雨月の恋

桜 朱理

文字の大きさ
上 下
3 / 4

3)雨を愛せなくなった女

しおりを挟む
雨が降る。まるで千歳と世界を隔てるように、しとしとと雨が降る。

 その雨音を聞きながら、千歳は呆然として、手の中のものを見ていた。

 何度見ても結果は変わらない。

 手にした妊娠検査薬の陽性反応に、どうすればいいのかわからずに、居間の床に座り込んだままずっと動けずにいた。

 ここ最近の倦怠感と吐き気に、まさかの想いで手にした妊娠検査薬。

 千歳は事故の後遺症で生理がずっと不順だった。妊娠も難しいかもしれないと言われてきた。

 それでも、響は避妊に気を配っていたから、千歳との子どもを望んではいなかったのだろう。

 十年一緒に過ごしていても、千歳は響のことを何も知らない。 

 千歳が響のことで知っていることは片手で足りてしまう。

 三歳年上で、大きな会社の営業をしていること。

 両親を早くに亡くして、一回り年の離れていた姉に育てられていたこと。

 そして、何よりも姉を奪った千歳を憎んでいること。

 それ以上のことを、千歳は知らない。

「……どうしよう」

 呟いた言葉は、暗い部屋に虚ろな響きを残して消える。

 ――彼はきっとこの子を望まない。

 千歳はそっと自分の下腹部に手を当てた。まだ、平らなその場所に響の子どもがいるのかと思えば、愛おしさが湧き上がる。

 ――産みたい。

 不意に強くそう思った。彼に憎まれていることも、この子が彼に望まれないことをわかっていても、千歳はお腹の子を産みたいと思った。

 顔を上げると雨が激しさを増していた。もうすぐ夜の帳が下りてくる。今日もきっと響きはやって来る。

 雨の夜、姉を失った痛みを紛らわせるために――

 今日も陰鬱に曇る空を眺めて、千歳は心を決める。迷ったのはさほど長い時間ではなかった。

 ――ごめんね。

 謝ったのはお腹の子に対してだったのか、響に対してだったのか――答えを知るのは、今日も降り続ける雨のみだった。







 チャイムが鳴って、いつものごとく響がやって来た。

 相変わらず無言の男は、千歳の顔を見て瞳を細める。伸びてきたてが、千歳を抱きしめた。

 響からは雨の匂いが強く香った。その匂いにほっとする。

 力強い腕が今日も千歳の肌を乱す。首筋に埋められた唇が、儀式のごとくいつもの五文字を刻む。

『ユルサナイ』

 普段であれば、その言葉を肌に刻まれるたびに、ホッとしていたのに、今日はひどく胸が痛んだ。

 痛みに溺れるように千歳は、響の首に腕を回して抱き着く。

「千歳?」

 いつにない千歳の行動に、響が驚いたように彼女の名前を呼ぶ。その声が好きだと思った。

 低く艶のある男の声が、千歳の心を揺らす。この声だけが、千歳の心を掴んで離さない。

 千歳は一度瞼を伏せて開くと、目の前の男の肩先に口づけて、そっと音に出来ない言葉を刻む。

『アイシテル』

 男の硬い肌に吸い付いて、赤い花びらと同時に自分の恋をその肌に埋め込んだ。

 ――私の恋はこの場所に残していく。

 どうか気づいてと思う心と、一生、何も知らないでと思う心が、千歳の中で複雑に混じり合う。

 痛みにも似たその想いを抱えて千歳はふわりと笑う。あどけない少女のような微笑みに、見惚れた響が息を呑む。

「響さん……」

 そっと愛おしい男の名前を呼べば、自分を抱く響の腕の力が強くなった。

 吐息ごと唇を奪われた。その力強さに、千歳は安堵を覚えて瞼を閉じる。

 絡め合った舌に、体の奥が熱く蕩けていく。

 事故のせいで、傷だらけの肌を辿る男の指先が、ただ、ただ愛おしくて、泣きたくなる。

 いつだって、千歳が響に触れる指は優しかった。

 傍若無人に見せていても、響が本当の意味で、千歳を傷つけたことはただの一度もない。

 響が触れた所から、千歳の体には熱が灯り、どうしようもない疼きを覚えて、千歳は声を上げる。

 顎、鎖骨、胸のふくらみ、まだ平らな下腹部。いくつも残る事故の手術跡を辿るように響の唇が触れていく。

 響が触れてくれるたび、今まで感じたこともないような、疼きと熱が湧き上がってくる。

 仰のいた先、見上げた空は今日も雨――二人を繋ぐ雨が空から降り注いでいる。

 星の煌めきも見えない闇の底に、雨音と一緒に二人で沈み込む。

 濡れた吐息と、絡まる素肌。繋がった体が快楽を、千歳に送り込む。

 自分とは違う硬い男の素肌とそのぬくもりに、乱れて、溺れた千歳はただ快楽の鳴き声を上げる。

 出来るわけがないとわかっているのに、このまま響と混ざり合って、熔け合ってしまいたいと願った。

 互いの鼓動が近く重なり合って、息が上がった。

 緩やかに快楽の階を昇っていく――



 ☆



 荷物が運び出されて、空っぽになった部屋を振り返って千歳の心を寂しさが満たす。

 雨の夜――愛おしい男を待ち続けた部屋。いくつもの雨の夜を二人で乗り越えてきた。

 今更の未練が胸を過るが、もう後戻りは出来ない。

 ――きっと大丈夫。

 千歳はそっと自分の下腹部に手を当てて、思い切って部屋の外に出る。

 晴天を選んで引っ越しを決めたはずなのに、何故か視界が滲んでいた。頬が濡れている気がして、千歳は空を見上げた。

 晴れているのに、雨が降り始めていて、こんな時なのにおかしくなる。

 ――私の人生には雨がつきものなのね……

 小さく笑って、千歳は手にしていた折りたたみ傘を開いた。

 それは数年前に響がくれた傘だった。開いた傘の模様は、鮮やかな虹模様。

 旅立ちを祝福するような模様に、心を奮い立たせて、千歳は街の雑踏に足を踏み出した――





 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました

Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。 そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。 相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。 トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。 あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。 ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。 そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが… 追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。 今更ですが、閲覧の際はご注意ください。

愛のゆくえ【完結】

春の小径
恋愛
私、あなたが好きでした ですが、告白した私にあなたは言いました 「妹にしか思えない」 私は幼馴染みと婚約しました それなのに、あなたはなぜ今になって私にプロポーズするのですか? ☆12時30分より1時間更新 (6月1日0時30分 完結) こう言う話はサクッと完結してから読みたいですよね? ……違う? とりあえず13日後ではなく13時間で完結させてみました。 他社でも公開

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

麗しのラシェール

真弓りの
恋愛
「僕の麗しのラシェール、君は今日も綺麗だ」 わたくしの旦那様は今日も愛の言葉を投げかける。でも、その言葉は美しい姉に捧げられるものだと知っているの。 ねえ、わたくし、貴方の子供を授かったの。……喜んで、くれる? これは、誤解が元ですれ違った夫婦のお話です。 ………………………………………………………………………………………… 短いお話ですが、珍しく冒頭鬱展開ですので、読む方はお気をつけて。

処理中です...