雨月の恋

桜 朱理

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1)雨に恋した女

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 もう自分たちの関係を言い表す言葉が見つけられない。

 恋と言うには滅茶苦茶すぎて、愛と言うには複雑すぎて――重ならない秘密に溺れた。

 痛みにも似た何かを互いに抱えたまま、雨の夜は静かに通り過ぎていく。



 ☆


 「………っ!!」

 肌の上を男の無精髭がざらりと撫で、艶めかしい吐息が零れて落ちる。仰のいて晒した喉元に男が喰らいつき、痛みにびくりと跳ねあがった千歳の腰を、男が抱きしめた。その男の酷薄な印象の唇は、女の華奢な首筋を喰らいながらひそりと囁く。だが、それは声になる前に千歳の肌に埋められて、言葉は聞き取れない。でも、彼が何を言いたかったのかくらい、千歳はちゃんと理解している。

 それは、『ユルサナイ』――という、五文字。

 彼の姉を、ただ一人の肉親であった姉を奪ってしまった、千歳への呪いの言葉だ。

 でも、その言葉を聞くたびに、千歳は安心する。

 ――あぁ、自分はいまだ彼に許されてない。

 この歪に壊れた関係を、まだ続けられると思うだけで、千歳の身体は男の下で柔らかく蕩けた。愛撫もそこそこに、燻った怒りを発散させろと言わんばかりに、早急にあてがわれた熱に、千歳は瞼を閉じる。

「ん……んッ!」

 了承を取る言葉もないままに侵入してきたそれは、ひどく熱くて、噛み殺しきれない喘ぎが唇をつく。痛みすらも覚えそうなその質量に身体が軋んだような気がしたが、想いとは裏腹に千歳の身体の奥の粘膜は、甘いばかりの抵抗感で彼を受け入れた。

 甘い囁きも触れ合いもない。ただ、時折、乱れる二人の息遣いと、肌を打ち付け合う濡れた音だけが響く。

 傍若無人ともいえる身勝手な動きで千歳の身体を支配する男だが、決して千歳を傷つけることだけはないと知っていた。だから、この十年ですっかり馴染んだ男の肌の熱に、千歳はただ溺れていく。

 言葉にすることも出来ない気持ちを抱えたまま、千歳は男の髪を乱して、その襟足をくすぐる。仕返しのように男の指が千歳の乳房を掴んで、その頂に口づけた。不意打ちに与えられた快楽に、首を仰け反らせると、ブラインドも降ろさないままの窓から、鈍色の涙が降り注いでいる夜空が見えた。

 千歳が彼の姉を奪ったのと同じ夜の雨が世界を閉ざしていた。

 思い出したように耳に飛び込んできた雨音に、千歳は再び瞼を閉じる。この十年――何百回と繰り返してきた贖罪の夜。雨の夜にだけ訪れるこの男に、許しを請う夜はただ、ただ、静かに千歳の中の秘密を重くする。

 欲してはいけない男に、恋をしたのはいつだったろう?

 もう思い出せない昔から、千歳は自分を憎むこの男に恋をしていた。

 千歳の瞼に男が舌を這わせる。瞼を開けという男の合図に、千歳はのろのろと瞼を開いた。

 吐息の触れる距離。男の眼差しに千歳の心は今日も囚われる。

 嘲笑するように唇の端を歪める男の瞳に、今日も宿る深い哀しみに――

 千歳の華奢な身体を抱く指先の強さに、縋る弱さを感じて千歳はただ淡く男に口づける。

 すると、抱きしめていた男の肩から力が抜けた。彼の憎しみを千歳が受け入れた瞬間に、男が見せる揺らぎが千歳は愛おしい。

 弱さを自覚する千歳だったが、慈しんであげたくなるような頼りない瞳を見せる男に、思わず手が伸びた。額に乱れかかる前髪を梳いた途端、身体が抱き寄せられる。

 ぴったりと触れ合った胸から、互いのぬくもりが混じり合う。言葉のない男の荒れた息が耳に触れて、  千歳は口をついて出そうになる自分の恋を吐息に変えてそっと吐き出して誤魔化す。

 決して告げるつもりのない恋情は、執着にも似て、千歳を惑わせる。

 拙いだけの指先で、彼の背中をそっと撫でる。彼のたった一人の家族を奪った千歳から、奪えるだけのものを奪っていけばいいと声に出さずに伝えれば、男の動きが早くなる。

 振り落とされないように、彼の背にしがみ付き、千歳は今日も言葉に出来ない恋を、胸の奥にしまい込む。

 自分を揺らす男の背に縋りながら、千歳はただ心の奥で、秘めたる愛を囁く。



 微睡から覚めて、雨の夜の余韻を探す朝。隣にいないぬくもりに絶望する。

 何度も繰り返してきたこの冷たさが嫌いだと千歳は思う。

 夜の雨が晴れると同時にいなくなった男の薄情さに、千歳は静かに嗤う。

 わかってる。この関係は恋じゃない――ただの贖罪だ。

 怠惰な身体で寝返りを打つと、視界に飛び込んでくるのは、今日も灰色に曇る空。その陰鬱な空に胸が跳ねるのは、きっと千歳だけ。

 雨の夜。必ず訪れる男は今日の夜もきっと来る――

 重ねた夜の分だけ、色を変えていく恋はもうすでに何色をしているのか自分でもわからない。きっと昔のように綺麗な色はしていないことだけはわかる。この空のように、陰鬱な鈍い色が広がっているに違いない。

 だけど、自分はこの恋を手放せない。秘めたる恋は言葉にも態度にも表すつもりはない。

 彼女は恐れた――いつか雨の夜から彼が解放されてしまうことを。

 その時、傍にいるのはきっと自分じゃない。



 恋はただ静かに降り注ぐ。夜の雨と同じだけひっそりと――

 
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