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3)雨を愛せなくなった女
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雨が降る。まるで千歳と世界を隔てるように、しとしとと雨が降る。
その雨音を聞きながら、千歳は呆然として、手の中のものを見ていた。
何度見ても結果は変わらない。
手にした妊娠検査薬の陽性反応に、どうすればいいのかわからずに、居間の床に座り込んだままずっと動けずにいた。
ここ最近の倦怠感と吐き気に、まさかの想いで手にした妊娠検査薬。
千歳は事故の後遺症で生理がずっと不順だった。妊娠も難しいかもしれないと言われてきた。
それでも、響は避妊に気を配っていたから、千歳との子どもを望んではいなかったのだろう。
十年一緒に過ごしていても、千歳は響のことを何も知らない。
千歳が響のことで知っていることは片手で足りてしまう。
三歳年上で、大きな会社の営業をしていること。
両親を早くに亡くして、一回り年の離れていた姉に育てられていたこと。
そして、何よりも姉を奪った千歳を憎んでいること。
それ以上のことを、千歳は知らない。
「……どうしよう」
呟いた言葉は、暗い部屋に虚ろな響きを残して消える。
――彼はきっとこの子を望まない。
千歳はそっと自分の下腹部に手を当てた。まだ、平らなその場所に響の子どもがいるのかと思えば、愛おしさが湧き上がる。
――産みたい。
不意に強くそう思った。彼に憎まれていることも、この子が彼に望まれないことをわかっていても、千歳はお腹の子を産みたいと思った。
顔を上げると雨が激しさを増していた。もうすぐ夜の帳が下りてくる。今日もきっと響きはやって来る。
雨の夜、姉を失った痛みを紛らわせるために――
今日も陰鬱に曇る空を眺めて、千歳は心を決める。迷ったのはさほど長い時間ではなかった。
――ごめんね。
謝ったのはお腹の子に対してだったのか、響に対してだったのか――答えを知るのは、今日も降り続ける雨のみだった。
☆
チャイムが鳴って、いつものごとく響がやって来た。
相変わらず無言の男は、千歳の顔を見て瞳を細める。伸びてきたてが、千歳を抱きしめた。
響からは雨の匂いが強く香った。その匂いにほっとする。
力強い腕が今日も千歳の肌を乱す。首筋に埋められた唇が、儀式のごとくいつもの五文字を刻む。
『ユルサナイ』
普段であれば、その言葉を肌に刻まれるたびに、ホッとしていたのに、今日はひどく胸が痛んだ。
痛みに溺れるように千歳は、響の首に腕を回して抱き着く。
「千歳?」
いつにない千歳の行動に、響が驚いたように彼女の名前を呼ぶ。その声が好きだと思った。
低く艶のある男の声が、千歳の心を揺らす。この声だけが、千歳の心を掴んで離さない。
千歳は一度瞼を伏せて開くと、目の前の男の肩先に口づけて、そっと音に出来ない言葉を刻む。
『アイシテル』
男の硬い肌に吸い付いて、赤い花びらと同時に自分の恋をその肌に埋め込んだ。
――私の恋はこの場所に残していく。
どうか気づいてと思う心と、一生、何も知らないでと思う心が、千歳の中で複雑に混じり合う。
痛みにも似たその想いを抱えて千歳はふわりと笑う。あどけない少女のような微笑みに、見惚れた響が息を呑む。
「響さん……」
そっと愛おしい男の名前を呼べば、自分を抱く響の腕の力が強くなった。
吐息ごと唇を奪われた。その力強さに、千歳は安堵を覚えて瞼を閉じる。
絡め合った舌に、体の奥が熱く蕩けていく。
事故のせいで、傷だらけの肌を辿る男の指先が、ただ、ただ愛おしくて、泣きたくなる。
いつだって、千歳が響に触れる指は優しかった。
傍若無人に見せていても、響が本当の意味で、千歳を傷つけたことはただの一度もない。
響が触れた所から、千歳の体には熱が灯り、どうしようもない疼きを覚えて、千歳は声を上げる。
顎、鎖骨、胸のふくらみ、まだ平らな下腹部。いくつも残る事故の手術跡を辿るように響の唇が触れていく。
響が触れてくれるたび、今まで感じたこともないような、疼きと熱が湧き上がってくる。
仰のいた先、見上げた空は今日も雨――二人を繋ぐ雨が空から降り注いでいる。
星の煌めきも見えない闇の底に、雨音と一緒に二人で沈み込む。
濡れた吐息と、絡まる素肌。繋がった体が快楽を、千歳に送り込む。
自分とは違う硬い男の素肌とそのぬくもりに、乱れて、溺れた千歳はただ快楽の鳴き声を上げる。
出来るわけがないとわかっているのに、このまま響と混ざり合って、熔け合ってしまいたいと願った。
互いの鼓動が近く重なり合って、息が上がった。
緩やかに快楽の階を昇っていく――
☆
荷物が運び出されて、空っぽになった部屋を振り返って千歳の心を寂しさが満たす。
雨の夜――愛おしい男を待ち続けた部屋。いくつもの雨の夜を二人で乗り越えてきた。
今更の未練が胸を過るが、もう後戻りは出来ない。
――きっと大丈夫。
千歳はそっと自分の下腹部に手を当てて、思い切って部屋の外に出る。
晴天を選んで引っ越しを決めたはずなのに、何故か視界が滲んでいた。頬が濡れている気がして、千歳は空を見上げた。
晴れているのに、雨が降り始めていて、こんな時なのにおかしくなる。
――私の人生には雨がつきものなのね……
小さく笑って、千歳は手にしていた折りたたみ傘を開いた。
それは数年前に響がくれた傘だった。開いた傘の模様は、鮮やかな虹模様。
旅立ちを祝福するような模様に、心を奮い立たせて、千歳は街の雑踏に足を踏み出した――
その雨音を聞きながら、千歳は呆然として、手の中のものを見ていた。
何度見ても結果は変わらない。
手にした妊娠検査薬の陽性反応に、どうすればいいのかわからずに、居間の床に座り込んだままずっと動けずにいた。
ここ最近の倦怠感と吐き気に、まさかの想いで手にした妊娠検査薬。
千歳は事故の後遺症で生理がずっと不順だった。妊娠も難しいかもしれないと言われてきた。
それでも、響は避妊に気を配っていたから、千歳との子どもを望んではいなかったのだろう。
十年一緒に過ごしていても、千歳は響のことを何も知らない。
千歳が響のことで知っていることは片手で足りてしまう。
三歳年上で、大きな会社の営業をしていること。
両親を早くに亡くして、一回り年の離れていた姉に育てられていたこと。
そして、何よりも姉を奪った千歳を憎んでいること。
それ以上のことを、千歳は知らない。
「……どうしよう」
呟いた言葉は、暗い部屋に虚ろな響きを残して消える。
――彼はきっとこの子を望まない。
千歳はそっと自分の下腹部に手を当てた。まだ、平らなその場所に響の子どもがいるのかと思えば、愛おしさが湧き上がる。
――産みたい。
不意に強くそう思った。彼に憎まれていることも、この子が彼に望まれないことをわかっていても、千歳はお腹の子を産みたいと思った。
顔を上げると雨が激しさを増していた。もうすぐ夜の帳が下りてくる。今日もきっと響きはやって来る。
雨の夜、姉を失った痛みを紛らわせるために――
今日も陰鬱に曇る空を眺めて、千歳は心を決める。迷ったのはさほど長い時間ではなかった。
――ごめんね。
謝ったのはお腹の子に対してだったのか、響に対してだったのか――答えを知るのは、今日も降り続ける雨のみだった。
☆
チャイムが鳴って、いつものごとく響がやって来た。
相変わらず無言の男は、千歳の顔を見て瞳を細める。伸びてきたてが、千歳を抱きしめた。
響からは雨の匂いが強く香った。その匂いにほっとする。
力強い腕が今日も千歳の肌を乱す。首筋に埋められた唇が、儀式のごとくいつもの五文字を刻む。
『ユルサナイ』
普段であれば、その言葉を肌に刻まれるたびに、ホッとしていたのに、今日はひどく胸が痛んだ。
痛みに溺れるように千歳は、響の首に腕を回して抱き着く。
「千歳?」
いつにない千歳の行動に、響が驚いたように彼女の名前を呼ぶ。その声が好きだと思った。
低く艶のある男の声が、千歳の心を揺らす。この声だけが、千歳の心を掴んで離さない。
千歳は一度瞼を伏せて開くと、目の前の男の肩先に口づけて、そっと音に出来ない言葉を刻む。
『アイシテル』
男の硬い肌に吸い付いて、赤い花びらと同時に自分の恋をその肌に埋め込んだ。
――私の恋はこの場所に残していく。
どうか気づいてと思う心と、一生、何も知らないでと思う心が、千歳の中で複雑に混じり合う。
痛みにも似たその想いを抱えて千歳はふわりと笑う。あどけない少女のような微笑みに、見惚れた響が息を呑む。
「響さん……」
そっと愛おしい男の名前を呼べば、自分を抱く響の腕の力が強くなった。
吐息ごと唇を奪われた。その力強さに、千歳は安堵を覚えて瞼を閉じる。
絡め合った舌に、体の奥が熱く蕩けていく。
事故のせいで、傷だらけの肌を辿る男の指先が、ただ、ただ愛おしくて、泣きたくなる。
いつだって、千歳が響に触れる指は優しかった。
傍若無人に見せていても、響が本当の意味で、千歳を傷つけたことはただの一度もない。
響が触れた所から、千歳の体には熱が灯り、どうしようもない疼きを覚えて、千歳は声を上げる。
顎、鎖骨、胸のふくらみ、まだ平らな下腹部。いくつも残る事故の手術跡を辿るように響の唇が触れていく。
響が触れてくれるたび、今まで感じたこともないような、疼きと熱が湧き上がってくる。
仰のいた先、見上げた空は今日も雨――二人を繋ぐ雨が空から降り注いでいる。
星の煌めきも見えない闇の底に、雨音と一緒に二人で沈み込む。
濡れた吐息と、絡まる素肌。繋がった体が快楽を、千歳に送り込む。
自分とは違う硬い男の素肌とそのぬくもりに、乱れて、溺れた千歳はただ快楽の鳴き声を上げる。
出来るわけがないとわかっているのに、このまま響と混ざり合って、熔け合ってしまいたいと願った。
互いの鼓動が近く重なり合って、息が上がった。
緩やかに快楽の階を昇っていく――
☆
荷物が運び出されて、空っぽになった部屋を振り返って千歳の心を寂しさが満たす。
雨の夜――愛おしい男を待ち続けた部屋。いくつもの雨の夜を二人で乗り越えてきた。
今更の未練が胸を過るが、もう後戻りは出来ない。
――きっと大丈夫。
千歳はそっと自分の下腹部に手を当てて、思い切って部屋の外に出る。
晴天を選んで引っ越しを決めたはずなのに、何故か視界が滲んでいた。頬が濡れている気がして、千歳は空を見上げた。
晴れているのに、雨が降り始めていて、こんな時なのにおかしくなる。
――私の人生には雨がつきものなのね……
小さく笑って、千歳は手にしていた折りたたみ傘を開いた。
それは数年前に響がくれた傘だった。開いた傘の模様は、鮮やかな虹模様。
旅立ちを祝福するような模様に、心を奮い立たせて、千歳は街の雑踏に足を踏み出した――
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