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クララ、日本初の気球実験を見るのこと
ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第31回 クララ、日本初の気球実験を見るのこと
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今回分は日本初の気球実験の模様と徳川家達のヨーロッパ留学直前の模様のお話がメインとなります。クララのツンデレもあるでよw。
明治10年5月21日 月曜日
今日は木挽町にとって、華々しい一日だった。
というのは、海軍省が気球を上げたのでこの町が有名になったのだ!
この大行事が行われる広場には午前九時前から大勢の人が集まり、なんと午後四時まで待っていた。
うちの露台から広場がよく見えるので、友達が大勢来た。
おやおさんとおすみは無論授業後も帰らず、勝夫人は梅太郎とお逸を連れて来られ、杉田家の盛と六蔵ちゃんが田宮アイソウという名の若い医学生を連れてきた。
それに富田夫妻、ひろさん、滝村氏を加えて、十四人ばかり集まった。トルー夫人も生徒を連れて来られ、下の縁側に陣取った。
二階でお茶やお菓子を回しながら、広場の群衆のことを笑ったり冗談を云ったりして時を過ごした。
「人が豆粒のようですね」
富田夫人がそう云うと、おやおさんは穏やかに肯き、返す刀でにっこりと微笑みながら、凄いことを云った。
「うふっふっ、本当に一グラムの砂糖にたかる蠅のようですわ」
「……おやお様、流石にその発言はちょっと黒い誤解を招くかと」
流石は大君(タイクーン)の孫だ。
群衆の中には役者が五人いたのだけれど、彼らは眉を人妻のように剃っているので、編み笠を目深に被っていた。
「あら、あの年配の方、刀を差してみえるのかしら?」
おやおさんが首を捻ったが、その老紳士が帯に差しているのは傘だった。
「私は気球より、周りの人たちを観察している方が面白いわね。滑稽なことが一杯だから」
とは、お逸の弁。
「でも、こんな私たちを観察している人がいるみたいよ」
隣の精養軒から双眼鏡やオペラグラスなどでこちらを見続けている人々がいるのに、私たちはようやく気が付いたので、簾を下ろした。
気球は本当に今まで見たこともないほど大きかった。
絹製――奉書袖にゴム塗りしたものだ――で、中に入れるガスは新橋から持って来たものらしい。
最初吊り籠に入れたのは砂袋だけだったけれど、やがて兵学校生徒が乗り、少し上がって行くと、群衆からどよめきや万歳や拍手が湧き起こった。それから彼が白旗を出し、気球はたぐり下ろされた。
乗る人を変えて、こんなことが数回繰り返され、何回かはとても高く上がった。
しかし六時にガスが抜かれて気球が萎むと、辛抱強く待ち、拍手喝采していた群衆は、満足げにくたびれた足を引きずって帰途についた。
同じ頃、うちのお客様も帰って行って、富田夫妻だけが残って夕食を召し上がった。
ヘップバン夫人と若夫人であるサム・ヘップバン夫人が午後、駅へ行く途中でお寄りになったが、サム・ヘップバン夫人は東京に越して来て、ミス・ヤングマンの旧宅にお住みになるそうだ。このように一日中お客が出入りしていた。
男女六人が祈祷会に来たが、外の騒ぎと中のお客のために、祈祷会は来週に延ばすことにした。
お終いに矢田部氏もみえて、十時までいた。相変わらず懲りない人だ。
ところで、若い男の子は本当にしようがない。
梅太郎は今夜泊まって行ったのだけれど、悪戯ばかりしていた。
<私の魔術師(チャーマー)>
明治10年5月23日 水曜日
今日もわくわくするような日だった。
岩倉具視公とその他のお偉方――東伏見宮公、寺島公、松方公など――の面前で気球が上がったのだ。
エンジンがガスを入れ始めたのは朝の五時だったので、道を塞ぐ人はまだあまりいなかった。この時刻に通る人は仕事に行く途中なので急いでいるからだ。
九時に、杉田夫人とお祖母様、およしさんと二人の坊ちゃん、それから感じのよい医学生、田宮氏がみえた。
間もなく人力車の一群がうちの門のところで止まり、徳川家の後継者である家達公が、滝村氏、大久保氏、勝海舟氏といった三人の随行を引き連れておいでになった。おこまつ、武夫、玄亀とお輝も一緒だ。
大鳥圭介氏は二人のお嬢さんと私の知らない女の友達大勢と、使用人を二人連れて来られたのだけれど、この人たちが来るとは考えてもいなかった。
全部で三十六人という多人数がこの家に集まったわけだが、実際に招待しておいたのは、勝一家と滝村氏のご家族と徳川公だけである。
気球そっちのけで、お客様のもてなしで大変だった。
徳川公のご一行はいつになく気を遣ってくださった。
ハカマなど日本の着物を堂々と着こなして、慇懃で穏やかで愛想良く、私たちを快くおもてなしできた。
大久保氏は特に私に優しくしてくださった。
間もなく気球に飽きてしまったので、皆私の後について家中を見て回ったが、とても面白かった。
母の部屋に入ると、わたしの部屋だと思ったらしく、あれもこれも細かく点検し始めた。
徳川公はベットに飛び乗って、軋む音を面白がっていた。
大久保氏は手鏡を取り上げて、自分の顔を熱心に眺め、勝氏と滝村氏は飾り棚に乗っている骨董品を一つ一つ調べていたが、滝村氏はその中のいくつかについて貴重な知識を提供して下さった。
「この数個の杯は孔子の時代の物ですね。実に素晴らしい」
ベッドの上に掛かっている勝安房守の写真や、私たちの描いた油絵と着色石版画、私の勉強した教科書にも目を留めていたが、最も皆様のお気に召したのは、刀の装飾品の置いてある戸棚だった。
それから午餐の時、大久保氏は名高い日本のお菓子、カステラの製法を送って下さると約束なさった。
少し歌を歌ってから、杉田ご一家が帰られ、すぐ後に徳川ご一行がお立ちになった。
お逸と梅太郎はもう少しいて、鞠遊びをたっぷりしてから家へ帰って行った。玄亀ちゃんとお輝ちゃんはおこまつは五時までいた。
どんな楽しい時にも終わりがあるように、この楽しい一日も終わってしまった。
しかし、日本人の友達と過ごした時間は私にとって、いえ私たち皆にとって、本当に素晴らしいものだった。
沢山のなんでもない出来事に、彼らの私たちに対する敬愛と友情が表れているからだ。
明治10年5月25日 金曜日
おやおさんとお逸が音楽の稽古を始めることになり、水曜と木曜に私が教えることになった。
我が友大久保三郎氏から手紙が来た。
カステラの作り方が入っており「もしよければうちへ来て作り方を教えてあげたい」と書いてあった。
とてもおどけた手紙だったけれど、カステラの作り方自体は難しいものではないようだ。
手紙の結び「敬具」の後の署名は「Sabooro Ohkubo」と綴ってあった。
明治10年6月2日 土曜日
今日うちで祈祷会を行った。
昼の一時過ぎに本当に懲りない矢田部氏がみえた。
「お浜御殿へ行きませんか」と誘ってきたのだけれど、私は無論行かなかった。
たとえ行けたとしても行く気はなかった。
「矢田部氏は、お宅のクララさんに会いたくて、頻繁に訪問しているんですって?」
そんな噂が宣教師仲間で広まっていると、トルー夫人から教えて頂いたので、母はすぐにそれを揉み消してくれたようだ。
明治10年6月4日 月曜日
徳川公が、九日か十日に出発する今度の汽船でイギリスに行かれることになった。
今日の夕方、うちで食事をした種田誠一氏という若い銀行家が、そう教えてくれたのだ。
大久保氏、三郎さんではない、弟の方の大久保業氏がお供としてついて行くそうだ。
明治10年6月5日 火曜日
今日はお逸と、日本の習慣や言い伝えについて長い間面白い話しをした。
例えば子供の歯が抜けるか抜くとした場合のことだ。
それが下顎の歯ならば、新しい歯が上に向かって生えるように家の屋根の上に投げ上げ、上の歯ならば、新しい歯が下に向かって生えるように家の下に埋めるのだという。
「私も無論そうしたわ」
それから若い人が急須の口から直接飲むと、生まれる子供の口が急須の口のような形になるという。
子供がカラスの「カーカー」という鳴き声を真似すると、口から嘴が生えるか、口の隅に角のようなものが出来ると云い伝わっているそうで、お逸は「私、それ、見たことあるのよ」と云う。
また若い婦人は結婚式の日に雨が降るといけないから、赤飯にお茶をかけないようにするのだそうだ。もっともお逸に云わせると「私はそんなこと気にしないけどね」だそうだ。
……お逸の判断基準が、親友ながら分からない。
人を自殺に誘う木があって、時に椿とアオキがそうだ。
申の日に髪の毛を切ると髪が赤くなる。
火鉢の上で爪を切ると困ったことが起きる。例えば、夜だったら猫の爪が生えてくる。
死人は北向きに寝かせるから、東から西に枕を向けて寝なくてはならない。
犬が夜吠えたら近所に死人が出る。
夢はいつも逆夢だから、貧乏になった夢を見たら金持ちになる。
枕の下に福禄人の絵をおいて寝るとお金が貯まる。これはお逸もやってみたそうだ。
それから帯についての言い伝えがあり、帯上げを締めている時に端がひとりでに結び目になったら、その結び目をきつくしてそのまま三日おく。
それから適当な人に、ケヤキだか樫だかどっちかの木の棒で三回叩いて貰い、その人の小指と親指で、三つ数える間にそれを解いて貰う。
すると帯を解いて貰った人はきっと金持ちになるから、どんな金額でも贈り物でもあげると約束できる、というのだ。
この他にも沢山お逸が話してくれたが、とても興味深かった。
明治10年6月7日 木曜日
最近日記を纏めて書くことが多いけれど、これは風邪で気分が悪いのと、仕事が忙しいからである。
勉強したり教えたりする時以外は無精になってしまい、軽い読書をするか何も考えないで坐っているだけだ。
明治10年6月8日 金曜日
今朝、お祈りの用意をしていると、人力車が二台やって来て、徳川公と大久保三郎氏が降りてきた。
さあ大変!
生徒達は客間から飛び出し、私は二階に駆け上がって綺麗な襟をつけ服装を整えた。
それから下へ降りて行って徳川公と握手し、大久保氏には少し冷たくお辞儀をした。
大久保氏は今日初めて握手をなさろうとしたのだが、私は説明できない片意地から、なんとも思っていない上杉氏や、あまり好きでない矢田部氏のような人には愛想良く快活な態度が取れるのに好意を持っている人には冷たくなったり照れてしまったりする。
こんな自分自身に愛想が尽きてしまう。
大久保氏がカステラのことに触れた時も、心からお礼を云いたかったのに、儀礼的なお礼の言葉を述べ、作るのを手伝いに来て下さることについては一言も口にしなかった。
それでいて実は何か云いたくてたまらなかったのに。
徳川公は月曜にイギリスに発つので、お別れを云いにいらっしゃったのだ。
イギリスに三年いて、それからアメリカに行かれるそうだが、イギリスの、古い栄光を誇るものを見た後でアメリカを見たら、あまりにも対比が強過ぎるだろうから、アメリカが先でないのは残念だと思う。
「いえ、わたしはアメリカが一番良いと思いますがね。イギリスより清潔で、何かにつけて素晴らしい。ロンドンなど、リージェント街以外はすべてひどいものですよ」
大久保氏はご親切にも合衆国を弁護して下さった。
徳川公は五人の随員、つまり大久保業氏、陽気な竹村氏、漢文の先生、着物の世話係、及び給仕人を連れて行かれる。
たいした随員だ。世界の各地を見て回ってさぞ素晴らしい時を過ごされることだろう。
ヴィクトリア女王にもお目にかかる予定だし、他の国々へ行けば貴族たちが歓迎してくれるだろう。何しろ彼は古い大日本の偉大で権威ある将軍家の末裔、三位徳川家達公なのだから。
彼がいつか祖先の地位を占めるようになるかもしれないという噂もある。
有名なご先祖の方々が荘厳に祀られている日光から帰られたばかりだ。
あまりお話はしなかったけれど、私たちに非常に興味をお持ちになったことは明らかなので、行ってしまわれるのは大変心残りがする。
「絽」という美しい絹地を贈り物として下さった。
大久保氏は、古代の太刀持ちのように徳川公の後ろに坐っていた。
今までココナッツケーキを作っていたが、これは美しい化粧鞄とともに、徳川公にお餞別として贈るつもりのものである。
明治10年6月9日 土曜日
今日は終日、生暖かい南風が吹き、皆だるくてぼうっとしていた。
風が吹くと、いつもこうなのだ。麻布にある開拓使の第三号試験場――とは云ってもその実態は物品売り捌き所なのだけれど――に行って野菜と花を買った。
それからお花を持って杉田家を訪ねると、とても親切にして下さった。
アディと私が先頭に立って丘を上り始めたら、丘の上に田宮氏と使用人たちが見えた。
私たちを見ると使用人は駆け下りて人力車を押してくれ、田宮氏は家人に告げに家に飛び込んだ。
およしさんが真っ先に、後から家中の人が出て来て、とても親切に気持ちよく迎えて下さった。
間もなく母と富田夫人が着いた。
およしさんは私をご自分の家へ連れて行って本を見せて下さった。
お蔵の二階にある盛の部屋に行ったが、その時ちょっとしたハプニングが起きた。
可哀想に六蔵ちゃんが階段から転げ落ちてしまったのだ。
でも、さぞ痛かったろうに、あまり泣かなかった。日本人は涙を恥じるように子供を教育しているからだ。
ウィリイが以前私たちが招かれた勝家の隣の、徳川家へ、我ながら見事に出来上がったと自負しているケーキと化粧鞄を持って行った。
徳川公は外出中だったけれど、大久保氏と滝村氏がいて、いろいろ話しをしたようだ。
徳川公と随員たちの名前を書いて貰おうと思って、ウィリイは署名帳を置いてきた。
明治10年6月11日 月曜日
今夜風がひどく、怖くてたまらないので眠れない。
神様がこの強風を支配しておられ、風はその指図に従っているまでだと分かってはいても、この強い神の僕の前では私の勇気は萎んでしまうのだ。
徳川公は今日船で出発される予定だったので、高官が二十二人くらいお分かれの挨拶に行ったが、この嵐では出発できないだろう。横浜はもっと風がひどいに違いない。
勝氏は今朝見送りに横浜に出かけたそうだ。
「父様、人込みがお嫌いなので、人目を避けてとても早くでかけたのよ」
お逸がそう教えてくれた。
勝氏は最近まで刀を差しておられ、お逸のお母様やお姉様方も外出する時はいつも鋭い短刀を持って歩いていたと云う。
明治10年6月12日 火曜日
今日授業が終わると、母は今度の金曜日に予定しているお客のために横浜へ買い物に行くことに決めた。
昨夜のひどい風による恐怖が嘘のように朝は晴れ上がっていたので、午後一時に出発した。
汽車の中で知人には誰にも会わず、とても眠かった。
横浜では店から店へせっせと飛び回って、沢山買い物をした。
ホール・アンド・ホルツにいた時、外を通りかかったのは他でもない、竹村氏ともう一人の随員を連れた徳川公だった。
しかし私たちは声を掛けたくなかったので、外に出なかった。嵐のため船が出航しなかったらしい。
ウィリイが徳川公たちの名前の書いてある署名帳を持って帰ってきた。
私の署名帳に大久保氏は丁寧な英字と漢字で「日本東京大久保三郎、Sabooro Ohkubo」と書いてあるのに対して、ウィリイのにはカナで殴り書きしてあったので、我が兄貴はこの侮辱に憤慨している。
明治10年6月13日 水曜日
「家達様は横浜の大きなホテルに泊まっていにして、大勢の人が会いに行っているらしいわよ。もっとも面会を許されるのは、貴族や高い位の人たちだけど」
お逸が今日もまた内部情報を教えてくれた。
昨日の官報に載ったインタナショナル・ホテルの客の中に、徳川家達公と随員、K・竹村氏とN・大久保氏の名前があった。
これもお逸の弁で“家達公の先代の顧問だった”お父様は、お別れを述べに早朝の汽車で行かれたそうだ。
火曜日に徳川公を見た話をすると、お逸は私たちが勿論ホテルヘ行ったのだと思ったらしい。
明治10年6月14日 木曜日
午前中に滝村氏が、徳川公を乗せた船が昨日出航し、この若き友に関してはすべて順調に行っていると知らせにおいでになった。
そして徳川公からの挨拶と、化粧鞄のお礼をお伝えになったけれど、ケーキのことは何も云わなかった。
多分大久保氏が側にいたとすれば、滝村氏はあまり召し上がられなかったのではないかと思う。
さて閣下は行ってしまわれた。
今後この方の消息は大久保氏を通じて伺うことになるだろう。
【クララの明治日記 超訳版解説第31回】
「アンタのことなんてなんとも思ってないんだから、握手だってしてあげないんだから!
カテスラの作り方を教えてくれたって、感謝してあげるのはあくまで義理なんだからね、勘違いしないでよ!」
「……お逸、貴女、本当に恥ずかしくありませんの?」
「なに云ってるのよ! 今回の超訳日記紹介分はちゃんと明治初期の日本でも“ツンデレ”っていう概念があった証拠なのよ! ここぞとばかりに強調しないで、何処を強調するって云うのよ? いや、ない!」
「ツンデレとやらの歴史的起源を語りたいなら、他のところでおやりなさい、他のところで! 大体“ツン”は兎も角“デレ”分はないのでしょう? 貴女にせよ、クララにせよ」
「……まあ、クララにも私にも流石に“世間体”っていうのがあるからね。ともあれ大久保三郎さんを巡るお話はまたの機会に」
「では、今回で舞台から退場する方にスポットを当てるという意味で、徳川家達公を」
「この後、家達公はイギリスに留学することとなり、後に一時日本を退去することになるクララとは約三年後の1880年、倫敦で再会することになります。
丁度この頃の駐英公使が森有礼氏だったこともあって、ロンドン郊外のクリスタル・パレスで4月24日に開かれたコンサートにクララ一家は招待され、もてなされることになります。ワールドワイドな活躍、よねぇ、本当に」
「徳川家達は留学から帰国後、華族令の発布と共に最高位の公爵となり、明治23年に貴族院議員、そして明治36年から昭和8年まで、30年にもわたり貴族院議長を務めます」
「家達様は元旗本らによる開拓事業にも心を砕き、これを支援したこともあって、一族や譜代大名、旧旗本からは“16代さま”と慕われました。
そして大正最大の疑獄シーメンス事件のゴタゴタの際には、家達様さえ首を縦に振れば総理大臣に、という事態まで行ったようです。もっともこれは徳川一族の総意として残念ながら実現しませんでしたけれど」
「あと戦前開催予定だった東京五輪招致委員会委員長、国際オリンピック委員会委員も家達は勤めていたそうですわ。“徳川家の後継者”にはそれだけのネームバリューがあり、実際に彼自身にも人柄が良かったのでしょうね」
「だけど、子供の頃には塀を登って叱られたり、クララのベットの上でピョンピョン跳ねまくっていたやんちゃさんだっただけどね」
「後に果たした功績と幼い頃の記録。それを同時に知ると感慨深いものがありますわね」
「で、その“将来”と云えば、私の弟の梅太郎に関する、心底から漏れた台詞があるね」
「ええ、“私の魔術師(チャーマー)”ですわね。
これは今風の言葉で言えば“ピエロ”でいいのかしら?」
「一般的な解説だと、次のような感じみたいね。
“チャーマーとは、ユーモアを使っていつも家族を楽しませる役割のことであり、家族を明るく、楽しませることで家族の重荷を解放しようとする”だって」
「……“後年のこと”を知っていると随分意味深ですわね」
「それについては、一歩一歩、この超訳日記上で紹介していくことでー」
明治10年5月21日 月曜日
今日は木挽町にとって、華々しい一日だった。
というのは、海軍省が気球を上げたのでこの町が有名になったのだ!
この大行事が行われる広場には午前九時前から大勢の人が集まり、なんと午後四時まで待っていた。
うちの露台から広場がよく見えるので、友達が大勢来た。
おやおさんとおすみは無論授業後も帰らず、勝夫人は梅太郎とお逸を連れて来られ、杉田家の盛と六蔵ちゃんが田宮アイソウという名の若い医学生を連れてきた。
それに富田夫妻、ひろさん、滝村氏を加えて、十四人ばかり集まった。トルー夫人も生徒を連れて来られ、下の縁側に陣取った。
二階でお茶やお菓子を回しながら、広場の群衆のことを笑ったり冗談を云ったりして時を過ごした。
「人が豆粒のようですね」
富田夫人がそう云うと、おやおさんは穏やかに肯き、返す刀でにっこりと微笑みながら、凄いことを云った。
「うふっふっ、本当に一グラムの砂糖にたかる蠅のようですわ」
「……おやお様、流石にその発言はちょっと黒い誤解を招くかと」
流石は大君(タイクーン)の孫だ。
群衆の中には役者が五人いたのだけれど、彼らは眉を人妻のように剃っているので、編み笠を目深に被っていた。
「あら、あの年配の方、刀を差してみえるのかしら?」
おやおさんが首を捻ったが、その老紳士が帯に差しているのは傘だった。
「私は気球より、周りの人たちを観察している方が面白いわね。滑稽なことが一杯だから」
とは、お逸の弁。
「でも、こんな私たちを観察している人がいるみたいよ」
隣の精養軒から双眼鏡やオペラグラスなどでこちらを見続けている人々がいるのに、私たちはようやく気が付いたので、簾を下ろした。
気球は本当に今まで見たこともないほど大きかった。
絹製――奉書袖にゴム塗りしたものだ――で、中に入れるガスは新橋から持って来たものらしい。
最初吊り籠に入れたのは砂袋だけだったけれど、やがて兵学校生徒が乗り、少し上がって行くと、群衆からどよめきや万歳や拍手が湧き起こった。それから彼が白旗を出し、気球はたぐり下ろされた。
乗る人を変えて、こんなことが数回繰り返され、何回かはとても高く上がった。
しかし六時にガスが抜かれて気球が萎むと、辛抱強く待ち、拍手喝采していた群衆は、満足げにくたびれた足を引きずって帰途についた。
同じ頃、うちのお客様も帰って行って、富田夫妻だけが残って夕食を召し上がった。
ヘップバン夫人と若夫人であるサム・ヘップバン夫人が午後、駅へ行く途中でお寄りになったが、サム・ヘップバン夫人は東京に越して来て、ミス・ヤングマンの旧宅にお住みになるそうだ。このように一日中お客が出入りしていた。
男女六人が祈祷会に来たが、外の騒ぎと中のお客のために、祈祷会は来週に延ばすことにした。
お終いに矢田部氏もみえて、十時までいた。相変わらず懲りない人だ。
ところで、若い男の子は本当にしようがない。
梅太郎は今夜泊まって行ったのだけれど、悪戯ばかりしていた。
<私の魔術師(チャーマー)>
明治10年5月23日 水曜日
今日もわくわくするような日だった。
岩倉具視公とその他のお偉方――東伏見宮公、寺島公、松方公など――の面前で気球が上がったのだ。
エンジンがガスを入れ始めたのは朝の五時だったので、道を塞ぐ人はまだあまりいなかった。この時刻に通る人は仕事に行く途中なので急いでいるからだ。
九時に、杉田夫人とお祖母様、およしさんと二人の坊ちゃん、それから感じのよい医学生、田宮氏がみえた。
間もなく人力車の一群がうちの門のところで止まり、徳川家の後継者である家達公が、滝村氏、大久保氏、勝海舟氏といった三人の随行を引き連れておいでになった。おこまつ、武夫、玄亀とお輝も一緒だ。
大鳥圭介氏は二人のお嬢さんと私の知らない女の友達大勢と、使用人を二人連れて来られたのだけれど、この人たちが来るとは考えてもいなかった。
全部で三十六人という多人数がこの家に集まったわけだが、実際に招待しておいたのは、勝一家と滝村氏のご家族と徳川公だけである。
気球そっちのけで、お客様のもてなしで大変だった。
徳川公のご一行はいつになく気を遣ってくださった。
ハカマなど日本の着物を堂々と着こなして、慇懃で穏やかで愛想良く、私たちを快くおもてなしできた。
大久保氏は特に私に優しくしてくださった。
間もなく気球に飽きてしまったので、皆私の後について家中を見て回ったが、とても面白かった。
母の部屋に入ると、わたしの部屋だと思ったらしく、あれもこれも細かく点検し始めた。
徳川公はベットに飛び乗って、軋む音を面白がっていた。
大久保氏は手鏡を取り上げて、自分の顔を熱心に眺め、勝氏と滝村氏は飾り棚に乗っている骨董品を一つ一つ調べていたが、滝村氏はその中のいくつかについて貴重な知識を提供して下さった。
「この数個の杯は孔子の時代の物ですね。実に素晴らしい」
ベッドの上に掛かっている勝安房守の写真や、私たちの描いた油絵と着色石版画、私の勉強した教科書にも目を留めていたが、最も皆様のお気に召したのは、刀の装飾品の置いてある戸棚だった。
それから午餐の時、大久保氏は名高い日本のお菓子、カステラの製法を送って下さると約束なさった。
少し歌を歌ってから、杉田ご一家が帰られ、すぐ後に徳川ご一行がお立ちになった。
お逸と梅太郎はもう少しいて、鞠遊びをたっぷりしてから家へ帰って行った。玄亀ちゃんとお輝ちゃんはおこまつは五時までいた。
どんな楽しい時にも終わりがあるように、この楽しい一日も終わってしまった。
しかし、日本人の友達と過ごした時間は私にとって、いえ私たち皆にとって、本当に素晴らしいものだった。
沢山のなんでもない出来事に、彼らの私たちに対する敬愛と友情が表れているからだ。
明治10年5月25日 金曜日
おやおさんとお逸が音楽の稽古を始めることになり、水曜と木曜に私が教えることになった。
我が友大久保三郎氏から手紙が来た。
カステラの作り方が入っており「もしよければうちへ来て作り方を教えてあげたい」と書いてあった。
とてもおどけた手紙だったけれど、カステラの作り方自体は難しいものではないようだ。
手紙の結び「敬具」の後の署名は「Sabooro Ohkubo」と綴ってあった。
明治10年6月2日 土曜日
今日うちで祈祷会を行った。
昼の一時過ぎに本当に懲りない矢田部氏がみえた。
「お浜御殿へ行きませんか」と誘ってきたのだけれど、私は無論行かなかった。
たとえ行けたとしても行く気はなかった。
「矢田部氏は、お宅のクララさんに会いたくて、頻繁に訪問しているんですって?」
そんな噂が宣教師仲間で広まっていると、トルー夫人から教えて頂いたので、母はすぐにそれを揉み消してくれたようだ。
明治10年6月4日 月曜日
徳川公が、九日か十日に出発する今度の汽船でイギリスに行かれることになった。
今日の夕方、うちで食事をした種田誠一氏という若い銀行家が、そう教えてくれたのだ。
大久保氏、三郎さんではない、弟の方の大久保業氏がお供としてついて行くそうだ。
明治10年6月5日 火曜日
今日はお逸と、日本の習慣や言い伝えについて長い間面白い話しをした。
例えば子供の歯が抜けるか抜くとした場合のことだ。
それが下顎の歯ならば、新しい歯が上に向かって生えるように家の屋根の上に投げ上げ、上の歯ならば、新しい歯が下に向かって生えるように家の下に埋めるのだという。
「私も無論そうしたわ」
それから若い人が急須の口から直接飲むと、生まれる子供の口が急須の口のような形になるという。
子供がカラスの「カーカー」という鳴き声を真似すると、口から嘴が生えるか、口の隅に角のようなものが出来ると云い伝わっているそうで、お逸は「私、それ、見たことあるのよ」と云う。
また若い婦人は結婚式の日に雨が降るといけないから、赤飯にお茶をかけないようにするのだそうだ。もっともお逸に云わせると「私はそんなこと気にしないけどね」だそうだ。
……お逸の判断基準が、親友ながら分からない。
人を自殺に誘う木があって、時に椿とアオキがそうだ。
申の日に髪の毛を切ると髪が赤くなる。
火鉢の上で爪を切ると困ったことが起きる。例えば、夜だったら猫の爪が生えてくる。
死人は北向きに寝かせるから、東から西に枕を向けて寝なくてはならない。
犬が夜吠えたら近所に死人が出る。
夢はいつも逆夢だから、貧乏になった夢を見たら金持ちになる。
枕の下に福禄人の絵をおいて寝るとお金が貯まる。これはお逸もやってみたそうだ。
それから帯についての言い伝えがあり、帯上げを締めている時に端がひとりでに結び目になったら、その結び目をきつくしてそのまま三日おく。
それから適当な人に、ケヤキだか樫だかどっちかの木の棒で三回叩いて貰い、その人の小指と親指で、三つ数える間にそれを解いて貰う。
すると帯を解いて貰った人はきっと金持ちになるから、どんな金額でも贈り物でもあげると約束できる、というのだ。
この他にも沢山お逸が話してくれたが、とても興味深かった。
明治10年6月7日 木曜日
最近日記を纏めて書くことが多いけれど、これは風邪で気分が悪いのと、仕事が忙しいからである。
勉強したり教えたりする時以外は無精になってしまい、軽い読書をするか何も考えないで坐っているだけだ。
明治10年6月8日 金曜日
今朝、お祈りの用意をしていると、人力車が二台やって来て、徳川公と大久保三郎氏が降りてきた。
さあ大変!
生徒達は客間から飛び出し、私は二階に駆け上がって綺麗な襟をつけ服装を整えた。
それから下へ降りて行って徳川公と握手し、大久保氏には少し冷たくお辞儀をした。
大久保氏は今日初めて握手をなさろうとしたのだが、私は説明できない片意地から、なんとも思っていない上杉氏や、あまり好きでない矢田部氏のような人には愛想良く快活な態度が取れるのに好意を持っている人には冷たくなったり照れてしまったりする。
こんな自分自身に愛想が尽きてしまう。
大久保氏がカステラのことに触れた時も、心からお礼を云いたかったのに、儀礼的なお礼の言葉を述べ、作るのを手伝いに来て下さることについては一言も口にしなかった。
それでいて実は何か云いたくてたまらなかったのに。
徳川公は月曜にイギリスに発つので、お別れを云いにいらっしゃったのだ。
イギリスに三年いて、それからアメリカに行かれるそうだが、イギリスの、古い栄光を誇るものを見た後でアメリカを見たら、あまりにも対比が強過ぎるだろうから、アメリカが先でないのは残念だと思う。
「いえ、わたしはアメリカが一番良いと思いますがね。イギリスより清潔で、何かにつけて素晴らしい。ロンドンなど、リージェント街以外はすべてひどいものですよ」
大久保氏はご親切にも合衆国を弁護して下さった。
徳川公は五人の随員、つまり大久保業氏、陽気な竹村氏、漢文の先生、着物の世話係、及び給仕人を連れて行かれる。
たいした随員だ。世界の各地を見て回ってさぞ素晴らしい時を過ごされることだろう。
ヴィクトリア女王にもお目にかかる予定だし、他の国々へ行けば貴族たちが歓迎してくれるだろう。何しろ彼は古い大日本の偉大で権威ある将軍家の末裔、三位徳川家達公なのだから。
彼がいつか祖先の地位を占めるようになるかもしれないという噂もある。
有名なご先祖の方々が荘厳に祀られている日光から帰られたばかりだ。
あまりお話はしなかったけれど、私たちに非常に興味をお持ちになったことは明らかなので、行ってしまわれるのは大変心残りがする。
「絽」という美しい絹地を贈り物として下さった。
大久保氏は、古代の太刀持ちのように徳川公の後ろに坐っていた。
今までココナッツケーキを作っていたが、これは美しい化粧鞄とともに、徳川公にお餞別として贈るつもりのものである。
明治10年6月9日 土曜日
今日は終日、生暖かい南風が吹き、皆だるくてぼうっとしていた。
風が吹くと、いつもこうなのだ。麻布にある開拓使の第三号試験場――とは云ってもその実態は物品売り捌き所なのだけれど――に行って野菜と花を買った。
それからお花を持って杉田家を訪ねると、とても親切にして下さった。
アディと私が先頭に立って丘を上り始めたら、丘の上に田宮氏と使用人たちが見えた。
私たちを見ると使用人は駆け下りて人力車を押してくれ、田宮氏は家人に告げに家に飛び込んだ。
およしさんが真っ先に、後から家中の人が出て来て、とても親切に気持ちよく迎えて下さった。
間もなく母と富田夫人が着いた。
およしさんは私をご自分の家へ連れて行って本を見せて下さった。
お蔵の二階にある盛の部屋に行ったが、その時ちょっとしたハプニングが起きた。
可哀想に六蔵ちゃんが階段から転げ落ちてしまったのだ。
でも、さぞ痛かったろうに、あまり泣かなかった。日本人は涙を恥じるように子供を教育しているからだ。
ウィリイが以前私たちが招かれた勝家の隣の、徳川家へ、我ながら見事に出来上がったと自負しているケーキと化粧鞄を持って行った。
徳川公は外出中だったけれど、大久保氏と滝村氏がいて、いろいろ話しをしたようだ。
徳川公と随員たちの名前を書いて貰おうと思って、ウィリイは署名帳を置いてきた。
明治10年6月11日 月曜日
今夜風がひどく、怖くてたまらないので眠れない。
神様がこの強風を支配しておられ、風はその指図に従っているまでだと分かってはいても、この強い神の僕の前では私の勇気は萎んでしまうのだ。
徳川公は今日船で出発される予定だったので、高官が二十二人くらいお分かれの挨拶に行ったが、この嵐では出発できないだろう。横浜はもっと風がひどいに違いない。
勝氏は今朝見送りに横浜に出かけたそうだ。
「父様、人込みがお嫌いなので、人目を避けてとても早くでかけたのよ」
お逸がそう教えてくれた。
勝氏は最近まで刀を差しておられ、お逸のお母様やお姉様方も外出する時はいつも鋭い短刀を持って歩いていたと云う。
明治10年6月12日 火曜日
今日授業が終わると、母は今度の金曜日に予定しているお客のために横浜へ買い物に行くことに決めた。
昨夜のひどい風による恐怖が嘘のように朝は晴れ上がっていたので、午後一時に出発した。
汽車の中で知人には誰にも会わず、とても眠かった。
横浜では店から店へせっせと飛び回って、沢山買い物をした。
ホール・アンド・ホルツにいた時、外を通りかかったのは他でもない、竹村氏ともう一人の随員を連れた徳川公だった。
しかし私たちは声を掛けたくなかったので、外に出なかった。嵐のため船が出航しなかったらしい。
ウィリイが徳川公たちの名前の書いてある署名帳を持って帰ってきた。
私の署名帳に大久保氏は丁寧な英字と漢字で「日本東京大久保三郎、Sabooro Ohkubo」と書いてあるのに対して、ウィリイのにはカナで殴り書きしてあったので、我が兄貴はこの侮辱に憤慨している。
明治10年6月13日 水曜日
「家達様は横浜の大きなホテルに泊まっていにして、大勢の人が会いに行っているらしいわよ。もっとも面会を許されるのは、貴族や高い位の人たちだけど」
お逸が今日もまた内部情報を教えてくれた。
昨日の官報に載ったインタナショナル・ホテルの客の中に、徳川家達公と随員、K・竹村氏とN・大久保氏の名前があった。
これもお逸の弁で“家達公の先代の顧問だった”お父様は、お別れを述べに早朝の汽車で行かれたそうだ。
火曜日に徳川公を見た話をすると、お逸は私たちが勿論ホテルヘ行ったのだと思ったらしい。
明治10年6月14日 木曜日
午前中に滝村氏が、徳川公を乗せた船が昨日出航し、この若き友に関してはすべて順調に行っていると知らせにおいでになった。
そして徳川公からの挨拶と、化粧鞄のお礼をお伝えになったけれど、ケーキのことは何も云わなかった。
多分大久保氏が側にいたとすれば、滝村氏はあまり召し上がられなかったのではないかと思う。
さて閣下は行ってしまわれた。
今後この方の消息は大久保氏を通じて伺うことになるだろう。
【クララの明治日記 超訳版解説第31回】
「アンタのことなんてなんとも思ってないんだから、握手だってしてあげないんだから!
カテスラの作り方を教えてくれたって、感謝してあげるのはあくまで義理なんだからね、勘違いしないでよ!」
「……お逸、貴女、本当に恥ずかしくありませんの?」
「なに云ってるのよ! 今回の超訳日記紹介分はちゃんと明治初期の日本でも“ツンデレ”っていう概念があった証拠なのよ! ここぞとばかりに強調しないで、何処を強調するって云うのよ? いや、ない!」
「ツンデレとやらの歴史的起源を語りたいなら、他のところでおやりなさい、他のところで! 大体“ツン”は兎も角“デレ”分はないのでしょう? 貴女にせよ、クララにせよ」
「……まあ、クララにも私にも流石に“世間体”っていうのがあるからね。ともあれ大久保三郎さんを巡るお話はまたの機会に」
「では、今回で舞台から退場する方にスポットを当てるという意味で、徳川家達公を」
「この後、家達公はイギリスに留学することとなり、後に一時日本を退去することになるクララとは約三年後の1880年、倫敦で再会することになります。
丁度この頃の駐英公使が森有礼氏だったこともあって、ロンドン郊外のクリスタル・パレスで4月24日に開かれたコンサートにクララ一家は招待され、もてなされることになります。ワールドワイドな活躍、よねぇ、本当に」
「徳川家達は留学から帰国後、華族令の発布と共に最高位の公爵となり、明治23年に貴族院議員、そして明治36年から昭和8年まで、30年にもわたり貴族院議長を務めます」
「家達様は元旗本らによる開拓事業にも心を砕き、これを支援したこともあって、一族や譜代大名、旧旗本からは“16代さま”と慕われました。
そして大正最大の疑獄シーメンス事件のゴタゴタの際には、家達様さえ首を縦に振れば総理大臣に、という事態まで行ったようです。もっともこれは徳川一族の総意として残念ながら実現しませんでしたけれど」
「あと戦前開催予定だった東京五輪招致委員会委員長、国際オリンピック委員会委員も家達は勤めていたそうですわ。“徳川家の後継者”にはそれだけのネームバリューがあり、実際に彼自身にも人柄が良かったのでしょうね」
「だけど、子供の頃には塀を登って叱られたり、クララのベットの上でピョンピョン跳ねまくっていたやんちゃさんだっただけどね」
「後に果たした功績と幼い頃の記録。それを同時に知ると感慨深いものがありますわね」
「で、その“将来”と云えば、私の弟の梅太郎に関する、心底から漏れた台詞があるね」
「ええ、“私の魔術師(チャーマー)”ですわね。
これは今風の言葉で言えば“ピエロ”でいいのかしら?」
「一般的な解説だと、次のような感じみたいね。
“チャーマーとは、ユーモアを使っていつも家族を楽しませる役割のことであり、家族を明るく、楽しませることで家族の重荷を解放しようとする”だって」
「……“後年のこと”を知っていると随分意味深ですわね」
「それについては、一歩一歩、この超訳日記上で紹介していくことでー」
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