遊ぶ鬼

桜 朱理

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遊ぶ鬼

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 私は囚われた――

 いつから自分の中にそんな願望があったのか。
 もう覚えてはいない。
 
 支配されたい――抗う術を奪われ、誰かに征服されること望む。

 プライドも、人格も、命すらも差し出してもかまわない。
 だから、とことん私を辱め、貶めて、這いつくばらせてほしい。
 自分が秘かに抱えるこの欲望の形が、普通とは大きくかけ離れていることは理解していた。人に知られれば、軽蔑や蔑視の対象になるものだということも。
 これまでの三十五年の人生の中で、決して口に出すことは叶わなかった被虐の欲望。
 この渇望ともいえる願いを、満たしてくれるものなど、一生涯現れないものと決めてかかっていた。
 あの人に出会うまでは――

「あんた本当にしょうもない男だね」
 ひどく冷たい声音が頭上から降ってくる。後ろ手でネクタイに手首を縛られ、床に這うようして、主に奉仕していた間宮幸人はびくりと肩を跳ね上げた。
「下手くそ」
 肩を容赦なく蹴り飛ばされた。両手が後ろで縛られているせいで、幸人はバランスを崩して無様に転がった。
「つまんない」
 ぽつりと呟く声はまるで遊びに飽きた子どもそのもので、幸人は怯えた。
「すみません! すみません!」
 慌てて体勢を戻した幸人は床に額づいて、許しを乞うた。だが、幸人の主は何も言わずに豪華なソファの上に座り直した。
 束の間、二人の間に沈黙が落ちる。
 幸人は主の不興を買った恐怖にただ震えた。あまりの不安に床の一点を見つめ続け、顔を上げることすら出来ない。
 何が悪かったのかと必死に今の自分の行動を顧みる。だが、何が悪かったのかわからない。
 ――イヤダ……私に飽きないでくれ……嫌われても、憎まれても構わない。だが!!
 怯え、絶望する幸人の顎の下に、真っ白な足袋を履いた主の足が差し込まれ、顔を持ち上げられた。
 黒地に艶やかな柄の小紋の裾がめくれ上がり、主の脛が晒される。
 白く滑らかな陶器のようなふくらはぎが、部屋の読書灯に照らされて淡い光を放っているように、幸人には見えた。
 屈み込んだ主が幸人の顔を覗き込んでくる。真っ黒な瞳に見つめられ、幸人はごくりと喉を鳴らす。魅入られたように、幸人は主から視線を離せない。いや、実際、幸人はこの主に魅入られている。初めて出会ったあの時から――
 主が可愛らしく小首を傾げた。さらりと長い黒髪が主の動きに合わせて、流れ落ちる。
 怯える幸人の顔をまじまじと眺めて、主がにいと嗤った。
 真っ黒な瞳が嬉々として輝き、紅を塗った唇が意地悪な形に釣り上がっている。
 そんな顔をしていても主はとても美しい。
 長くさらさらとした黒髪。青い静脈が透ける滑らかで白い肌に、紅を塗った赤い唇。全体的に小づくりな顔のなかで真っ黒な瞳だけがくっきりと大きい。年齢不詳の美貌は稚けなくも見えるが、唇の右下にある黒子が主の色気を壮絶に増している。
 顔だけ見れば男にも女にも見える中性的な美貌。パッと顔だけ見ても主の性別がどちらかはわからない。ましてや今夜は女性ものの艶やかな小紋を身に着けている。
 幸人が金に糸目を付けずに買い与えた一級品。こんな行為で汚すなんて、着物への冒涜と言われても仕方ない。だが、幸人の主にはこの上なくよく似合っていた。
「情けない顔」
 くすくすと主が楽し気に笑い声を立てる。
「……遊鬼さま」
 嗤う主に幸人は自分が見捨てられなかったことを知って安堵する。
 深い吐息が幸人の唇から零れて落ちた。
「あんたは本当に泣き顔が可愛いね。虐めてもっと泣かせたくなる」
 その言葉に歓喜する自分は、やはりどこかおかしいのだろう。
 主――遊鬼は満足げに頷いて、幸人の肩に踵を乗せた。足が大きく開いて、着物の裾がさらに大きく乱れて、太ももまで露わになる。
「舐めて。気持ちよくして」
 踵で幸人を引き寄せて遊鬼が命じてくる。
 引き寄せられるまま幸人は、遊鬼の着物の中に顔を埋めた。ムッとした精臭が鼻先に香る。
幸人の唇に遊鬼の陰茎が押し付けられた。
 先ほどまで幸人が奉仕していたため、その場所は淫らに濡れていた。
 豪奢で艶やかな女ものの和装の中、男の証が存在を主張し勃ち上がっているさまは、ひどく淫靡だった。
 遊鬼のそれは同じ男のものとは思えないほどにほっそりとして、綺麗な色をしている。
 だからだろうか。口で奉仕することにも躊躇いもない。
 幸人の唾液と先走りに濡れた薄桃色の亀頭に口づける。先走りを零す鈴口をちろちろとくすぐりに亀頭全体に唾液をまぶすように舐め回し、まろみを帯びた先端部分を口に含む。
「はぁ……ん」
 頭上で遊鬼が満足そうな吐息をついて、腰を跳ね上げた。
「ぐう…ぅ……」
 口に含んでいたものが喉奥に突き立てられ、幸人は苦しさにえづく。反射的に口を閉じたくなったが、遊鬼の陰茎に歯を立てるわけにはいかず、幸人は必死に口を大きく開いて、彼を奥深くまで迎え入れた。
 カリ首から裏筋にかけてねっとりと舌を絡めてしごき、溢れてくる先走りを音を立てて啜ってみせる。口の中にえぐみのある苦い味が広がった。
 唇を窄め亀頭部に舌を張り付かせながら、頭をスライドさせる。
 深く長いストロークで遊鬼のほっそりした竿を舐り、ねっとりと亀頭をしごく。唇を上下に動かすたび、湿った淫音が絶え間なく響いた。
「はぁ……ん……ぁ」
 頭上で遊鬼が甘やかに声を上げて、幸人の髪に指を潜り込ませた。整えていた髪を、くしゃくしゃとかき回し、幸人の頭を鷲掴んだ。
 もっと快楽をよこせと無言で命じてくる遊鬼は、幸人の頭を押さえて乱暴に腰を揺らし始めた。
 そこに遠慮も配慮もない。幸人の頭を固定した遊鬼は、自分の感じるままに腰を激しく蠢かす。
「うぶ……ぅ……ぐぅ……!」
 ぐちゃぐちゃと音を立てて喉奥を突かれ、口腔でしごきたてるように性器が幸人の唇に出し入れされる。
 オナホのように扱われ、息苦しさに幸人の視界が涙で滲む。間抜けなうめき声が、開いた唇から漏れるが、遊鬼の動きが止まることはない。
 幸人は必死に唇を開き、遊鬼の快楽に奉仕する。
 口角から飲み込み切れない唾液と先走りが溢れて、流れを作る。
「あぁ! いぃ! イク!」
 より深く幸人の口の中に腰を突きいれた遊鬼が感極まったように声を上げた。遊鬼の肉棒が気持ちよさそうに震えて、鈴口から濃厚な白濁が、幸人の喉に直接注ぎ込まれた。
 窒息しそうな苦しさに必死で耐えながらも、何とか飲み込んで見せる。
 粘ついた液体が喉を滑り落ちていく、同時に幸人の欲情もまた極まった。
 この部屋に入ってから、ネクタイを解かれただけで着衣を乱すこともなく、触れられてもいないのに、射精した自分に気づいて、羞恥で体を縮こまらせる。
 
 今までの三十五年の人生で、男に奉仕するだけで射精する自分を想像したことなんてなかった。
 
 幸人の恋愛対象はずっと女性だった。その欲求の対象もあくまで女性であり、自身のセクシャリティに疑問を持ったことはなかった。
 ただ、自分が密やかに持つ欲望が、他人と違う形をしていること以外は――
 あの日、この主に、遊鬼に出会うまでは、自分は何もわかっていなかったのだろう。

 幸人は老舗の下着メーカーの跡取りとして育てられた。
 百九十センチを超える長身に、剣道で鍛えた筋肉質な体。見た目もそこそこ整い、交際相手に不自由したこともない。仕事も順調。傍から見たら順風満帆に見える人生。
 ただ一つ望むものだけが叶えられない。平穏で平凡で、ほんの微かな鬱屈だけがある人生。
 そこに不満は何もなかったはずだった――
 遊鬼との出会いは、仕事の一環だった。
 あの日幸人は、この秋の新作下着の宣伝CMの撮影に、広報担当の責任者として立ち会っていた。
 幸人が現在担当しているのは十代後半から二十代女性に向けた創業からの人気シリーズだった。デザイナーの趣味でふんだんにレースと刺繍をあしらった下着は、少し値段は張るものの多くの女性たちの心を掴んでいる。
 今期秋は『少女から大人へ』がテーマだった。そのコンセプトに沿って作られた下着は黒とチェリーレッドを中心とデザインされており、今までのシリーズにない妖しい美しさがあった。
 そのため宣伝の中心となるべきモデルの選定にひどく難渋した。
 人気のモデルや女優の名が次々に上がった。
 だが、既存のアイドルや女優が身に着ければ、ランジェリーの美しさよりも生々しさが先に立ちそうで、起用は躊躇われた。海外モデルの名もいくつか上がった。
「この黒を生かすなら白人よりも、日本人じゃないですか! 日本人女性の肌の色が一番映える色を探したんですよ!?」
 しかし、それはチーフデザイナーの強い拒否にあって、あえなく断念された。
 その結果、抜擢されたのが中性的な美貌で徐々に人気が出てきていた遊鬼だった。
 男性でも女性でもない。性別不明の人気モデル。
 遊鬼の名が挙がった途端、それまで紛糾していた会議はあっさりと満場一致してみせた。
 鳴り物入りで、現場に現れた遊鬼は、幸人の目には本当に性別不明に見えた。
 男性だとは聞いていたが、美しく化粧をして女性ものの下着を纏う遊鬼は、性別を超越した美しい生き物に思えた。
 黒いレースと繊細なチェリ―レッドの刺繍をあしらったランジェリードレスにガーターベルト。一歩間違ってしまえば、ランジェリーの魅力に負けてしまいそうなのに、遊鬼は難なく着こなして、自身が宝石のように輝いて見せた。
 撮影中、スタッフのほぼすべてが遊鬼の魅力の虜にされていた。
 それは幸人も例外ではなかった。
 七センチのピンヒールを履いているとは思えない優雅な立ち姿、歩き姿、ポージング。すべてが美しかった。
「本当にきれい……男の人なんて信じられない」
 横にいた部下がうっとりとため息をつき、そう呟いたのに幸人も素直に頷いた。
 多分、それだけだったらそのまま終わっていた。
 美しくも綺麗なモデルに仕事の成功を確信して、喜びで終わったはずだった。
 だが、運命の分かれ道は撮影後にやって来た。
 無事にすべての撮影を終えて、皆が撤収のため後片付けが始まり、幸人は手持ち無沙汰にスタジオの隅に立っていた。
 そばには撮影で使った衣装や小道具などが置かれていた。
 何気なく視線を向けた場所に、それはあった。
 黒いエナメルのピンヒール。
 何故か視線が引き寄せられた。滑らかに光を放つその靴は、撮影に使われた直後のせいか、指のまわりにわずかな形の崩れがあった。その崩れた形が、幸人の脳裏に、遊鬼の足の形を生々しく想像させた。
 鼓動が強く打った。
 ちらりとスタジオに視線を向ければ、スタッフは幸人に構うことなく後片付けに忙しなく動いている。
 どうして、そんなことをしたいと思ったのかもわからない。
 ちょっとした好奇心だったのかもしれないし、悪戯心だったのかもしれない。
 幸人はそっとピンヒールに手を伸ばした。触れた途端に靴は横にコロンと倒れた。元に戻す振りで、靴を取り上げる。
 幸人の手の中で、その靴はひどく小さく、華奢に思えた。魅入られたように、幸人は靴から視線を外せなくなる。
 手の中にエナメルの滑らかで冷たい手触りを感じて、幸人の胸の鼓動はますます強くなる。
 凶器にもなりそうな尖りを持ったヒールが手の中にある。それだけで、異常に体温が上がる。
 ――この靴を履いていた。
 先ほどの撮影時の遊鬼の様子を思い出して、喉が鳴った。
 脳裏にこの靴で踏みしめられる自分を想像して、下半身がもぞりと反応し、怖くなる。
 ――何をしているんだ私は……?
 こんなところを誰かに見られたら、何を言われるかわかったものじゃない。
 そう思うのに、自分の動きをコントロールできない。むしろ誰かに見られたらと思う恐れが、ぞくぞくとした快感を呼び覚ます。
 衝動が理性を凌駕した。
 幸人はもう一度、あたりを見回して誰も自分を見てないことを確認する。
 そうして、遊鬼の美貌を想像して、手のひらにヒールの先端を強く押しあてた。
 ヒールの先が肉に沈む感覚に、痛みと同時に強い悦楽を覚えた。
 背筋がふるりと震えて、視界が潤む。
 理性は、これ以上はまずい。今すぐ靴を手放せと囁きかけてくるのに、指が硬直したように靴から離せない。
「それ、俺の私物なんだけど……?」
 その時、不意に横から声が聞こえて、幸人は飛び上がる。
 驚いて振り返ると、いつの間にそこにいたのか遊鬼が、幸人のすぐ傍に立っていた。
「あ、すいません! ちょっと靴を倒してしまって! あの、よくこんな細いヒールで立っていられるなって思って……」
 言い訳をする声が、みっともなく震え、しりすぼみに小さくなる。
 言わなくてもいいことまで口走る。
 ――見られた! 手のひらにピンヒールの先端を押し付けて、痛みに悦楽を覚えている醜悪な姿を!
 今さらのような恐怖がどっと押し寄せる。冷や汗が噴き出して背中を伝って落ちた。
 だが、靴を拾い上げただけだと言い訳も出来るはずだと、回らない思考で考える。
 遊鬼は無言で、靴と狼狽する幸人の間に視線を行ったり来たりさせた。
 小さく首を傾げた遊鬼の眼差しが、ひたりと幸人に定められた。
 遊鬼は嗤った。にぃっと目を細め、獲物を見つけた肉食獣のように、獰猛な笑みが美しい顔に浮かんだ。

 その微笑みに、幸人は悟った。この美しい生き物に自分の性癖のすべてを見透かされたことを――

 自分が遊鬼の靴で何をしていたのかも、誰にも言えない恥ずべき性癖も何もかもが白日の下にさらされようとしている。
 心臓が壊れそうなほどに、鼓動を激しく打った。顔から血の気が引いているのが自分でもわかる。手の中からピンヒールが滑り落ちた。
 無言の軽蔑か、衆人の元での罵倒か、そのどちらかを覚悟して体を強張らせる。
 だが、遊鬼はそのどちらも向けては来なかった。
「間宮さんだっけ? ペン持ってない?」
 にやりと笑ったまま、遊鬼が尋ねてくる。
「はぁ? え? はい」
 予想外の問いかけに気を逸らされながら、幸人はスーツの胸ポケットに入っていた万年筆を手に取る。
「ちょっと貸して?」
 気軽に近づいてきた遊鬼は、幸人の手から万年筆を取り上げると、ポケットから紙片を取り出してさらさらと何かを書きつけ始める。
 その間、幸人は身じろぎ一つ出来ずに、立ち尽くしていた。
「これ上げる」
 にっこりと微笑んだ遊鬼が、万年筆と一緒にその紙片を幸人に押し付けてくる。
 咄嗟に受け取って、紙片を確認すれば携帯の番号らしき数字が書き連ねられていた。
「それ、俺のプライベートナンバー」
「え?」
 遊鬼の行動の意図がわからず、幸人は戸惑う。
 身を屈めて、ピンヒールを拾い上げた遊鬼が、手の中でそれを弄び、再び幸人に流し目をくれた。ほっそりと長い指が伸びて来て、幸人のネクタイを掴んで引き寄せた。
 息苦しさに喉が詰まる。うめき声を上げる幸人に構うことなく、遊鬼は耳朶に唇を寄せてきた。生温かい吐息が耳朶に触れて、鼻先に遊鬼が纏う甘いフレグランスの匂いが漂った。
「遊んでやるって言ってんの。あんたが望むように思い切り踏んでやるよ。こんな空っぽのヒールを手のひらに押し付けなくても、好きなところを好きなだけ踏みつけてやるから、電話しておいで?」
 耳朶に落とされた歪んだ声音に、背筋が激しく震えた。
 言いたいことだけ言って、遊鬼はパッと幸人のネクタイを離した。幸人はバランスを崩して咄嗟に横の壁に手をついた。そんな幸人を顧みることなく遊鬼は、鼻歌混じりに靴を手に背を向けて歩き出す。指先に引っかけられたヒールが楽し気に、揺れていた。
 幸人は遊鬼の後ろ姿を呆然と見送るしか出来なかった。
 我に返って、手のひらの中に残された携帯番号を眺め下す。

 その瞬間、幸人は思った。あの美しい生き物に狂わされると――

 だが、幸人はなかなか遊鬼に電話することが出来なかった。
 不意に訪れた幸運に戸惑いと躊躇いがあった。
 この番号に電話をかけた途端に夢が壊れて、嘲られるのではないかという恐怖を拭うには時間がかかったのだ。
 けれど、長い間、本当に長い間うちに秘めた渇望を叶えるために、動かずにはいられなかった。
 二人の出会いから一カ月後――幸人は勇気を振り絞って遊鬼の携帯に電話をかけた。
 呼び出し音が耳元で聞こえた途端に、すぐさま電話を切りたくなった。
 瞬きほどの時間が永遠にも感じられた。
『はい……』
 不審そうな声で遊鬼が電話に出た時は、ホッとして頽れそうになった。
「ま、間宮です……あの、先月お世話に、な……った」
 名乗った言葉は掠れて、どもった。情けなさと羞恥に顔が熱くなる。
 束の間、考えるような沈黙が落ちて、今すぐ電話を切りたくなった。
 だが、それより早く『あぁ、あの時の……もう電話してこないかと思った』と遊鬼が笑ったのが携帯を通して聞こえてきた。
 その笑声に、全身の肌が粟立つ。一瞬だけだった邂逅の時を思い出す。
「あの」
『いいよ。丁度暇にしていたから遊んであげるよ。おいでよ』
 軽い調子でそう言うと、遊鬼は今自分が宿泊しているホテルの名を告げた。
 幸人はわずかな不安と大きな期待を持って、指定されたホテルに向かった。

 そこで幸人は自分の主となる人を得る。

 初めての夜。戸惑い羞恥に泣く幸人を、遊鬼は容赦なく苛め抜いた。
 幸人が望んだままに高いヒールで幸人の体を踏みつけ、尖った爪先で遊鬼の欲望をつつきました。
「体を踏まれて勃たせるって本当に変態だよね? ねえ、踏みつぶされているのにこんなに汚い液を零して、俺の足を汚すってどういう神経しているの?」
 ネクタイで手首を戒められ、床に跪く幸人の陰茎を踏みにじりながら、遊鬼は嘲笑いながらそう言った。
 虫を見るような蔑む眼差しと一物を踏みしだかれる痛みに、幸人は歓喜した。
「あ、あ、許して下しださい。ごめんなさい。ごめんさない」
 震えて、怯えながらも幸人は美しい生き物に、許しを乞うた。
 体を丸めて、痛みから逃げようとしたが、遊鬼は雪の人の髪を掴んでそれを許さなかった。ますます、幸人の陰茎を踏む足に力を込めた。
「ひゃあ……!!い……っ!!」
 情けない悲鳴が唇から零れた。あまりの痛みに普通なら気を失いそうなものなのに、あろうことか幸人は射精していた。
 まるで失禁したように多量に吹きこぼれた白濁に、遊鬼は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
 幸人は羞恥に泣いた。幸人の中の何かが完全に壊れた瞬間だった。
 それは理性とか常識、世間体とかそう言ったものだったかもしれない。
「綺麗にして。あんたが汚したんだから!」
 冷たい声音で命じてくる遊鬼を見上げて再び涙を流す。
 身も世もなく号泣する男を眺めて、遊鬼が白濁に汚れた足の裏を幸人の顔に突きつけた。
 抗えない力を込めた命令に、幸人は戦慄く唇を開いた。
 自分の精液で汚した遊鬼の華奢で白い足の裏に舌を這わせて、舐めとる。
 口の中に広がる自分の精液の味に、また涙が吹きこぼれた。
 だが、同時に今までの人生で感じたとこともない歓喜を覚えていた。
 
 幸人は堕ちた――
 
 男とも女ともわからない美しい生き物である遊鬼という生き物に、堕とされ囚われた。

 会うたびに、遊鬼は幸人を様々な手法で苛め抜いた。
 時に鞭打ち、時にその足で、言葉で、幸人を踏みにじる。
 かと思えば、ベッドに磔のように幸人を縛り付け、そのうえで腰を振り、幸人がイキそうになると逃げていく。八時間もの長い間、放埓を寸止めされた。ようやく許され射精した時には、勢いもなにもなく、その分だけ恐ろしく長く体液が溢れ続けた。
 全身が汗にまみれ、イキ続けている間、心臓が恐ろしいほど脈打っていたことを覚えている。
 反対に、アナルにおもちゃを咥えこまされ、延々に何度も何度も執拗に射精させられた時もあった。あの時はあまりにイキすぎて、本当に自分は死ぬんじゃないかと思った。
『もう出ません! 許してください!』
 そう哀願しても遊鬼の責めは止まらなかった。
『大丈夫だよ。まだまだこうやって硬くなってるじゃない。まだちょうだい。俺は全然満足してないよ? 下僕の癖に出しおすみするんじゃないよ』
 言葉と愛撫で幸人の何もかもを搾り取ってくる。
 時を重ねれば、重ねるほどに、幸人は遊鬼の魅力に囚われた。
 だが、遊鬼はひどく気まぐれだった。
 毎日のように幸人を呼び出し責め立てたかと思えば、平気で二週間以上連絡を絶つこともあった。
 遊鬼の仕事を考えれば仕方ないことなのかもしれないが、会えない時間が耐えられなかった。どんどんと我慢がきかなくなっていった。
 まるで麻薬の禁断症状のようだった。少しの間でも遊鬼と離れていることが出来ない。
 仕事中の連絡を遊鬼はひどく嫌がった。
 だから耐えられるだけ、耐えた。だが、その忍耐の時間も徐々に短くなっていった。
 だめだと思っていても、堪えきれずに何度も執拗に遊鬼の携帯に電話をかけてしまう。
 自分でもこんなことはおかしい。こんなことをしても遊鬼に嫌われるだけだとわかっていても行動が止められなかった。
『……しつこいよ。今は仕事で忙しいんだ。あんたに構ってやる余裕なんてないんだから、何度も電話してこないで』
 ようやくつながった携帯から吐き出される素っ気ない言葉に、泣きそうになる。いい年をした男が年下の主に振り回され、三日連絡がないだけで不安になる。
 初恋を知ったばかりの乙女のように、遊鬼の声を聞きたくなり、会いたくてたまらなくなる。
「ごめんなさい。今、何をしていらっしゃるかと思って……会いたくて……」
『仕事で忙しいって言ってるだろ。あんただって大人なんだからわかるだろ。堪え性のないやつは嫌いだよ』
 言い募る幸人の言葉を、遊鬼は鼻で笑って切り捨てる。
 その声音の冷たさに心が竦んだが、同時に遊鬼の声を聞こえたことに深い安堵も覚えてもいた。
 ――まだ、自分はこの神の傍にいることを許されている。
 身の底に押し込め、長い間秘め続けた渇望をすべて解放できる相手――ようやく得ることが出来た幸人のただ一人の主。
 今となっては、彼に見捨てられることが何よりも怖い。
 幸人にとって絶対の神――遊鬼の不興を買ってしまったかと思えばどうしようもない恐怖が押し寄せて、震えが止まらなくなる。
 彼に依存していることはわかっていても止められない。
『……ゆ……ぅ……き……さ……ま」
 怯える幸人の耳朶に、携帯を通じて遊鬼を呼ぶあえかな声が微かに聞こえた。
 その瞬間の感情を何と言い表せばいいのかわからない。
 今まで覚えていた甘やかな陶酔も、微かな不安も何もかもが吹っ飛んだ。
 息を吸い込んで、間抜けにもむせた。
 途端に、遊鬼は舌打ちをして、いきなり電話を切った。
 通話が終了した携帯を手に、幸人は呆然とした。慌ててかけ直しても遊鬼は電源を落としたのか電話が全く通じない。
 その時なってようやく、幸人は我に返った。
 遊鬼に自分以外の僕がいる。そうと理解した途端、胸にどす黒い感情が沸き立った。
 ――あの神は私のものだ。私だけのものだ!!
 押さえられない衝動のまま、すぐさま行動を起こした。
 自分が持てるあらゆる伝手や権力を使って、遊鬼から仕事を取り上げた。
 遊鬼の傍にいる人間を一人残らず調べ上げ、彼の下僕や遊び相手を潰した。友人や家族すらも遊鬼から遠ざけた。
 スキャンダルをねつ造され、何もかも失った遊鬼の傍にいるのは幸人だけ――
 そんあ状況に追い込まれて、自分を頼ってきた遊鬼に幸人は甘く、甘く微笑んだ。
 ――あぁ、ようやく手に入れた。
 そうして、遊鬼に告げた。こうなった元凶が自分であることを暴露した。
 あの時の遊鬼の呆然とした顔は忘れられない。
『全部あんたが原因だったのかよ?』
 自分の下僕だと思っていた男の予想外の裏切りに、遊鬼は完全に言葉を失くしていた。
 幸人のせいで、夢も人間関係も家族すらも失った遊鬼を、幸人は自分の腕の中に浚った。
 遊鬼のためだけに用意した屋敷に閉じ込めた。仕事で彼の傍を離れる時は、彼の足に鎖を付け、監視人兼使用人を配置して監禁した。
 仕事以外の時間は全て遊鬼に捧げた。
 彼の世話は全て自分の手で行った。食事を用意し、手ずから食べさせ、入浴のときには頭から爪先まで丁寧に洗う。
 彼が着るものを用意し、すべてを幸人の色に染め上げた。
 幸人が用意した箱庭の中で、遊鬼は徐々に壊れていった。
『外に出たい……』
 何度もそういう遊鬼の願いを踏みにじり、幸人は神のすべてを手に入れた。
 現在、遊鬼は幸人を苛むことでしか、自分を保てない哀れな神となった。
「遊鬼さま……」
 うっとりと幸人は己の神を見上げる。
「うるさい! お前なんて大嫌いだ!」
 憎悪を滾らせ、侮蔑の眼差しを向けてくる遊鬼に、幸人は恍惚を覚える。
 ――たとえ嫌われても、憎まれても、構わない。
 遊鬼はもう幸人の元でしか生きられない。幸人がそうなるように仕向けた。

 ――この神はもう私だけのもの。

 本当に囚われたのはどちらだったのか――

 今となってはもうわからない。

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