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CASE 4 夏患い

【エリック・目眩】

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    1

 窓から陽射しが射し込み、リリーはベッドの中で寝返りを打った。眉間に皺が寄り、薄く目が開く。光を感知したところで数回瞬きをして上半身を起こした。目を擦り、欠伸あくびを一つ。
 ベッドに腰かけたまま足を下ろし、ニットの靴下を膝上まで上げる。編み上げ靴に足を入れ、備えつけのミニテーブルまで歩く。テーブルの上には水差しと洗面器。水差しを傾けて水を溜め、顔を洗う。
 着ているのは、シュミーズという寝巻用の白いワンピース。その上からコルセットを身につける。胸の前で穴に紐を通していくと、胸の位置が安定した。ポケットを腰に巻きつけ、アンダースカートで覆う。一番上にスカートと上着を身につけ、首にスカーフを巻いて朝の支度が終わった。
 階段を軽やかに下りて台所に向かうと、重苦しい甲冑と鉢合わせした。
「おはようございます。ムーンさん」
「おはよう」
 いつも通りの淡々とした口調。共同生活を送るムーンが立っていた。時代遅れの重装備をしているが、彼にとってはこれが今の身体だ。兵士に襲われているリリーを助けたことから、この薬草相談所を手伝っている。
 ムーンは睡眠が必要ない肉体だ。ベッド付きの部屋を使ってはいるが、人間と同じ睡眠を取っているわけではない。活動を停止しているだけの状態になる。だから、いつもリリーよりも早く夜明けと共に動き出している。リリーが起きる頃には井戸からの水汲み、かまどの準備などの朝の一仕事が終わっている。既に今日もかまどの鍋に水が張っていた。
「いつもありがとうございます」
 リリーは丁寧に頭を下げた。
「薪を取ってくる」
 ムーンには食事を取る必要もない。リリーが朝食を準備している間にもう一仕事終えている。
「お願いします」

    2

 鍋の中に大麦と貴重な塩を少し入れて火をつける。煮ているうちに勝手口からすぐ外にある小さな畑に出る。数種類の野菜を育てている中に小さなトマトが生っているのを見つけて収穫する。
 大麦が柔らかくなり、水に粘りが出たところで火を止める。乾かした木苺を乗せて完成だ。トマトには植物油に薬草を浸けたものを塩と一緒にかけた。
 食卓に並べているとムーンが木の束を抱えて戻ってきた。会話をしながら朝食を始める。もっともムーンは席に着いているだけだが。
 会話の内容は、今日の薬草採取について、畑で自家栽培をしている野菜について、患者の様子など。もっぱらリリーが話をし、ムーンが頷いていることが多い。
 朝食が終わったら洗濯を日当たりのいい場所で干し、薬草採取に出かける。徐々に日が長くなり、薄っすらと汗が滲む季節。このような季候になると、多くの草花は弱ってしまう。暑さに強いものだけを採り、早く家へ帰る。春の間に多めに確保していたものを消費しながら夏を乗り越える。

    3

 働き盛りほどの年齢の男が自信なげに玄関の前に立っている。手はの形で上げたまま、扉の数センチ前で止まっていた。立派な体格なのに太い眉は下がり気味で気弱な性格が現れている。握った片手を上げたり引っ込めたりして躊躇っていると、扉が内側から開いた。
「患者か?」
 全身黒の甲冑が中に立っていた。
 男は驚嘆の声を上げて後退るも、甲冑が淡々と「中へ入れるといい」と告げるので、呆気に取られて言われたとおりに家の中へ足を踏み入れる。部屋に漂っているのは爽やかな緑の匂い。それだけで肩の力が少し抜けるようだった。
「こんにちは。よくいらっしゃいましたね。お疲れでしょう。椅子におかけ下さい」
 麦の穂に似た髪色の少女――薬草相談所のあるじが柔らかい表情で言った。

 男の名前はエリック。街に住む石工だ。石材の加工や建物の施工が主な仕事になる。家族は妻と三人の子どもがいる。妻の友人から相談所の話が回ってきて今回訪れた。
 薬草師であるリリーから問われることを順番に答えていく。年齢、仕事、家族、症状――。
「最近疲れやすくなりまして。目眩がするようになりました。とにかくダルいんです。風邪かなと思いましたが、熱や咳はないです。何か病気なんでしょうか?」
 リリーはエリックの話をすべて紙に書き留めてから落ち着いた声で話しかける。
「分かりました。今から調べますね。ご了承いただきたいのは、わたしは医者ではありません。即効性のある薬は出せませんが、薬草を使って身体を治すお手伝いをします。一緒に元気になりましょう」
 日向ひなたのような温かい微笑みがエリックに向けられる。
 リリーはエリックの状態を確認し始めた。顔色、肌の状態、口の中、胸の鼓動、呼吸の音、脈――。
「呼吸も脈も正常ですね」
 所見を紙に書き足し、両方の手のひらを上に向けて差し出した。
「手を見せて下さい」
 戸惑いつつもエリックは両手を手の甲が見えるようにリリーの手に乗せる。
「汚い手で申し訳ない……」
 石工だから手など日焼けをして手入れがされていない。汚れが爪の中まで潜り込んでいる。豆だってある。若い女に見せるのは躊躇いがあった。
「いいえ。ごめんなさい、急に失礼ですよね」
 リリーは優しい手つきで手を取って眺める。肌がかさかさとしていて、ところどころに傷があるのは職業柄だろう。先が黒い爪だってそうだ。その爪は縦縞の細かい線が入っている。
「ありがとうございます。それでは、いつもどんな食事をしているか教えて下さい」
 エリックの目元が赤くなる。貧しい労働者の自覚があり、粗末な食事をしているからだ。それを指摘されているようで恥に感じた。
「その……平民にはよくある食事かと……。朝はポリッジ、昼はパンやチーズ、夜は野菜のスープにパン……」
 エリックの声は小さくなっていった。肉類はほとんど口にしない質素な食事だ。
 リリーは紙に記しながら、「野菜の具は?」などと細かく聞き取る。
「分かりました」
 すべてが終わってから目の前に向かい、結論を述べた。
「栄養が足りてない可能性があります」
 今度こそエリックは「えっ」と声に出した。肉体仕事をしているから筋肉質な体格をしている。それに質素な食事ではあるが、平民としてはそれが一般的だ。
「そ、それは貴族たちに比べたらそうかもしれないけど、肉も食べないし、パンも黒パンだけだし……。それは……」
 狼狽するエリックにリリーは落ち着いた態度だ。パチンと手を身体の前で一つ叩く。
「いいえ、むしろ黒パンでいいんです」
 エリックは目をぱちぱちと瞬かせる。質のいいパンは貴族が持っていってしまうから平民の手には残らない。小麦は白くて柔らかいパンを作る高価なもの。労働階級の者は大麦やライ麦などを口にする。貴族からは粗末な麦を食べる者たちと揶揄やゆされてきた。
「わたしの父は医者で貴族も平民も診てきました。そうすると、量や質の割に平民の栄養状態が不思議と悪くないことが分かるんだそうです。確かにわたしたちは肉や魚、白パンなど簡単には食べられません。だから、痩せ細ってしまいます。でも、黒パンには栄養がたくさん入ってます。そのままの食事でいいんです。オーツ麦は食べてますか?」
 エリックの首が横に傾く。なぜその単語が出てきたのか理解ができない。場違いな気がした。オーツ麦は気温が上がらない年でもよく育つ。粉をく手間もない。だから、食糧難のときは口にすることもあるが――。
「あの家畜の餌の?」
「あれもポリッジに混ぜるなどして食べるといいかもしれません。あと、鉄の鍋を持っていますか? フライパンでもいいです。銅やホーローではなく」
 エリックは自宅の台所を頭に描き、こくこくと頷く。一つはあったはずだ。
「あ、あります」
「それでじっくり火にかけてスープを作って下さい。トマトを一緒に煮込むのがおすすめです。それで栄養が摂れますから」
 リリーがにこやかに説明する。「栄養」というから、肉などの高価なもの食べろと言われるのかと身構えていたから拍子抜けだ。それをエリックが湾曲的わんきょくてきな表現で口にすると、リリーは首を横に振った。
「お肉は食べると元気になりますからね。でも、食べ過ぎるのもよくないんですよ」と簡潔に答えてから続ける。
「冬とか農作物不足のときもありますね。そういうときは、鉄鍋にお湯を沸かして飲んで下さい。たくさんは飲む必要ないです。ご家族で一杯ずつ飲んでみてはどうでしょうか?」
 てっきりたちの悪い病気を疑っていたエリックは、提案された改善方法も簡単なもので気が抜けた顔をした。
 そんな彼にリリーは微笑む。患者を安心させるような表情だった。
「ご家族は同じ食事だと思うんですが、エリックさんだけに症状が出たのは、力仕事をしているからだと思います。さらに気温が暑くなってきましたから、汗を掻けば栄養も流れていきます。これからもっと暑くなりますから、気をつけて下さい」
 そこで一息をつき、最後に言葉をつけ足す。
「ネトルという薬草を中心にワイルドストロベリーを使ったものを調合します。これで様子を見て、体調が改善しないようなら、方法を考えます。利尿作用があることは心に留めておいて下さい。では、少し待ってて下さいね」
 リリーはお辞儀をすると、部屋の奥にある扉に向かっていった。その後を黒の甲冑がついていく。そういえば、あの甲冑の人はなんだっただろう――と一人残されたエリックは頭を捻った。

    4

 リリーは台所で夕飯用の野菜を煮込みながら、黒パンを包丁で切り分けていた。鍋からはグツグツと音が鳴っている。普段通りの夕食。ローレルなどの香辛料になる薬草も一緒に煮込むのがポイントだ。辛い味つけのものがリリーの好みで夏になると欲しくなる。野菜のスープに黒パンを浸すと柔らかくなって美味しい。
 鼻唄を歌いながらスープの中でお玉を掻き混ぜていると、ムーンが台所に入ってきた。
「今日もダメだった」
 ここの暮らしになれてきたムーンはリリーのためになるだろうと動物を狩ることに挑戦していた。森には大きいもので鹿やキツネがいる。小さいものはリスやウサギだ。
 今まで武装した人間は排除してきたが、狩りの経験はない。まだ力の加減が難しく成果は得られていない。もちろんリリーから離れないように狩り場を家の周りに限定しているのも理由の一つだが。
「お疲れ様です。ムーンさん」
 兜の角度が下がって少し落ち込んでいるように見えてリリーは微笑ましく思った。
 二人で他愛のない話をしていると、ムーンがふと昼間の患者のことを口にした。
「なぜあの患者が栄養不足だと分かった? 体型だけ見れば問題はないように見えたが」
 リリーはお玉を置き、火かき棒で燃料を調節してから手の甲側を顔まで上げる。
「爪です」
「爪?」
 ムーンは兜を上げた。リリーの爪をまじまじ見る。細い指の先に形のいい硬質な膜が並んでいる。
「顔色も判断の一つです。食事内容を確認しました。さらに栄養不足の典型的なサインである縞模様が爪に出ていたんです。他にも爪が割れていたり二枚になっていたりするんですが、お仕事上判別が難しかったのでそれは考慮しませんでした」
「それだけで分かるんだな」
「ええ。エリックさんと同じ症状の人はたくさんいますから分かりやすかったんです」
 リリーは話し終えると、言いづらそうに肩を揺らして両手の指を身体の前で交差させる。
「それに……あの……わたしもたまになるときがあるので……。女性は……」
「なにがだ」
 リリーの顔が赤くなり、やや乱暴に言葉をまとめた。
「そういうこともあるんです……」
「そういうものか。分かった」
 それから話は終わりとばかりに夕食の時間が訪れたのだった。



次回→CASE 5 心に染みる一杯
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