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第五章 破滅を招くもの
410 アンリカ・デベッセの王族事情
しおりを挟むなぜ、あれほど難しかったことが、これほど簡単にできたのか。
秀に起こった変化と言えば、一つだけだ。秀はただ、願った。
会いたい、と。
雪虎と呼ばれたあの子に、また。
それは幼子ゆえに純粋で、一途な願いだった。たとえ、根っこにあったのが、興味本位や好奇心であったとしても。
またもう一度、雪虎と会ってみたかったからこそ、秀は自由を求めた。
それが、功を奏したのか。
あれほど難しかった力の制御を、気付けばいとも容易く秀は行っていた。ただ。
そのための原動力となった、雪虎に会いたいと願う、渇望は。
幼い心にとって、すぐ。
…酷い―――――重荷となった。
なにせ、外に出てからも、ずっと。
秀の心の向きは、雪虎にだけ、真っ直ぐに進んでいて。
せっかく、自由になったのに。
なんでもできるのに。
すべて許されているのに。
秀は何一つ、自由ではなかった。
雪虎が憎くなるのは、すぐだった。
どうして。
―――――あの子は、私を縛るのか。
父が、雪虎を特別扱いするのも、納得できなくて。
許せなくて。
なのに、自分の心からあの子を決して外せないのだ。すぐにわかった。父も、そうなのだと。
気付けば、雪虎のすべてが疎ましくなっていた。
それでも、視線は必ず、雪虎の姿を追っていて。
雪虎が、だいじにしているという小汚い少女に向ける、表情を見た刹那。
たちまち、すべてがひっくり返った。
引きずり戻された。
あの時、はじめて雪虎を見た日へと、心が。
雪虎には、どうあってもかなわない。
完膚なきまでに、秀は敗北した。
否、勝ち負けなどどうでもいい。秀はもう、骨の髄まで理解している。
雪虎が雪虎として、生きて、そこにいる。もうそれが、それだけが、秀にとってのすべてなのだ。
「…旦那さま、よろしいですか」
助手席に乗っていた男が声をかけてくるのに、秀は目を開いた。
「なんだね」
「穂高の若君は、もう本州方面に出て―――――無事、故郷へ向かっていると連絡がありました」
秀は、ゆっくりと俯けていた顔を上げる。
助手席の男は、事務的に言葉を続けた。
「穂高家に、戻った暁には」
「手筈通りに」
ぞっとするような秀の声にも、臆することなく、月杜家に代々仕える男は頷く。
「了解しました。穂高家が始末に動く前に、月杜の者の手で片付けます」
月杜の手で始末したいなら、なぜ、わざわざ穂高家へ返すのか。
そのように思われそうだが―――――まずは穂高家へ戻すことに、意味がある。
秀は明かりが流れていく窓の外へ目を向けた。
雪虎は、こちらへ向かう前に、かかりつけの医師のところへ預けている。
付き添いを一緒にいた者数名に頼み、秀が踵を返したところ。
―――――どこ行くんだ…いや、ですか。
雪虎は、秀の前に、立ち塞がった。怒った顔で。だが。
いつも強い印象の目に浮かんでいたのは、心配だ。
幼い頃から、ああいった表情は変わらない。おそらく、雪虎は察したのだろう。
秀にとって、これからが今日最大の仕事の仕上げの時間だと。
―――――用事はもう終わったんじゃないんですか?
訊きながらも、どう言えばいいのか分からない、と言った態度で、雪虎は言葉を不器用に紡いだ。
終わった、と言えば、じゃあこのまま秀と一緒に行く、と返され。
診察があるだろう、と言えば、終わるまで待っていろ、と来た。
危険な場所へ、雪虎を連れて行きたくはない。
内心、ほとほと困っていると、雪虎は真っ直ぐな目で、核心をついてきた。
―――――危ないこと、しに行くんじゃ、ないだろうな。
その表情を思い出し、温かな心地になった半面。
車の中で、秀は独り言ちた。
「…トラを蹴った、だと」
呟きと共に、車内の空気が、凍えるほどに、冷えた。
秀の身を案じる雪虎の顔に、自身を傷つけた相手に対する恨みなど、もう微塵も残っていなかった。
殴り返して、彼の中では本当に、それで終わったのだ。
雪虎は一度やり返せば、もう、尾を引かない。ただし。
秀は、そうではない。
…秀が答えるまでは引かない、先ほどの雪虎は、そんながんとした態度で立ち塞がった。
彼が、真正面から、じっと秀の目から視線をそらさないのは、珍しい。
秀がすぐに答えなかったのは、そんな雪虎の表情を、もう少し堪能しようと思ったからだ。
だが、なぜそんな表情を雪虎が浮かべるのかは分からなかった。
だいたい、普段の雪虎の反応と言えば。
基本的に、秀を疎んじている。
なのに、その時の雪虎からは、秀から距離を取ろうとする意思を感じなかった。そのせい、だろう。
気付けば、手が伸びていた。
右手で、そぉっと頬に触れれば、ぴくりと雪虎の肩が揺れる。
戸惑った態度で、彼の視線が振れた秀の手がある方へ動いた。
秀は触れた指先で、頬の輪郭を撫で下ろすように、して。
雪虎の顎を掴んだ。そのまま、当惑した顔を上向かせ―――――…。
触れた、感触を思い出した秀は、車の中で、ふ、と指の甲で唇の輪郭をなぞった。
正直なところ、雪虎に害をなした相手は、すべて消し去りたい。なにせ、彼らは。
秀から雪虎という存在を、奪う可能性があったからだ。
その根にあるのは―――――恐怖だ。
笑うしかない。
鬼だなんだと恐怖と畏怖の対象でありながら、月杜秀は、たったひとりを失うことが耐えられないのだ。
だが、中学の頃、無茶なことをやらかしていた雪虎には、相当敵も多い。
もし、秀が。
気持ちのままに行動し、そのいっさいを片付けていれば、今頃、雪虎と同年代あたりの人間は、地元では不自然なくらいに数を減らしていただろう。
ゆえに、秀は耐えた。
子供の頃から、ずっと。
消し去りたい衝動を、堪え続けた。
だいたいそんなことは、雪虎は望んでいない。それを思えば黙っていることもできたのだ。だが、今回は。
穏やかだが、凍った刃のような声で、秀は続けた。
「いくら殺しても殺したりないが…仕方ないね」
たった一度、殺されるだけで済むならば、優しい方だろう。
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