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1巻
1-3
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まるで夢でも見ているような感覚に陥りながら、瀬那は近づいてくる要を眺めていた。
自分は相当、酔っているのかもしれない。その時、初めてそう自覚した。
「飲んでたのか?」
男の眼差しが二つ並ぶグラスに向けられる。
――そういえば、このグラスセットを買う時に、この人も一緒に選んでくれたのよね。
何でそんな成り行きになったのか――酔った頭はまともに働かず、はっきりと経緯を思い出せない。
返事もできずに黙って男を見上げる瀬那に、何を思ったのか要が手を伸ばしてきた。瀬那の頬に男の大きな手のひらが触れる。
アルコールに火照った頬に、外気に冷やされた男の冷たい手は気持ちよかった。
思わず甘えるように、その手に頬を押し付けると、要は驚いたように、一瞬だけ手を強張らせた。
瀬那は無言で男を見上げる。二人の視線が絡んだ。
落ちる沈黙に、瀬那の中の何かが、音を立てて切れた。
それは理性と呼ばれるものだったのかもしれないが、その時の瀬那にはわからなかった。
「……すまない。海外にいて、来るのが遅くなった」
そんなことを真面目に謝罪してくる男に、瀬那はおかしくなる。今夜要が来てくれたことを、ただ嬉しいと思ってしまう。
「それは謝ることですか?」
くすくすと笑い出した瀬那に嘆息すると、要はその前髪を梳いた。その感触が気持ちよくて、瀬那は猫のように瞳を細める。
「酔ってるな」
「酔ってますね」
「弱いくせに、こんな強い酒を飲むからだ」
要が瀬那の手から切子のグラスを取り上げた。祖母の赤いグラスに向かってグラスを掲げると、一気にその中身を飲み干した。
男の喉仏が動く様が、やけに煽情的に見える。祖母を悼む男の仕草に、心が甘く揺れた。
瀬那の体の奥に、アルコールの火照りとは別の熱が灯る。
自分でも不謹慎なのは自覚していたが、止められない。埋められない寂しさが、瀬那の背中を強く押す。
要がカウンターにグラスを置くと、改めて瀬那に向き合った。
「今日はもう飲むのをやめて、大人しく寝ろ」
「寝られる気がしないんだもん」
子どものような語尾に、要が呆れたように肩を竦めた。今の瀬那は、駄々っ子と同じだ。
「酔っ払い」
「酔ってますよー」
けらけらと笑う瀬那に要が手を差し出した。そのまま脇に手を入れられて、立ち上がらされる。
しかし、アルコールの回った瀬那は自力では立っていられず、ふらりと目の前の男の胸に倒れ込んだ。嗅ぎ慣れた男の香水の匂いに、酩酊感が増した気がした。
――酔ってるのは日本酒に? それともこの状況?
危なげなく瀬那を抱きとめた男の広い胸に、瀬那は火照った息を吐き出した。
「……おばあちゃんが、死んじゃった……」
ぽつりと零した呟きに、瀬那を抱く男の腕に力が籠る。
「こんな時ばかり、お前は不器用なんだな」
どうしたものかというように、要が天を仰いだ。その手が瀬那の後ろ髪を優しく梳く。
慰め方を知らない男の手は、ひどく不器用だ。だけど、その手はただただ優しく、労りに満ちている。
「泣きたければ泣けばいい。誰も市原を責めない」
――ああ、私は泣きたいのか……
要の一言に、瀬那はやっと自分の状況を自覚する。けれど、瀬那の瞳は乾いたままだ。
「……泣き方がわからないんです」
男の胸元をぎゅっと掴んで、瀬那は要の顔を見上げる。吐息の触れる距離で、瀬那と男の視線が絡む。男の瞳に映る女は、頑是無い子どものような顔をしていた。
表情ほどに、瀬那は幼くない――自分が要に何を求めたかくらいは理解していた。
「……付け込むために来たわけじゃないんだがな……」
要が呟くように何かを言った。その呟きはあまりに小さすぎて、瀬那には聞き取れなかった。
ただ近づいてくる男の端整な顔にホッとして、瞼を閉じた。
唇よりも先に、男の指が瀬那の頬に触れた。その指が頬を撫でる。思わぬ柔らかな感触に、閉じた瞼が熱を持つ。その瞼に唇が降ってくる。泣けない女の不器用さを、慰撫するような口づけだった。ふっと息を吐き出し、解けた唇に、今度こそ男の唇が与えられた。
哀しみを分かち合うような、優しいキスだった。
ぴったりと瀬那の唇を覆う要のそれは、下唇を食むような動きを見せた後に、深く合わさった。
自然と開いた隙間から滑り込んできた舌が、瀬那のそれに絡む。口の中に、彼が直前に飲んだ酒の味が広がった。
こちらの様子を探るような舌の動きがもどかしく、瀬那は男のそれに軽く歯を立てる。腰を抱く男の手に力が入った。
直後、吐息ごと奪われるように、口づけが深く激しいものへと変わった。
息苦しさを覚えるほどのキスに、思わず首を仰け反らせてしまい、唇が解けた。
「は……ぁ……」
熱を孕んだ吐息が零れ、さらに足元がおぼつかなくなった。今にも崩れ落ちそうな瀬那を、要が抱き上げる。
「暴れるなよ」と囁いた要の言葉に、素直に頷いた瀬那は、男の首に腕を回して体を密着させる。
この男に抱き上げられていることが何だか信じられなくて、やっぱりこれは夢かもしれないと思う。
現実感がひどく遠かった。広い胸に顔を埋めて、男の匂いを深く吸い込む。男の香水の香りに、安堵と興奮という相反する感情が瀬那の中に湧き上がり、混じり合って、体の奥に熱を灯す。
――離れたくないな……
そんな瀬那の想いを感じ取ったのか、要の怜悧な顔が近づいてくる。縋るように今度は自分から、男の唇の中に舌を差し入れる。
「ん……んん!」
自分でも聞いたことがないような甘い声が、零れて落ちた。
要は成人女性を抱えているとは思えないしっかりとした足取りで、軽々と階段を上っていく。
二階の住居部分に入り、寝室の場所を問われた瀬那は、囁き声で自室の場所を教えた。
器用に足で部屋の扉を開けた要が、瀬那をベッドに下ろした。そのまま要は部屋の扉に向かう。
このまま帰ってしまうのかと瀬那は泣きたくなるような想いで身を起こし、その広い背中を見つめた。要は部屋の扉をきちんと閉めると、瀬那のもとに戻ってきた。そのことにホッとした瀬那は、要に手を伸ばす。要が苦笑して瀬那の前髪をそっと乱した。
「そんな顔するな」
今の瀬那は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
ただ要がひどく優しい顔をしているから、別に知る必要もないかと男の手にその身を委ねた。
「瀬那」
囁き声で名前を呼ばれた。
――もっと聞きたい。
男が音にする自分の名前を、もっと聞きたいと思った。
優しく、甘く、瀬那が大切だと伝えているように聞こえるその声が、瀬那の心を震わせる。
体をベッドに押し倒されて、瀬那は仰のいた。晒された喉元に、男が口づける。喉を食まれて、ぞくりと背筋に甘い疼きが滑り落ちていく。
部屋着にしているワンピースの裾から、男の手が忍び込んできた。
するすると大腿を這い上がってくる長い指が、くすぐったくて瀬那は身を捩る。
「脱がせていいか?」
頬に唇を滑らせながらの問いに、瀬那は素直に頷いた。男に協力して、瀬那は着ていたワンピースを脱ぎ去る。あっという間に瀬那は素肌だけの姿にされてしまう。
要の手がベッドヘッドの常夜燈のスイッチを押した。闇に沈んでいた瀬那の部屋が、パッと明るくなる。
「綺麗だな」
淡いオレンジの光に照らされた瀬那の裸体を見下ろし、男が感嘆するようにそう囁いた。
――綺麗なのはあなたの顔だと思う。
常夜燈が灯されたせいで、男の美貌にくっきりとした陰影が刻まれていた。それは見惚れるほど美しく、瀬那の目に映る。
瀬那は美しさに引き寄せられるように、男の左目の下に触れる。そのまま滑らかな肌に指を這わせると、要が困ったように笑った。
要が瀬那の指を上から押さえるように包み込み、その手のひらに口づける。
見せつけるように手のひらに舌を這わせ、手首の内側にきつく吸い付いた。
常夜燈に照らされた男の瞳は、まるで溶けかけたチョコレートみたいに、濃くて甘い光を孕んでいた。瀬那は魅入られたように、男の瞳からもその仕草からも目が離せなくなる。
「少し大人しくしていてくれ」
吐息だけで笑った男が、身を起こした。もどかしそうにネクタイを解き、着ているものを脱いでいく。あらわになった男の体は、彫刻のような均整の取れた筋肉で覆われていた。
長く逞しい腕が、瀬那をかき抱く。熱く、硬い体に抱きしめられて、瀬那の唇から安堵の吐息が漏れた。首筋に要の顔が埋められ、堪えきれないといった吐息が瀬那の肩に触れる。熱く湿ったその感触に、瀬那の胎の奥がどろりと解けた。
「……っん」
それだけの感触に、体がひどく昂っている。
男の唇が動いて、瀬那の鎖骨を食んだ。軽く歯を立てられて、びくりと瀬那の体が跳ねる。
同時に男の手が瀬那の膨らみを包み、その柔らかな感触を楽しむように揉む。男の手の中で、瀬那の膨らみは柔らかな餅のように形を変えた。
男の硬い指先が、立ち上がり始めた胸の頂を摘む。軽く捻られて、ぴりぴりとした切なさが全身を巡った。
左胸の頂は男の口に乳暈ごと含まれる。ねっとりと熱く濡れた粘膜に包まれて、胸の頂が快楽で完全に立ち上がる。
そこに淫らな水音を立てて吸い付かれた。肉厚な舌がいやらしく蠢き、ねっとりとした動きで瀬那の乳首を締め付ける。しばらく、頂を舐めしゃぶる動きが繰り返され、全身に走る快楽に耐え切れず、瀬那は何度も体を跳ねさせた。
「……っふ……んぅ」
唇から堪えきれない甘い吐息が溢れていく。その間に、男の唇が瀬那の体を辿り始める。
胸の膨らみの真ん中に口づけ、臍の上に赤い花を咲かせた。脇から下へ滑り、腰骨に歯を立てられ、皮膚に吸い付かれた。
男の唇の動きは予想がつかず、触れられる先から、瀬那の体の力が抜けていく。舌先に反応する場所には、目印をつけるように、赤い花が残された。
肩で息をし、全身がうっすらと汗ばんできた頃、両足がグイッと持ち上げられた。反射的に足を閉じようとしたが、うまく力が入らない。
男にされるまま、瀬那はしどけなく足を開かされる。
披裂の始まりにキスが落とされた。濡れた唇の感触に、瀬那は体を強張らせる。
普段は秘められ、閉じているその場所が、男の舌先で押し広げられた。
何をされたか理解するより先に、腰が揺れる。そこはすでにぐっしょりと濡れていた。噴き零れた蜜を、余すことなく男に啜り上げられる。
「い……やぁ!」
羞恥と快楽に腰が揺れた。男はその動きを巧みに利用して、瀬那の蜜壺に舌先を押し込んだ。
弾力のある舌先で内部を抉られて、腰から脳天へ向けて、一気に電流が走った。
「はあ、はあっ……んんあ!」
自覚もなく甘い喘ぎが、喉奥から勝手に溢れて出る。恥ずかしいほどに感じ入ったその声に焦り、瀬那は両手で男の頭を押しのけようと、彼の髪にぐっと指を差し込んだ。
「だ……め! それやだぁ!!」
けれど、披裂の上の蕾を男の口に含まれたせいで、瀬那の手は男の髪を乱すだけで終わってしまう。それどころか、逆に男の頭を逃がさないようにそこへ押さえつけているようだ。その快楽をねだるみたいな仕草の淫らさに、瀬那だけが気づかない。
瀬那の蜜壺の中で、男の舌先が生き物のようにうねり、溢れ出る蜜を啜られる。
――こんなの知らない。お腹が熱い……
学生時代には恋人もいたし、セックスも初めてではない。だというのに、こんな深くて甘い快楽を瀬那は知らなかった。
「はぁぁー!」
男が瀬那の花蕾にきつく吸い付いた。強すぎる快楽に、瀬那の視界が真っ白に染まる。
華奢な体が不意に跳ね上がって痙攣し、瀬那は快楽の絶頂を味わう。
男が身を起こした。濡れた唇を手のひらでグイッと拭う。拭ったものが何かと考えれば、瀬那の体がカッと熱くなった。
足を持ち上げられ、蜜口に硬いものが擦りつけられる。擦りつけられただけで圧迫感を覚えるそれに、瀬那の喉が鳴った。
眼差しだけで合意を促す男に、瀬那は頷いた。途端に男が体を倒し、瀬那の中に要のものが入ってくる。その衝撃に、瀬那の背中がぐんっと反り返った。
粘膜を押し開くようなそれに、瀬那の蜜襞が熱く濡れて絡みつく。
「要……さん……」
今まで一度として呼んだことがない、男の名前を呼ぶ。胸の奥でぱちりと音を立てて、火花が散った。要が驚いたように、瞳を瞠った。そして次の瞬間、柔らかに微笑む。
「もっと呼んでくれ」
耳朶に甘い男の声が落とされる。希う男の声に促されるまま、瀬那は要の名を呼ぶ。
「要……」
男の瞳の中にとろりと甘い情欲の炎が揺らぐ。堪えきれぬといったように、要は遠慮なく体重をかけ、自身の分身を瀬那の泥濘の中に一気に沈めた。
内側を押し開かれる感覚に、瀬那は唇を噛み締める。
舌で解されただけのその場所は、要のものを受け入れるにはまだ狭い。
けれど、絶頂の余韻でいい具合に脱力した体が、柔らかに解れて要を根元まで呑み込んだ。
張り裂けそうな圧迫感に怯える気持ちと同時に、久しぶりに受け入れた男の質量に心が満たされてもいる。
自分だけでは埋めようのない虚を満たされて喜ぶのは、女の性ゆえなのか――
体を倒してきた男が、瀬那の様子を確認するために、顔を覗き込んでくる。
「本当に不器用な女だな……」
汗で張り付いた前髪を梳き上げられ、額に男の唇が触れる。
その綺麗な顔が滲んで見えて、瀬那はようやく自分が泣いていることに気づいた。
あれだけ乾いて、痛みすら覚えていた瞳が濡れている。
これが生理的な涙だとしても、泣けたことに瀬那の心は緩んだ。
――ああ、泣いてもいいのだ。
泣く理由がここにある。瀬那は男の背に腕を回して縋りついた。
「んぅう!」
男の唇を求めて、瀬那は自分から口づける。舌を絡ませると、勢いよく胎の奥を突かれて、揺さぶられた。互いの汗にぬめった肌を擦りつけ合い、擦れ合う下生えの掻痒感すら快楽に変わる。
打ち付けられる肌の振動が快感に直結し、下腹部から広がる熱が瀬那の脳を痺れさせた。
涙が溢れて止まらなくなる。その涙を男の唇が拭った。
「瀬那」
とろりと甘い熱を孕んだ瞳が瀬那を見つめ、その唇が労るように瀬那の名を呼ぶ。
求められ、欲しがられているという安心感が、瀬那を蕩けさせる。
泣けぬまま一人孤独に過ごすと思った夜は、要によって壊された。
泣く理由を見つけた瀬那は、ただ男の背にしがみついて、長い夜を駆け抜けた――
☆
あの夜のことで思い出すのは、いつも要の瞳の色だ。
常夜燈のオレンジの光に照らされた男の瞳は、まるで溶けたチョコレートみたいなとろりと甘い光を放っていた。
まるでこの世の中で、望むものは瀬那一人だと言わんばかりの熱が宿った瞳に、心も体も乱された。あの瞳が鮮明に脳裏に焼き付いて、記憶から消すこともできない。
かといって、その後の二人の関係が大きく変わったかといえば、そんなことはなかった。
要は何事もなかったように翌朝には帰っていったし、瀬那も引き留めなかった。
結局、二人の関係は今も曖昧なままだ。暗黙の了解のように、あの夜のことには、二人とも触れない。
けれど、瀬那は知っている。あの夜から要が瀬那を見る瞳は変わった。その瞳にあからさまな熱が宿るようになった。
その意味に気づかないほど子どもじゃない。だけど、要は何も言わない。だから、瀬那も動けない。互いに駆け引きをしているつもりは、多分ない。
いい年をした男女が、まるで恋を覚えたばかりの子どものようだ。
いっそ滑稽だと思うのに、互いに素直になりきれない。
要への恋は自分の中で完結させて、終わりにしたはずだった。
けれど、男の眼差しに搦め捕られて、再び芽吹いた恋の花は、瀬那の戸惑いなど知らぬげに、日々大きく育っている。
――本当に何やってるのかな?
洗い物を終えた瀬那はちらりと要を見る。要は手持ち無沙汰な様子で珈琲カップを弄んでいた。中身はとっくに空になっている。
「もう一杯飲みますか?」
「さっきの冷茶をくれ」
珍しい注文に、瀬那は意外に思い、目を瞬かせる。要は、この店で珈琲以外のものを注文したことは今までなかった。
「何だ? 牧瀬たちには出してただろう?」
すぐに応えない瀬那に、要が不機嫌そうに瞳を眇めた。
「ちょっとお待ちください」
じろりと睨まれて、要の顔を凝視していた瀬那は、はっと我に返って濡れた手を手拭いで拭ってから、冷蔵庫から冷茶のボトルを出し、ガラスのグラスに注いだ。
――日本茶はあまり得意じゃないのに……どういう風の吹き回し?
そう思いながら、要の前にグラスを置く。
「どうぞ」
グラスを手にした要は、一気に飲み干した。眉間に皺が寄る。
「やはり、緑茶は苦手だな」
苦笑交じりに要が呟く。
「珈琲を淹れ直しましょうか?」
「いや、次の予定があるから帰る。市原もそろそろ夜の営業の準備を始める時間だろ?」
腕時計に目を落とした男は、時刻を確認して席を立った。
言われて瀬那も、店の時計を見上げる。祖母の代から使っている鳩時計は、四時半を指していた。
要が出入り口に向かって歩き出し、瀬那も見送りのためにその後を追う。
「……市原」
「はい」
引き戸の前で要が立ち止まった。
「今晩、店が終わった頃にまた来る」
「え?」
驚きに瀬那の動きが止まった。今日の要は普段と違うことばかりを言うから、瀬那は戸惑う。
要が夜に訪れたのは一度だけ――瀬那が祖母を亡くしたあの夜だけだ。
あの夜の甘さを孕んだ要の瞳が、一瞬で思い出された。鼓動が一気に速くなる。
「話がある。だから、今晩もう一度来る」
念を押すようにそう言うと要は瀬那の返事も聞かずに、引き戸を開けてさっさと外に出てしまった。
「西園さん!」
要の真意が知りたくて、呼びかけるが男は振り向かない。瀬那はその背を追って外に出た。
駐車場では要が出てきたことに気づいた牧瀬が、車の外に出てきた。要のために後部座席のドアを開けて待つ。その手には瀬那が差し入れたお盆を持っていた。
「ごちそうさまでした」
要は無言で車に乗り込み、追い付いた瀬那に牧瀬がお盆を差し出してくる。
「今日も美味しかったです。ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる牧瀬に、瀬那は要を引き留める言葉を口にできなくなる。
「どういたしまして……お気をつけて」
お盆を受け取り、瀬那は牧瀬が車に乗り込むのを見守るしかなかった。
車が滑らかな動きで駐車場を出ていく。遠ざかる車を瀬那は複雑な思いで見送った――
☆
夜の営業が始まってからも瀬那の心は落ち着かなかった。
「熱燗と、鯛茶漬けの追加ですね。少々お待ちください」
客からの注文を伝票に書き付けた瀬那は、ふと店の時計を見上げた。時刻は夜の九時になろうとしている。店の閉店時間まであと一時間弱。当たり前だが、要の姿はまだ見えない。
『店が終わった頃にまた来る』
要が来るとしたら店の営業が終わった後だとわかっているのに、つい時計を見上げてしまう。
そのたびに、ちっとも進まない時計の針に、ため息を吐きそうになる。
――今はまだ営業中。しっかりしないと! こんな浮ついた接客を見られたら、会長に怒られる。
要の祖父の顔を思い出して、気合を入れ直し、瀬那は店内の客にラストオーダーを確認して回った。
「周ちゃん、これ三番さんのラストオーダー」
「瀬那、どうした?」
「え?」
注文を伝えるために、厨房に戻った瀬那に、調理の手を止めた周大が、そう声を掛けてきた。
「さっきから何かそわそわしてる」
周大の問いにドキリとする。自分が浮ついている自覚はあった。できるだけ表に出さないようにしていても、いつも一緒に過ごす幼馴染にはバレバレだったのだろう。
「また、あの人か? 何かあったか?」
眉間に皺を寄せた周大からの鋭すぎる問いに、瀬那は苦笑を漏らす。
「……そんなにわかりやすかったかな?」
「接客はいつも通りだ。でも、さっきから時計ばかり見てるだろ」
心当たりのある瀬那は、「うん、ごめん……」と謝るしかなかった。
「何かあるなら相談に乗るぞ?」
優しい周大の言葉に、何と答えたものか迷う。今から要が訪れる予定だと告げたところで、この幼馴染を戸惑わせるだけだし、あまり意味はないだろう。これは瀬那の問題だ。
「ごめん。たいしたことじゃないの。接客もちゃんとするね」
「別に謝ることじゃない。何でもないならいいが、何かあるなら……」
「瀬那ちゃん! お会計お願いできるかい?」
話の途中で、食事を終えた客に声を掛けられた。
「はーい。今行きます!」
それに応えた瀬那は、周大との会話を切り上げて、レジに向かう。周大の傍を離れられることに、内心でホッとしていた。幼馴染が純粋に瀬那の心配をしてくれているのはわかっているが、過保護なところがあるのだ。
会計を済ませた客を出入り口まで見送りに出る。それを繰り返している間に、満席だった店内の客が次々と帰っていく。閉店時間間際、客はあと一組を残すのみとなっていた。彼らも帰り支度を始めている。
「瀬那ちゃん。今日もごちそうさま。美味しかった」
「ごちそうさまです! 周大さんもまたね!」
「ごちそうさまです」
「遅くまですみません。ごちそうさまでした」
仕事帰りの四人連れの客は、それぞれに周大と瀬那に声を掛けてくる。それに瀬那たちは笑顔で応えた。女性一人、男性三人組で、年齢は様々だが、仲のいい同僚らしい。よく仕事帰りに寄ってくれる常連客だった。
「いつもありがとうございます。またいらしてください」
そう言って、瀬那は今日最後の客たちを見送りに出る。四人が敷地の外に出るのを見守って、本日の営業終了を知らせるために、のれんを下ろした。そして、閉店中の看板を店の入り口にかける。
そろそろ要は来るだろうかと、駅に通じる通りに目を向けた。
――周ちゃんがいる間は来ないかな?
来るとしたら、瀬那が一人になった時間を狙ってくるような気がした。そうなると、来るのはきっと、日付が変わる頃になるだろう。
自分は相当、酔っているのかもしれない。その時、初めてそう自覚した。
「飲んでたのか?」
男の眼差しが二つ並ぶグラスに向けられる。
――そういえば、このグラスセットを買う時に、この人も一緒に選んでくれたのよね。
何でそんな成り行きになったのか――酔った頭はまともに働かず、はっきりと経緯を思い出せない。
返事もできずに黙って男を見上げる瀬那に、何を思ったのか要が手を伸ばしてきた。瀬那の頬に男の大きな手のひらが触れる。
アルコールに火照った頬に、外気に冷やされた男の冷たい手は気持ちよかった。
思わず甘えるように、その手に頬を押し付けると、要は驚いたように、一瞬だけ手を強張らせた。
瀬那は無言で男を見上げる。二人の視線が絡んだ。
落ちる沈黙に、瀬那の中の何かが、音を立てて切れた。
それは理性と呼ばれるものだったのかもしれないが、その時の瀬那にはわからなかった。
「……すまない。海外にいて、来るのが遅くなった」
そんなことを真面目に謝罪してくる男に、瀬那はおかしくなる。今夜要が来てくれたことを、ただ嬉しいと思ってしまう。
「それは謝ることですか?」
くすくすと笑い出した瀬那に嘆息すると、要はその前髪を梳いた。その感触が気持ちよくて、瀬那は猫のように瞳を細める。
「酔ってるな」
「酔ってますね」
「弱いくせに、こんな強い酒を飲むからだ」
要が瀬那の手から切子のグラスを取り上げた。祖母の赤いグラスに向かってグラスを掲げると、一気にその中身を飲み干した。
男の喉仏が動く様が、やけに煽情的に見える。祖母を悼む男の仕草に、心が甘く揺れた。
瀬那の体の奥に、アルコールの火照りとは別の熱が灯る。
自分でも不謹慎なのは自覚していたが、止められない。埋められない寂しさが、瀬那の背中を強く押す。
要がカウンターにグラスを置くと、改めて瀬那に向き合った。
「今日はもう飲むのをやめて、大人しく寝ろ」
「寝られる気がしないんだもん」
子どものような語尾に、要が呆れたように肩を竦めた。今の瀬那は、駄々っ子と同じだ。
「酔っ払い」
「酔ってますよー」
けらけらと笑う瀬那に要が手を差し出した。そのまま脇に手を入れられて、立ち上がらされる。
しかし、アルコールの回った瀬那は自力では立っていられず、ふらりと目の前の男の胸に倒れ込んだ。嗅ぎ慣れた男の香水の匂いに、酩酊感が増した気がした。
――酔ってるのは日本酒に? それともこの状況?
危なげなく瀬那を抱きとめた男の広い胸に、瀬那は火照った息を吐き出した。
「……おばあちゃんが、死んじゃった……」
ぽつりと零した呟きに、瀬那を抱く男の腕に力が籠る。
「こんな時ばかり、お前は不器用なんだな」
どうしたものかというように、要が天を仰いだ。その手が瀬那の後ろ髪を優しく梳く。
慰め方を知らない男の手は、ひどく不器用だ。だけど、その手はただただ優しく、労りに満ちている。
「泣きたければ泣けばいい。誰も市原を責めない」
――ああ、私は泣きたいのか……
要の一言に、瀬那はやっと自分の状況を自覚する。けれど、瀬那の瞳は乾いたままだ。
「……泣き方がわからないんです」
男の胸元をぎゅっと掴んで、瀬那は要の顔を見上げる。吐息の触れる距離で、瀬那と男の視線が絡む。男の瞳に映る女は、頑是無い子どものような顔をしていた。
表情ほどに、瀬那は幼くない――自分が要に何を求めたかくらいは理解していた。
「……付け込むために来たわけじゃないんだがな……」
要が呟くように何かを言った。その呟きはあまりに小さすぎて、瀬那には聞き取れなかった。
ただ近づいてくる男の端整な顔にホッとして、瞼を閉じた。
唇よりも先に、男の指が瀬那の頬に触れた。その指が頬を撫でる。思わぬ柔らかな感触に、閉じた瞼が熱を持つ。その瞼に唇が降ってくる。泣けない女の不器用さを、慰撫するような口づけだった。ふっと息を吐き出し、解けた唇に、今度こそ男の唇が与えられた。
哀しみを分かち合うような、優しいキスだった。
ぴったりと瀬那の唇を覆う要のそれは、下唇を食むような動きを見せた後に、深く合わさった。
自然と開いた隙間から滑り込んできた舌が、瀬那のそれに絡む。口の中に、彼が直前に飲んだ酒の味が広がった。
こちらの様子を探るような舌の動きがもどかしく、瀬那は男のそれに軽く歯を立てる。腰を抱く男の手に力が入った。
直後、吐息ごと奪われるように、口づけが深く激しいものへと変わった。
息苦しさを覚えるほどのキスに、思わず首を仰け反らせてしまい、唇が解けた。
「は……ぁ……」
熱を孕んだ吐息が零れ、さらに足元がおぼつかなくなった。今にも崩れ落ちそうな瀬那を、要が抱き上げる。
「暴れるなよ」と囁いた要の言葉に、素直に頷いた瀬那は、男の首に腕を回して体を密着させる。
この男に抱き上げられていることが何だか信じられなくて、やっぱりこれは夢かもしれないと思う。
現実感がひどく遠かった。広い胸に顔を埋めて、男の匂いを深く吸い込む。男の香水の香りに、安堵と興奮という相反する感情が瀬那の中に湧き上がり、混じり合って、体の奥に熱を灯す。
――離れたくないな……
そんな瀬那の想いを感じ取ったのか、要の怜悧な顔が近づいてくる。縋るように今度は自分から、男の唇の中に舌を差し入れる。
「ん……んん!」
自分でも聞いたことがないような甘い声が、零れて落ちた。
要は成人女性を抱えているとは思えないしっかりとした足取りで、軽々と階段を上っていく。
二階の住居部分に入り、寝室の場所を問われた瀬那は、囁き声で自室の場所を教えた。
器用に足で部屋の扉を開けた要が、瀬那をベッドに下ろした。そのまま要は部屋の扉に向かう。
このまま帰ってしまうのかと瀬那は泣きたくなるような想いで身を起こし、その広い背中を見つめた。要は部屋の扉をきちんと閉めると、瀬那のもとに戻ってきた。そのことにホッとした瀬那は、要に手を伸ばす。要が苦笑して瀬那の前髪をそっと乱した。
「そんな顔するな」
今の瀬那は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
ただ要がひどく優しい顔をしているから、別に知る必要もないかと男の手にその身を委ねた。
「瀬那」
囁き声で名前を呼ばれた。
――もっと聞きたい。
男が音にする自分の名前を、もっと聞きたいと思った。
優しく、甘く、瀬那が大切だと伝えているように聞こえるその声が、瀬那の心を震わせる。
体をベッドに押し倒されて、瀬那は仰のいた。晒された喉元に、男が口づける。喉を食まれて、ぞくりと背筋に甘い疼きが滑り落ちていく。
部屋着にしているワンピースの裾から、男の手が忍び込んできた。
するすると大腿を這い上がってくる長い指が、くすぐったくて瀬那は身を捩る。
「脱がせていいか?」
頬に唇を滑らせながらの問いに、瀬那は素直に頷いた。男に協力して、瀬那は着ていたワンピースを脱ぎ去る。あっという間に瀬那は素肌だけの姿にされてしまう。
要の手がベッドヘッドの常夜燈のスイッチを押した。闇に沈んでいた瀬那の部屋が、パッと明るくなる。
「綺麗だな」
淡いオレンジの光に照らされた瀬那の裸体を見下ろし、男が感嘆するようにそう囁いた。
――綺麗なのはあなたの顔だと思う。
常夜燈が灯されたせいで、男の美貌にくっきりとした陰影が刻まれていた。それは見惚れるほど美しく、瀬那の目に映る。
瀬那は美しさに引き寄せられるように、男の左目の下に触れる。そのまま滑らかな肌に指を這わせると、要が困ったように笑った。
要が瀬那の指を上から押さえるように包み込み、その手のひらに口づける。
見せつけるように手のひらに舌を這わせ、手首の内側にきつく吸い付いた。
常夜燈に照らされた男の瞳は、まるで溶けかけたチョコレートみたいに、濃くて甘い光を孕んでいた。瀬那は魅入られたように、男の瞳からもその仕草からも目が離せなくなる。
「少し大人しくしていてくれ」
吐息だけで笑った男が、身を起こした。もどかしそうにネクタイを解き、着ているものを脱いでいく。あらわになった男の体は、彫刻のような均整の取れた筋肉で覆われていた。
長く逞しい腕が、瀬那をかき抱く。熱く、硬い体に抱きしめられて、瀬那の唇から安堵の吐息が漏れた。首筋に要の顔が埋められ、堪えきれないといった吐息が瀬那の肩に触れる。熱く湿ったその感触に、瀬那の胎の奥がどろりと解けた。
「……っん」
それだけの感触に、体がひどく昂っている。
男の唇が動いて、瀬那の鎖骨を食んだ。軽く歯を立てられて、びくりと瀬那の体が跳ねる。
同時に男の手が瀬那の膨らみを包み、その柔らかな感触を楽しむように揉む。男の手の中で、瀬那の膨らみは柔らかな餅のように形を変えた。
男の硬い指先が、立ち上がり始めた胸の頂を摘む。軽く捻られて、ぴりぴりとした切なさが全身を巡った。
左胸の頂は男の口に乳暈ごと含まれる。ねっとりと熱く濡れた粘膜に包まれて、胸の頂が快楽で完全に立ち上がる。
そこに淫らな水音を立てて吸い付かれた。肉厚な舌がいやらしく蠢き、ねっとりとした動きで瀬那の乳首を締め付ける。しばらく、頂を舐めしゃぶる動きが繰り返され、全身に走る快楽に耐え切れず、瀬那は何度も体を跳ねさせた。
「……っふ……んぅ」
唇から堪えきれない甘い吐息が溢れていく。その間に、男の唇が瀬那の体を辿り始める。
胸の膨らみの真ん中に口づけ、臍の上に赤い花を咲かせた。脇から下へ滑り、腰骨に歯を立てられ、皮膚に吸い付かれた。
男の唇の動きは予想がつかず、触れられる先から、瀬那の体の力が抜けていく。舌先に反応する場所には、目印をつけるように、赤い花が残された。
肩で息をし、全身がうっすらと汗ばんできた頃、両足がグイッと持ち上げられた。反射的に足を閉じようとしたが、うまく力が入らない。
男にされるまま、瀬那はしどけなく足を開かされる。
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瀬那の蜜壺の中で、男の舌先が生き物のようにうねり、溢れ出る蜜を啜られる。
――こんなの知らない。お腹が熱い……
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男が身を起こした。濡れた唇を手のひらでグイッと拭う。拭ったものが何かと考えれば、瀬那の体がカッと熱くなった。
足を持ち上げられ、蜜口に硬いものが擦りつけられる。擦りつけられただけで圧迫感を覚えるそれに、瀬那の喉が鳴った。
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粘膜を押し開くようなそれに、瀬那の蜜襞が熱く濡れて絡みつく。
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今まで一度として呼んだことがない、男の名前を呼ぶ。胸の奥でぱちりと音を立てて、火花が散った。要が驚いたように、瞳を瞠った。そして次の瞬間、柔らかに微笑む。
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耳朶に甘い男の声が落とされる。希う男の声に促されるまま、瀬那は要の名を呼ぶ。
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とろりと甘い熱を孕んだ瞳が瀬那を見つめ、その唇が労るように瀬那の名を呼ぶ。
求められ、欲しがられているという安心感が、瀬那を蕩けさせる。
泣けぬまま一人孤独に過ごすと思った夜は、要によって壊された。
泣く理由を見つけた瀬那は、ただ男の背にしがみついて、長い夜を駆け抜けた――
☆
あの夜のことで思い出すのは、いつも要の瞳の色だ。
常夜燈のオレンジの光に照らされた男の瞳は、まるで溶けたチョコレートみたいなとろりと甘い光を放っていた。
まるでこの世の中で、望むものは瀬那一人だと言わんばかりの熱が宿った瞳に、心も体も乱された。あの瞳が鮮明に脳裏に焼き付いて、記憶から消すこともできない。
かといって、その後の二人の関係が大きく変わったかといえば、そんなことはなかった。
要は何事もなかったように翌朝には帰っていったし、瀬那も引き留めなかった。
結局、二人の関係は今も曖昧なままだ。暗黙の了解のように、あの夜のことには、二人とも触れない。
けれど、瀬那は知っている。あの夜から要が瀬那を見る瞳は変わった。その瞳にあからさまな熱が宿るようになった。
その意味に気づかないほど子どもじゃない。だけど、要は何も言わない。だから、瀬那も動けない。互いに駆け引きをしているつもりは、多分ない。
いい年をした男女が、まるで恋を覚えたばかりの子どものようだ。
いっそ滑稽だと思うのに、互いに素直になりきれない。
要への恋は自分の中で完結させて、終わりにしたはずだった。
けれど、男の眼差しに搦め捕られて、再び芽吹いた恋の花は、瀬那の戸惑いなど知らぬげに、日々大きく育っている。
――本当に何やってるのかな?
洗い物を終えた瀬那はちらりと要を見る。要は手持ち無沙汰な様子で珈琲カップを弄んでいた。中身はとっくに空になっている。
「もう一杯飲みますか?」
「さっきの冷茶をくれ」
珍しい注文に、瀬那は意外に思い、目を瞬かせる。要は、この店で珈琲以外のものを注文したことは今までなかった。
「何だ? 牧瀬たちには出してただろう?」
すぐに応えない瀬那に、要が不機嫌そうに瞳を眇めた。
「ちょっとお待ちください」
じろりと睨まれて、要の顔を凝視していた瀬那は、はっと我に返って濡れた手を手拭いで拭ってから、冷蔵庫から冷茶のボトルを出し、ガラスのグラスに注いだ。
――日本茶はあまり得意じゃないのに……どういう風の吹き回し?
そう思いながら、要の前にグラスを置く。
「どうぞ」
グラスを手にした要は、一気に飲み干した。眉間に皺が寄る。
「やはり、緑茶は苦手だな」
苦笑交じりに要が呟く。
「珈琲を淹れ直しましょうか?」
「いや、次の予定があるから帰る。市原もそろそろ夜の営業の準備を始める時間だろ?」
腕時計に目を落とした男は、時刻を確認して席を立った。
言われて瀬那も、店の時計を見上げる。祖母の代から使っている鳩時計は、四時半を指していた。
要が出入り口に向かって歩き出し、瀬那も見送りのためにその後を追う。
「……市原」
「はい」
引き戸の前で要が立ち止まった。
「今晩、店が終わった頃にまた来る」
「え?」
驚きに瀬那の動きが止まった。今日の要は普段と違うことばかりを言うから、瀬那は戸惑う。
要が夜に訪れたのは一度だけ――瀬那が祖母を亡くしたあの夜だけだ。
あの夜の甘さを孕んだ要の瞳が、一瞬で思い出された。鼓動が一気に速くなる。
「話がある。だから、今晩もう一度来る」
念を押すようにそう言うと要は瀬那の返事も聞かずに、引き戸を開けてさっさと外に出てしまった。
「西園さん!」
要の真意が知りたくて、呼びかけるが男は振り向かない。瀬那はその背を追って外に出た。
駐車場では要が出てきたことに気づいた牧瀬が、車の外に出てきた。要のために後部座席のドアを開けて待つ。その手には瀬那が差し入れたお盆を持っていた。
「ごちそうさまでした」
要は無言で車に乗り込み、追い付いた瀬那に牧瀬がお盆を差し出してくる。
「今日も美味しかったです。ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる牧瀬に、瀬那は要を引き留める言葉を口にできなくなる。
「どういたしまして……お気をつけて」
お盆を受け取り、瀬那は牧瀬が車に乗り込むのを見守るしかなかった。
車が滑らかな動きで駐車場を出ていく。遠ざかる車を瀬那は複雑な思いで見送った――
☆
夜の営業が始まってからも瀬那の心は落ち着かなかった。
「熱燗と、鯛茶漬けの追加ですね。少々お待ちください」
客からの注文を伝票に書き付けた瀬那は、ふと店の時計を見上げた。時刻は夜の九時になろうとしている。店の閉店時間まであと一時間弱。当たり前だが、要の姿はまだ見えない。
『店が終わった頃にまた来る』
要が来るとしたら店の営業が終わった後だとわかっているのに、つい時計を見上げてしまう。
そのたびに、ちっとも進まない時計の針に、ため息を吐きそうになる。
――今はまだ営業中。しっかりしないと! こんな浮ついた接客を見られたら、会長に怒られる。
要の祖父の顔を思い出して、気合を入れ直し、瀬那は店内の客にラストオーダーを確認して回った。
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「瀬那、どうした?」
「え?」
注文を伝えるために、厨房に戻った瀬那に、調理の手を止めた周大が、そう声を掛けてきた。
「さっきから何かそわそわしてる」
周大の問いにドキリとする。自分が浮ついている自覚はあった。できるだけ表に出さないようにしていても、いつも一緒に過ごす幼馴染にはバレバレだったのだろう。
「また、あの人か? 何かあったか?」
眉間に皺を寄せた周大からの鋭すぎる問いに、瀬那は苦笑を漏らす。
「……そんなにわかりやすかったかな?」
「接客はいつも通りだ。でも、さっきから時計ばかり見てるだろ」
心当たりのある瀬那は、「うん、ごめん……」と謝るしかなかった。
「何かあるなら相談に乗るぞ?」
優しい周大の言葉に、何と答えたものか迷う。今から要が訪れる予定だと告げたところで、この幼馴染を戸惑わせるだけだし、あまり意味はないだろう。これは瀬那の問題だ。
「ごめん。たいしたことじゃないの。接客もちゃんとするね」
「別に謝ることじゃない。何でもないならいいが、何かあるなら……」
「瀬那ちゃん! お会計お願いできるかい?」
話の途中で、食事を終えた客に声を掛けられた。
「はーい。今行きます!」
それに応えた瀬那は、周大との会話を切り上げて、レジに向かう。周大の傍を離れられることに、内心でホッとしていた。幼馴染が純粋に瀬那の心配をしてくれているのはわかっているが、過保護なところがあるのだ。
会計を済ませた客を出入り口まで見送りに出る。それを繰り返している間に、満席だった店内の客が次々と帰っていく。閉店時間間際、客はあと一組を残すのみとなっていた。彼らも帰り支度を始めている。
「瀬那ちゃん。今日もごちそうさま。美味しかった」
「ごちそうさまです! 周大さんもまたね!」
「ごちそうさまです」
「遅くまですみません。ごちそうさまでした」
仕事帰りの四人連れの客は、それぞれに周大と瀬那に声を掛けてくる。それに瀬那たちは笑顔で応えた。女性一人、男性三人組で、年齢は様々だが、仲のいい同僚らしい。よく仕事帰りに寄ってくれる常連客だった。
「いつもありがとうございます。またいらしてください」
そう言って、瀬那は今日最後の客たちを見送りに出る。四人が敷地の外に出るのを見守って、本日の営業終了を知らせるために、のれんを下ろした。そして、閉店中の看板を店の入り口にかける。
そろそろ要は来るだろうかと、駅に通じる通りに目を向けた。
――周ちゃんがいる間は来ないかな?
来るとしたら、瀬那が一人になった時間を狙ってくるような気がした。そうなると、来るのはきっと、日付が変わる頃になるだろう。
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