blue moonに恋をして

桜 朱理

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1巻

1-2

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 深見に文句を言ったところで、あの悪行が改善するとは全く思えない。むしろ文句を言ったら、面白がって余計に事態をややこしくすることは、目に見えている。どうせ数か月、長くて一年で彼女たちは入れ替わるのだ。
 いらぬ口出しをしないのが一番波風が立たないと、最近はもう悟りの境地で彼女たちの嫌味や文句を聞き流している。
 だが、時々、不思議になる。
 いくら顔が良くてお金持ちであっても、あんな女癖の悪い男のどこがいいのだろう?
『誰にも囚われないあの自由な傲慢ごうまんさが、あの人の最高の魅力なのよ』とは、かつての彼の恋人が言った言葉ではあるが、夏澄にはその魅力がさっぱり理解できそうにない。
 これまで一度も憧れめいた恋心を抱いたことがなかったとは言わないが、間近で深見の女癖の悪さをずっと見続けてきたせいで、そんなものはきれいさっぱりと吹き飛んだ。
 容姿や地位が魅力的な男であることは理解しているし、経営者としての手腕も、仕事に向き合う姿勢も尊敬している。しかし、仕事ならともかく、恋愛では絶対にあんな危ない男は選ばない。
 それに、年がら年中、深見の恋愛沙汰をすぐ傍で見せつけられてきたせいか、恋愛ごとはお腹いっぱい、もうたくさんと思っている。
 もともと夏澄は恋愛には奥手で、大学の頃に付き合った人もいるにはいるが、それは本当にままごとみたいな恋愛だった。結局キスを二、三回したところで、先輩だった彼の就職を機に自然消滅してしまったような経験しかない。
 だいたい今は仕事が面白くて、恋愛に興味は持てそうになかった。
 経営者としての深見は夏澄にとって憧れだ。次々に新しい発想でもって事業を成功させていく手腕も、その着眼点の確かさも学ぶことは多い。
 何か新しいことを思いつくたび、子どものように目をキラキラと輝かせて、全力で走り回る。そんな男の背中を追いかけるだけで、今の夏澄は精一杯。よそ見なんてしている暇はなかった。
 何だかんだと言いながらも、夏澄も深見の魅力に取りかれた人間の一人なのだ。
 なのにどうしてだろう? 最近、慣れて何も感じなくなったはずのこの仕事に憂鬱ゆううつさを感じるのは……
 思わずこぼれそうなため息をこらえて、プレゼントのリストを眺める。

「……この女癖の悪さがなければ、本当に尊敬できる上司なんだけどね」

 プレゼントのリストを指先で弾きながらぼそりとそう呟く。

「ほぉー。面白いことを言ってるな。それはどこの誰の上司のことだ?」

 手元のリストがパシッと軽い音を立てると同時に、低くつやのある声が聞こえ、夏澄はぎょっとして顔を上げた。
 ――げっ、社長。何で……?

「しゃ、社長……」

 社長室の扉の前に立ち、なぜか楽しげにこちらを見ている深見と目が合って、夏澄の背中に冷や汗が流れる。

「で、どこの誰の女癖がなければ尊敬できる上司なんだ?」

 にやりと笑みを深めて、深見が夏澄のデスクの前まで歩いてくる。その追及に、夏澄は顔が引きつりそうになった。

「何のことでしょう?」

 慌ててプレゼントの一覧が書かれているシステム手帳を隠し、夏澄は空々そらぞらしい笑みを顔に張り付けてすっとぼけた。

「先ほど、うちの秘書殿がずいぶん興味深いことを呟いていたんだ。ぜひとも誰のことを言っていたのか教えてほしいのだが?」

 顔を覗き込んできた深見に、夏澄はあごを引き、少しでも距離を取ろうと背をのけ反らせる。
 さすがに本人に面と向かって、あなたの女癖の悪さに呆れてますと言う度胸はない。

「何のことかさっぱりわかりません」
「ふーん? じゃあ、さっき聞こえたと思ったあれは、俺の空耳か?」

 ――今日はやけに絡んでくるわね。
 やっぱり昨日の彼女と何かあったんだろうなと思うが、そのはけ口をこちらに持ってこられたらたまらない。誰も聞いてないと油断して不用意なことを呟いた夏澄も悪いのだが、八つ当たりまじりに玩具おもちゃにされるのは御免ごめんだ。

「最近、お忙しかったのでお疲れなんじゃないですか? 少しスケジュールを調整しましょうか?」

 なんならデートのスケジュールを減らしましょうか? と目に力を込めて、にっこりと告げる。深見の瞳がわずかにすがめられ圧迫感が増すが、夏澄も負けじと微笑みを浮かべたままににらみ返した。ここで一歩でも引いてしまえば、問い詰められた挙句に無理難題を吹っ掛けられる。それがわかっている以上、絶対に引くわけにはいかなかった。
 しばし、無言のまま二人で睨み合う。

「いい度胸だな……伊藤?」

 先に沈黙を破ったのは深見だった。

「何のことかわかりませんと先ほどから申し上げています」

 あくまですっとぼける夏澄に、深見が大げさに肩をすくめた。
 二人の間にあった緊張感がゆるむ。

「まぁ、いいだろう。今回は朝の件があるから見逃してやろう」

 珍しく深見のほうから引いてくれた。

「精力的な社長にお仕えできて、私もうれしいです。スケジュールは先ほど確認したままで大丈夫そうですね」

 深見が呆れたような視線を向けてくるが、夏澄は張り付けた笑みの圧力で押し通す。

「……たまに思うが、うちの秘書殿ほど強情で、強気な人間もいないんじゃないか?」
「お褒めにあずかり光栄です」

 皮肉に礼を返すと、深見がわざとらしくため息をついた。夏澄はそれには気づかなかったふりで、さっさと話題を変えることにした。

「そんなことより社長。何か用があったんじゃないですか?」
「ああ、そうだった。来週の会議に間に合うようにこの資料をデータ化してまとめておいてくれ」
「わかりました」

 差し出された付箋ふせんだらけの資料を夏澄は受け取る。

「頼む。それと珈琲コーヒーのおかわりを」
「はい」

 それだけ言うと深見は社長室に戻っていった。
 その背中を見送った夏澄は「助かった~!」と安堵の息を吐きながら、珈琲のおかわりをれるために立ち上がる。そして、くすりと小さく笑った。
 資料と珈琲はきっと口実。いつもなら内線で済ませるような用事のために、わざわざ顔を出したのは、きっと朝の自分の態度をかえりみた結果だろう。
 こんなところがあの帝王の憎めないところだと夏澄は思う。
 まして、深見がそういう素の自分を見せるのは本当に気を許した人間だけと知っているから余計にそう感じるのかもしれない。
 ――さて、あのわがままだけど憎めない社長のために、美味しい珈琲を淹れてくるか……
 キッチンに向かう夏澄の足取りは、朝一番と違ってどこか軽やかだった。


     †


「伊藤、次の予定は?」
早川はやかわ社長のところの創立記念パーティーです」

 無事に商談をまとめ、社用車に乗り込むなり飛んできた深見の問いに、夏澄は即座に答える。

「そうか、わかった。パーティーに顔を出したあとは社に戻って、中国支社の状況を確認したい」
「わかりました。手配しておきます」

 商談に、会議、出張、各種フォーラムへの参加と、深見の予定は分刻み。休みを取る暇などないほどにスケジュールは真っ黒に埋め尽くされている。
 せめて移動の間だけでも休んでほしいと思うのだが、深見は今もモバイルパソコンを開いて市場の調査や上がってくる連絡に次々と対応し指示を飛ばしている。深見の指示がひと段落した頃にはパーティー会場であるホテルに到着していた。
 息つく暇もなく会場に入った深見を、すぐさま人々が取り囲む。一緒に会場に入った夏澄は邪魔にならないように、壁際に下がって深見の様子を見守る。
 こういう場所に来ると、深見はやはり特別な人間なのだと思わずにはいられなかった。
 どんな集団の中にいようと、深見は目立つ。容姿が整っているのはもちろんだが、自然と人を惹きつける何かが、深見にはあるのだ。
 今も会場中の注目を一身に集めている。一言でも深見と言葉を交わそうと、人がどんどんと集まってきていた。
 大勢の人間の中心で鷹揚おうように対応する深見は、まさしく王者の風格をまとっていた。
 ――うちの社長はやっぱりすごい人でしょう?
 そんな風に周囲の人間に自慢したくなっている自分に気づいて夏澄は苦笑する。
 夏澄が自慢しなくても、深見のすごさは皆が知っているというのに……
 ――何を考えてるんだか……今日は移動が多かったから少し疲れてるのかしら?
 夏澄以上の仕事量をこなしている深見は平然としているのに……まだまだ力不足な自分に、夏澄は気を引き締める。

「恋する女の子の瞳じゃな」
「え!?」

 不意に背後から耳元にささやきかけられて、夏澄は驚きに声を上げた。耳を押さえて振り向くと、六十代くらいのロマンスグレーの紳士と三十代後半くらいの一目で秘書とわかる男性の二人連れが立っていた。

「会長! 戸田とださん!」

 よく見知った二人連れに、夏澄の表情がゆるむ。
 夏澄に声をかけてきたのは深見の父親――深見孝之たかゆきとその秘書の戸田だった。
 孝之は今でこそ仕事を息子である深見に譲り、第一線から退しりぞいているが、かつては父親から受け継いだ建設業を発展させ、今の複合企業体のいしずえを作り上げた人物で、夏澄の元雇い主だった。今は、グループの会長職に就く傍ら、趣味の会社をいくつか経営している。深見に負けず劣らず元気に走り回っているため、会うのは数か月ぶりだった。

「久しぶりじゃな! 夏澄ちゃん。元気にしていたか?」

 軽く手を上げてあいさつしてくる孝之に、夏澄も笑顔で頭を下げる。

「はい。ご無沙汰して申し訳ありません。会長もお元気そうで何よりです」
「夏澄ちゃんの観察眼もまだまだだな。わしは全然元気じゃないぞ? 実はな……」

 途中で言葉を切って、内緒話をするために近寄るように指示される。夏澄は何か病気でもしているのかと心配しながら孝之に耳を近づけた。

「可愛い夏澄ちゃんを手放して、むさ苦しい男の秘書一人に絞ったもんだから、毎日、毎日花がなくて元気が出んのだ」
「会長……」

 真面目な顔をしてそんなこと言う孝之に、夏澄は思わず笑い出す。

「笑い事じゃなく大変なんだぞ? 戸田は鬼のようにこの老体に仕事を押し付けてくるんだから」
「むさ苦しくて鬼のような秘書で申し訳ありませんでしたね」

 孝之の背後にいた戸田が、冷たい声音で二人の会話に割って入った。

「何だ? 戸田! わしと夏澄ちゃんの内緒話を盗み聞きか!?」
「聞こえるように言ったくせに何言ってるんですか。しかし、今日、伊藤君の顔を見てお元気になったようなので、明日からもっと仕事の量を増やしても大丈夫ですね」

 大げさなリアクションで文句を言う孝之に、戸田は冷たい一瞥いちべつを向け、ずけずけと切って捨てた。

「鬼か? やっぱりお前は鬼なのか?」
「それだけ騒ぐ元気があれば、仕事量を今の二倍にしても問題ないでしょう」
「ほらな! 夏澄ちゃん、見てくれ!! この鬼の所業を!!」

 目の前で繰り広げられる二人のやり取りに、夏澄は懐かしさとしたわしさを覚えた。
 就職したばかりの頃、夏澄は当時社長だった孝之の秘書を務めていた。今のように第一秘書だったわけではなく、大勢いる秘書の中の一人だったが、孝之には可愛がってもらった。そして、当時から孝之の第一秘書だった戸田には秘書のイロハのすべてを叩き込まれた。今、曲がりなりにも夏澄が深見の第一秘書を務めることができているのは、この二人の教育のおかげだといっても過言ではない。

「戸田さんもご無沙汰をしております」
「伊藤君も元気そうで何よりだ。活躍は耳にしている。愛弟子まなでしの評判に私も鼻が高いよ」

 夏澄が挨拶をすると、戸田もそれまで孝之に向けていた鬼秘書の顔ではなく、目元をゆるめて微笑んだ。

「ありがとうございます。まだまだ戸田さんの足元にも及びませんが、精一杯務めさせていただいています」

 お世辞も追従ついしょうも決して言わないかつての厳しい上司からストレートな褒め言葉をもらい、夏澄は喜びに頬が熱くなるのを感じた。

「こら! 戸田! わしを無視して夏澄ちゃんといい雰囲気を作るな!! 浮気していたと嫁に言いつけるぞ!!」

 微笑み合う戸田と夏澄の間に孝之が割り込む。

「何を馬鹿なこと言ってるんですか……うるわしい師弟愛をよこしまな目で見ないでください。さぁ、伊藤君に会うこともできたし、さっさと早川社長のところに挨拶に行きますよ」
「いやだ。もう少し夏澄ちゃんと話がしたい!」
「子どもじゃないんですから、駄々をこねないでください。伊藤君。またあとで時間があれば……」
「はい」
「こら! 戸田!! わしは曲がりなりにもお前の雇い主だぞ!? 襟首えりくびをつかんで引きずるな!!」
「だったら、ご自分で歩いてくださいよ!」

 戸田に引きずられるようにして歩き出した孝之が「夏澄ちゃん、またあとでなー!」と元気に手を振ってくれる。夏澄はくすくすと笑いながらそれを見送った。
 嵐のように騒がしかった二人が去ったあと、夏澄は先ほど言われた『恋する女の子の瞳』という言葉の意味を聞き忘れていたことに気づく。
 ――恋? 私が……? 誰に?
 一瞬、深見の顔が脳裏に思い浮かんでぎょっとする。
 ――ないない! それだけは絶対にない!!
 ありえない!! とぱっぱっと手を振って追い払う。
 ――やだ……今日は忙しかったから、本当に疲れてるのかも? 帰ったら、お風呂に入ってゆっくりしよう。
 深見のことが思い浮かんだのは疲れによる気の迷いだと断じ、夏澄は今の考えをさっさと忘れることにする。
 だいたい、孝之は他人の恋バナが大好きなのだ。誰かに恋をしていなくても、やり手ばばあのごとく仲人なこうどするくらいのことはやりかねない。
 孝之は縁結びの名人として一部には非常に有名だった。この二人が合うと直感で思ったら、あの手この手で、どんなことをしてでも二人を結びつけてしまう。
 だが、孝之の仲人はその成功率もさることながら、その方法も大変破天荒はてんこうだと評判だ。夏澄も、孝之の仲人でうまくいったカップルはたくさん知っているが、その過程における無茶ぶりをも噂で聞いている身としては、自分が仲人されるのはご遠慮申し上げたい。
 ――余計なことを聞かなくて正解だったかも? きっとあれは会長のいつもの挨拶。馬鹿なこと考えてないで、仕事、仕事……
 気を取り直して、深見はどうしているかと会場内に視線を巡らせると、彼は相変わらず人に囲まれていた。
 深見が何か冗談を言ったのか、彼を囲む人垣がどっと笑いに包まれる。その瞬間、深見が眉間にしわを寄せたことに夏澄は気づいた。
 一瞬の出来事だったので、周囲の人々がそれに気づいた様子はない。深見もすぐにいつもの営業スマイルを浮かべて周囲と談笑を続けたが、夏澄は深見から目を離さなかった。
 そうして、しばらくの間、注意深く深見の様子を観察していた夏澄は、一つの確信を持つと時間を確認して、会場を抜け出した。


「伊藤! どこに行っていた?」

 いくつかの手配を済ませた夏澄が会場に戻ると、すぐさま深見が歩み寄ってきた。一通りの顔つなぎや挨拶は終わったのだろう。

「申し訳ありません。フロントで部屋の手配をしていました」
「部屋?」

 深見が怪訝けげんそうにこちらを見やったあと、にやりと笑って夏澄の顔を覗き込んでくる。

「明日はやりでも降って俺は死ぬのか? 堅物かたぶつの秘書殿からお誘いを受けるなんて……もちろん喜んでそのお誘いは受けるが?」

 つやのある低音でからかいまじりにささやきを落とされて、呆れるより先に、夏澄は安堵を覚えた。
 ――こんな軽口を言えるのならまだ大丈夫ね……

「ええ、お誘いです。このあとの予定はすべてキャンセルしたので、お付き合い願えますか?」

 にこりと微笑み、そう返せば、深見が驚きに目をみはった。

「部屋にいつもの鎮痛剤を用意してもらっています。少しお休みください」

 驚いたようにひょいとその整った眉を跳ね上げた深見が、大きく息を吐き出した。

「うちの有能な秘書殿は、なんでもお見通しか……」

 その言葉に、夏澄は自分の予想が間違っていなかったことを知る。
 近くで見ると、深見の顔色が朝よりも青くなっている。周りで湧き上がる笑い声に反応して、眉間にほんのわずかに寄ったしわ。それは寝不足の深見が時折起こす偏頭痛へんずつうの前触れだった。
 深見は自己管理がしっかりしているように見えて、仕事に没頭すると、睡眠や食事がすぐにおろそかになる。そうして、睡眠不足になり偏頭痛を起こしてしまうのだ。周囲が気づかなければ倒れるまで我慢してしまうため、夏澄は気づいた時点で強制的に休ませることにしていた。

「お付き合いいただけますか?」
「喜んで……というか、俺に拒否権はないんだろう?」
「ええ。行きましょう」

 夏澄と深見は目立たないように会場を出ると、部屋に向かうためエレベーターに乗り込んだ。他に客の姿はなく、エレベーターの中は夏澄と深見の二人きりだ。周囲の視線がなくなった途端、深見が顔をしかめてこめかみを揉んだ。気がゆるんで頭痛がひどくなってきたのだろう。

「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。これくらいなら鎮痛剤を飲まずに少し寝れば治ると思う。悪かったな」
「いいえ。社長のスケジュールを管理しきれなかった私の責任です」

 夏澄は短く首を振る。最近、深見が新規プロジェクトの立ち上げに夢中になっていることに気づいていたのに、頭痛を起こす前に休ませることができなかった自分に落ち込んでいた。

「そんな顔をするな。スケジュールに関しては俺のわがままだ。それに普段は大人しい秘書殿を怒鳴らせるほど頭痛はひどくないぞ?」
「社長……」

 今思えば赤面ものの恥ずかしい過去を思い出させる深見の言葉に、夏澄は思わず顔をしかめた。

「できればもうあのことは忘れてください……」
「それはできない相談だな。伊藤のあの雄姿ゆうしは今もまぶたに焼き付いている。一生忘れることはないな」

 愉快そうにからかってくる深見に、夏澄は「もう、本当にやめてください……」と小さく呟くことしかできなかった。
 五年前――それはまだ二人が一緒に仕事を始めたばかりのころのことだ。仕事のしすぎで体調を崩した深見を夏澄は怒鳴りつけた上に、説教したことがあった。

『お茶くみくらいしかできない秘書ですが、わかることはあります。今、社長に必要なのは休養です! 寝不足の頭ではいい考えも浮かびません。そんな真っ青な顔で人に八つ当たりする暇があるなら、寝てください!』

 いくら必死だったとはいえ、体調が悪かった深見を怒鳴りつけた自分の所業はあり得なかったと思うし、できれば消してしまいたい過去だ。
 だが、深見はこのエピソードが気に入っているのか、ことあるごとに話題にして夏澄をからかってくる。

「あの時は本当に生意気なことを言いました。申し訳ありません」
「謝るな。あの時、伊藤に怒鳴りつけられたからこそ、今の俺がある。おかげで他の奴らともちゃんと向き合えるようになったんだ。感謝しているんだから、謝られるとこっちが困る」
「社長……」

 深見から不意にもらった感謝の言葉に、夏澄の鼓動がどうしようもなく高鳴った。動揺を深見に悟られたくなくて、うつむく。
 ちょうど目的の階に到着し、深見と夏澄はエレベーターを一緒に降りた。

「伊藤。部屋はどこだ?」
「こちらです」

 深見の前を歩き部屋まで誘導しながら、夏澄は乱れた鼓動を落ち着かせようと、静かに息を吐き出した。
 ――あの出来事を社長があんな風に思っていたなんて知らなかった。
 少しは自分もこの帝王の役に立つことがあったのだと思うと、自然と心が浮き立った。


 ゆっくりと休めるようにと、部屋はセミスイートを取っていた。
 部屋に辿り着くと、夏澄は深見の背後に回り、上着を脱ぐのを手伝う。受け取った上着はしわができないようにハンガーにかけてクローゼットに片付けた。
 一人掛けのソファに座った深見はひじ掛けに片肘をついて、深く息を吐き出す。
 億劫おっくうそうにネクタイをゆるめる仕草に、何故か視線が吸い寄せられた。
 ワイシャツのボタンが一つ、二つと外される。覗いた首元にどきりとした。
 端整な顔に疲れをにじませる深見。見慣れたはずのその光景から視線が外せない自分に、夏澄は戸惑いを覚える。
 疲れた男の表情に色気を感じていた。
 先ほど孝之に恋と言われて深見を思い浮かべたことと相まって、自分のそんな心の動きに妙なあせりを覚える。
 ――やっぱり、今日はいつもより疲れてるみたい。まあ、社長でさえ疲れを隠せないのだから、私が疲れていてもおかしくないか……
 無理やり自分をそう納得させて、夏澄は深見から視線を逸らした。

「何か飲まれますか?」
「……頼めるか?」
「はい。ちょっとお待ちください」

 部屋に備え付けられていたポットでお湯を沸かし、熱いほうじ茶をれる。

「社長。どうぞ、お茶です」
「ああ、すまない」

 深見がお茶を飲んで一息ついている間に、夏澄はポットを持って洗面所に向かった。
 浴室に備えられていたフェイスタオルにポットのお湯をかけて、熱いうちにタオルを絞る。手のひらが、湯の熱さに赤くなったが、夏澄は構わずにタオルに水気がなくなるまで固く絞った。
 部屋に戻ると、熱いタオルを深見に手渡す。

「社長。これ使ってください。疲れている時は目元を温めると楽になりますから」
「わかった。やってみる……」

 深見は夏澄に言われるまま、熱いタオルを目元にあてて温め始めた。

「あー、いいなこれ。仕事帰りの居酒屋で、サラリーマンがおしぼりで顔を拭く気持ちがわかるな……」

 リラックスした声で深見はそんなことを呟いた。

「鎮痛剤はどうされますか?」
「いや、これで大分楽になったから大丈夫だ……」
「わかりました。落ち着いたら寝室でちゃんと休んでください」
「……ん。わかった」


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