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Scene 23
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俺と雪江の結婚記念日である。
この寒河江市という田舎町では「石川のお姫様のご成婚」はちょっとしたニュースであるらしく、午前10時半頃に市役所へ行くと、待合室には数十人の老若男女が待ち構えていた。彼らは俺達を取り巻いて口々に祝いを述べる。具体的に何を言っているのかはよくわからなかったが、何人かの老女は雪江の手をとって涙を流している。
ひとしきり挨拶が終わったところで、俺達は応接室に通された。「戸籍課 課長」という名札をぶら下げた男がうやうやしく書類と朱肉を持ってきて正面に座る。懇切丁寧に書類の記入方法を指導してくれた。養子縁組申請と転入届、婚姻届を記入し判子を押す。実の父が結婚記念にと作ってくれた「石川愛郎」の実印だ。戸籍課の課長がそれを見て、印鑑登録もしておきましょうと用紙を追加で持ってきた。
課長は書類に間違いがないことを丹念に確かめ、内線で事務員を呼び書類を渡した。
「私が申し上げるのは僭越ですが」
課長が厳かに俺に語りかける。
「今日がらあなたはこの近辺の市町村では、わがどの様、わが旦那様になったのよっす。くれぐれも行動と言動には気ば配ってけらっしゃい。石川の名を貶めるような事のないよう、くれぐれも」
俺はソファから立ち上がり課長に深々と頭を下げる。
「ご忠告ありがとうございます。若輩者ですがどうぞよろしくお願いいたします」
課長は少し安心したように、雪江にも一礼した。
「雪江様、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます」
雪江は石川家モードで悠然と礼を返した。
「どうしてもとがいがら来た人ださげて、この土地でわがんねごどもいっぱいあっど思うのよっす、課長もおらえのわが旦那様ば気にかげでけらっしゃいなぁ」
このなめらかな方言も、田舎の上流階級のしゃべり方なのだろう。課長が恐縮して頭を下げた。
俺はあらためて「石川愛郎」の実印を見る。
「なんか実感わかないな、姓が変わるって。それに、いつかは権兵衛になるんだろ俺」
俺は少しおどけて言った。
「いや、今の旦那様だて、戸籍上は石川頼近なのよっす」
課長が説明してくれた。権兵衛というのは通称であり、本名はあくまで変わってない、戸籍の名前まで変えてしまう地方もあるが、石川家は戸籍上の名前はいじらなかった、選挙の時は通称認定で認可されているので石川権兵衛で出馬している、などだ。
「そうみたいね、ウチは武家の流れだし、当主が名前譲って隠居しちゃう時もあるのよね。柴橋の吉兵衛おんちゃんと東根の又兵衛おんちゃんのとこは、おじいちゃん健在よ。隠居したら、冠婚葬祭とか時季の挨拶とか公的な親戚づきあいの場には一切出てこないの。柴橋のおじいちゃんたちなんか、一年の半分はタイで暮らしてるから」
それは初耳だった。
「柴橋のご隠居だら、うらやますい老後だんね。ただでさえ裕福なのに、吉兵衛様があだいな立派な会社興して、左団扇どごの話でねっす」
課長が笑った。
「わが旦那様は学院で先生なるんだべっす」
課長がようやく打ち解けた風で話を切り替える。それにしても、俺のこの街での呼び名は若旦那になってしまったようだ。
「はい、何故かそうなりまして…」
正直それが一番つらいのだ。教師になるなど、母に言われるまでかけらも考えたこともなかったし、第一、実際に付き合ってきた教師はろくな奴がいなかった。少しばかりでも尊敬に値するのは、大学時代の指導教授だった篠崎教授くらいなものだ。
「学院はいい学校よ?私の母校だし、ほどほどに厳しいしほどほどに自由だし」
雪江が標準語に戻って俺に笑いかける。
「おらえの息子も、学院ば去年卒業して東京の大学さ行ったのよっす」
課長も世間話レベルまで口調がくだけてきたようだ。
「おがすげな生徒なのいねがら、しぇー学校だべっす…いや、んでもな…」
課長が少し眉根を歪ませた。
「なんかあんながっす」
雪江は話す相手によって方言と標準語を使い分ける。
「いや、雪江様おべっだどおもうげっとよ、ほれ、國井さんの…」
國井という姓を聞いて雪江が表情を曇らせる。
「まさか?ミノル?だってあいつ、退学でしょ…」
知り合いらしい。
「雪江様ど同級だべっす?学院さ入り直したなよぉ、今度3年生だべした」
「なにその話?あだまおがすいなんねの、普通だら大学入る年に高校さ入り直すて」
ネイティブな発音だ。よほど驚いたのだろう。
「おらえの息子もさんざんくどぐっけー、中学で先輩だっけのに高校で後輩でいるし、学校でいづばんわれぇやろべらしぇであらいで、おっかないおっかないってよー」
どうも、俺が赴任する学校には札付きの不良生徒がいるようだ。
「わがた、課長、櫻乃がらきがんなね、なにもおしぇねでよー、櫻乃さ文句やんなね」
例の美人のお友達にこれから会えるらしい。
「雪江様さすんぱいかげねようにだべしたー。荒木さんばごしゃぐなー」
雪江が美人を怒ったら俺も止めよう。
「あーくん、行こう」
雪江の声が少し怒気をはらんでいる。すっくと立ち上がると課長に丁寧に礼をして応接室を出た。女子職員の何人かがにっこり笑って祝いを言うと、雪江はにっこりと笑い返す。つい今まで眉をしかめて怒りをあらわしていたのだが、さすがに感情コントロールは完璧なようだ。市役所を出るなり携帯を取り出す。美人の櫻乃に電話するのだろう。
「サクラ、ちぇっと、ミノルなごどなしておしぇでけねっけな?…うん、聞いだ…うん…いまから行っていいべが?いそがすいが、店」
店、を「めしぇ」と完璧な訛りで発音しているということは、かなりテンパっている。
電話を切り、無言のままセドリックに乗り込む。車内で雪江が話しだした。
「國井稔っての、中学の同級生でね、いたのよ。山形の霞城高校行ったんだけど」
「霞城高校って、お父さんもだろ、頭いいんだな」
こういうことはよく覚えている。
「中学では私とトップ争いだったわ。稔は高3の1学期に、なんか教師とモメて退学しちゃったのよ」
「またえらい時にやるもんだ」
「まぁ、ね。先生と授業中議論になって、頭いいもんだから完璧に論破しちゃったらしいわ。その先生がまた陰湿で、それを恨んで細かい嫌がらせされたって。ミノル、プライド高いから、やってられっかって大見得切って自主退学したって」
「ほほう、なかなかカッコイイじゃん」
「こっちも受験ひかえてるし、それ以上構わなかったけど。そんなトラブル起こしたからか、東京の親戚のとこに預けられてるって聞いてたのよ、私」
國井稔という男に、雪江は特別な感情を抱いていたのだろう。どっちかというと鈍感な方の俺でもわかる。
「結婚記念日にこんなこと言ってごめんね。ミノルは私の最初の男…」
「そんな気がしたよ」
「この街にいたらいつかは聞いちゃうことだから、ホントごめん、早く言っておけばよかったのに」
雪江は車を脇によせて停め、ハンドルを抱えて泣き出してしまった。
「あいつはこの街にいないと思ってたの…絶対東京にいったままだって…もう帰ってこないと思ってたのよ…だから…どうしよう、なんで今日なの?なんで今日なの!」
こんな泣き方をする雪江を始めて見た気がする。俺は助手席から手を伸ばして、雪江の肩を撫でた。
「俺が、お前の最初の男に嫉妬するとでも思ったか?俺は処女でなきゃ嫌だなんて言ったことあるか?俺は今日石川の男になってお前の夫になったんだ。お前の昔の男がどうとか、くだらねぇ」
「でも、でも私、今日の日をこんなことで…悔しい!」
「石川のお姫様が、悔し泣きなんて情けねぇ真似すんなよ!」
俺は助手席から身を起こして、雪江を抱きしめてキスした。雪江が舌を差し入れてくる。俺を抱きしめる腕に力がこもっていた。
「あーくん、ありがと…そうよ、石川の女が情けないわ…」
雪江が目を赤くしたままで微笑んだ。ようやく普段の彼女に戻ったようだ。
「いくら田舎でも、真っ昼間から車の中でこれはやばいだろ」
俺は少し照れて雪江から身を離した。雪江はもう少し抱いていてほしそうだったが。
「あーくん、石川の男になったんだよね…バシッと言ってくれて助かったヨ」
雪江は車を発進させ、トールパインに向かった。
店に着くと、櫻乃が神妙な面持ちで待ち受けていた。ランチタイム前だが、さいわい客はいない。
テーブルにつく雪江と俺に、櫻乃が頭を下げる。
「ごめん、ユキ。言わんなねて思ったんだげっと…」
「こっつもわれっけー、こっつがらきがんなねんだっけ」
雪江も素直に謝った。幼稚園からの付き合いという親友同士だけに、すぐに和解する。
「ミノル、あんどぎいぎなり入学しぎさ出てきだんだど」
櫻乃は俺に気を使っているようだ。当然、國井稔が雪江と付き合っていた事や雪江の初体験の相手だということをすべて知ってのことだろう。
「あーくんさは、じぇんぶしゃべてっから、気にすねでしぇーよ、サクラ」
雪江の言葉に櫻乃がちょっと驚いた風で俺を見た。俺も表情を変えずにうなずいてみせる。正確には全部ではないが。
國井稔について櫻乃が山形弁で滔々と語ったことを俺なりにまとめるとこうなる。
退学後、雪江たちが高校3年の夏休みから國井稔は東京の親戚に預けられ、寒河江の街にはいなかった。雪江が短大に入学のため上京したとき、入れ替わるように突然國井稔は寒河江に帰ってきて、学院に1年生として入学した。特例として、東京にある友好関係の学校を借りて入学試験を行ったらしい。学業が抜群なのはわかりきっているから無試験でも良いと理事長の母は言ったらしいが、國井稔本人が特別扱いを嫌がったという。
「ミノルはよ、喧嘩強いわげではねんだげっと、なんつうのが、ポイント押さえた、巧い喧嘩すんだな」
店長が話に加わってきた。店長の山形弁をまとめると、入学初日に落第生と陰口を叩いた同級生を叩きのめし、本来は下級生である現在の上級生も、歯向かってくるものは制裁した。店長がいた頃よりもずっとお上品な学校になっていた学院をシメるのは造作もなかったそうだ。
「それに、アタマはいいがら。学院では2年間トップ以外になたごどないって」
櫻乃が熱っぽく語る。お勉強ができてそこそこ腕っぷしが強ければ、誰も逆らえないだろう。
「そのうづ、子分がでぎんなよ」
クールなイメージの店長も熱く語る。國井が2年に進級してから、同級生で秋葉という元野球部の男が、國井を慕って親衛隊長のように付き従い、周囲の高校にも影響を与え始める。少なくともこの近隣にある3つの公立高のやんちゃ坊主たちは、國井と秋葉に頭を下げたそうだ。
「もう一人アブナイのがいんのっだんね」
櫻乃の説明はこうだ。やはり同級生に西川という生徒がいて、ちょっと切ない事情で生まれたハーフである。見た目は完全な欧米系でかなりの美少年だが、その容姿のせいで子供の頃からガイジンガイジンといじめられてきた。その反動で中学からはものすごい喧嘩屋になった。近隣のやんちゃ坊主はもちろん教師にも公然と殴りかかったが、学院では秋葉にだけはかなわなかった。秋葉に負けた以上、秋葉が慕っている國井にも頭を下げさせられたのだという。ただ、本人は秋葉には負けたが國井には負けないと思っているそうだ。
「なんか、面白いっすね学院って」
さわりを聞いて、俺は素直な感想を言った。
「んだな、おもしゃいんだ、じづは」
店長もニヤニヤ笑った。
「あーくん、石川のわが旦那様なんだがら、ほだなごどさクビつっこまねでけろねぇ」
櫻乃が本気の顔で心配してくれている。美人が言うなら忠告を喜んで守ろう。
「でもね、学院に行ったら嫌でも首突っ込むことになるわね」
俺の心を見透かして、雪江が俺の耳をひっぱる。
「あーくん、顔に出すぎ。サクラにデレデレしないの。ゆるさないよ」
ひっぱった耳に唇を近づけ、雪江が小声で脅した。
「ウワキしたらコロス」
雪江は無声音でそう付け加えたが、櫻乃に手を出して店長に殺されるほうがよほど怖い。
この寒河江市という田舎町では「石川のお姫様のご成婚」はちょっとしたニュースであるらしく、午前10時半頃に市役所へ行くと、待合室には数十人の老若男女が待ち構えていた。彼らは俺達を取り巻いて口々に祝いを述べる。具体的に何を言っているのかはよくわからなかったが、何人かの老女は雪江の手をとって涙を流している。
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俺はソファから立ち上がり課長に深々と頭を下げる。
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課長は少し安心したように、雪江にも一礼した。
「雪江様、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます」
雪江は石川家モードで悠然と礼を返した。
「どうしてもとがいがら来た人ださげて、この土地でわがんねごどもいっぱいあっど思うのよっす、課長もおらえのわが旦那様ば気にかげでけらっしゃいなぁ」
このなめらかな方言も、田舎の上流階級のしゃべり方なのだろう。課長が恐縮して頭を下げた。
俺はあらためて「石川愛郎」の実印を見る。
「なんか実感わかないな、姓が変わるって。それに、いつかは権兵衛になるんだろ俺」
俺は少しおどけて言った。
「いや、今の旦那様だて、戸籍上は石川頼近なのよっす」
課長が説明してくれた。権兵衛というのは通称であり、本名はあくまで変わってない、戸籍の名前まで変えてしまう地方もあるが、石川家は戸籍上の名前はいじらなかった、選挙の時は通称認定で認可されているので石川権兵衛で出馬している、などだ。
「そうみたいね、ウチは武家の流れだし、当主が名前譲って隠居しちゃう時もあるのよね。柴橋の吉兵衛おんちゃんと東根の又兵衛おんちゃんのとこは、おじいちゃん健在よ。隠居したら、冠婚葬祭とか時季の挨拶とか公的な親戚づきあいの場には一切出てこないの。柴橋のおじいちゃんたちなんか、一年の半分はタイで暮らしてるから」
それは初耳だった。
「柴橋のご隠居だら、うらやますい老後だんね。ただでさえ裕福なのに、吉兵衛様があだいな立派な会社興して、左団扇どごの話でねっす」
課長が笑った。
「わが旦那様は学院で先生なるんだべっす」
課長がようやく打ち解けた風で話を切り替える。それにしても、俺のこの街での呼び名は若旦那になってしまったようだ。
「はい、何故かそうなりまして…」
正直それが一番つらいのだ。教師になるなど、母に言われるまでかけらも考えたこともなかったし、第一、実際に付き合ってきた教師はろくな奴がいなかった。少しばかりでも尊敬に値するのは、大学時代の指導教授だった篠崎教授くらいなものだ。
「学院はいい学校よ?私の母校だし、ほどほどに厳しいしほどほどに自由だし」
雪江が標準語に戻って俺に笑いかける。
「おらえの息子も、学院ば去年卒業して東京の大学さ行ったのよっす」
課長も世間話レベルまで口調がくだけてきたようだ。
「おがすげな生徒なのいねがら、しぇー学校だべっす…いや、んでもな…」
課長が少し眉根を歪ませた。
「なんかあんながっす」
雪江は話す相手によって方言と標準語を使い分ける。
「いや、雪江様おべっだどおもうげっとよ、ほれ、國井さんの…」
國井という姓を聞いて雪江が表情を曇らせる。
「まさか?ミノル?だってあいつ、退学でしょ…」
知り合いらしい。
「雪江様ど同級だべっす?学院さ入り直したなよぉ、今度3年生だべした」
「なにその話?あだまおがすいなんねの、普通だら大学入る年に高校さ入り直すて」
ネイティブな発音だ。よほど驚いたのだろう。
「おらえの息子もさんざんくどぐっけー、中学で先輩だっけのに高校で後輩でいるし、学校でいづばんわれぇやろべらしぇであらいで、おっかないおっかないってよー」
どうも、俺が赴任する学校には札付きの不良生徒がいるようだ。
「わがた、課長、櫻乃がらきがんなね、なにもおしぇねでよー、櫻乃さ文句やんなね」
例の美人のお友達にこれから会えるらしい。
「雪江様さすんぱいかげねようにだべしたー。荒木さんばごしゃぐなー」
雪江が美人を怒ったら俺も止めよう。
「あーくん、行こう」
雪江の声が少し怒気をはらんでいる。すっくと立ち上がると課長に丁寧に礼をして応接室を出た。女子職員の何人かがにっこり笑って祝いを言うと、雪江はにっこりと笑い返す。つい今まで眉をしかめて怒りをあらわしていたのだが、さすがに感情コントロールは完璧なようだ。市役所を出るなり携帯を取り出す。美人の櫻乃に電話するのだろう。
「サクラ、ちぇっと、ミノルなごどなしておしぇでけねっけな?…うん、聞いだ…うん…いまから行っていいべが?いそがすいが、店」
店、を「めしぇ」と完璧な訛りで発音しているということは、かなりテンパっている。
電話を切り、無言のままセドリックに乗り込む。車内で雪江が話しだした。
「國井稔っての、中学の同級生でね、いたのよ。山形の霞城高校行ったんだけど」
「霞城高校って、お父さんもだろ、頭いいんだな」
こういうことはよく覚えている。
「中学では私とトップ争いだったわ。稔は高3の1学期に、なんか教師とモメて退学しちゃったのよ」
「またえらい時にやるもんだ」
「まぁ、ね。先生と授業中議論になって、頭いいもんだから完璧に論破しちゃったらしいわ。その先生がまた陰湿で、それを恨んで細かい嫌がらせされたって。ミノル、プライド高いから、やってられっかって大見得切って自主退学したって」
「ほほう、なかなかカッコイイじゃん」
「こっちも受験ひかえてるし、それ以上構わなかったけど。そんなトラブル起こしたからか、東京の親戚のとこに預けられてるって聞いてたのよ、私」
國井稔という男に、雪江は特別な感情を抱いていたのだろう。どっちかというと鈍感な方の俺でもわかる。
「結婚記念日にこんなこと言ってごめんね。ミノルは私の最初の男…」
「そんな気がしたよ」
「この街にいたらいつかは聞いちゃうことだから、ホントごめん、早く言っておけばよかったのに」
雪江は車を脇によせて停め、ハンドルを抱えて泣き出してしまった。
「あいつはこの街にいないと思ってたの…絶対東京にいったままだって…もう帰ってこないと思ってたのよ…だから…どうしよう、なんで今日なの?なんで今日なの!」
こんな泣き方をする雪江を始めて見た気がする。俺は助手席から手を伸ばして、雪江の肩を撫でた。
「俺が、お前の最初の男に嫉妬するとでも思ったか?俺は処女でなきゃ嫌だなんて言ったことあるか?俺は今日石川の男になってお前の夫になったんだ。お前の昔の男がどうとか、くだらねぇ」
「でも、でも私、今日の日をこんなことで…悔しい!」
「石川のお姫様が、悔し泣きなんて情けねぇ真似すんなよ!」
俺は助手席から身を起こして、雪江を抱きしめてキスした。雪江が舌を差し入れてくる。俺を抱きしめる腕に力がこもっていた。
「あーくん、ありがと…そうよ、石川の女が情けないわ…」
雪江が目を赤くしたままで微笑んだ。ようやく普段の彼女に戻ったようだ。
「いくら田舎でも、真っ昼間から車の中でこれはやばいだろ」
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「あーくん、石川の男になったんだよね…バシッと言ってくれて助かったヨ」
雪江は車を発進させ、トールパインに向かった。
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「こっつもわれっけー、こっつがらきがんなねんだっけ」
雪江も素直に謝った。幼稚園からの付き合いという親友同士だけに、すぐに和解する。
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「なんか、面白いっすね学院って」
さわりを聞いて、俺は素直な感想を言った。
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「あーくん、石川のわが旦那様なんだがら、ほだなごどさクビつっこまねでけろねぇ」
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「でもね、学院に行ったら嫌でも首突っ込むことになるわね」
俺の心を見透かして、雪江が俺の耳をひっぱる。
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