琥珀の月

桜 朱理

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1巻

1-3

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 血の繋がりだとか、家族のきずなだとか、そんなものはどうでもよかった。
 どうしようもないほどに美咲が欲しいと思った。
 結局、距離や時間なんて関係なかったのだ。きっと、自分は何度だってこの義姉に恋をする。
 だからもう、美咲が敦也以外の誰も見ないように、その身も心も、食らい尽くすことにした。
 敦也と美咲を繋ぐもの――それは、どろりと濃く、赤い色をした血のきずなかもしれない。
 それすらも愛おしいと思う自分は、きっと狂った獣。
 気を失った美咲を、敦也はそっと抱きしめる。

「……み……ず……」

 抱き寄せると美咲が泣きすぎてひどくかすれた声で、呟くのが聞こえた。
 気を失ったとばかり思っていた美咲の呟きに、敦也は腕の中の美咲の顔を覗き込むが、彼女は目を閉じている。

「美咲?」

 呼びかけても返事はない。一晩中、繰り返したキスに赤くれた唇。泣きながら声を上げ続けたせいで、声がれたのだろう。
 敦也もひどく喉がかわいていた。
 水を取りに行こうと腕の中の美咲のひたいにキスをして、敦也は美咲をベッドに横たえようとしたが、そのベッドがひどい有様になっていることに気付いた。
 一晩中、ずっと激しく、執拗しつように抱き続けたのだ。当然の結果とも言える惨状だった。
 二人分の体液を吸い込んだシーツは濡れて、足元でぐちゃぐちゃに丸まり、マットレスはずれていた。ベッドの下には毛布と脱ぎ散らかした二人分の服が落ちている。
 それに、敦也の体も美咲の体も濡れた体液が乾き始め、ひりつき強張こわばる感じがした。
 このまま横になるのは無理そうだと、敦也はまだ比較的汚れていない毛布を拾い上げて美咲の体を包み込む。
 部屋の中は、綺麗好きな美咲らしく整理整頓されていた。適当に開けたチェストの中に替えのシーツを見つけて取り出すと、ほのかに優しい香りがした。美咲が勤めている会社が取り扱っているものだろう、チェストの中にはシーツ類と一緒にポプリが入れられていた。
 毛布で包んだ美咲を起こさないよう、敦也はまるで壊れ物を扱うみたいにそっと抱き上げ、ラグの上に静かに横たえる。
 疲れ切っているのか、美咲の意識が戻ることはない。
 手早く汚れたシーツをはがすと、取り出した替えのシーツをベッドマットにゴムバンドで止め、ずれていたマットレスの位置を直す。
 ベッドを整えると、再び美咲を毛布に包んだままベッドに寝かせた。
 汗で濡れた前髪がひたいに張り付いているのを、指先でいてかき上げる。しっとり絡むその感触が、気持ちよかった。
 今までに付き合いのあった女たちがこんな敦也の姿を見たら卒倒するだろう。
 甲斐甲斐しく事後の世話を焼き、愛おしげに相手の髪をく自分なんて、敦也にだって想像出来なかった。
 美咲の髪を、いつまでも触っていたいと思ったが、敦也は自分の体のべたつきが気になり、シャワーを浴びるためにベッドを離れた。
 シャワーを浴びて、濡らしたタオルで美咲の体を綺麗にし、目が覚めた時に水がすぐ飲めるようにペットボトルをベッドサイドに用意する。
 ここまでしても、美咲はまだ目を覚ます気配はなかった。
 人心地がついた時、ベッドの下で美咲のスマートフォンが鳴っているのに気付いた。聞いたことのないメロディラインに、日本のポップスだろうとあたりをつける。
 スマートフォンを拾い上げると、画面には『恭介』と表示されていた。
 ――美咲の恋人か。
 敦也はスマートフォンの画面に表示される名前を、無感動な瞳で見つめる。
 繰り返し何度も奏でられるメロディは、やがてふっつりとやんだ。
 敦也は美咲のスマートフォンを操作すると、恭介からの何件かの不在着信と、メールが来ていることを確認する。
 それらを数秒見つめた後、スマートフォンの電源を切って部屋の隅に放り投げた。そして再び美咲を抱き寄せる。
 腕の中に囲い込んだ美咲を、敦也はもう手放すつもりはなかった。
 だから、たとえ美咲に恋人がいても構わない。
 美咲が誰かのものだというのなら、奪うまでだ。
 どんな手を使っても、追い詰めることになっても、美咲が欲しかった。


      ☆


 美咲は今が夜なのか、昼なのか、時間の経過がよくわからなくなっていた。
 一度、空が明るくなった気がしたが、それも確かではなかった。
 過度に与えられる快楽に何度か意識を失い、目覚めるたびに敦也の腕の中でまたあえがされた。
 深々と突き上げられ、何度目かなんて数える気にもならないほど快楽の波に襲われ、美咲はイッた。

「……ぅうん……はぁ……」

 もうため息のような声しか出なくなり、揺れる視界に映るのは、琥珀こはく色の獣のような綺麗な敦也の瞳だけだった。目が合うたびに何故か満足そうにわらう敦也に、甘く口づけられる。
 その残酷な甘さに、行為の間中何度も泣いた。気まぐれに与えられる甘さに、心臓がひどい痛みを訴えていた。
 一方的に翻弄ほんろうするだけなら、甘さなど与えるなと思う。
 与えられる甘さに、何かを期待しそうな自分がいる。
 ただの錯覚だと思うのに、甘い口づけが毒のように美咲の心をむしばみ、理性を崩壊させた。

「……っ」

 美咲の体の中にあるたかぶりが膨らみ、体の奥に断続的に敦也の精が放たれる。
 ぼんやりとした意識の中で、それを感じた。
 ――また、中に出された。
 脱力した体から、敦也がゆっくりと離れていく。
 二人分の体液があふれ、美咲の内腿にどろりとした流れを作る。シーツは互いの体液で湿って、透けるほど濡れていた。
 敦也は一切避妊をしなかった。二週間前も今夜も――二週間前のあの時は、生理直前だったから妊娠の危険はなかったが、今回はどうだろう。
 妊娠についての恐怖はあったが、今の美咲には、それさえも遠い現実だった。
 何も考えられなかった。ただ、敦也が与える快楽に反応することしか出来なかった。
 意識が朦朧もうろうとし、心身ともに疲れた体では指先一つ動かすのさえ億劫おっくうだった。
 喉がひりついて、痛いほどにかわきを覚える。

「…………み……ず……」

 あえぐように呼吸をして、無意識に呟いていた。泣き濡れた瞳に、見慣れた部屋の天井がおぼろげに映る。熱を持ってれたようになっているまぶたが重く、美咲はまぶたを閉じた。
 多分、また束の間意識を失っていたのだろう。次に気付いた時にはベッドヘッドにもたれて座る敦也の胸の上に、力の入らない体を抱え上げられていた。
 二人分の体液に濡れていたシーツはいつの間にか取り替えられ、べたついていた下肢もさらりと乾いていた。
 敦也が綺麗にしてくれたのだろうかと、ぼんやりと考える。
 美咲が目覚めたことに気付いたのか、敦也が冷えたミネラルウォーターのペットボトルを差し出してきた。
 激しい喉のかわきを覚えて手を伸ばす。しかし、細かく震える指先は力が入らず、せっかく差し出されたペットボトルを受け取ることすら出来ない。
 敦也の胸の上に、ぱたりと美咲の指先が力なく落ち、もがくように震えた。
 そんな美咲の様子に、敦也が口元にペットボトルを運んだ。見上げると、敦也が飲めというようにあごを動かす。飲ませてくれるのだろうかと戸惑いながら口を開けると、そっと慎重に水が美咲の喉に流し込まれた。その冷たい刺激に、自分がどれだけ喉がかわいていたのか自覚した。
 美咲は与えられた水を一気に半分ほど飲み込んだ。乾いた体に水分が行き渡る。
 うまく飲み込めなかった水が、一筋、二筋、喉から胸元まで流れていき、その生ぬるい冷たさが気持ちよかった。
 ホッとため息のような、吐息が零れる。
 美咲が満足したのがわかったのか、敦也はペットボトルを横に置くと煙草たばこを取り出し、口にくわえた。
 火をつける前に、脱力して今にも崩れそうな美咲の体をもう一度胸の上に抱え直し、肩に腕を回して支えた。
 敦也は何も言わず、肩に回した方の手を美咲の長い黒髪に絡めながら、煙草たばこに火をつける。
 奇妙に穏やかな沈黙が二人の間に流れた。
 敦也が愛飲する煙草たばこからくゆる紫煙しえんが、二人の沈黙を包む。
 美咲はもう疲れすぎていた。何も考えられなかったし、考えたくもなかった。
 寄りかかった敦也の胸から規則正しく打つ鼓動の音が聞こえてきて、眠気を誘われる。
 うとうととまどろむ美咲の髪を、静かに敦也がいた。その穏やかで優しい触れ方に、美咲の意識は静かに深く、眠りへと落ちていく。


 敦也の吸う煙草たばこの匂いに刺激され、心の奥底で眠らせたはずの古い記憶が夢として美咲の中に浮かび上がってきた。


 自室で雑誌を読んでいた美咲は、極微かに聞こえてきたピアノの音に顔を上げた。
 もうすぐ日付が変わろうとする時間。
 また敦也が防音の練習室の窓を開けたまま、ピアノの練習をしているのだろう。
 美咲たちの家は住宅街の外れの丘の上にあるため、周囲は閑散としていて、隣近所とも距離がある。だから、こんな時間に窓を開けてピアノを弾いていても、苦情がくることはない。
 そのせいか、敦也はたまにこうして深夜に窓を開けたままピアノの練習をすることがあった。
 特に両親が留守にしている夜は、必ずと言っていいほどそうしていることに美咲は気付いていた。今夜も両親はいない。
 美咲は部屋の電気を消すとそっと窓を開けた。
 窓を開けるとピアノの音がよりはっきりと聞こえてきて、美咲は窓辺に寄りかかり、その音に耳を澄ませる。
 美咲は、敦也本人は苦手だったが、敦也の弾くピアノの音は好きだった。
 敦也のピアノを聴くたびに、これが才能なのかと思う。
 敦也の音は本人の気性通り、鋭く熱い。触れれば血が出るのではないかという激しさと、繊細せんさい緻密ちみつな計画性を矛盾なく併せ持っている。
 中学三年生にしてすでに様々なコンクールで絶賛され、いくつもの賞を受賞していた。
 コンクールで弾く熱く激しい音も嫌いではなかったが、美咲は今夜のような夜にひっそりと奏でられる穏やかな優しさを含んだピアノの音の方が好きだった。
 だから敦也が時々、深夜にピアノを弾いている時は、こっそりと窓を開けて聴いていた。
 誰も知らない深夜のリサイタル。敦也も知らない美咲だけの秘かな楽しみ。
 暗闇の中、目を閉じて敦也のピアノの音に耳を傾ける。
 最近、敦也のピアノの音が変わった。今までとは違うつやと深みが音に加わり、どこか官能的になった響きは、ますます美咲を惹きつけた。
 敦也の変化が何に起因するものなのか、美咲にはわからない。
 わからないが、嫌な変化ではないと思う。
 深く静かに響く敦也の音が、美咲を包む。
 だけど、美咲だけのこの真夜中の演奏会は、もうすぐ聴けなくなる。
 来年、中学の卒業とともに、敦也は留学することが決まっていた。これからは、こんな風にこっそりと敦也のピアノが聴けなくなると思うと、寂しかった。
 敦也は一時間ほど、様々な曲を気まぐれに弾いていた。美咲はただ静かに奏でられる優しく、どこか甘い音を聴き続けた。
 やがて、ピアノの音が聞こえなくなり、今夜の演奏が終わったことを知る。
 美咲はまた静かに窓を閉めた。
 時刻はとっくに日付が変わっていた。もう寝ようと就寝の準備をしていたが、喉がかわいていることに気付いて、美咲は音を立てないように部屋から出て、階下の台所へ向かった。
 階段を下りてすぐの、敦也専用の練習室の扉が半分開いたままになっている。閉め忘れたのかと、何の気なしに中を覗いた。
 電気のついていない薄青い闇に包まれた部屋の中、ピアノの前に敦也が座っていた。
 敦也が吸っている煙草たばこの小さな赤い火がともっているのが、目についた。家の中、隠すでもなく吸う煙草たばこ紫煙しえんが静かにたなびいている。
 演奏の後の疲れなのか、どこか気だるげに煙草たばこを吸う敦也には、未完成な少年としての透明さと、ぞくりとしたたるようなアンバランスな色気があった。
 その静かなたたずまいに美咲は目を奪われ、心臓のリズムが狂った。
 そして、不意に。本当に不意に、美咲は最近の敦也の音の変化の理由を悟った。
 敦也はきっともう、男になったのだろう。性別としての男ではなく、本当の意味で――
 この綺麗な義弟が触れた誰かがいる。その誰かが敦也の音につやと深みを与えたのだと思うと、美咲の胸を鋭い痛みが走った。
 あまりに鋭く走った痛みに、呼吸さえもうまく出来なくなる。
 美咲は着ていたパジャマの胸元を、きつくつかんだ。
 ――何故、自分はこんなにも混乱しているのだろう?
 この綺麗な義弟に恋人の一人や二人いたところで不思議ではない。なのに、何故か自分は泣きたくなるほど動揺していた。
 不意打ちの嵐のような混乱に、どうしていいのかわからなくなる。
 その時、気だるそうに煙草たばこを吸っていた敦也が、美咲の視線に気付いたのか、ふと顔を上げた。
 暗闇の中、はっきりと敦也の蜜色に輝く瞳と目が合った。
 入り口で呆然と立ちすくむ美咲の姿を確認して、敦也の琥珀こはく色の瞳が一瞬驚きに見開かれ、次にすがめられる。
 まるで獲物を見つけた野性の獣のように、獰猛どうもうな視線でこちらを見つめる敦也に、美咲の心臓はさらにリズムを乱し、耳鳴りのようなおかしな音が体の中に響く。
 ぞくり、と背筋を恐怖にも似た何かが駆け上がった。
 そして次の瞬間、美咲はそこから逃げ出した。何も言わずに身をひるがえし、自分の部屋に駆け込んだ。
 ――逃げなければと思った。今、逃げなければ……
 わけもわからない衝動に駆られ、美咲は敦也の前から逃げ出していた。
 安全な自分の部屋の中で、美咲はずるずるとドアを背にして座り込む。
 胸は変わらず鋭く痛み、狂ったリズムを刻んでいた。背筋を冷たい汗が伝い落ち、息が上がる。
 自分の中で巻き起こった嵐のような感情に、美咲は対応出来なかった。
 驚愕きょうがくとも、恐怖とも違う何かが、美咲の中でうずを巻く。
 それが何か、美咲にはわからなかった。わかりたくなかった。
 その感情のみなもとを追求してはいけないと、本能が告げている。
 だから、美咲は逃げ出した。とらわれる前に。
 閉じた眼裏まなうらに何故か敦也の綺麗な琥珀こはく色の鋭い瞳が浮かび、美咲の混乱に拍車はくしゃをかける。
 その夜、美咲は一晩中、わけのわからない衝動に耐えて、震え続けた。
 でも今なら、あの時、覚えた感情の意味がわかる。


 唇に触れる感触に美咲が重いまぶたを開くと、目の前には敦也の綺麗な琥珀こはく色をした獣の瞳があった。
 間近で見つめる蜜色の瞳は、何度見てもやっぱり、とても綺麗だと思った。
 美咲の濡れた漆黒の瞳と、敦也の獣のような琥珀こはく色の瞳の視線が絡み合う。
 ――きっと、あの時、美咲はこの義弟に、恋をしたのだ……
 美咲にとって敦也への恋心は、決して開けてはならないパンドラの箱だった。
 しかしそのパンドラの箱は、童話のように最後に残るのが優しい希望ではなく、絶望でしかなかった。
 だから、美咲は自分さえもだまして、この恋を忘れることを選んだ。
 何も気付かないふりをして、すべてを心の奥底にしまって頑丈な鍵をかけて封印した。
 この十年で、美咲は自分の中にパンドラの箱があることさえも、忘れていた。
 両親の三回忌に敦也に再会するまでは――
 思い出した過去に、美咲はもう自分を誤魔化すことが出来ないことに気付いた。
 あの夜、レッスン室で敦也の前から逃げ出してから、二人の距離は決定的に変わった。
 それまでは、微妙な苦手意識はあったものの、敦也のことは大事な家族だと思っていた。
 時々、敦也が自分にそそぐ視線に不穏なものを感じても、ずっと義弟だと思っていた。
 初めての出会いの日につかんだ、小さな手のひらの感触を覚えていたから。
 だけど、あの日、美咲は敦也が一人の男でしかないことに気付いた。気付かされた。
 姉弟きょうだいと言っても、二人には血の繋がりはない。
 今まで義弟だと思っていた存在が、一人の男に変わった瞬間、美咲を襲ったのは激しい混乱だった。
 何より自分が、敦也を一人の男として意識したことに衝撃を受けた。
 ――義弟なのに……どうして……
 思春期特有の感受性の強さと過敏になっていた神経は、湧き起った感情にたまらない罪悪感をもたらした。
 美咲は気付いてしまった事実に戸惑い、湧き起こった衝動に対処出来ずに混乱し、敦也を避けることしか出来なかった。
 そして、敦也は、この綺麗な義弟は、まるで美咲の混乱をわかっているように、女たちとの付き合いを隠さなくなった。
 自宅ですれ違う時に、ほのかに香る甘い香水の匂いや、えり元から見えるキスマーク。
 両親は気付いていないようだったが、敦也は美咲の前でだけ、それらを見せつけるようになった。
 それだけではなく、街で敦也が女と一緒にいるところを見かけるようになった。
 年上だったり、同年代だったりといつも違ったが、共通していつも華やかで女性らしい体つきをした女たちを連れて歩いていた。遊び慣れた空気をまとった、美咲とは何もかもが正反対の女たち。
 そして敦也は、美咲の目の前で連れ歩く女たちと濃厚に絡んでみせたりした。
 まるで見せつけるような敦也の態度に、美咲はますますどうしていいのかわからなくなった。
 知りたくもなかった義弟の、敦也の男としての顔。
 まだ、まともに恋愛をしたこともなかった美咲には、敦也の毒気をはらんだようななまめかしさは、刺激が強すぎた。
 敦也に強く惹かれれば惹かれるほど、十代の少女の潔癖さで敦也のだらしなさを嫌悪けんおした。
 相反する感情は美咲の中でうずを巻き、吐き出す場所もないまま、敦也に対する反発を生んだ。
 それは敦也が留学するまで続き、美咲を苦しめ続けた。
 敦也が留学し、二人の距離が物理的に離れたことで、美咲はようやく安寧あんねいを得た。
 もう敦也と女たちが絡む姿を見なくて済むと思うと、胸の痛みもうず巻く感情も静かに薄れていく気がした。
 そして、流れる月日の中、美咲は自分の中にある感情にふたをして、何もかも忘れることを選んだ。

「嫌いよ……あんたなんか……」

 恋をした。二つ年下のこの琥珀こはく色の綺麗な獣の瞳をした義弟に、忘れるしかなかった恋を――
 れることを知らない涙が、また美咲の頬を濡らす。
 ――思い出したくなんてなかった。自分の中にパンドラの箱があることなんて……
 一度、開いてしまったパンドラの箱は、もう二度と閉じることは出来ないのだ。
 その存在を忘れることも、もう出来はしない。
 十年近い時を経て自覚した恋は、もう美咲の意思だけでは止められなかった。

「知ってる」

 敦也は美咲の涙に口づける。

「大……嫌い……」

 泣き続ける美咲を敦也がそっと抱き寄せた。

「それも、知ってる」

 耳元でささやく敦也の声も仕草も、今は美咲を傷つけるようなものではなく、ひたすら優しい。
 ひどい男だ。本当にひどい男だと思う。
 どうして放っておいてくれなかったのだ。
 そして、何故、今になってこんなに優しく触れるのだ。
 強引に奪われ、翻弄ほんろうされるだけなら、敦也を憎むことも出来た。
 それなのに、時折、敦也が見せる甘さと優しさが美咲の心をかき乱す。
 敦也の長い指先が、また美咲の黒髪を絡めるように触れる。
 抱き寄せられた腕の中、さらりと乾いた敦也の肌からは煙草たばこの匂いと、美咲が普段使うボディソープの香りがした。
 まるでいたわるような優しさで、震える体を抱きしめられる。
 疲れ果てて、身動きもままならない重い体を、大きな手のひらが慰撫いぶするように包む。

「き……らい……。大き……らっい……」

 頑是がんぜない子どものように、美咲は泣きながら呟き続けた。
 敦也は何も言わなかった。ただ、美咲の肩を、背をあやすような仕草で撫でる。
 痛みがあった。きりきりと引き絞られるような胸の痛みが。
 あの当時、パンドラの箱の底に封じ込めるしかなかった痛いほどの恋心が、美咲の胸に迫る。
 ようやく解放された恋心は、美咲の中で再び嵐のようにうずを巻き、荒れ狂っていた。
 嫌いだと思った。大嫌いだと思った。美咲の何もかもを強引に奪い、破壊する男なんて。
 なのに、同じだけの強さで、いや、それ以上の強さで思った。
 ――この義弟が欲しい。
 この野生の獣のような綺麗な義弟が欲しいのだと、忘れたはずの恋心が訴える。
 荒れ狂う想いに息が上がり、うまく呼吸が出来なくなり、酸欠で眩暈めまいがした。
 苦しかった。痛くて、苦しくて、切なくて、どうしていいのかわからない。
 拍動する鼓動に合わせるように、指の先がしびれ、肌をひりつかせる。
 こらえても、こらえられないほどに、すぐ傍にいる義弟への想いがあふれ出す。
 こんなにも強く激しいものが自分の中にあったことを、忘れていた。忘れていたかった。
 ――でも、もう誤魔化せない。
 顔を上げると、けつくように自分を見つめる敦也の眼差しがあった。
 その瞳の中に、自分と同じだけの渇望がある気がした。ただの錯覚かもしれない。
 敦也を好きになっても、きっと美咲は傷つくだけだ。それがわかっているのに、この衝動を抑えることが出来なかった。
 美咲は自分から敦也にキスした。触れるだけのつたない口づけ。

「好き……」

 呟きは音になる前に、敦也の口の中に消えた。
 月を探していた。綺麗な琥珀こはく色をした月を――
 二週間前のあの夜、美咲をなぐさめてくれた甘い色をした月はどこにもない。
 ただ触れるだけのキスに、体中が心臓になったようにうずいた。
 パンドラの箱を開いた美咲は、この義弟が泣きたくなるくらいに欲しかった。
 そっと静かに触れ合わせていた口づけを解く。
 吐息が触れ合う距離にあるのは綺麗な琥珀こはく色の獣の瞳。
 敦也の瞳の中にある蜜色の光が、美咲が探していた月と重なった。
 美咲ががれるような想いで探していた月。それはあの夜の最後に、綺麗だと思った敦也の琥珀こはく色の瞳だったのだと気付く。
 あの夜、美咲の脳裏に強烈な快楽とともに深く、深く、刻みつけられた琥珀こはく色。
 今その瞳に映る美咲の顔は、見たことのない女の顔をしていた。
 いつまでも眺めていたいような、甘い蠱惑こわくを宿した色から目を離せない。でも……

「もう、い……いでしょう?」

 意識とは別のところで、言葉が涙と一緒に零れ落ちた。
 美咲が零したそれは、二人の間にあった沈黙に極小さな波紋を残して、溶けて消えた。
 敦也が美咲の言葉にわずかに目をすがめ、視線だけでどういう意味だと問うてくる。

「もう、満足でしょ? だか……っら、……」

 パンドラの箱の底に閉じ込めていた美咲の心は、この綺麗な義弟が欲しいと暴れている。


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