Straight Flash

市川 電蔵

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Scene 26

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雪江のセドリックで学校の近くまで送ってもらう。自宅からは車で五分もかからない。寒河江市中心部にある長岡山という小さな丘の中腹に、学校法人石川学園寒河江中央学院高校はある。
校門につながる道は、ちょうどトールパインのところで通りから分岐する。俺はトールパインの駐車場で車から降りる。
「明日からは歩いて行くわ」
俺は雪江にそう言い、学校へのなだらかな坂を歩み始める。新しい俺のスタートだった。
四月一日、生徒は春休みでありその姿はない。俺は学院の校門に到達した。門柱は煉瓦造りの年代物だが、校舎は新しく、なかなか近代的な設計だ。校門をくぐり、閑散とした校内を教員用昇降口を目指す。建物の間取りは前もって見学してあらかじめ憶えていたが、どうにも敷地が広い。この丘の中腹半分ばかりを削って平たくしているのではないかと思えるほどだ。歩いてくるのはやめて、自転車にしようかなどと考え、職員通用口にたどり着く。
「新任の石川です、入ります!」
無人の通用口に向かって大声を出してみた。俺の声に反応したのか、少し遠くから足音がする。初老の男が現れ、俺を見てにっこり笑った。
「あー旧姓徳永くんか。佐藤だ、よろしく」
「せ、先生、その節はたいへん…」
住職とともに俺の家庭教師になってくれた佐藤先生だった。
「まぁしぇーっだな、上履きは持ってきた?」
佐藤先生は標準的な訛りで俺に話しかける。雪江が持たせてくれた内履きサンダルに履き替え、校舎への第一歩を踏み出す。
「君の下足入れ、そごな」
もうそこまで準備がしてあるとは思わなかった。佐藤先生はさっさと歩き出す。俺は後をついて教員室に向かう。
「わが旦那さまの到着だ」
佐藤先生は職員室のドアを開け、中に向かって小さめの声で言う。職員室がすこしざわつく。
「石川さんだっす」
佐藤先生に促され、俺は教員室に入る。デスクすべてが見渡せる位置に誘導された。
「はじめまして、本日付で寒河江中央学院高校に採用となりました、石川愛郎と申します。若輩者ですがよろしくお願いいたします」
少し声が上ずったが、礼のあとに小さな拍手が起こった。
「まーとりあえず、始業まであそごで待機してて」
佐藤先生が指さした先は、少人数打ち合わせ用と思われる、六人がけのテーブルだった。グレーのスーツを着た地味めな女が座っている。
「あ、あれは君の同期だがら、仲良くな」
俺はその女性の斜め前に腰掛ける。
「ども、はじめまして、石川です」
「…小川です…」
同期なのだろうが、彼女は少し老けて見える。というか、徹底的に地味なのである。長めの髪は黒いゴムで後ろで束ねているだけ、その上昔の俺が使っていたような銀縁眼鏡をあてている。こちらの挨拶に最低限の返事をしただけで、ずっと本を読みふけっている。別に親しく話す場でもないだろうと、俺は職員室の中をぼんやり見回した。
一番奥の方に、「理事長室」の札がかかったドアが見える。母はあそこにいるのだろう。そのドアを背にして、三つの大きなデスクが並ぶ。多分、偉い人なのだろう。それぞれのデスクの下流に、普通のサイズのデスクが四台ひと島の要領で並んでいた。
JETの曲を頭のなかで弾きながらしばらくぼんやりしていると、チャイムが鳴った。こういう音を聞くのは久しぶりだ。
「朝礼すっから、ふたりとも来て」
佐藤先生が俺たちを呼び、偉い人用の左デスクのわきに立たせた。理事長室のドアが空き、母が出てきた。室内の全員がきっちり約四十五度の角度で腰を曲げて礼をした。俺と小川もなんとかタイミングを合わせて礼をする。
「今年度の新任教員を紹介します。石川愛郎と小川沙綾。石川は社会担当で佐藤が指導、小川は国語担当で東海林が指導するように」
母は俺達に挨拶を促し、小川と俺はあらためて自己紹介の挨拶をする。
「試用期間は、八月二十五日まで。雇用契約の確認はこの後管理の高梨と行いなさい」
母は事務的にそう告げ、また理事長室に戻った。その後、偉い人と思われるふたりが事務的な連絡をし、朝礼はものの五分で終わった。
「じゃあ会議室へ」
佐藤先生と、東海林と呼ばれた先生に連れられ、俺と小川は会議室へ移った。程なくして先ほどの朝礼で事務連絡をした二人のうち片方の偉い人が、書類を抱えて入ってきた。
「管理部長の高梨です。おふたりの着任を歓迎します」
管理部長の高梨と名乗った偉い人は、教師らしくない感じだった。ついでにまったく訛っていない。
「えっと、住民票と戸籍抄本、卒業証明書、成績証明書、教員免許のコピーを」
俺はそれらの書類をまとめた封筒を管理部長に差し出した。小川はカバンからいろいろ中味を引っ張りだしては目を近付けて見ている。ようやく全て揃ったようだ。
「これ、雇用契約書。本契約の内容に不満がある場合は、契約は成立しません。面倒ですが、一緒に読み合わせましょう」
合計三十八項にもなる契約内容を、俺と小川が交互に読み上げる。正直、どうでもいいわそんなこと、というようなことまで書いてあるのだが、それが契約というものなのだろう。
「はい、契約内容に不明な点や納得できない点はありますか」
小川が、いえ特に、と抑揚のない声で答えた。
「ひとつ聞いてもいいですか」
俺は契約書のある項目をもう一度読みなおしながら小さく手を挙げた。管理部長がおや、という顔をする。
「この、試用期間のとこですが、試用期間中、乙に教諭としての適性無しと甲が認めた場合、雇用契約を破棄することができる、というのは」
「その通りのことですが。まぁつまり、著しく社会人としての適性に欠ける、ちうことです。あと、警察沙汰の事件だと試用期間も何も関係なく懲戒免職と、第4項に書いてありますけどね」
管理部長はすらすらと答えた。
「試用期間中の評価は私らがします。よほどやる気が無い奴以外はたいがい合格だげっと、今まで一人だけ、試用期間中に生徒と関係を持ってしまで、解雇になった奴はいだっけ」
佐藤先生が小声で言う。
「そうでしたな、アレ何年前でしたっけ」
東海林先生は訛りがほとんどない。
「あ、アレね、七年前。僕がここに来て次の年だったね、アレは参ったわ」
管理部長は転職らしい。
「そ、それはそうですね、関係はやっぱ…」
一応女性である小川に遠慮して、あまりこの件は突っ込まないようにと契約書にサインしてハンコをつく。小川は質問しなかったためさっさと署名捺印を終えていた。
「その話、ネットでチェックしました」
小川がぼそっと言った。
「小川さん、知ってるのか」
東海林先生があちゃーという顔をした。
「はい。夏休み期間中に、試用期間中の新人女性教員が、当時高校一年生だった男子生徒と」
「想像の逆だよ!」
冷静に言う小川のオチに、俺は盛大にコケてつっこんだ。
「おもしゃいコンビだな」
佐藤先生が苦笑する。
「では、十時半から、理事長室にて本校に関するレクチャーを行います。それまで待機」
管理部長は書類を丁寧に仕分けして整理ボックスに収め、会議室を出て行った。
「石川さん、小川さん、校内を回って見てきたら」
東海林先生が進言してくれた。指定された時間まで三十分以上ある。この広い学校を一周するのに十分な時間だ。
「はい、行ってきます」
「はい」
小川もついてきた。
案内パンフレットによれば、学院には敷地内に陸上競技用グラウンドがひとつとサッカー・ラグビー兼用のフィールドがひとつ、野球場がひとつある。体育館はふたつあり武道館も大きい。テニスコートは八面ありプールも水泳部用と水球部用のふたつ。講堂にはブラスバンド部や演劇部のために本格的な主調整室と照明装置も備えられており、合宿する運動部と遠距離通学者用の寄宿舎も敷地内に完備している。
「ウチの大学なんかこんな施設なかったぞ…」
パンフを見ながら敷地内を小川と並んで歩いた。
「高校と合わせた日吉キャンパスより広いかも…」
小川がぼそっと言う。
「日吉とか、小川さん?もしかして慶応?」
「文学部修士。ドクターコース希望してたんですけど、家がもう学費出してくれないんであきらめました」
小川は表情を変えずにぼそぼそ言う。すこし老けていると思ったが、なるほど俺より二学年上なのだ。
「めちゃくちゃ優秀じゃん…俺の大学は聞かないで、頼むから」
小川の方を見ながらおどけてそう言ってみたが、相変わらずの無表情で前を見て歩き続ける。
「就職に有利なわけでもない専攻であと何年も学費出すほどウチは裕福じゃない、って父に言われました。私は民俗学専攻なので、フィールドワークに適したこの学校の求人を見て飛びつきました」
小川は無表情な割にすらすらと話す。ただ抑揚に乏しく、機械の音声のようなのが難点だ。
「兄が昨年結婚して、家を増築したからお金がないと。畑を全部売ってしまえばいいのに」
小川に会話をするつもりがあるのか、少し突っ込んだ質問をしてみた。
「俺は埼玉の所沢なんだけど、小川さんは?訛ってないよね、東京?」
「千葉の船橋です。畑を売ればいいのに。そうすれば」
会話はどうにか成り立つようだ。
「へぇ、旧家なんだ」
「千葉県船橋市の南部は、昔から農漁業が盛んで成田山参拝客の最初の宿として栄えており、私の実家の付近は江戸時代から続く天領の農村でした」
さすがにホンモノは違う。俺のような三流大学の文学部史学科卒とは基礎からして違う。
「寒河江市は平安時代に荘園として成立し、のちに大江氏が地頭として入部し一帯を支配、大江氏は最上氏に滅ぼされましたが最上氏も改易、維新まではこの周辺も幕府天領でした」
「国語より日本史のほうじゃねえの」
教科書も見ずにすらすらと話す小川は無表情のままだ。
「寒河江中央学院高校は、教員の研究活動を全面的に支援する学校だと聞いたので、全力で採用をアピールしました」
小川が母に対してどんなアピールをしたのか気にはなるところだ。
「石川さんはなぜここに」
小川が初めて俺の方を見て話した。色気ゼロの銀縁眼鏡の下は、意外なほどあどけない表情だ。
「いや、話すと長くなるから、今度あらためて。いや、なんなら今日、かるく飯でもどう?唯一の同期ってことでご挨拶代わりに」
「そうですね、オフ会のようなものです。知り合った以上顔を合わせて一緒に食事をするのは自然なことです」
どうも会話が咬み合わない気もするが、小川は拒絶してるわけではなさそうだ。
「そろそろ戻らないとな、広い学校だから帰るのも時間がかかる」
「そうですね戻りましょう」
小川が機械の声で答えた。
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