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1巻
1-1
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プロローグ
デスク上の私物をまとめた段ボール箱と、退職祝いの花束を見下ろして、市原瀬那はやっと最後の業務が終わったことを実感する。
大学卒業から就職して六年――決して短くはない時間を過ごした秘書室を改めて見回した。
デスクが整然と並び、壁際にはキャビネットが備え付けられている。いくつかのパーティションで仕切られたフロアは機能的に整えられ、清潔感のある職場だった。
この場所で、瀬那は社会人としての基礎を叩き込まれた。時に厳しく、時に優しく指導してくれた先輩たちには感謝しかない。
普段は室長を含め十五名ほどの人間が職務につき、それなりに賑やかなこの場所も、今はひっそりと静まり返っている。
それもそのはずで、終業時間はとうの昔に過ぎていた。今、秘書室に残っているのは、今日付けで退職する瀬那一人だけ。
苦楽を共にした仲間たちとは、先週のうちに送別会を済ませている。だから、今日の別れはからりとして、笑いに満ちたものだった。
夢を叶えるために退職する瀬那を、激励と共に見送ってくれた人々の顔を思い出せば、瀬那の表情も柔らかなものに変わる。
その中で、ただ一人だけ仏頂面を晒していた男――その男のせいで、今日で最後だというのに、瀬那はこんな時間まで残業する羽目になっていた。
最後の最後まで迷惑をかけてくれる男の端整な顔を思い浮かべて、瀬那は大きく息を吐く。
――荷物はまとめ終わったし、頼まれた書類も片付けた。
後はあの男に退職の挨拶をして、押し付けられたこの仕事を渡せば、ここでの瀬那の仕事は本当に終わる。
瀬那は小さく気合を入れると書類ケースを手に秘書室を出て、男のいる役員室に向かって歩む。
終業時間を過ぎた今、役員室の並ぶ廊下の電灯は絞られて、ひっそりと静かだった。
そこに瀬那の靴音だけが反響する。
ほどなくして辿り着いた部屋の前で、瀬那は再び小さく息を吐き出して気持ちを整える。
扉をノックするが、返事はない。だが、この部屋に男が在室していることを、瀬那は知っていた。
中の男の不機嫌さを表す無言の行動に、瀬那の唇から苦笑が漏れる。
――いまだにあの男は、私の退職に納得していないらしい。
それでも瀬那は今日、この場所を去る。それは最初から決まっていたことで、もうすべての手続きは済んでいた。いくらあの男が騒いだところで、この結果を覆すつもりは瀬那にはない。
――だって、ずっと叶えたい夢だったんだもの。
心の中でそう呟いて、瀬那はもう一度、扉をノックする。
「失礼します」
今度は返事を待たずに扉を開けた。
鍵はかかっておらず、扉はすんなりと開く。部屋の中は照明が落とされていた。
それはある意味いつもの光景だったが、瀬那はその中に普段と違うものを見つけて、足を止めた。
壁一面に取られた大きな窓から差し込む月明かりと、高層ビル群が放つ星屑のような明かりが、部屋の中を淡く照らしている。物の形がうっすらと浮かび上がるだけの部屋の中で、小さな赤い火と紫煙がたなびくのが見えた。遅れて、煙草の独特な匂いが漂ってくる。
――煙草?
六年という時間を一緒に過ごしたが、この上司が煙草を吸っているのを初めて見て、瀬那は意外な思いに目を瞬かせる。
瀬那の立つ出入り口から、男の姿は見えない。大きなデスクチェアの背とその肘掛けに置かれた指の先の、赤く燃える火だけが見えた。
瀬那は男の姿が見える位置まで歩み寄る。男――瀬那の直接の上司であった西園要は、無表情で目の前に広がる夜景を見下ろしていた。
瀬那が傍に来たことに気づいているはずなのに、その視線がこちらを向くことはない。
頑なな男の態度に苦笑を漏らして、瀬那も夜景に視線を向ける。
高層階のビルから夜景を見下ろすと、一瞬自分が宙に浮いているような錯覚を覚えた。
宝石箱をひっくり返したようなとよく表現されるが、確かに都会の夜景は様々な色が明滅を繰り返し、見飽きるということがない地上の宝石箱のようだ。天上の星々よりも輝いて見える。
今宵は、十六夜の月。望月ではないことを恥じるようにゆっくりと昇り始めた月が、高層ビル群の狭間から顔を出していた。
――何度こうして、この人と夜景を見ただろう?
白く輝く月を見つめる瀬那の胸に、ふとそんな思いが過った。
仕事で行き詰まり思案にくれる時、疲れている時など、要はこうして黙って夜景を眺める癖があった。彼にとってその時間が、とても重要なものであることを瀬那は知っている。
それは、この忙しい男にとって、唯一の休息の時間でもあった。
――いつからだっただろう? 二人で夜景を眺めるようになったのは――
夜景を眺める時間を邪魔されることを要はひどく嫌う。だから、この時間は誰も彼の傍に近寄れなかった。けれど、いつの頃からか、瀬那だけは傍にいることを許された。
むしろ、一緒にいることを求められるようになった。
会話もないまま、ただ静かに夜景を眺める時間――それは濃密な記憶として瀬那の胸に刻まれている。互いの沈黙を受け入れる時間は、幾百の言葉を重ねるより余程、二人の関係を強く結び付けた気がしたからかもしれない。
――もう、ここで一緒に夜景を眺めることもないのか。
新しい門出に期待で膨らんでいた胸に、感傷にも似た寂しさが過った。それを振り切るように、瀬那は夜景から要に視線を戻す。
男は相変わらず、無表情で夜景を眺めていた。窓から差し込む月明かりに、その端整な美貌が仄かに浮かび上がる。緩くウェーブのかかるアッシュブラウンの髪。祖母がイタリア系の日本人であるせいか、その目鼻立ちは普通の日本人よりも深く整っている。意志の強そうな眉に、ブラウンの切れ長の目、高く通った鼻梁から薄い唇の配置は絶妙で、成熟した男の色気を漂わせている。
要の美貌を見るたびに思う――彼は神が丹精込めて作り上げた芸術品の一つではないかと。そう思ってしまうほどに、要は美しい。
――でも、せっかくの美貌も、その性格の悪さが台無しにしてるけどね。
心の中でため息交じりの悪態をつく。確かに要は美しい。だが、その性格の悪さに振り回されてきた瀬那にとっては、憎たらしいばかりだ。
退職日にまで残業をさせられたとあっては、その思いはいや増している。
瀬那は要の顔を見下ろして、「西園専務」と呼びかけた。これまでの鬱憤が呼びかける声に滲んでいる。しかし、要の視線が瀬那を向くことはなかった。
無反応な相手に構わず、瀬那は頼まれていた書類の入っているファイルケースを彼の膝の上に載せた。
そこでやっと要の綺麗な眉が寄せられて、不快さが表情に表れる。
「頼まれていた新しい秘書候補のプロフィールです」
瀬那の言葉に、要は眉を寄せたまま膝の上に置かれた書類ケースの表紙にちらりと視線を向け、再び夜景に視線を戻した。
「却下」
短い一言が返されて、瀬那の額に青筋が浮く。
――見もしないで、何言ってるのよこの男は!
昨日要は、瀬那が完璧に引き継ぎを終わらせた三名の選りすぐりの女性秘書を、自身へのセクハラを理由に業務から外した。
突然のことに瀬那たち秘書室一同は混乱し、要の説明に唖然とした。
特に瀬那は、彼女たちを推薦した時の、満足そうな要の姿を覚えている。美女を侍らせてご機嫌だったのは誰だ! むしろ要が、彼女たちにセクハラをしたと言われた方が、よっぽど納得できた。
わがままな男のために、容姿もキャリアも優れた女性たちを口説き落としたというのに、瀬那の苦労はあの一瞬で、すべて灰燼と帰した。
そして、今日――新しい秘書の選別を命じられた。今まさに帰ろうとしていた瀬那を引き留めての命令に、瀬那を含めた周囲は呆気にとられた。
あの瞬間、よく自分の血管は、怒りでぶち切れなかったと瀬那は思う。
もう今日で退職なのだから、そんな命令は無視して帰ってもよかったのだが、そこで瀬那の負けず嫌いな性格が顔を出した。最後まできっちりと勤め上げたことを証明して辞めたかった。だからこそ、要の命令を引き受けたのだが、それが間違いのもとだった。
彼が新しい秘書に出した条件は、とんでもないものばかりだった。こんな短時間で見つけられるか! と思ったが、一人に絞らず数人で補えるように時間をかけて候補を絞った。おかげで退職日だというのに、こんな時間まで瀬那は残業する羽目になった。秘書室の幾人かの手を借りて、先ほどようやく納得できる人選が終わったところだった。
――だというのに、この男は!
湧き上がってくる怒りを宥めるために、瀬那は深呼吸する。
――落ち着け瀬那。怒るだけ無駄だ。
「子どもですか? 何が気に入らないんです?」
瀬那の問いに、要が初めてこちらを見た。
男のブラウンの瞳が、瀬那を真っ直ぐ射貫いてくる。その視線の強さに、瀬那は一瞬たじろぐが、負けずに睨み返す。
子どものように駄々をこねている男に、負けるわけにはいかないのだ。しばし、二人の視線の間で火花が散る。
「……気に入るわけがあるか」
要がようやくその重い口を開いた。
「何が?」
「お前がいるのに、何故、今更新しい秘書を雇う必要があるんだ?」
要の言葉に瀬那は、怒っていたことも忘れて、苦笑が零れそうになる。
たった一言で、瀬那の心を捕らえるのだから、この男はずるい。
――全くこの人は……
肩を竦めて、瀬那はまるで子どもに言い聞かせる母親のように、優しい口調で要に話しかける。
「必要はありますよ。私は今日で退職します。手続きもすべて終わっています。専務が何をどう言ってもそれは覆りませんし、そのつもりも一切ありません。ですから、新しい秘書は必要です」
瀬那の強固な意志を悟ったのか、要が顔を顰める。彼も本当はわかっているはずだ。瀬那の退職は決定事項だ。今になって、それがひっくり返ることは絶対にない。
そもそもにおいて、瀬那の就職は初めから期間限定のものだった。
瀬那の祖母は、小さいながらも料理屋を営んでいる。昼は和食を中心とした定食とあんみつなどの甘味を提供し、近所の主婦や学生の憩いの場になり、夜は和食を中心に提供する小料理屋として、家族連れやサラリーマンで賑わう店になる。二つの顔を持つその場所が、幼い頃から瀬那は大好きだった。
特に店で凛と背筋を伸ばして接客する祖母の姿は、瀬那の憧れだった。いつか祖母のようになりたい、店を継ぎたいと自然に思うようになった。
大学在学中に必要と思われる資格をすべて取り、大学を卒業したら祖母の店を継ぐと宣言したが、それは当の祖母によってあっさりと却下された。
『ひよっこが、年寄りの楽しみを奪うんじゃないよ。この店を継ぎたいのなら、もう少し世間の荒波に揉まれておいで』
その時点で、瀬那は大学四年生になっていた。自分でもかなり呑気だったと思うが、店を継ぐ気でいた瀬那は就職活動を一切していなかった。
現状を知って呆れた祖母が、伝手を辿って修業の名のもと瀬那を預けたのが、要の祖父が経営していたこの会社だった。
日本の外食企業の最大手Nホールディングス。要の祖父が始めた定食屋が始まりで、今では和食レストランとしてチェーン展開し、安定した人気を博している。海外の日本食ブームの波に乗り、順調に業績を伸ばしている。
それだけではなく、要の父や要自身が中心となって、他の外食企業やレストランのM&Aを実施し、洋食専門のファミリーレストラン、中華料理店、イタリアン、居酒屋などのチェーン店など傘下の企業や店舗を増やし、業績は今も右肩上がりで成長を続けている。
若い頃に芸者をしていた祖母のファンだったという要の祖父は、祖母の願いを二つ返事で引き受けてくれた。
いわゆる縁故採用。しかも創業者たる会長からの強固な推薦だ。周りの一般社員にしたら腫物扱いで、取扱注意人物になってもおかしくなかったが、そんなことは一切なかった。
第一に、『英恵さんから信頼されて、お孫さんを預けられたんだ! どこに出しても恥ずかしくない社会人として立派に鍛えてみせる!』と要の祖父が張り切った。
会長は叩き上げの現場の人間で、いまだに各店舗の厨房に立つこともある。それに付き合って、瀬那も全国各地の店を回り、接客のイロハから社会人としての基礎まで徹底的に叩き込まれた。まさに修業の名にふさわしい期間だったが、夢見がちで呑気な女の子が、少しは使える社会人になれたのは、要の祖父をはじめとした周囲の人々が鍛えてくれたおかげだと思っている。その中で特に厳しかったのが、目の前のこの上司だった。
要は出会った最初から、祖父の縁故で入社した瀬那を嫌っていた。それは態度にも出ていたし、面と向かって『気に食わない』とも言われていた。
そう思われても仕方ない部分が確かにあった。大企業の三代目の跡取り息子として嫉妬と揶揄に塗れて育ってきた要は、それを実力と実績で黙らせてきた。そんな彼からしたら、瀬那は甘えた子どもにしか見えなかったことだろう。
会長の下で社会人として鍛えられた瀬那は、経験を積むという名目で、要の第二秘書につけられたのだが、この男は本当に容赦がなかった。
たとえ祖父に縁のある人間だろうが、完璧主義者の男は仕事に一切の妥協を許さなかった。
日本国内だけではなく海外の支店にまで連れ回され、公私の区別なくこの男のために奔走する毎日。
――何度、この男の取り澄ました綺麗な顔を殴りたいって思ったかしら?
過去を振り返る瀬那の眼差しが、一瞬だけ険しいものになる。それくらい、過酷な日々だった。
けれど、その日々もただ辛いことばかりだったわけではない。楽しいことも嬉しいこともたくさんあった。悔しいが、仕事に関して要は非常に尊敬できる上司で、彼に認められることは自信にも繋がった。
書類の不備を指摘されることもなくなり、少しずつスケジュール管理を任されて、気づけば瀬那は要の第一秘書になり、ほぼ専任の状況になっていた。
本当であれば五年で終えるはずだった修業期間を一年延長したのは、要ともっと一緒に仕事がしたかったからだ。
もうあと数年、要の秘書を続けてもいいかと思っていたが、去年の秋に祖母の肺癌が発覚した。風邪一つ引かない健康な人だと思っていた祖母の病気に、瀬那は動揺した。
幸い年齢的なこともあり進行は遅く、転移もなかったので、手術後の経過も良好だった。
退院後は以前と変わらず元気に過ごしているが、それでも瀬那は祖母の年齢を実感してしまった。
祖母に残された時間が、あまり多くはないかもしれないと感じて、いてもたってもいられなくなった。祖母を傍で支えたいと、退職を決意した。瀬那の覚悟を、今度は祖母も受け入れてくれた。
そこからは怒涛の日々だった。自分の後を任せる新しい秘書の選定から仕事の引継ぎなど、各種の事務手続きを経て、年度末の区切りの今日、退職の日を迎えたはずだった。
要が立ち上がり、手にした書類ケースをデスクに放る。その音で、瀬那は過去の回想から現在に立ち戻った。
「……え?」
ハッと我に返った時には、手を掴まれて引き寄せられていた。不意を突かれて、瀬那はバランスを崩す。鼻先に男の纏うフレグランスが香った。独我論者という意味を持つその香水の香りは、柑橘系の爽やかさの中に、男の色気を感じさせる重厚さがある。要の不遜な性格も相まって、とても彼に合っていた。今日はその香りに煙草の匂いが混じっている。
嗅ぎ慣れないそれは、瀬那の胸を騒がせた。
男の腕の中に囚われて、瀬那は瞳を瞠る。顎を持ち上げられて、吐息の触れる距離に要の端整な顔が迫ってきた。
間近で見ても完璧な男の美貌に、瀬那は息を呑んだ。
「……こんなことになるなら、さっさと押し倒しておけばよかった」
不機嫌そうに吐き捨てられて、瀬那は呆れた笑いを漏らす。
「そんなことをすれば、あそこを蹴り上げて、セクハラで訴えてます」
「本当に可愛くない女だな」
「今更でしょう?」
要が不機嫌そうに顔を顰めた。その表情を見上げて、瀬那の胸の奥が淡く疼く。
出会いから相性は悪く、衝突を繰り返してきたのに、瀬那はこの上司に惹かれていた。
けれど、その想いを育てるには、目の前の男は色々な意味で難しかった。
仕事には厳しい割に、美しく財力もある男は、かなり派手に遊び回っていた。
時々にいる恋人の一人になるには、瀬那は情が強すぎた。
だから、瀬那は早々にこの恋に見切りをつけた。不毛な恋に時間を費やすには、仕事が忙しすぎたのもある。
要の恋人の代わりはいくらでも希望者がいるが、仕事におけるサポート役としての瀬那の代わりはいない。その矜持だけを胸に今日までやってきたのだ。
でも今、その関係が崩れそうになっていた。要の親指が、瀬那の唇に触れる。瀬那の唇の形を辿る男の指先の感触に、胸がざわついた。
――今すぐ、離れた方がいい。
理性がそう告げているのに、瀬那は動けなかった。いや、動かなかった。
ただ黙って、男にされるまま、要の行動を見つめている。抵抗しない瀬那に力を得たように、男の端整な顔が近づいてくる。男の瞳に映る自分は見知らぬ女の顔をしていた。
どうせ今日で最後だ。
だったら最後くらい、衝動のままに動いても罰は当たらない気がして、瀬那は瞼を閉じた。
唇に男の吐息が触れて、鼓動が速くなる。唇に柔らかなものが触れて、濡れた舌が瀬那の口の中に忍び込み、淡い疼きが背筋を滑り落ちた。
――あなたが好きでした。
胸の中でする告白すら過去形なのは、瀬那の覚悟だ。もう過去は振り返らない。瀬那は今日で、この男のもとを去る。
――これはただの餞だ。淡いままで終わらせた自分の恋への――
絡めた舌の甘さに、瀬那は男の背に腕を回して縋る。崩れ落ちそうな体を男の力強い腕が支え、唇が一瞬だけ離れる。
「……セクハラですよ」
囁き声で告げれば、男はハッと笑った。
「訴えたければ、訴えればいい」
強気で言い切った男に、「馬鹿ですね」と囁き声で返す。
「そうかもな。だから、今こんなことになってる」
要が瀬那の髪を、一房指に巻き取った。それに口づけながら、悪辣に笑う男の瞳に、苦い悔恨が一瞬だけ過った。
それが何を意味するものなのか、知りたいような、知りたくないような、相反する想いが瀬那の心を揺らす。
――でも、それを聞いたところで今更だ。
顔がよくて、仕事もできて、地位も財力も持っている。女にモテない要素が全くない。
そんな男に選ばれる何かを、瀬那は何一つ持っていない。唯一の矜持であった仕事も、今日で手放す。だから、瀬那は何も聞かないことを選んだ。
――これは終わりだ。始まりじゃない。
そう思うのに、再び近づいてくる男の唇を拒めない。自分の心なのに、全く思い通りにならないまま、瀬那は再び瞼を伏せた。
月明かりに照らされて、二人の影が重なり合う――
第1章 嘘つきたちの事情
「瀬那さん。ごちそうさま。今日も美味しかったわ」
「ありがとうございます。またいらしてください」
会計を済ませた常連客の言葉に、瀬那は柔らかく微笑んで頭を下げる。
「今日の帯留は、蛙の王様なのね。可愛い。こんな帯留もあるのねー」
年配の女性である常連客は、瀬那が今日のおしゃれのポイントにした帯留に目を留めて、瞳を輝かせた。
褒められたことが嬉しくて、瀬那は王冠を被った蛙の帯留をひと撫でする。
「最近の一番のお気に入りなんです」
「可愛いものね。私たちの頃はこんな可愛い帯留とかはなかったから、うらやましいわ」
「これ、実はブローチなんです。それを専用の金具で帯留にしてるんですよ」
「そうなの? 今はそんなものもあるのね! いいわねー」
瀬那の説明に常連客の女性が感心したように頷く。
「私、ここには高田君のご飯が楽しみで来てるけど、瀬那さんの着物姿も楽しみにしてるのよ。英恵さんのきりっとした着物姿も素敵だったけど、瀬那さんの今風の着付けも可愛らしくて、今日はどんな格好をしているのかしら? ってワクワクしているのよ」
にこにこと微笑んでの褒め言葉に、瀬那はくすぐったさを覚えて、頬を染めた。色白の瀬那は、すぐに顔が赤くなる。その顔を常連客の女性は、温かな眼差しで見つめた。
瀬那の祖母・英恵の代から通ってきている彼女にとって、瀬那は孫と言っても過言ではないほど身近な存在だった。
幼い頃から英恵の後ろをついて歩いて、接客の真似事をする彼女は、この店のマスコット的な存在だった。猫のようなアーモンドアイをキラキラ輝かせて、祖母を見上げる瀬那は本当に可愛らしかったと思う。
年齢の割に童顔なところはあるが、すっかり落ち着いた女性に成長した瀬那が、装いを褒められて頬を染める姿は、彼女の目には初々しく映った。その様子が幼い頃の姿に重なって、常連客はただただ微笑ましくなる。
「ありがとうございます」
気恥ずかしさに何と答えたものか迷い、もう一度礼を告げて頭を下げた。瀬那は常連客の女性を外まで見送るために、カウンターを出る。
一緒に店の出口まで歩み、瀬那は客のために店の引き戸を開けた。
「それじゃあ、またね」
「はい。またいらしてください。お待ちしています」
昼の最後の客だった彼女の後ろ姿が、初夏の柔らかな午後の日差しに照らされた。瀬那は一瞬、その眩しさに目を細める。庭の緑が鮮やかに輝いて見えた。
客が敷地を出ていったのを見送って、瀬那は昼営業が終わった印に、のれんを下ろした。
爽やかな緑の匂いを孕んだ風が前髪を揺らして、瀬那は手を止めた。
――もうすぐ夏ね。
のれんを手に、瀬那は初夏らしい澄んだ青空を見上げて、笑みを浮かべる。
瀬那はこの時期が一番好きだった。咲き誇る花々で絢爛さを誇る春と、鮮烈な暑さで人々を輝かせる夏。その狭間にあり、どちらの良さも併せ持つ瞬きのような短さのこの時期が、一年の中で一番美しいと思っている。
瀬那はのれんを玄関横の壁に立てかけると、『ただいま閉店中』の札を店の引き戸にぶら下げて、店の中に戻った。
デスク上の私物をまとめた段ボール箱と、退職祝いの花束を見下ろして、市原瀬那はやっと最後の業務が終わったことを実感する。
大学卒業から就職して六年――決して短くはない時間を過ごした秘書室を改めて見回した。
デスクが整然と並び、壁際にはキャビネットが備え付けられている。いくつかのパーティションで仕切られたフロアは機能的に整えられ、清潔感のある職場だった。
この場所で、瀬那は社会人としての基礎を叩き込まれた。時に厳しく、時に優しく指導してくれた先輩たちには感謝しかない。
普段は室長を含め十五名ほどの人間が職務につき、それなりに賑やかなこの場所も、今はひっそりと静まり返っている。
それもそのはずで、終業時間はとうの昔に過ぎていた。今、秘書室に残っているのは、今日付けで退職する瀬那一人だけ。
苦楽を共にした仲間たちとは、先週のうちに送別会を済ませている。だから、今日の別れはからりとして、笑いに満ちたものだった。
夢を叶えるために退職する瀬那を、激励と共に見送ってくれた人々の顔を思い出せば、瀬那の表情も柔らかなものに変わる。
その中で、ただ一人だけ仏頂面を晒していた男――その男のせいで、今日で最後だというのに、瀬那はこんな時間まで残業する羽目になっていた。
最後の最後まで迷惑をかけてくれる男の端整な顔を思い浮かべて、瀬那は大きく息を吐く。
――荷物はまとめ終わったし、頼まれた書類も片付けた。
後はあの男に退職の挨拶をして、押し付けられたこの仕事を渡せば、ここでの瀬那の仕事は本当に終わる。
瀬那は小さく気合を入れると書類ケースを手に秘書室を出て、男のいる役員室に向かって歩む。
終業時間を過ぎた今、役員室の並ぶ廊下の電灯は絞られて、ひっそりと静かだった。
そこに瀬那の靴音だけが反響する。
ほどなくして辿り着いた部屋の前で、瀬那は再び小さく息を吐き出して気持ちを整える。
扉をノックするが、返事はない。だが、この部屋に男が在室していることを、瀬那は知っていた。
中の男の不機嫌さを表す無言の行動に、瀬那の唇から苦笑が漏れる。
――いまだにあの男は、私の退職に納得していないらしい。
それでも瀬那は今日、この場所を去る。それは最初から決まっていたことで、もうすべての手続きは済んでいた。いくらあの男が騒いだところで、この結果を覆すつもりは瀬那にはない。
――だって、ずっと叶えたい夢だったんだもの。
心の中でそう呟いて、瀬那はもう一度、扉をノックする。
「失礼します」
今度は返事を待たずに扉を開けた。
鍵はかかっておらず、扉はすんなりと開く。部屋の中は照明が落とされていた。
それはある意味いつもの光景だったが、瀬那はその中に普段と違うものを見つけて、足を止めた。
壁一面に取られた大きな窓から差し込む月明かりと、高層ビル群が放つ星屑のような明かりが、部屋の中を淡く照らしている。物の形がうっすらと浮かび上がるだけの部屋の中で、小さな赤い火と紫煙がたなびくのが見えた。遅れて、煙草の独特な匂いが漂ってくる。
――煙草?
六年という時間を一緒に過ごしたが、この上司が煙草を吸っているのを初めて見て、瀬那は意外な思いに目を瞬かせる。
瀬那の立つ出入り口から、男の姿は見えない。大きなデスクチェアの背とその肘掛けに置かれた指の先の、赤く燃える火だけが見えた。
瀬那は男の姿が見える位置まで歩み寄る。男――瀬那の直接の上司であった西園要は、無表情で目の前に広がる夜景を見下ろしていた。
瀬那が傍に来たことに気づいているはずなのに、その視線がこちらを向くことはない。
頑なな男の態度に苦笑を漏らして、瀬那も夜景に視線を向ける。
高層階のビルから夜景を見下ろすと、一瞬自分が宙に浮いているような錯覚を覚えた。
宝石箱をひっくり返したようなとよく表現されるが、確かに都会の夜景は様々な色が明滅を繰り返し、見飽きるということがない地上の宝石箱のようだ。天上の星々よりも輝いて見える。
今宵は、十六夜の月。望月ではないことを恥じるようにゆっくりと昇り始めた月が、高層ビル群の狭間から顔を出していた。
――何度こうして、この人と夜景を見ただろう?
白く輝く月を見つめる瀬那の胸に、ふとそんな思いが過った。
仕事で行き詰まり思案にくれる時、疲れている時など、要はこうして黙って夜景を眺める癖があった。彼にとってその時間が、とても重要なものであることを瀬那は知っている。
それは、この忙しい男にとって、唯一の休息の時間でもあった。
――いつからだっただろう? 二人で夜景を眺めるようになったのは――
夜景を眺める時間を邪魔されることを要はひどく嫌う。だから、この時間は誰も彼の傍に近寄れなかった。けれど、いつの頃からか、瀬那だけは傍にいることを許された。
むしろ、一緒にいることを求められるようになった。
会話もないまま、ただ静かに夜景を眺める時間――それは濃密な記憶として瀬那の胸に刻まれている。互いの沈黙を受け入れる時間は、幾百の言葉を重ねるより余程、二人の関係を強く結び付けた気がしたからかもしれない。
――もう、ここで一緒に夜景を眺めることもないのか。
新しい門出に期待で膨らんでいた胸に、感傷にも似た寂しさが過った。それを振り切るように、瀬那は夜景から要に視線を戻す。
男は相変わらず、無表情で夜景を眺めていた。窓から差し込む月明かりに、その端整な美貌が仄かに浮かび上がる。緩くウェーブのかかるアッシュブラウンの髪。祖母がイタリア系の日本人であるせいか、その目鼻立ちは普通の日本人よりも深く整っている。意志の強そうな眉に、ブラウンの切れ長の目、高く通った鼻梁から薄い唇の配置は絶妙で、成熟した男の色気を漂わせている。
要の美貌を見るたびに思う――彼は神が丹精込めて作り上げた芸術品の一つではないかと。そう思ってしまうほどに、要は美しい。
――でも、せっかくの美貌も、その性格の悪さが台無しにしてるけどね。
心の中でため息交じりの悪態をつく。確かに要は美しい。だが、その性格の悪さに振り回されてきた瀬那にとっては、憎たらしいばかりだ。
退職日にまで残業をさせられたとあっては、その思いはいや増している。
瀬那は要の顔を見下ろして、「西園専務」と呼びかけた。これまでの鬱憤が呼びかける声に滲んでいる。しかし、要の視線が瀬那を向くことはなかった。
無反応な相手に構わず、瀬那は頼まれていた書類の入っているファイルケースを彼の膝の上に載せた。
そこでやっと要の綺麗な眉が寄せられて、不快さが表情に表れる。
「頼まれていた新しい秘書候補のプロフィールです」
瀬那の言葉に、要は眉を寄せたまま膝の上に置かれた書類ケースの表紙にちらりと視線を向け、再び夜景に視線を戻した。
「却下」
短い一言が返されて、瀬那の額に青筋が浮く。
――見もしないで、何言ってるのよこの男は!
昨日要は、瀬那が完璧に引き継ぎを終わらせた三名の選りすぐりの女性秘書を、自身へのセクハラを理由に業務から外した。
突然のことに瀬那たち秘書室一同は混乱し、要の説明に唖然とした。
特に瀬那は、彼女たちを推薦した時の、満足そうな要の姿を覚えている。美女を侍らせてご機嫌だったのは誰だ! むしろ要が、彼女たちにセクハラをしたと言われた方が、よっぽど納得できた。
わがままな男のために、容姿もキャリアも優れた女性たちを口説き落としたというのに、瀬那の苦労はあの一瞬で、すべて灰燼と帰した。
そして、今日――新しい秘書の選別を命じられた。今まさに帰ろうとしていた瀬那を引き留めての命令に、瀬那を含めた周囲は呆気にとられた。
あの瞬間、よく自分の血管は、怒りでぶち切れなかったと瀬那は思う。
もう今日で退職なのだから、そんな命令は無視して帰ってもよかったのだが、そこで瀬那の負けず嫌いな性格が顔を出した。最後まできっちりと勤め上げたことを証明して辞めたかった。だからこそ、要の命令を引き受けたのだが、それが間違いのもとだった。
彼が新しい秘書に出した条件は、とんでもないものばかりだった。こんな短時間で見つけられるか! と思ったが、一人に絞らず数人で補えるように時間をかけて候補を絞った。おかげで退職日だというのに、こんな時間まで瀬那は残業する羽目になった。秘書室の幾人かの手を借りて、先ほどようやく納得できる人選が終わったところだった。
――だというのに、この男は!
湧き上がってくる怒りを宥めるために、瀬那は深呼吸する。
――落ち着け瀬那。怒るだけ無駄だ。
「子どもですか? 何が気に入らないんです?」
瀬那の問いに、要が初めてこちらを見た。
男のブラウンの瞳が、瀬那を真っ直ぐ射貫いてくる。その視線の強さに、瀬那は一瞬たじろぐが、負けずに睨み返す。
子どものように駄々をこねている男に、負けるわけにはいかないのだ。しばし、二人の視線の間で火花が散る。
「……気に入るわけがあるか」
要がようやくその重い口を開いた。
「何が?」
「お前がいるのに、何故、今更新しい秘書を雇う必要があるんだ?」
要の言葉に瀬那は、怒っていたことも忘れて、苦笑が零れそうになる。
たった一言で、瀬那の心を捕らえるのだから、この男はずるい。
――全くこの人は……
肩を竦めて、瀬那はまるで子どもに言い聞かせる母親のように、優しい口調で要に話しかける。
「必要はありますよ。私は今日で退職します。手続きもすべて終わっています。専務が何をどう言ってもそれは覆りませんし、そのつもりも一切ありません。ですから、新しい秘書は必要です」
瀬那の強固な意志を悟ったのか、要が顔を顰める。彼も本当はわかっているはずだ。瀬那の退職は決定事項だ。今になって、それがひっくり返ることは絶対にない。
そもそもにおいて、瀬那の就職は初めから期間限定のものだった。
瀬那の祖母は、小さいながらも料理屋を営んでいる。昼は和食を中心とした定食とあんみつなどの甘味を提供し、近所の主婦や学生の憩いの場になり、夜は和食を中心に提供する小料理屋として、家族連れやサラリーマンで賑わう店になる。二つの顔を持つその場所が、幼い頃から瀬那は大好きだった。
特に店で凛と背筋を伸ばして接客する祖母の姿は、瀬那の憧れだった。いつか祖母のようになりたい、店を継ぎたいと自然に思うようになった。
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その時点で、瀬那は大学四年生になっていた。自分でもかなり呑気だったと思うが、店を継ぐ気でいた瀬那は就職活動を一切していなかった。
現状を知って呆れた祖母が、伝手を辿って修業の名のもと瀬那を預けたのが、要の祖父が経営していたこの会社だった。
日本の外食企業の最大手Nホールディングス。要の祖父が始めた定食屋が始まりで、今では和食レストランとしてチェーン展開し、安定した人気を博している。海外の日本食ブームの波に乗り、順調に業績を伸ばしている。
それだけではなく、要の父や要自身が中心となって、他の外食企業やレストランのM&Aを実施し、洋食専門のファミリーレストラン、中華料理店、イタリアン、居酒屋などのチェーン店など傘下の企業や店舗を増やし、業績は今も右肩上がりで成長を続けている。
若い頃に芸者をしていた祖母のファンだったという要の祖父は、祖母の願いを二つ返事で引き受けてくれた。
いわゆる縁故採用。しかも創業者たる会長からの強固な推薦だ。周りの一般社員にしたら腫物扱いで、取扱注意人物になってもおかしくなかったが、そんなことは一切なかった。
第一に、『英恵さんから信頼されて、お孫さんを預けられたんだ! どこに出しても恥ずかしくない社会人として立派に鍛えてみせる!』と要の祖父が張り切った。
会長は叩き上げの現場の人間で、いまだに各店舗の厨房に立つこともある。それに付き合って、瀬那も全国各地の店を回り、接客のイロハから社会人としての基礎まで徹底的に叩き込まれた。まさに修業の名にふさわしい期間だったが、夢見がちで呑気な女の子が、少しは使える社会人になれたのは、要の祖父をはじめとした周囲の人々が鍛えてくれたおかげだと思っている。その中で特に厳しかったのが、目の前のこの上司だった。
要は出会った最初から、祖父の縁故で入社した瀬那を嫌っていた。それは態度にも出ていたし、面と向かって『気に食わない』とも言われていた。
そう思われても仕方ない部分が確かにあった。大企業の三代目の跡取り息子として嫉妬と揶揄に塗れて育ってきた要は、それを実力と実績で黙らせてきた。そんな彼からしたら、瀬那は甘えた子どもにしか見えなかったことだろう。
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たとえ祖父に縁のある人間だろうが、完璧主義者の男は仕事に一切の妥協を許さなかった。
日本国内だけではなく海外の支店にまで連れ回され、公私の区別なくこの男のために奔走する毎日。
――何度、この男の取り澄ました綺麗な顔を殴りたいって思ったかしら?
過去を振り返る瀬那の眼差しが、一瞬だけ険しいものになる。それくらい、過酷な日々だった。
けれど、その日々もただ辛いことばかりだったわけではない。楽しいことも嬉しいこともたくさんあった。悔しいが、仕事に関して要は非常に尊敬できる上司で、彼に認められることは自信にも繋がった。
書類の不備を指摘されることもなくなり、少しずつスケジュール管理を任されて、気づけば瀬那は要の第一秘書になり、ほぼ専任の状況になっていた。
本当であれば五年で終えるはずだった修業期間を一年延長したのは、要ともっと一緒に仕事がしたかったからだ。
もうあと数年、要の秘書を続けてもいいかと思っていたが、去年の秋に祖母の肺癌が発覚した。風邪一つ引かない健康な人だと思っていた祖母の病気に、瀬那は動揺した。
幸い年齢的なこともあり進行は遅く、転移もなかったので、手術後の経過も良好だった。
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そこからは怒涛の日々だった。自分の後を任せる新しい秘書の選定から仕事の引継ぎなど、各種の事務手続きを経て、年度末の区切りの今日、退職の日を迎えたはずだった。
要が立ち上がり、手にした書類ケースをデスクに放る。その音で、瀬那は過去の回想から現在に立ち戻った。
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男の腕の中に囚われて、瀬那は瞳を瞠る。顎を持ち上げられて、吐息の触れる距離に要の端整な顔が迫ってきた。
間近で見ても完璧な男の美貌に、瀬那は息を呑んだ。
「……こんなことになるなら、さっさと押し倒しておけばよかった」
不機嫌そうに吐き捨てられて、瀬那は呆れた笑いを漏らす。
「そんなことをすれば、あそこを蹴り上げて、セクハラで訴えてます」
「本当に可愛くない女だな」
「今更でしょう?」
要が不機嫌そうに顔を顰めた。その表情を見上げて、瀬那の胸の奥が淡く疼く。
出会いから相性は悪く、衝突を繰り返してきたのに、瀬那はこの上司に惹かれていた。
けれど、その想いを育てるには、目の前の男は色々な意味で難しかった。
仕事には厳しい割に、美しく財力もある男は、かなり派手に遊び回っていた。
時々にいる恋人の一人になるには、瀬那は情が強すぎた。
だから、瀬那は早々にこの恋に見切りをつけた。不毛な恋に時間を費やすには、仕事が忙しすぎたのもある。
要の恋人の代わりはいくらでも希望者がいるが、仕事におけるサポート役としての瀬那の代わりはいない。その矜持だけを胸に今日までやってきたのだ。
でも今、その関係が崩れそうになっていた。要の親指が、瀬那の唇に触れる。瀬那の唇の形を辿る男の指先の感触に、胸がざわついた。
――今すぐ、離れた方がいい。
理性がそう告げているのに、瀬那は動けなかった。いや、動かなかった。
ただ黙って、男にされるまま、要の行動を見つめている。抵抗しない瀬那に力を得たように、男の端整な顔が近づいてくる。男の瞳に映る自分は見知らぬ女の顔をしていた。
どうせ今日で最後だ。
だったら最後くらい、衝動のままに動いても罰は当たらない気がして、瀬那は瞼を閉じた。
唇に男の吐息が触れて、鼓動が速くなる。唇に柔らかなものが触れて、濡れた舌が瀬那の口の中に忍び込み、淡い疼きが背筋を滑り落ちた。
――あなたが好きでした。
胸の中でする告白すら過去形なのは、瀬那の覚悟だ。もう過去は振り返らない。瀬那は今日で、この男のもとを去る。
――これはただの餞だ。淡いままで終わらせた自分の恋への――
絡めた舌の甘さに、瀬那は男の背に腕を回して縋る。崩れ落ちそうな体を男の力強い腕が支え、唇が一瞬だけ離れる。
「……セクハラですよ」
囁き声で告げれば、男はハッと笑った。
「訴えたければ、訴えればいい」
強気で言い切った男に、「馬鹿ですね」と囁き声で返す。
「そうかもな。だから、今こんなことになってる」
要が瀬那の髪を、一房指に巻き取った。それに口づけながら、悪辣に笑う男の瞳に、苦い悔恨が一瞬だけ過った。
それが何を意味するものなのか、知りたいような、知りたくないような、相反する想いが瀬那の心を揺らす。
――でも、それを聞いたところで今更だ。
顔がよくて、仕事もできて、地位も財力も持っている。女にモテない要素が全くない。
そんな男に選ばれる何かを、瀬那は何一つ持っていない。唯一の矜持であった仕事も、今日で手放す。だから、瀬那は何も聞かないことを選んだ。
――これは終わりだ。始まりじゃない。
そう思うのに、再び近づいてくる男の唇を拒めない。自分の心なのに、全く思い通りにならないまま、瀬那は再び瞼を伏せた。
月明かりに照らされて、二人の影が重なり合う――
第1章 嘘つきたちの事情
「瀬那さん。ごちそうさま。今日も美味しかったわ」
「ありがとうございます。またいらしてください」
会計を済ませた常連客の言葉に、瀬那は柔らかく微笑んで頭を下げる。
「今日の帯留は、蛙の王様なのね。可愛い。こんな帯留もあるのねー」
年配の女性である常連客は、瀬那が今日のおしゃれのポイントにした帯留に目を留めて、瞳を輝かせた。
褒められたことが嬉しくて、瀬那は王冠を被った蛙の帯留をひと撫でする。
「最近の一番のお気に入りなんです」
「可愛いものね。私たちの頃はこんな可愛い帯留とかはなかったから、うらやましいわ」
「これ、実はブローチなんです。それを専用の金具で帯留にしてるんですよ」
「そうなの? 今はそんなものもあるのね! いいわねー」
瀬那の説明に常連客の女性が感心したように頷く。
「私、ここには高田君のご飯が楽しみで来てるけど、瀬那さんの着物姿も楽しみにしてるのよ。英恵さんのきりっとした着物姿も素敵だったけど、瀬那さんの今風の着付けも可愛らしくて、今日はどんな格好をしているのかしら? ってワクワクしているのよ」
にこにこと微笑んでの褒め言葉に、瀬那はくすぐったさを覚えて、頬を染めた。色白の瀬那は、すぐに顔が赤くなる。その顔を常連客の女性は、温かな眼差しで見つめた。
瀬那の祖母・英恵の代から通ってきている彼女にとって、瀬那は孫と言っても過言ではないほど身近な存在だった。
幼い頃から英恵の後ろをついて歩いて、接客の真似事をする彼女は、この店のマスコット的な存在だった。猫のようなアーモンドアイをキラキラ輝かせて、祖母を見上げる瀬那は本当に可愛らしかったと思う。
年齢の割に童顔なところはあるが、すっかり落ち着いた女性に成長した瀬那が、装いを褒められて頬を染める姿は、彼女の目には初々しく映った。その様子が幼い頃の姿に重なって、常連客はただただ微笑ましくなる。
「ありがとうございます」
気恥ずかしさに何と答えたものか迷い、もう一度礼を告げて頭を下げた。瀬那は常連客の女性を外まで見送るために、カウンターを出る。
一緒に店の出口まで歩み、瀬那は客のために店の引き戸を開けた。
「それじゃあ、またね」
「はい。またいらしてください。お待ちしています」
昼の最後の客だった彼女の後ろ姿が、初夏の柔らかな午後の日差しに照らされた。瀬那は一瞬、その眩しさに目を細める。庭の緑が鮮やかに輝いて見えた。
客が敷地を出ていったのを見送って、瀬那は昼営業が終わった印に、のれんを下ろした。
爽やかな緑の匂いを孕んだ風が前髪を揺らして、瀬那は手を止めた。
――もうすぐ夏ね。
のれんを手に、瀬那は初夏らしい澄んだ青空を見上げて、笑みを浮かべる。
瀬那はこの時期が一番好きだった。咲き誇る花々で絢爛さを誇る春と、鮮烈な暑さで人々を輝かせる夏。その狭間にあり、どちらの良さも併せ持つ瞬きのような短さのこの時期が、一年の中で一番美しいと思っている。
瀬那はのれんを玄関横の壁に立てかけると、『ただいま閉店中』の札を店の引き戸にぶら下げて、店の中に戻った。
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