三度目の衝撃。

帯刀通

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木々のまにまに。

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「んーーー、っはぁ」

疲れた。職員用と指定された駐車場の隅に車を停めて、ハンドルにもたれかかり目を閉じる。家を出て三時間。大した距離ではなかったが都会の喧騒から離れた、と謳うだけあって入り組んだ山道をヌルヌルと進まされ無駄に消耗した。

夕方には着くはずだったのに、すっかり日が暮れている。まぁ、どうせ観光でもないのだから真夜中過ぎたって問題はないのだが出来るならば温泉くらいは入ってから寝たい。後部座席の狭いシートに横たわる相棒は明日取り出すとして、今日は身一つでさっさと寝てしまおう。小さなボストンバッグ片手に車を降りると、ムワッと緑の匂いがした。

案内板の通りに進んで管理棟に顔を出すと、待ってましたと熱烈な歓迎をしてくれた初老の男性は今夜の当直らしく僕と同じくらい小柄だったが、半袖から突き出た上腕部の筋肉と全身の無駄のなさと日に焼けた浅黒い肌が、いかにもアウトドアの仕事をしている人らしく近寄るとお日様みたいな匂いがした。健やかさの権化だ。

「お兄さん、ハカセなんだってなぁ!そんな若いのに頭良くて凄いんだなあ」

親ほども年の違う大人に開けっぴろげに誉められて、どうしたらいいのか分からない。悪い人じゃないのだろうけど、苦手だ。あからさまに困っているのが顔に出てしまったのか、男性はうんうんと頷くとあっさり解放してくれた。詳しい案内は明日にして、とりあえず風呂に入って寝ろと送り出されるまま、敷地内にある温泉へと足を向けた。

空が、広い。そして、高い。

ラグジュアリーなグランピングと豪語するだけあって周囲には何もない。街の光さえ届かず、角度や見栄えを計算され尽くした小洒落た照明は空には遠く届かない。星が、丸見えだ。

発生源の分からない不気味な叫びが遠くで間欠泉のように上がる。鳥か猿か何らかの獣の目が暗闇で点灯する。緑の息吹が濃い。都会育ちの僕には、ここの闇は深すぎた。

温泉から宛がわれた宿舎までの夜道を星明りの下、そぞろ歩く。ほかほかと湯気を立てる身体から奪われていく熱が夜風にさらわれていく気持ちよさにため息をつけば、寝巻き代わりのスウェットのポケットが振動を始めた。まだ湿った髪をタオルで拭きながら携帯を取り出すと、教授からのメッセージが届いていた。

『仕事と遊び、両方励め』

簡潔な励ましの言葉の後にもう一度振動が来る。電子マネーのアプリに入金された福沢諭吉1人分。酒も煙草も火遊びもしない僕にとっては使い道のない金だった。が、くれるものは有難く貰っておく。

部屋に辿り着いて冷えたペットボトルを呷る。2階建てのごくごく普通のアパートじみた宿舎は宿泊客からは見えないように、明かりすら漏れない奥まった木々の間に建っていた。どうやらぎっしり満室状態らしく生活音がそこかしこから聞こえてくる。他人の生きている空気を感じるのは悪いことじゃない。

持ち込んだ相棒を組み立てて、窓に背中を預けて覗き込む。

空。広くて高くて、遠くまで眼差しが届く時、星もまた僕を覗き込んでくる。ちっぽけな人間でしかない僕が星と一個体として向き合う。宇宙に浮かんで僕と星が等価になって漂う、浮遊感に凝り固まった思考が解放される。ここでは僕は僕であって僕ではない、どこまでも孤独でどこまでも自由だ。ひとりで落ち着いて呼吸が出来るこの瞬間を求めて空を仰ぐのかもしれない。

これから一週間以上、晴れていればこの空が見えるのだと思うと少しは気持ちが慰められる。プラネタリウムのスタッフなんて大した仕事じゃない。バカみたいに高い機材だけは神経を使うが、トラブルがあればテクニカル担当を呼ぶしかないからスタッフレベルではどうしようもない。僕のする仕事といえば案内と解説くらいなものだ。演出も解説もスクリプト通り、決まった時間に決まった仕事、気楽だからこそ退屈なルーティンワーク。

人があまり来ないのだけが救いか。
相棒を部屋に避難させて、猫の額のような1Kを確認する。玄関から続く短い廊下沿いの洗面所とユニットバス、ドアを開ければ八畳ほどのワンルーム。キッチンには電化タイプのコンロと小型の冷蔵庫。電動ポットやら食器やらも一通り揃っていて、安価なビジネスホテル程度の設備は整っているようだった。

そしてちょっと変わっているのがメゾネットタイプの部屋だということ。片側の壁際にある扉を開くと中身はクローゼット、反対側の壁にかかっている梯子を昇れば屋根裏部屋みたいに低い空間と、そこに置かれた布団一式。隠れ家みたいな構造に忘れかけていた子供心がくすぐられる。この部屋は二階で、下の階もこの構造なのかは分からない。寝具がないせいで、テレビとローテーブルが置かれたメインの部屋はがらんとしている。広すぎる位だ。

とりあえず手持ちのカバンから服を取り出してクローゼットにかける。一分も経たないうちに終わった。ケトルに水を入れてお湯を沸かし、フィルタードリップ式のコーヒーを淹れる。五分もしないうちに終わった。やることがない。

こんなこともあろうかと取り出したパソコンとタブレットと本の山。時計の針は未だ頂点を回らない。マグカップ片手にタブレットで文献を開きながら、眠気が訪れるのを待つ。翌日から仕事の予定だし、久し振りの運転のせいで疲れているはずなのだが気持ちが昂っているのか緊張しているのか、梯子を上って布団に潜り込んだのは丑三つ時もとうに過ぎた頃だった。夢は見なかった。
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