからな。あんまレパートリーが無いから偉そうなこと言ってもカレーなんだけど、いいだろ?」

 ドキドキしながらまくし立てる。
 ちらちら様子を伺うが、由美子は別に気分を害した風では無かった。
 どちらかというと戸惑っている感じがする。

「私、誕生日でも無いのに、なんでケーキ?」

 なるほど、そこか。
 そして俺と違って、まだ高校生なのに既に誕生日ケーキの存在を知っていたんだな。
 さすがだ、兄ちゃんはちょっとお前を自慢したい。

「そこはほら、こっちに来てうちにしばらく泊まるだろ? その初日のお祝いというか、お前が来てくれて嬉しい気持ちを表してみたんだよ」

 嘘じゃないぞ。
 確かにちょっと何考えてるかよくわからない上に我を曲げない性格の由美子に対してどう扱っていいかわからない部分はあるが、大事な妹であることには違いない。
 可愛い妹が頼って来たと思えば、嬉しく無い訳が無いんだ。

 由美子は白っぽかった顔色に少し赤みを浮かべてやっと表情を和らげた。

「そうなんだ」

 そしてその言葉と時間差で、由美子のお腹がキュウと鳴る。

「……」
「聞こえた?」

 またも急激に冷え込んだ由美子の声とは別に、俺の脳内にはある疑問が浮かんだ。

「なあ、ユミ。お前お昼はどうした?」
「兄さんが作ってくれたご飯を食べた」
「そっか、パックに分けてたやつだな」

 由美子はふるふると頭を振って否定する。

「テーブルに用意してあったやつ」
「え? まさか目玉焼きとかってこと? あれ朝食だぞ、何時に食べたんだ?」
「お昼前」
「……寝過ぎだろ、いくらなんでも。じゃあ一回しか飯食ってないのか。それで、ちゃんとあっためたか? 冷めてたろ? 昼飯用のパックのやつは冷めても問題ないものを入れたけど、あっためたほうが美味いし、ソーセージと目玉焼きは少しあっためたほうがいいからな」
「お味噌汁は温めた、目玉焼きとかはそのまま」
「え? なんで? 電磁調理器レンジの扱いわかるよね? 俺、実家に送ってたし」

 うちの実家は別に貧乏ではない。
 仕事のたびに転がり込む大金のほとんどは仕事道具に費やされるとは言え、残った分でもそこそこ中流家庭程度の生活をするぐらいの余裕はあったはずだ。食うに困った覚えは無いし、必要な物を買い渋られた覚えもない。
 だが、文明的にやたらと遅れた地域であるのは間違い無い。
 何しろ電気が通ったのが俺が小学生の頃なのだ。
 ざっと五十年は中央付近の都市から遅れていると思っていいだろう。
 そんなこともあって、俺は中央に就職してからというもの、実家に社割で安く買える家電製品とかをときどき送っている。
 当然詳細な使用方法を手書きで付けてだ。
 その中にはもはや一般家庭では必須アイテムともいえる電磁調理器レンジもあった。
 うちにあるのと実家に送った物は同じ製品なので当然妹も慣れているはずだ。そうだよな?

電磁調理器レンジって、あの箱型の危険物のこと?」
「え? 何ソレ? 怖い」
「おじいちゃんが試しにゆでたまごをあっためようとしたら爆発が起きた」
「なぜそこでゆでたまご? どうしてピンポイントで高等なコントみたいなことをしでかすかな? じいちゃんは」

 なるほど、理解したくないが理解した。
 今後は危険な使い方を詳細に説明した文章も足さねばなるまい。常識で判断した俺が悪かったんだ。
 よし、ここは一発安心させる言葉をば。

「爆発するのはゆでたまごぐらいだから大丈夫だ。普通の食品はあったかくなるだけで害は無い。元々の発想が兵器からだったとしてもこれは兵器じゃないから平気だよ~とか」

 うおおお! さむっ! 一瞬で周囲の温度が5度は下がった気がする。
 冷ややかな妹の視線がダイレクトに心臓に刺さる!
 下手なギャグ言ってごめんなさい。そんな心底軽蔑したような顔を向けないでください妹よ。

 崩れ落ちた俺を一顧だにせず、妹は俺の空振ったギャグには全く触れることなくその場を離れた。

「そういう訳だから、その豪華な夕食とやらをお願い。……もちろんケーキも」

 うん、兄ちゃん、食べ物で名誉を挽回するよ。させていただきます。

 俺の包丁捌きは思いっきり素人のそれだ。なので細かい作業は無理。野菜は大まかなぶつ切りだ。
 普通カレーの隠し味的な玉ねぎは、みじん切りにして使うらしいのだが、俺は食感重視で乱切りにして、重なってる部分を全部バラして炒める。
 肉は牛だがあえてすじ肉を使う。ちょっと時間が掛かるがカレーの場合淡白な肉より濃厚な味わいがある物のほうが合うからだ。

 だが今回はあまり時間を掛けると妹の機嫌が急降下してしまいそうな予感がする。
 こういう場合には肉を包丁の背なんかで叩いてから使うと煮込む時間が結構短縮出来るんだよな。
 あと、すじ肉は野菜みたいにアク取りが必要だ。アク取りというより本来は脂を抜くって感じなのかな? それをしないと独特の臭みがある。
 アク取りといえば野菜もそうだ。結構ちまちまやる必要がある。でも、実は俺、アク取り作業は結構好きなんだよな。癖になる感じ? がある。
 とにかく、そういう手間が必要な料理なのでいくら頑張っても時間は掛かる。本来作るのに二時間弱は欲しいカレーなのだ。

 しかし、敵は本日軽い朝食を一食分しか摂取していない若き腹ぺこ妹だ。
 今見たら昼食用にパックに入れていた分が丸々残っていた。ああ、不透明だから気づかなかったのね。田舎には発泡スチロールの弁当とか無いもんな。
 てか、電磁調理器レンジに入れて置いたから発見すらされてなかったっぽい。

 そういう訳で忍耐には限界があるだろう。
 だからといっていきなりケーキを食わせる訳にはいかない。
 甘いものは食事の後というのは常識だ。両方をよりいい状態で味わうための先人の知恵なのだ。
 ということで、三個入パック売りだったせいで一個残った玉ねぎと、冷蔵庫に備蓄している卵を使って簡単なオニオンコンソメスープ溶き卵掛けを用意しよう。
 昼飯の残りは季節的に大丈夫かもしれないが、ヤバイので廃棄である。もったいないの神様スマヌスマヌ……。
 実はこのスープもそこそこ時間を掛けたほうが美味しくなるんだが、さっと仕上げても十分美味しいので大丈夫。

 そうだ! それと、女の子はサラダが好きだって以前聞いたことがある。
 前に奮発してファミレスでカレーを食べた時にもセットで小さなサラダが付いてたしな。
 ああいうのがおしゃれなんだろう。
 だがしかし、レタスなんてしゃれたもんうちの冷蔵庫には在庫が無い。
 仕方ないからカレーに使った野菜の残りでなんとか凌ごう。
 玉ねぎを水でさらして……あー人参とジャガイモは一回茹でないと駄目だよな。やべえコンロが開いてない。

 そうだ! 今こそ電磁調理器レンジだ!
 一番茹でにくいジャガイモを最初にやらないとな。
 電磁調理器レンジは水分を振動させて熱を発生させる仕組みなので、その調理には水分を少し多めに必要とする。
 ジャガイモは洗ったまま水を切らずに密封皮膜ラップで覆って4分弱、人参は同じ要領で2分弱でいいだろう。

 アチアチ! と、お手玉しながらもなんとかサラダ完成。
 スープは最低でも15分は弱火でコトコトやったほうがいいんで、もうちょっとだ。
 想定してなかったが、なんとなくコース料理っぽくなってきたな。いや、メインがカレーだけど。

「兄さん、どのくらい掛かりそう?」

 うぬ! 何か平坦な声が催促してるぞ。
 やばい、あれは妹の危険サインだ。忍耐力がキレる前に対処しないと俺がヤバい!

「ああ、ごちそうだけあってちょっと時間が掛かるんだ。だからメインの前にまずは温野菜のサラダから食べてくれ。空腹状態には消化のいい物がいいからな」

 ドレッシングは市販の物だ。
 どこぞの料理マニアじゃないので手作りのドレッシングなんぞ作ったりしない。作り方も知らんしな。
 俺のお気に入りはロマネスクドレッシングというやつで、コンビニのサラダ用に冷蔵庫に常備してある。
 由美子の舌に合うといいんだけどな。

「なんでもいいから、早く」

 うおおお! カウントダウンに入ったぁあ!
 そして、我が家にはサラダ盛るような皿がねえ!
 一人暮らしだったからな、くそ。
 あ、そうだ、確かパンのシール集めて貰った皿があったはず。

 手際悪くドタバタしながらも、なんとかサラダを皿に盛ってドレッシングを掛け、食卓にも作業台にも使える便利なちゃぶ台の上にドンと置く。
 今まで使わずに溜めていたコンビニの割箸を手渡し、「とりあえず食っとけ」と言い渡した。
 その途端、「いただきます」の一言と共に、俺を一瞥もせずにサラダに食らい付く我が妹。
 お前、いくらなんでも飢え過ぎだろ?

 ますます慌てるが、俺がいくら慌てても料理の進行は時間に支配されている。
 1分1秒を彼方の事象のように感じながらも、なんとかオニオンスープ溶き卵入りを完成させ、一人でサラダを完食した由美子がまた物足りなさを感じる前に差し出しすことに成功した。
 そして、今度はゆっくりとふうふう吹きながら食べ始める我が妹。

 ふ、あやつは猫舌よ、俺の作戦勝ちだな!

 何か俺も変なテンションになりながらカレーの様子をみる。
 うん、当然まだまだですね。
 そもそもご飯も炊けたばかりで蒸らしもまだだぜ。

 そうこうしている内に、食事をする場所を作るために仕切りを外し開け放っていた俺の部屋から蝶々さんがパタパタとこちら側にやって来た。
 熱を感知したのかキッチンの手前でUターンをして、妹のいる部屋へと入り、落ち着いたのか守護陣を描き始める。
 スープを冷ましながら食べていた由美子は、パッと顔を上げるとその様子をどこか微笑ましげに眺めていた。
 後は時間を待つばかりとなった俺は、自分の分のスープを抱えて、そのどこかほのぼのとした場へと乱入する。

「ところでユミ、入試いつからなんだ?」
「全予が明日から」

 ぐぅ、もう少しで口に入れたスープを吹き出してしまう所だったぜ。
 流石にそんなお約束はヤバイ、妹の俺に対する心の地位的な意味で。

「明日って、大丈夫なのか? 勉強とか?」
「試験の前日に慌ててやらなければならないようなら、元々それを受ける実力は無いってことだから。試験範囲を軽く通し読みするぐらいで問題ない」

 な、なんという強者の言。
 受験前日まで必死に詰め込みをしていた俺を全否定!

「ん? そういえばお前は推薦枠だから予備試験で合格したら後は面接だけなのか?」
「そう、だから兄さんのところにお泊りするのは三日だけなの。寂しいだろうけど我慢してね」
「いやいや、……えっと」

 否定をしようとした途端、押し寄せるプレッシャーに俺は言葉を失った。
 いかん、穏当な返事をしなければ危険だ!

「そうだな、お前のいない部屋は凄く寂しくなると思うよ」
「凄く、閑散としてる部屋だものね」

 う、確かにあんまり物は無いけど、一応少しは家具はあるんだからそう閑散とはしてないと思うんだが。
 何か訳のわからん物で溢れている実家と比べられれば確かに閑散としているかもしれない。

「あ、ところでちょっと聞きたいんだが。俺、鍵を置いてったし、腹が減ったならなんで外でご飯食べなかったんだ? ご飯じゃなくても何か口に入れる物を買ってくるだけでもいいし。まさか金が無い訳じゃないよな?」
「お金は、これを使いなさいってお父さんが」

 言って、由美子がポケットから出したカードフォルダに入っていたのは、なんと取引端末札クレジットカードだった。
 しかも何か光沢のある黒いカードなんだが、これって、ながれが持ってたのと同じタイプの引き出し制限無しの支払い端末じゃないか? 名義がちゃんと由美子になってるぞ。オイオイ。
 長男の俺には普通の端末札カードさえくれなかったんだけど、どういうことなの?

「そ、そうか、だったらどうしてなんだ?」

 動揺を抑えて、とりあえず目先の疑問を優先する。
 もしかしてうちって俺が思ってるより金があんの? いやいや、邪念を払うんだ俺!

「だって、兄さんがいないじゃない」

 うん? 質問と答えの関連性が分からないぞ。

「俺がいないと何なの?」

 由美子はモジモジと何か恥じらってる風だ。
 うん、凄く可愛いです。
 いや、違うから、由美子が可愛いのは当たり前だから。

「兄さんの気配が無いと戻って来れないもの」
「ほへ?」

 俺の返事マヌケだね。いや、本当に。
 こういう時に浩二がいればなぁ。うちの弟は話の筋道を纏め上げるのが得意なんだよな。
 話がこんがらがって収集が付かなくなった時にいつも要点を纏めて俺に示してくれたっけ。
 てか、あいつこうなることわかっててこないだ俺に忠告しに来やがったんだろうな。
 いやいやイカン、問題をすり替えて逃げちゃ駄目だ、俺。
 ちゃんと解決しようぜ。

「ええっと、それってどういうことかな?」
「私、ここまで来るのに兄さんの気配を探って来たの。だからすっかり遅くなっちゃったの」

 そういえば、由美子がうちにやって来たのは昨夜の深夜だった。
 考えてみればそんな時間に列車がある訳がない。
 おいおい、いったい何時間掛けて家に辿り着いたんだ?
 それにしても、なんて俺は間抜けなんだろう。突然のことでパニック状態だったとしてもその辺の判断力が足りないのはいつもながら致命的だ。
 やっぱりそういう部分は浩二がいつもフォローしてくれてたから駄目なのかな?
 いや、むしろ駄目だからフォローしてくれてたのか?
 何か自分に痛いぞ、この仮定は。

 とりあえず俺の判断力の無さの話は置いておいて、ここは由美子のことだ。

「電話してきたらよかったんじゃないか?」
「予告したら不意打ち出来ないじゃない」

 え? 抜き打ちの間違いじゃなくて本気で不意打ち?
 そういえば蟲を憑けようとしてたな、我が妹よ。

「うちの住所は知ってただろ? 地図データに接続して道案内ナビゲートしてもらえばよかったんでは?」
「私は配布の仕事とかに就いてないから、座標情報を使っての空間移動ジャンプなんか出来ない」

「……え?」
「え?」

 いきなり何を言ってるんだ? うちの妹は。
 そして小首を傾げたその顔は可愛すぎるだろ! 画像記録フォト起動、間に合わねぇ!

「い、いや、そんな専門職の特殊装備の話じゃなくて、普通に地図を使って歩いてくればよかったんじゃないか? 駅からなら二十分程度だし、乗り継ぎわからなくても中央駅からなら歩いて一時間は掛からんだろ。そうだ、カードあるならタクシーに乗ればすぐだぞ」
「だから、座標軸認識図マップ座標特定情報ナビゲートなんか私には使えないし、タクシーに乗っても、そもそも場所がわからないから案内出来ないでしょ?」

「……え?」
「え?」

 どうしよう、妹と話が通じない。
 同じ言語を使用してるはずなのにおかしいな……。

「……ユミ、地図の見方分かる?」
「だからずっと言ってる。そんな特殊情報図面、私には使えない。ジャンプ装備は配送員の資格が無いと使えないんだよね」

 おいおい、地図って小学生の時に習った気がするぞ。
 どうなってんだ、義務教育! うちの妹の知識がおかしいぞ!
 女は地図見るのが苦手って言うけど、そんなレベルじゃねぇぞ! なんで変な誤解してんだ?
 だがしかし、短期間にこの誤解を修正するのは俺には無理だ。
 しかも受験前だしいらんことに頭を悩ませるような事態には陥らせたくない。

「その辺はまた今度話し合うとして、それじゃあ俺が居ない昼の間外出が出来ないってことか?」
「変な兄さん。うんそう、慣れたら大丈夫だけど、それまでは目印無しで帰って来れる自信は無い」
「そりゃあマズいだろ。試験を受け終わったら俺が帰るまで外をうろついてるつもりか? そういう訳には行かないだろ?」
「それもそうだね。う~ん、と」

 由美子は何やら考えるように部屋の中を見渡すと、ふと呑気に頭上を舞っている蝶々に目を止めた。

「あれ、兄さんの式?」
「いやいや、あれは単なるカラクリだよ?」

 由美子はちょっと首を傾げたが、何やら頷いて懐から懐紙を取り出した。
 それへ袖の隠しから取り出した筆ペンを使って、何やらサラサラと書き込んでいく。
 ちらりと見た限りだと簡易術式だな。
 式神と言う、精霊と呼ばれるマガモノの一種で害が無い奴を無機物に宿らせて擬似生物を作成するための術式、それも極々単純な物だ。
 しかし、なんだ、今時は筆ペンを使うんだ。まああれ便利だしな。

 由美子はその二つ折になった式神の元を両手にかざすと祝詞を詠った。

 ――明けぬ夜の
    
    光かそけき野辺なれど

       月の光に蝶ぞ舞いけり――

 詠い終わりにフッと手の中の懐紙に息を吹きかけると、懐紙はまるで本物のような蝶へと化身した。
 金色の淡い光をこぼしながらパタパタとどこかぎこちなく舞う俺のカラクリの蝶の傍らに、重さも感じさせない幽玄の銀白の色をした式神の蝶がひらひらと優雅に舞う。

「一匹じゃ寂しかったし、目印に丁度いいでしょ。この子を目掛けて戻って来れる」
「あ、ああ、そうだな」

 仮初にも擬似生物である式神と違って、うちの蝶々さんは機械仕掛けなので寂しいとかとは無縁なのだが、そこはいわゆる乙女回路というものだろう。突っついてはいけない。
 それに確かに二匹の蝶の舞いはどこか微笑ましく見えた。

 台所でピッピッとタイマーが鳴る。
 どうやらあれこれやってる間にカレーも大丈夫な感じになったようだ。
 一応味を見てみたが、普通に美味しいので問題ない。
 もちろん、このカレーは明日の方が格段に美味いけどな。

 サラダを入れるような上品な皿は無くてもカレー皿は五枚組のを揃えてる。無駄に思えたが買ってよかったな。

「よっしゃ、お待ちかねのご馳走カレーだぞ、明日の分を残してるからおかわりは無いけど、これの後にケーキがあるからいいよな?」
「うん」

 由美子はふうふう言いながら懸命にカレーを食べる。
 可愛い。携帯の画像記録フォトで保存しておこうかな?

「兄さん、何ごそごそしてるの? ご飯の時は集中して」

 気配を察した由美子に怒られる。
 くっ、無念。
 でもまあなんか凄い幸せそうに食べてくれたから満足かな? うん。

 物凄く黙々と二人してカレーを食べた。
 気まずくならない沈黙ってあるもんなんだな。
 まあ食ってるから気にならないだけか。

「ご馳走様でした」

 皿を綺麗に制覇した由美子は行儀良く食後の挨拶をした。

「いや、まだケーキがあるだろ、それとももう入らない? 明日にするか?」
「食べる!」

 速攻で返事が来た。
 しかも俺の言葉の最後にやや被り気味だった。
 うん、わかるぞ、妹よ。ケーキの魔力には勝てないよな。
 兄さんはプリンも好きなんで明日はプリン買ってくるよ。

 セットしておいたコーヒーと時間合わせで温めておいた牛乳を使って由美子の分はカフェオレを作る。
 俺はもちろんミルクちょっぴりのコーヒーだ。ケーキ食うから砂糖はいらん。
 由美子の方は6グラムスティック一本で足りるかな? あいつ甘党なんだよな。

 お待ちかねのケーキを慎重に皿に置く。
 このケーキ、繊細過ぎて怖いぞ。崩したら俺はきっと妹に殺られる。
 ふ、実は、ケーキ皿とフォークのセットは気づいて帰りがけに買って来たんだ。
 サラダは予定になかったから慌てたが、本来俺は準備は滞り無くやるのが好きなんだよな。

「どうぞ、お嬢様」
「どういたしまして」

 格好を付けて皿を差し出したらあえなく軽くいなされた。
 ノリが悪いよ、お前。
 だがしかし、そのケーキを目にした途端、我が愛すべき妹の全身が硬直したのがわかった。
 無言で目前のその洋菓子を注視している。
 心なし顔が紅潮しているようだ。

 そうだろう。
 実は俺もそのケーキを見た時は驚いたものだ。
 ほの淡いピンク掛かったクリームと、いかにもサクっとしてる風のパイ生地で作られた段重ね。
 クリームの中には赤いベリーが透けて見える。
 そして全体を覆う白い粉砂糖と上部にこれでもかと飾られた幾種類かのベリー類。
 表現として使い古された感があるが、正に宝石箱という言葉がぴったりなケーキなのだ。
 ほんと、これ、食い物なのか?

 暫くして、やっと硬直が解けたらしい由美子は、しかし何やら困惑したようにフォークを手にしたまま再び固まった。

「どうしたんだ?」

 流石にこれは助け手を出してやったほうがいいだろう。
 俺はそう判断すると、精一杯頼もしさを体現した声を掛けた。

「兄さん、これ、どうやって食べればいいの? 勿体無くて崩せないよ?」

 滅多に見れない情けなくも可愛らしい顔で上目使いにそう言う妹に、俺はあえなくノックアウトされ、妹の困惑を解決する何の役にも立たなかったことは言うまでも無いだろう。
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