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1巻
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席に着くなり、いきなり椅子を近づけてきて話しかけてくる間山は、茜が教育係を務めた後輩。仕事はそこそこできるのに、それよりも社内の噂話を収集するのが趣味という困った性格をしている。
間山の握っている情報は多岐にわたっていて、使い方次第では、社内の勢力図が一変する可能性がある。本人は情報を収集するだけして、それを生かすことに興味はないらしい。その情熱の十分の一でも仕事に回してくれと、茜は思わずにはいられない。
「おはよう。朝から一体何? くだらない話に付き合うつもりはないわよ」
朝から妙にテンションの高い間山に頭痛を覚えながら、近づいてくる彼の顔を思いっきり押しのける。
「いてっ。酷いな茜先輩。本当に一大事だから、いの一番に先輩に報告しようと思ったのに。今回は本当に特ダネなんですよ! しかもうちの営業二課にとっても、一大事です!!」
「はいはい。で、何?」
この調子では間山は一度話を聞かない限り落ち着かないだろう。茜は溜息をついて聞いてやることにした。その言葉に、間山の目がきらきらと輝きだす。
ゴシップ収集に命をかける二十六歳男子ってどうよ? 頭を抱えたくなる。
せっかく押しのけたのに、間山はまたぐぐっと近づいてきて小声で話し出す。
「桂木課長が」
その名前を聞いただけで心が動く。
「桂木課長が、結婚するらしいんですよ! しかも、相手は次期支社長と評判の鳥飼部長の二十二歳のお嬢さん!!」
間山の衝撃発言に、思わず桂木の席を見た。無言のまま二、三秒桂木の席を凝視して、無言のままゆっくりと視線を元に戻す。
目の前には、瞳をきらきらと輝かせた間山の顔。ほめてほめて、と犬だったら尻尾をぶんぶんと振っていそうな表情だ。
茜はふいに、すぐ傍にあった間山の額を手の平で思いっきりはたいた。
「間山! 近い!」
「っいでー!!」
情けない叫び声を上げながら、間山が額を押さえて後ずさる。
「……茜先輩! 何するんですか!? せっかく特ダネを教えてあげたのに!!」
「誰も頼んでない!! それに桂木さんの結婚のどこが、うちの課の一大事なのよ? あの人もいい年なんだから、そんな話の一つや二つあってもおかしくないでしょう!」
痛みに叫ぶ間山を怒鳴りつけ、それからしみじみと呟く。
「まぁ、あの人がそういう社内政治に興味があったことには驚きだけどね」
あの男、そんなもんに興味があったのか?
桂木の結婚より、ある意味そっちの方が衝撃だった。
完全実力主義であるこの会社では、縁故での出世などありえない。けれど、派閥ができ上がるのはある程度は仕方がない。実際、次期日本支社長を巡って、企画開発部の鳥飼部長と人事部の的場部長が競い合っているのは、社内では公然の秘密である。
桂木は実力でのし上がっていくタイプだと思っていた。誰かの下について出世を考えるような人間とは思えない。
普段の桂木は、社内の勢力図なんて興味がないと言わんばかりに、実に淡々と自分の仕事をこなしている。
だから、桂木が鳥飼部長のお嬢さんと結婚して、その傘下に入ると決めたのは意外だった。
だいたい、あの男は誰かの下について、大人しくいいなりになるような男じゃない。
下手に首輪をつけようとしたら、噛みつかれるだろう。
諸刃の剣になりかねない男を、よくも抱え込む気になったなと、ある意味、鳥飼部長には感心する。
「ですよね! ですよね! あの中立派の桂木課長が、ついに鳥飼部長の傘下に入ることにしたんですよ! これをスクープと言わず、何をスクープと言うんですか! 営業二課の一大事でしょ!!」
間山は懲りずに、また近づいてくる。
茜は間山の目の前に手を突き出してそれを制する。茜の手のひらを見て、先ほどの額への衝撃を思い出したのか、間山が少しだけ後ろに下がった。
茜は周囲には聞こえないように小声で問いかける。
「確かにスクープだけど、どこが営業二課の一大事なのよ? たとえ、あの人が鳥飼部長のお嬢様と結婚したとしても、あの人はそれを仕事に持ち込むような人じゃないでしょ!」
茜の言葉に納得したのか、間山はポンと膝でも打ちそうな表情で頷いた。
それを呆れ交じりに見つめ、茜は自分の仕事に戻ろうとデスクに向かう。
まぁ、ある意味、桂木の結婚は茜にとっては一大事であるが。
今年の誕生日は厄日なの?
なんでこうも頭が痛くなるようなことが立て続けに起こるのだ。
頭を抱えて、溜息をつきたくなる。
ただでさえ、妊娠などという一人で抱えるには重すぎる事実が発覚したばかりなのに。
相手の男が、自分とは別の女と結婚するなんて。
一体、私にどうしろと?
あの桂木が結婚を決めたということは、派閥など関係なくそのお嬢さんに惹かれたということだろう。
だったら、なんであの夜、桂木は自分を抱いたのだ? やっぱり桂木も相当酔っていたということか?
思わず自分のまだぺったんこのお腹を見つめる。
どうするよ? 本当に。
物思いに耽りそうになった時、いつのまにか再び近づいてきた間山が話しかけてくる。
「茜先輩! これはチャンスですよ!」
なぜか今まで以上に目をキラキラさせて興奮している様子だった。今度は一体なんだ。
「茜先輩が営業二課を、いやこの日本支社を乗っ取るチャンスですよ!!」
「はぁ~?」
間山の突拍子もない発言に、茜の物思いも吹き飛ぶ。
この後輩は、突然何を言い出すのだ?
唖然とする茜にかまわず、間山がまくしたてるように話し出す。
「もし桂木課長が鳥飼派につくのなら、社内勢力の均衡が一気に崩れて、的場派が潰れます。鳥飼派の天下になったら、茜先輩の出番です! 俺が持ってるゴシップを使えば、茜先輩が桂木課長をぎゃふんと言わせることも可能です! もし、ゴシップがなければ、俺がいくらでも作り出しますから!!」
なんだかとっても不穏な言葉が混じっている間山の言葉に、眉間に皺が寄る。
こいつ、自分が持ってる情報がどんなもんなのか、一応の自覚はあったのね。そして、それの使い道もわかっていたのか。集めることだけに、命をかけているのかと思ってた。
「茜先輩のためなら、協力は惜しみませんよ! だから俺と茜先輩で日本支社を乗っ取りましょう!!」
妙な熱のこもった言葉とともに、間山は茜の両手を握る。
間山の勢いについ妄想が膨らむ。桂木と鳥飼部長、的場部長を踏みつけに高笑いして、支社長室にいる自分と、その背後で忠犬のように尻尾を振っている間山。
いいかもしれないと考えて、ハッと我に返る。
違う、違う。今のなし!! 私が欲しいのは実力で積み上げたキャリアであって、後ろ暗い陰謀の果ての権力じゃない。
ぶるぶると首を振って、おかしな妄想と同時に間山の手を振り払う。
「馬鹿なことばかり言ってないで、さっさと仕事しなさい!!」
朝から余計な衝撃を与え妄想をさせてくれた間山を、半ば八つ当たりで怒鳴りつけ、その脳天に空手チョップをおみまいする。
「っで――!!」
茜の容赦のない一撃に、間山が後ろにひっくり返って悶絶しているが、そんなものは放置だ。
あ~危なかった。間山の妙な熱意に引きずられて、危うくおかしな道を突き進むところだった。
もう一度頭を振って、今度こそ仕事に戻ろうとすると、向かいのデスクの同期の田中健吾と目が合う。
「なんだもう終わりか? 間山とのどつき漫才」
「どつき漫才なんてした記憶はないわよ」
にやにやと笑う田中に、茜は溜息をついて答える。
「ところで……」
田中が急に声を潜めて声をかけてきた。
「真崎が間山を使って、日本支社を乗っ取る気なら、俺も手を貸すぞ?」
にやりと笑う田中に、茜は酷い眩暈を覚えそうになる。
あんな話を本気でとる奴がいるなんて。
「そんな物騒なことをするつもりはないわよ。上に上がりたかったら、私は実力でのし上がるわよ」
「さっすが真崎。男前だね~。惚れそうだわ」
口笛でも吹きそうな口調で田中が言った。
「はいはい。ありがとう」
田中の軽口に茜が疲れた顔で答えると、彼は急に真顔になる。
「もし、桂木さんが縁故でのし上がろうなんてくだらないことをしたら、俺が叩きつぶしてやるよ」
そんな物騒な宣言はいりません。田中はやると言ったら本当にやる男だ。出世にも権力にも興味がないから普段は呑気なものだが、この同期が本気になったら、どんな汚い手でも平気で使うだろう。
「桂木さんが結婚するっていうことは、それは相手のことを本気で思ってるってことでしょう。派閥なんて気にしてないわよ」
って、なんで私が桂木さんを庇わないといけないのだ! そんな筋合いはこれっぽっちもない。むしろ、桂木さんを叩きつぶしたいのは私だ!!
人に手を出しておいて、自分は派閥のボスの娘と結婚ってどういうことだ!! ……なんか、ものすごいむかついてきた。
間山からもたらされた衝撃のスクープと余計な妄想で麻痺していた感情が動き出す。
あの鉄仮面男、どうしてくれようか。
「それもそうだな。だが、おまえはそれでいいのか? 桂木さんが本当に結婚しても?」
怒りに燃えていた茜は、田中の問いかけにぎくりとした。
「どういう意味?」
まさか、知っているのだろうか? 桂木と自分の事を。そんなはずはないと思うが、何もかも見透かしているような田中に、内心の動揺を悟られないよう、営業で鍛え上げた作り笑いで答える。
「わからなければいい。もう始業時間を過ぎている。いい加減仕事するか」
追及されなくてホッとしたが、田中には何もかもばれている気がして、なんだか落ち着かない。
疲れた溜息をつきながら、茜は中断していたメールチェックに戻る。その中に、今、最も茜を悩ませ、腹立たせている男からのメールを発見する。
今は遠い中国の空の下にいる鉄仮面男の無駄に端整な顔を思い出しつつ、仕事の指示だけが書かれたメールの文面を睨み付ける。
確かにあれは酔った勢いの一夜の過ちだった。桂木とは付き合っているわけじゃない。
あのあとも桂木は何も変わらなかった。変わらないことを、茜も望んだ。
互いに合意の上だった以上、桂木の結婚を責めるのは筋違いだとわかってる。
それでも、今、このタイミングで発覚した桂木の結婚に腹が立つのは仕方ないと思いたい。
――しかし、よくも人のトラウマを踏みつけてくれたな! 二十二歳のお嬢様と政略結婚ってどういうことだ!! 本当に、この男とは合わないと思った。とことん相性が悪いのだろう。
桂木の結婚が出世を狙ったただの政略結婚なら、自分は実力で桂木を超えてやる! いつか絶対、仕事であの鉄仮面を引っぺがしてやる!!
一度地獄を見た女を舐めるなよ!! と自分を鼓舞する一方で、もう桂木に妊娠を相談できないことに気づき、長い溜息が零れた。
本当に、どうするよ?
桂木の帰国まであと三日。
* * *
妊娠の判明と桂木の結婚という波乱から始まった一日も、なんとか無事に終わろうとしていた。
長引いた商談のせいで肩が凝り、茜は首を回しながらロッカールームに向かう。
今日は本当に疲れた。やっぱ歳なのかな。今日で二十九歳。もう二十九なのか、まだ二十九なのか。
学生の頃、想像していた二十九歳の自分はもっと大人だと思っていたけど、実際はずいぶん想像とはかけ離れている。
溜息をつくたびに、心も体も重くなっていく気がするのは、やっぱり歳のせいなのか。
責任や立場がある分、昔よりどんどん身動きが取れなくなっていく。
仕事をしている間は忘れていられた現実が、一人になると重く圧し掛かる。
今朝、悩むのは病院で診察してもらってからにすると決めたはずなのに……
腹を立てていられるうちはよかった。だが、桂木の結婚という衝撃は、時間の経過とともにじわじわと茜にダメージを与えてきた。
桂木が結婚するというのなら、自分はどうすればいいのだろう?
無意識にまだ平たい自分の下腹部に触れる。
五年前の出来事と重なる状況に、気が滅入ってくる。
あの時とは立場が逆転しているが、あまりにも似た状況にどうしたらいいのかわからない。
満は、あの子は、あの時に何を思っていたのだろう?
孝明の子供を妊娠していたあの子は、自分に告白するまで、どんな葛藤を抱えていたのだろう?
あの時と何もかもが同じ状況ではないが、思わずそんなことを考えてしまうほど、今の茜は出口のない迷路の中にいる気分だった。
五年前の満と孝明は少なくとも愛し合っていた。でも、桂木と茜は違う。
二ヶ月前のあの時、茜と桂木の間に恋愛感情はなかった。二人を突き動かしていたのは、凶暴なまでに純粋な衝動だった。
普段は喧嘩ばかりの上司の中に見つけた雄としての顔に、あの時、茜は強烈に惹かれた。この男に触れてみたいと衝動のままに茜はその身を桂木に任せた。
あの時の桂木が何を考えていたのか、茜にはわからない。
婚約者がいるくせに、茜に手を出したというのなら、桂木もしょせんはただの男だったということか。
ただ、重ならないのだ。普段の茜が知る桂木と、不誠実な姿を見せた男の顔が。
茜だって、桂木のすべてを知ってるわけじゃない。知らないことの方が多いだろう。それでも、五年以上、一緒に働いてきた。
その中で見てきた桂木は、婚約者がいるのに、浮気するような不誠実な男でも、出世のために政略結婚を考えるような男でもなかった。
茜とは合わない部分も多く、喧嘩なんて日常茶飯事ではあったが、本気で嫌っているわけではない。
桂木の仕事に対する熱意や真剣さ、上司や部下に対する飾らない誠実さを知っているからこそ、茜は困惑せずにはいられない。
あの桂木が結婚を決めたということは、それだけ相手に対して真剣な思いを抱いているのだ。きっと、周囲の思惑なんて、気にもしていないだろう。
そっと触れる自分の下腹部は、やっぱりまだ平らで、ここに命が宿っている実感はほとんどない。それでも、ここには桂木と茜の子がいる。小さな命が育まれつつある。でも、この子の存在は、桂木の婚約者と桂木本人の幸せを破壊するものだ。
私には自分の幸せのために、誰かの幸せを壊すことなんてできない。
五年前のあの時みたいな思いをするのは自分だけで、十分だ。あんな、最低最悪な思いは。
衝動的な快楽を求めたツケを払うのは自分であって、決してまだ若い桂木の婚約者であってはならない。
それだけは、絶対に間違えてはいけない。
全く、桂木はなんだってこうも見事に茜のトラウマに触れてくるのか。
もう癖になってしまった溜息が零れた。
「な~に、辛気臭い溜息ついてるのよ? せっかくの誕生日でしょうが!」
後ろから声をかけられる。
驚いて振り向くと、同期の園田美紀が艶やかな微笑みを浮かべて立っていた。さばさばした姉御肌の美紀とは入社した時から意気投合し、プライベートのことでもなんでも話し合える間柄だった。
女性社員の花形部署である秘書課に勤務するだけあって、美紀は美人だ。綺麗にまとめられた栗色の髪に、目鼻立ちのくっきりした顔立ちをした親友は、社内の男性陣の憧れの的だった。ただ、美紀には長く片思いをしている相手がいる。そのため、酷くモテるくせに茜同様男の気配はなかった。
「……美紀。お疲れ」
「お疲れ。で、せっかくの誕生日にどうして辛気臭い溜息をついてたのよ?」
このもやもやを美紀に話してすっきりしたかったが、自分の中でも整理できないことを相談することはできそうになかった。
「ん~。午後の商談がちょっと長引いたからね。疲れてるのかも」
そう言い訳すると美紀はつかつかと歩み寄り、茜の顔を両手で挟み込んで覗き込んできた。
「ちょ、美紀! 何?」
「コンシーラで誤魔化してるけど、目の下に隈ができてるわよ? 顔色も悪いし、肌も荒れてる。目も軽く充血してるし、寝不足ね。悩みは仕事じゃないとみた」
あまりの鋭さに、なんと言えばいいのかわからなくなる。
今はまだ美紀にも言えない。
困っている茜を見て、美紀が妹を心配する姉のような表情で笑う。
「今は言いたくない類の悩み? だったら、無理には聞かないわ。ただ、しけた顔して溜息つくのはやめなさい。幸せが逃げるわよ?」
大人な対応をしてくれる親友の態度に、ホッとする。何かあった時に親身に心配してくれる人がいることが嬉しかった。
「そうね」
「そうよ。だから、飲みに行こう? せっかくの誕生日じゃない。お祝いしてあげる」
「って、美紀が飲みに行きたいだけじゃないの?」
美紀の言葉に茜は苦笑した。誕生日なんて、きっとただの口実だろう。この綺麗な親友は顔に似合わず酒豪なのだ。
「そうとも言うわね。でも、茜の誕生日を祝う気持ちはあるわよ?」
「はいはい。ありがとう。っていうかその顔で大酒飲みってどうなのよ?」
「顔で酒を飲むわけじゃないもの! 今日は奢ってあげるから、美味しいお酒を飲みに行こ!」
うきうきとしながら腕を組んできた美紀に引っ張られるように、茜はロッカールームをあとにする。
一人で悩むよりはこの親友と憂さ晴らしに行くほうが、有意義な時間を過ごせるだろう。
どんなに悩んでも、こればっかりは簡単に答えは出せないし、出してはいけないと思った。
ロビーで田中と間山に出会い、四人でいつもの居酒屋で飲み始める。
「それでは茜の二十九歳の誕生日を祝って、かんぱーい!!」
「おめでとうございます!!」
「おめでと」
「ありがとう」
美紀が音頭を取り、生ビールのジョッキ四つがカチンと音を立てる。
会社から徒歩で十分ほどの場所にあるこの居酒屋は、料理も酒もそこそこ美味しく、値段も財布に優しいため、入社した時から茜たちの行きつけになっていた。
それぞれ好きなものを頼み、近況など他愛ない話で盛り上がる。
「あれ? 茜、全然、飲んでないじゃない? どうしたの?」
美紀が最初の一杯に口をつけただけの茜のジョッキに気づいて、声をかけてくる。
「明日も朝から、商談があるのよ。酒臭い息で行くわけにいかないからね。今日は我慢」
一応、妊娠中なのでお酒を飲むのはまずい。
「せっかくの誕生日なのに。それに今日は奢りよ?」
「ありがとう。気持ちだけで充分よ。その分、ご飯はしっかり食べさせてもらうわ」
笑いながら茜が言うと、美紀は「そう?」と言って、無理に酒を勧めてくることはなかった。
「そういえば、最近、鳥飼部長がやたらとご機嫌なんだけど、間山何か情報持ってる?」
美紀は秘書課勤務のため、様々な部署と繋がりを持っている。そんな彼女が突然思い出したように言った。美紀の言葉に、待ってましたとばかりに間山の瞳が輝き出した。茜はせっかく忘れていた悩みを思い出してしまい、内心溜息をつく。
今日は、この話題から逃げることはできそうにない。
「よくぞ聞いてくれました、美紀さん! 聞いてください!! この間山、とっておきの情報を掴んでるんですよ!!」
間山が、桂木が鳥飼部長のお嬢さんと結婚して、鳥飼部長の派閥に入るかもしれないという今朝の話題を喋り出す。
それを聞き流しながら、茜は目の前の酢豚に無言で箸を伸ばした。
「あの桂木さんが? なんか意外。間山、それ本当なの? ガセじゃなくて? どう考えてもあの人、派閥とかに属するタイプじゃないでしょ?」
「本当ですよ! なんでも三ヶ月前のとあるパーティーに参加していた鳥飼部長のお嬢さんが酔っ払いに絡まれていたのを、桂木さんが助けたらしいんですよ! それでお嬢さんが桂木課長に一目惚れ! あの人はどこの誰だろうと必死で調べたら、自分の父親が勤める会社の人間ってことで、これは運命とばかりに父親に桂木課長との縁談を進めてほしいとお願い。もともと桂木課長を自分の派閥に取り込みたかった鳥飼部長は、愛娘のお願いに一も二もなく了承して、桂木さんが中国出張に行く前にお見合いの場をセッティング。場所は二人が運命の出会いを果たしたパーティーが行われた春光ホテル!」
間山は水を得た魚のように身振り手振りを交えて話す。
本当にこいつはどこでこんな情報を仕入れてくるのやら。
間山がまるで見てきたように語るので、茜も思わず桂木の恋愛話に耳を傾ける。
中国出張前にお見合いしたのなら、あの時桂木に婚約者はいなかった。気持ちが少しだけ楽になる。
お嬢様と自分は、天秤にかけられたわけじゃないらしい。
だが、続く間山の話に茜の気持ちはさらに沈められる。
「ふーん。それで出世に目が眩んだ桂木さんが、そのお嬢様との結婚を了解したの?」
「そこ! そこなんですよ! 美紀さん!! 実は桂木課長も三ヶ月前に助けた可憐なコンパニオンに一目惚れしてたらしいんですよ! 嫌々付き合いで行ったお見合い現場に、そのコンパニオンがいた! この機会は逃せないと、桂木課長も、このお見合いを了解!! 二人は運命の恋に向かって走りだした!」
「あら、それは素敵ね! お嬢様と鉄仮面の運命の恋か~」
「う~。いいですよね! 可憐な美少女を悪漢から救う騎士!! 王道だ~!」
意外に乙女なところのある美紀が、目をキラキラさせて間山と盛り上がる。
運命の恋ね。だったら、なんで私に手を出したのだ?
もう会えないと思った運命の相手の身代わりにされたのか?
一瞬で運命を感じるほどに、そのお嬢様に一目惚れをしたのなら、私に手なんて出してんじゃないわよ。
桂木さんのバーカ。
ぽつりと胸のうちで呟く。
胸が痛む気がするのはきっと気のせい。
2
慌ただしく日々は過ぎ、気づけば金曜日を迎えていた。今日、桂木が長かった中国出張から帰ってくる。
正直、どんな顔をして桂木と会えばいいのかわからなかった。
病院にはまだ行ってない。正確に言えば行けなかった。
行く時間は作ろうと思えば作れたが、はっきりさせるのが怖かったのだ。
病院できちんと診察を受けて、妊娠を告げられてしまったら、もう逃げることはできない。そう思うと時間がないのはわかっていたが、勇気が出なかった。
うじうじと悩むのは性に合わないのに、いつまでも決断を下せない自分が嫌になる。いっそのこと桂木にすべてを打ち明けて相談してみようかとも思った。
間山の握っている情報は多岐にわたっていて、使い方次第では、社内の勢力図が一変する可能性がある。本人は情報を収集するだけして、それを生かすことに興味はないらしい。その情熱の十分の一でも仕事に回してくれと、茜は思わずにはいられない。
「おはよう。朝から一体何? くだらない話に付き合うつもりはないわよ」
朝から妙にテンションの高い間山に頭痛を覚えながら、近づいてくる彼の顔を思いっきり押しのける。
「いてっ。酷いな茜先輩。本当に一大事だから、いの一番に先輩に報告しようと思ったのに。今回は本当に特ダネなんですよ! しかもうちの営業二課にとっても、一大事です!!」
「はいはい。で、何?」
この調子では間山は一度話を聞かない限り落ち着かないだろう。茜は溜息をついて聞いてやることにした。その言葉に、間山の目がきらきらと輝きだす。
ゴシップ収集に命をかける二十六歳男子ってどうよ? 頭を抱えたくなる。
せっかく押しのけたのに、間山はまたぐぐっと近づいてきて小声で話し出す。
「桂木課長が」
その名前を聞いただけで心が動く。
「桂木課長が、結婚するらしいんですよ! しかも、相手は次期支社長と評判の鳥飼部長の二十二歳のお嬢さん!!」
間山の衝撃発言に、思わず桂木の席を見た。無言のまま二、三秒桂木の席を凝視して、無言のままゆっくりと視線を元に戻す。
目の前には、瞳をきらきらと輝かせた間山の顔。ほめてほめて、と犬だったら尻尾をぶんぶんと振っていそうな表情だ。
茜はふいに、すぐ傍にあった間山の額を手の平で思いっきりはたいた。
「間山! 近い!」
「っいでー!!」
情けない叫び声を上げながら、間山が額を押さえて後ずさる。
「……茜先輩! 何するんですか!? せっかく特ダネを教えてあげたのに!!」
「誰も頼んでない!! それに桂木さんの結婚のどこが、うちの課の一大事なのよ? あの人もいい年なんだから、そんな話の一つや二つあってもおかしくないでしょう!」
痛みに叫ぶ間山を怒鳴りつけ、それからしみじみと呟く。
「まぁ、あの人がそういう社内政治に興味があったことには驚きだけどね」
あの男、そんなもんに興味があったのか?
桂木の結婚より、ある意味そっちの方が衝撃だった。
完全実力主義であるこの会社では、縁故での出世などありえない。けれど、派閥ができ上がるのはある程度は仕方がない。実際、次期日本支社長を巡って、企画開発部の鳥飼部長と人事部の的場部長が競い合っているのは、社内では公然の秘密である。
桂木は実力でのし上がっていくタイプだと思っていた。誰かの下について出世を考えるような人間とは思えない。
普段の桂木は、社内の勢力図なんて興味がないと言わんばかりに、実に淡々と自分の仕事をこなしている。
だから、桂木が鳥飼部長のお嬢さんと結婚して、その傘下に入ると決めたのは意外だった。
だいたい、あの男は誰かの下について、大人しくいいなりになるような男じゃない。
下手に首輪をつけようとしたら、噛みつかれるだろう。
諸刃の剣になりかねない男を、よくも抱え込む気になったなと、ある意味、鳥飼部長には感心する。
「ですよね! ですよね! あの中立派の桂木課長が、ついに鳥飼部長の傘下に入ることにしたんですよ! これをスクープと言わず、何をスクープと言うんですか! 営業二課の一大事でしょ!!」
間山は懲りずに、また近づいてくる。
茜は間山の目の前に手を突き出してそれを制する。茜の手のひらを見て、先ほどの額への衝撃を思い出したのか、間山が少しだけ後ろに下がった。
茜は周囲には聞こえないように小声で問いかける。
「確かにスクープだけど、どこが営業二課の一大事なのよ? たとえ、あの人が鳥飼部長のお嬢様と結婚したとしても、あの人はそれを仕事に持ち込むような人じゃないでしょ!」
茜の言葉に納得したのか、間山はポンと膝でも打ちそうな表情で頷いた。
それを呆れ交じりに見つめ、茜は自分の仕事に戻ろうとデスクに向かう。
まぁ、ある意味、桂木の結婚は茜にとっては一大事であるが。
今年の誕生日は厄日なの?
なんでこうも頭が痛くなるようなことが立て続けに起こるのだ。
頭を抱えて、溜息をつきたくなる。
ただでさえ、妊娠などという一人で抱えるには重すぎる事実が発覚したばかりなのに。
相手の男が、自分とは別の女と結婚するなんて。
一体、私にどうしろと?
あの桂木が結婚を決めたということは、派閥など関係なくそのお嬢さんに惹かれたということだろう。
だったら、なんであの夜、桂木は自分を抱いたのだ? やっぱり桂木も相当酔っていたということか?
思わず自分のまだぺったんこのお腹を見つめる。
どうするよ? 本当に。
物思いに耽りそうになった時、いつのまにか再び近づいてきた間山が話しかけてくる。
「茜先輩! これはチャンスですよ!」
なぜか今まで以上に目をキラキラさせて興奮している様子だった。今度は一体なんだ。
「茜先輩が営業二課を、いやこの日本支社を乗っ取るチャンスですよ!!」
「はぁ~?」
間山の突拍子もない発言に、茜の物思いも吹き飛ぶ。
この後輩は、突然何を言い出すのだ?
唖然とする茜にかまわず、間山がまくしたてるように話し出す。
「もし桂木課長が鳥飼派につくのなら、社内勢力の均衡が一気に崩れて、的場派が潰れます。鳥飼派の天下になったら、茜先輩の出番です! 俺が持ってるゴシップを使えば、茜先輩が桂木課長をぎゃふんと言わせることも可能です! もし、ゴシップがなければ、俺がいくらでも作り出しますから!!」
なんだかとっても不穏な言葉が混じっている間山の言葉に、眉間に皺が寄る。
こいつ、自分が持ってる情報がどんなもんなのか、一応の自覚はあったのね。そして、それの使い道もわかっていたのか。集めることだけに、命をかけているのかと思ってた。
「茜先輩のためなら、協力は惜しみませんよ! だから俺と茜先輩で日本支社を乗っ取りましょう!!」
妙な熱のこもった言葉とともに、間山は茜の両手を握る。
間山の勢いについ妄想が膨らむ。桂木と鳥飼部長、的場部長を踏みつけに高笑いして、支社長室にいる自分と、その背後で忠犬のように尻尾を振っている間山。
いいかもしれないと考えて、ハッと我に返る。
違う、違う。今のなし!! 私が欲しいのは実力で積み上げたキャリアであって、後ろ暗い陰謀の果ての権力じゃない。
ぶるぶると首を振って、おかしな妄想と同時に間山の手を振り払う。
「馬鹿なことばかり言ってないで、さっさと仕事しなさい!!」
朝から余計な衝撃を与え妄想をさせてくれた間山を、半ば八つ当たりで怒鳴りつけ、その脳天に空手チョップをおみまいする。
「っで――!!」
茜の容赦のない一撃に、間山が後ろにひっくり返って悶絶しているが、そんなものは放置だ。
あ~危なかった。間山の妙な熱意に引きずられて、危うくおかしな道を突き進むところだった。
もう一度頭を振って、今度こそ仕事に戻ろうとすると、向かいのデスクの同期の田中健吾と目が合う。
「なんだもう終わりか? 間山とのどつき漫才」
「どつき漫才なんてした記憶はないわよ」
にやにやと笑う田中に、茜は溜息をついて答える。
「ところで……」
田中が急に声を潜めて声をかけてきた。
「真崎が間山を使って、日本支社を乗っ取る気なら、俺も手を貸すぞ?」
にやりと笑う田中に、茜は酷い眩暈を覚えそうになる。
あんな話を本気でとる奴がいるなんて。
「そんな物騒なことをするつもりはないわよ。上に上がりたかったら、私は実力でのし上がるわよ」
「さっすが真崎。男前だね~。惚れそうだわ」
口笛でも吹きそうな口調で田中が言った。
「はいはい。ありがとう」
田中の軽口に茜が疲れた顔で答えると、彼は急に真顔になる。
「もし、桂木さんが縁故でのし上がろうなんてくだらないことをしたら、俺が叩きつぶしてやるよ」
そんな物騒な宣言はいりません。田中はやると言ったら本当にやる男だ。出世にも権力にも興味がないから普段は呑気なものだが、この同期が本気になったら、どんな汚い手でも平気で使うだろう。
「桂木さんが結婚するっていうことは、それは相手のことを本気で思ってるってことでしょう。派閥なんて気にしてないわよ」
って、なんで私が桂木さんを庇わないといけないのだ! そんな筋合いはこれっぽっちもない。むしろ、桂木さんを叩きつぶしたいのは私だ!!
人に手を出しておいて、自分は派閥のボスの娘と結婚ってどういうことだ!! ……なんか、ものすごいむかついてきた。
間山からもたらされた衝撃のスクープと余計な妄想で麻痺していた感情が動き出す。
あの鉄仮面男、どうしてくれようか。
「それもそうだな。だが、おまえはそれでいいのか? 桂木さんが本当に結婚しても?」
怒りに燃えていた茜は、田中の問いかけにぎくりとした。
「どういう意味?」
まさか、知っているのだろうか? 桂木と自分の事を。そんなはずはないと思うが、何もかも見透かしているような田中に、内心の動揺を悟られないよう、営業で鍛え上げた作り笑いで答える。
「わからなければいい。もう始業時間を過ぎている。いい加減仕事するか」
追及されなくてホッとしたが、田中には何もかもばれている気がして、なんだか落ち着かない。
疲れた溜息をつきながら、茜は中断していたメールチェックに戻る。その中に、今、最も茜を悩ませ、腹立たせている男からのメールを発見する。
今は遠い中国の空の下にいる鉄仮面男の無駄に端整な顔を思い出しつつ、仕事の指示だけが書かれたメールの文面を睨み付ける。
確かにあれは酔った勢いの一夜の過ちだった。桂木とは付き合っているわけじゃない。
あのあとも桂木は何も変わらなかった。変わらないことを、茜も望んだ。
互いに合意の上だった以上、桂木の結婚を責めるのは筋違いだとわかってる。
それでも、今、このタイミングで発覚した桂木の結婚に腹が立つのは仕方ないと思いたい。
――しかし、よくも人のトラウマを踏みつけてくれたな! 二十二歳のお嬢様と政略結婚ってどういうことだ!! 本当に、この男とは合わないと思った。とことん相性が悪いのだろう。
桂木の結婚が出世を狙ったただの政略結婚なら、自分は実力で桂木を超えてやる! いつか絶対、仕事であの鉄仮面を引っぺがしてやる!!
一度地獄を見た女を舐めるなよ!! と自分を鼓舞する一方で、もう桂木に妊娠を相談できないことに気づき、長い溜息が零れた。
本当に、どうするよ?
桂木の帰国まであと三日。
* * *
妊娠の判明と桂木の結婚という波乱から始まった一日も、なんとか無事に終わろうとしていた。
長引いた商談のせいで肩が凝り、茜は首を回しながらロッカールームに向かう。
今日は本当に疲れた。やっぱ歳なのかな。今日で二十九歳。もう二十九なのか、まだ二十九なのか。
学生の頃、想像していた二十九歳の自分はもっと大人だと思っていたけど、実際はずいぶん想像とはかけ離れている。
溜息をつくたびに、心も体も重くなっていく気がするのは、やっぱり歳のせいなのか。
責任や立場がある分、昔よりどんどん身動きが取れなくなっていく。
仕事をしている間は忘れていられた現実が、一人になると重く圧し掛かる。
今朝、悩むのは病院で診察してもらってからにすると決めたはずなのに……
腹を立てていられるうちはよかった。だが、桂木の結婚という衝撃は、時間の経過とともにじわじわと茜にダメージを与えてきた。
桂木が結婚するというのなら、自分はどうすればいいのだろう?
無意識にまだ平たい自分の下腹部に触れる。
五年前の出来事と重なる状況に、気が滅入ってくる。
あの時とは立場が逆転しているが、あまりにも似た状況にどうしたらいいのかわからない。
満は、あの子は、あの時に何を思っていたのだろう?
孝明の子供を妊娠していたあの子は、自分に告白するまで、どんな葛藤を抱えていたのだろう?
あの時と何もかもが同じ状況ではないが、思わずそんなことを考えてしまうほど、今の茜は出口のない迷路の中にいる気分だった。
五年前の満と孝明は少なくとも愛し合っていた。でも、桂木と茜は違う。
二ヶ月前のあの時、茜と桂木の間に恋愛感情はなかった。二人を突き動かしていたのは、凶暴なまでに純粋な衝動だった。
普段は喧嘩ばかりの上司の中に見つけた雄としての顔に、あの時、茜は強烈に惹かれた。この男に触れてみたいと衝動のままに茜はその身を桂木に任せた。
あの時の桂木が何を考えていたのか、茜にはわからない。
婚約者がいるくせに、茜に手を出したというのなら、桂木もしょせんはただの男だったということか。
ただ、重ならないのだ。普段の茜が知る桂木と、不誠実な姿を見せた男の顔が。
茜だって、桂木のすべてを知ってるわけじゃない。知らないことの方が多いだろう。それでも、五年以上、一緒に働いてきた。
その中で見てきた桂木は、婚約者がいるのに、浮気するような不誠実な男でも、出世のために政略結婚を考えるような男でもなかった。
茜とは合わない部分も多く、喧嘩なんて日常茶飯事ではあったが、本気で嫌っているわけではない。
桂木の仕事に対する熱意や真剣さ、上司や部下に対する飾らない誠実さを知っているからこそ、茜は困惑せずにはいられない。
あの桂木が結婚を決めたということは、それだけ相手に対して真剣な思いを抱いているのだ。きっと、周囲の思惑なんて、気にもしていないだろう。
そっと触れる自分の下腹部は、やっぱりまだ平らで、ここに命が宿っている実感はほとんどない。それでも、ここには桂木と茜の子がいる。小さな命が育まれつつある。でも、この子の存在は、桂木の婚約者と桂木本人の幸せを破壊するものだ。
私には自分の幸せのために、誰かの幸せを壊すことなんてできない。
五年前のあの時みたいな思いをするのは自分だけで、十分だ。あんな、最低最悪な思いは。
衝動的な快楽を求めたツケを払うのは自分であって、決してまだ若い桂木の婚約者であってはならない。
それだけは、絶対に間違えてはいけない。
全く、桂木はなんだってこうも見事に茜のトラウマに触れてくるのか。
もう癖になってしまった溜息が零れた。
「な~に、辛気臭い溜息ついてるのよ? せっかくの誕生日でしょうが!」
後ろから声をかけられる。
驚いて振り向くと、同期の園田美紀が艶やかな微笑みを浮かべて立っていた。さばさばした姉御肌の美紀とは入社した時から意気投合し、プライベートのことでもなんでも話し合える間柄だった。
女性社員の花形部署である秘書課に勤務するだけあって、美紀は美人だ。綺麗にまとめられた栗色の髪に、目鼻立ちのくっきりした顔立ちをした親友は、社内の男性陣の憧れの的だった。ただ、美紀には長く片思いをしている相手がいる。そのため、酷くモテるくせに茜同様男の気配はなかった。
「……美紀。お疲れ」
「お疲れ。で、せっかくの誕生日にどうして辛気臭い溜息をついてたのよ?」
このもやもやを美紀に話してすっきりしたかったが、自分の中でも整理できないことを相談することはできそうになかった。
「ん~。午後の商談がちょっと長引いたからね。疲れてるのかも」
そう言い訳すると美紀はつかつかと歩み寄り、茜の顔を両手で挟み込んで覗き込んできた。
「ちょ、美紀! 何?」
「コンシーラで誤魔化してるけど、目の下に隈ができてるわよ? 顔色も悪いし、肌も荒れてる。目も軽く充血してるし、寝不足ね。悩みは仕事じゃないとみた」
あまりの鋭さに、なんと言えばいいのかわからなくなる。
今はまだ美紀にも言えない。
困っている茜を見て、美紀が妹を心配する姉のような表情で笑う。
「今は言いたくない類の悩み? だったら、無理には聞かないわ。ただ、しけた顔して溜息つくのはやめなさい。幸せが逃げるわよ?」
大人な対応をしてくれる親友の態度に、ホッとする。何かあった時に親身に心配してくれる人がいることが嬉しかった。
「そうね」
「そうよ。だから、飲みに行こう? せっかくの誕生日じゃない。お祝いしてあげる」
「って、美紀が飲みに行きたいだけじゃないの?」
美紀の言葉に茜は苦笑した。誕生日なんて、きっとただの口実だろう。この綺麗な親友は顔に似合わず酒豪なのだ。
「そうとも言うわね。でも、茜の誕生日を祝う気持ちはあるわよ?」
「はいはい。ありがとう。っていうかその顔で大酒飲みってどうなのよ?」
「顔で酒を飲むわけじゃないもの! 今日は奢ってあげるから、美味しいお酒を飲みに行こ!」
うきうきとしながら腕を組んできた美紀に引っ張られるように、茜はロッカールームをあとにする。
一人で悩むよりはこの親友と憂さ晴らしに行くほうが、有意義な時間を過ごせるだろう。
どんなに悩んでも、こればっかりは簡単に答えは出せないし、出してはいけないと思った。
ロビーで田中と間山に出会い、四人でいつもの居酒屋で飲み始める。
「それでは茜の二十九歳の誕生日を祝って、かんぱーい!!」
「おめでとうございます!!」
「おめでと」
「ありがとう」
美紀が音頭を取り、生ビールのジョッキ四つがカチンと音を立てる。
会社から徒歩で十分ほどの場所にあるこの居酒屋は、料理も酒もそこそこ美味しく、値段も財布に優しいため、入社した時から茜たちの行きつけになっていた。
それぞれ好きなものを頼み、近況など他愛ない話で盛り上がる。
「あれ? 茜、全然、飲んでないじゃない? どうしたの?」
美紀が最初の一杯に口をつけただけの茜のジョッキに気づいて、声をかけてくる。
「明日も朝から、商談があるのよ。酒臭い息で行くわけにいかないからね。今日は我慢」
一応、妊娠中なのでお酒を飲むのはまずい。
「せっかくの誕生日なのに。それに今日は奢りよ?」
「ありがとう。気持ちだけで充分よ。その分、ご飯はしっかり食べさせてもらうわ」
笑いながら茜が言うと、美紀は「そう?」と言って、無理に酒を勧めてくることはなかった。
「そういえば、最近、鳥飼部長がやたらとご機嫌なんだけど、間山何か情報持ってる?」
美紀は秘書課勤務のため、様々な部署と繋がりを持っている。そんな彼女が突然思い出したように言った。美紀の言葉に、待ってましたとばかりに間山の瞳が輝き出した。茜はせっかく忘れていた悩みを思い出してしまい、内心溜息をつく。
今日は、この話題から逃げることはできそうにない。
「よくぞ聞いてくれました、美紀さん! 聞いてください!! この間山、とっておきの情報を掴んでるんですよ!!」
間山が、桂木が鳥飼部長のお嬢さんと結婚して、鳥飼部長の派閥に入るかもしれないという今朝の話題を喋り出す。
それを聞き流しながら、茜は目の前の酢豚に無言で箸を伸ばした。
「あの桂木さんが? なんか意外。間山、それ本当なの? ガセじゃなくて? どう考えてもあの人、派閥とかに属するタイプじゃないでしょ?」
「本当ですよ! なんでも三ヶ月前のとあるパーティーに参加していた鳥飼部長のお嬢さんが酔っ払いに絡まれていたのを、桂木さんが助けたらしいんですよ! それでお嬢さんが桂木課長に一目惚れ! あの人はどこの誰だろうと必死で調べたら、自分の父親が勤める会社の人間ってことで、これは運命とばかりに父親に桂木課長との縁談を進めてほしいとお願い。もともと桂木課長を自分の派閥に取り込みたかった鳥飼部長は、愛娘のお願いに一も二もなく了承して、桂木さんが中国出張に行く前にお見合いの場をセッティング。場所は二人が運命の出会いを果たしたパーティーが行われた春光ホテル!」
間山は水を得た魚のように身振り手振りを交えて話す。
本当にこいつはどこでこんな情報を仕入れてくるのやら。
間山がまるで見てきたように語るので、茜も思わず桂木の恋愛話に耳を傾ける。
中国出張前にお見合いしたのなら、あの時桂木に婚約者はいなかった。気持ちが少しだけ楽になる。
お嬢様と自分は、天秤にかけられたわけじゃないらしい。
だが、続く間山の話に茜の気持ちはさらに沈められる。
「ふーん。それで出世に目が眩んだ桂木さんが、そのお嬢様との結婚を了解したの?」
「そこ! そこなんですよ! 美紀さん!! 実は桂木課長も三ヶ月前に助けた可憐なコンパニオンに一目惚れしてたらしいんですよ! 嫌々付き合いで行ったお見合い現場に、そのコンパニオンがいた! この機会は逃せないと、桂木課長も、このお見合いを了解!! 二人は運命の恋に向かって走りだした!」
「あら、それは素敵ね! お嬢様と鉄仮面の運命の恋か~」
「う~。いいですよね! 可憐な美少女を悪漢から救う騎士!! 王道だ~!」
意外に乙女なところのある美紀が、目をキラキラさせて間山と盛り上がる。
運命の恋ね。だったら、なんで私に手を出したのだ?
もう会えないと思った運命の相手の身代わりにされたのか?
一瞬で運命を感じるほどに、そのお嬢様に一目惚れをしたのなら、私に手なんて出してんじゃないわよ。
桂木さんのバーカ。
ぽつりと胸のうちで呟く。
胸が痛む気がするのはきっと気のせい。
2
慌ただしく日々は過ぎ、気づけば金曜日を迎えていた。今日、桂木が長かった中国出張から帰ってくる。
正直、どんな顔をして桂木と会えばいいのかわからなかった。
病院にはまだ行ってない。正確に言えば行けなかった。
行く時間は作ろうと思えば作れたが、はっきりさせるのが怖かったのだ。
病院できちんと診察を受けて、妊娠を告げられてしまったら、もう逃げることはできない。そう思うと時間がないのはわかっていたが、勇気が出なかった。
うじうじと悩むのは性に合わないのに、いつまでも決断を下せない自分が嫌になる。いっそのこと桂木にすべてを打ち明けて相談してみようかとも思った。
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