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1巻
1-2
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覆いかぶさってくる男の顔に浮かぶ気遣いと情欲がなぜか愛おしくて、もっと強く触れたいと思った。思う心のままに、茜は桂木の大きな背中にしがみ付く。
「かつ、ら……ぎさん」
名前を呼べば、桂木が茜の髪を先ほどと同じように優しい手つきで梳いてくる。
「大丈夫か?」
茜は無言で頷いた。吐息が触れる距離にある男の瞳から、目が離せない。切れ長の男の瞳が潤み、眉を歪める様に、茜は桂木も感じているのだと知って、体だけではなく心も満たされる気がした。絡んだ視線を離さないまま桂木がゆっくりと近づいてきたので、茜は瞼を閉じた。
「……んぅ!」
口づけと一緒に緩やかな律動が始まった。最初は様子を窺うようにゆっくりと動いていたが、徐々に腰の動きは速くなっていく。
桂木が動くたびに生まれる悦楽に、茜は息を乱した。
「茜……」
名前を呼ばれた。体が熱く疼く。
苦しいのに気持ちよくて、甘いのに苦く感じた。相反する感覚が茜の体を乱す。
快楽と苦しさの狭間で、茜は自分を支配する圧倒的な質量と熱に、ただ溺れた。声を上げることもできないほど揺さぶられて、体の奥まで突き上げられる。
「あ……や……イ……ッちゃ……う!!」
溺れるほどの快楽に、茜は必死で桂木の肩にしがみ付いた。
目の前が白く染まって、落ちると思った瞬間、桂木の力強い腕に背中を支えられた。
「くっ……茜……」
掠れた声で桂木が茜の名を呼んだ瞬間、二人は同時に果てた。
ずるりと抜け出されるときですら震えるほどに感じていた。
安っぽいホテルの部屋の中。二人の荒い息遣いが響く。互いの胸を合わせるように抱き合って、横になる。
汗に濡れた体を互いに離すことができない。触れ合った場所が酷く熱かった。
息が上がって言葉にならないけれど、互いの瞳を見つめていれば言葉なんて必要ない気がした。今この瞬間の情欲に言葉なんて無意味だった。
息が乱れて酷く苦しいのに、桂木の唇が恋しくなる。キスがしたいと思った。ほんのわずかに首を動かせば触れられる距離にある男の唇が恋しくて仕方ない。
荒い呼吸を繰り返す男の唇に引き寄せられるように、今度は自分から口づける。触れた唇は少しだけかさついていた。そのかさつきを舌でなぞると、すぐに絡められる。あっさりと主導権を奪われて、甘い喘ぎがキスの合間に零れた。
燻るような情動が二人を支配していた。抑え切れず茜は再びしどけなく足を開いて、桂木を受け入れる。
『手加減は、なしだ……』と言った言葉通り、桂木は本当に容赦がなかった。
そのあとも、朝まで何度も何度も求められた。
何回したかなんて、記憶にない。
熱に浮かされ、求められるままに、ただ爛れた時間を二人で過ごした。
与えられるキスに、熱に、茜はただ翻弄され続けた。
* * *
二ヶ月前のあの時。なんで、せっかく眠りにつこうとした猛獣をわざわざ起こした、自分。完全に酔っていたとしか思えない。
でも桂木が『その気がないならやめるか』と言って離れていこうとした時、どうしても我慢できなかった。
だから、離れていった桂木を挑発するような真似をした。
自慢じゃないが、二十九年の人生の中で、あんな風に男を挑発するような真似をしたことなんて、あとにも先にもない。
落ち込みどころが満載な出来事を思い出し、さらにどん底な気分になる。
そもそも普段の茜なら、一夜だけの関係なんて承知しなかった。そういうことを許容できる性格なら、いつまでも昔のトラウマを引きずって、五年も一人でなんていない。
本当にもうあの日の自分はどうかしていた。
きっと、大きな仕事の成功による興奮と、アルコール、何より桂木のキスに酔って、理性が働かなくなっていたのだろう。
だいたい桂木のキスは卑怯だ。あんな極上で甘いキス。私は知らない。
一瞬で、忘れていたはずの女としての本能が目覚めさせられた。
なんであんなにキスが上手なんだ、あの男は! あれさえなければ、一夜の過ちなんて、馬鹿なことをせずに済んだ。
抱き締めていたクッションにぎゅうぎゅうと顔を押し付ける。
なんで、あの時、キスなんてしてきたのよ、桂木さん。
なんで、私を誘ったのだ。いつも喧嘩ばかりしている私を。
……なんで! なんでちゃんと避妊しなかった!! 桂木のバカヤロー!!
抱き締めていたクッションを、怒りにまかせて床に叩きつける。
底辺まで沈んでいたはずの気分は、桂木に対する怒りに変わって一気に沸点にまで達した。
いくら酔ってたとはいえ、大人としての最低限のマナーは守れ!!
そして自分! いくら久しぶりのセックスで、わけがわからなくなっていたとはいえ、相手がゴムをつけてるかぐらい確認しろよ! なんで中に出されたことに気づかなかった!!
茜は桂木を信用していた。その辺の馬鹿な男たちとは違っていると思っていた。だから、桂木に体を預けたのに。
ぜぇー。ぜぇー。
ひとしきり暴れて、肩で息をしながら、茜は床に叩きつけたクッションの上に倒れこむ。
あのなんでもそつなくこなす桂木が、そんな危ない橋を渡るとは思えない。それだけ余裕がなかったということだろうか。
束の間、問題の夜を振り返って、それはないなと思う。あれだけ人を翻弄してくれたのだ。余裕がなかったなんて言わせない。だったらどうしてと思わずにいられないが、その疑問に答えてくれる男はここにはいない。
また溜息が零れる。
わかってる。桂木に責任を転嫁しても、どうしようもない。
お互い、いい大人だ。酔っていたとはいっても合意の上での行為。つまり、責任はイーブン。でも、こうしてリスクを負うのはいつだって女なのだ。それだけで、女として生まれてきたことが不公平に思えてくる。
産むにしろ、産まないにしろ、このことはきっと茜の今後の人生を大きく変えるだろう。
茜の選択次第では、一つの命が生まれてくる前にこの世から消える。
そう思うと怖くて仕方なかった。縋る思いで形が変わるほどにクッションを抱き締める。
女としての崖っぷちの二十九歳の誕生日。茜は人生最大の岐路に立たされた。
本当にどうするよ、私?
考えても答えなんて出ない。
とりあえず、今日はもう寝よう。明日も仕事だ。
こんなところで妊娠検査薬と睨めっこしても、クッション相手に百面相していても、事態は何も変わらない。茜はのろのろと起き上がり、ベッドの上に倒れこんで瞼を閉じる。
これが夢なら……。ありえないと思っていても、そう願ってしまった。
もう男の人に振り回されるのはうんざりなのに……
* * *
五年前、茜には結婚を約束した恋人がいた。
相手は大学時代から付き合っていた岡野孝明という男。茜が所属していた英語サークルの二つ年上の先輩だ。
サークルの副部長だった孝明は、茜を含めた新入生に、単位の取り方から、教授たちの特徴まで教えてくれる面倒見の良い男だった。ただのサークルの先輩から、憧れの先輩になるまで、時間はかからなかった。
孝明に想いを寄せる女子は多かった。だから、大学に入って初めての夏休みに孝明から二人で出かけようと誘われた時のことは今でも鮮明に覚えている。
ドキドキしながら出かけた映画。
初めはうまく話もできなかったが、その当時ヒットしていたアクション映画の面白さに緊張を忘れ、かなり話が弾んだ。そして、二度目のデートの約束をして、別れる。
夏休み中、何度か孝明とデートを重ね、徐々に彼と二人で過ごすことに慣れていった。
夏休み最後のデート。二人で海辺にドライブに行った帰りのこと。
『……好きだ。付き合ってほしい』
そう告白された時には、茜は孝明のことが大好きになっていた。
だから、その告白に頷いた。
付き合い始めは、サークル仲間に散々からかわれたが、孝明の人柄のためか、茜に対するやっかみはほとんどなかった。
勝気な茜と穏やかな孝明。性格は反対だったけど、それが良かったのか、二人の相性は良かった。互いの足りないものを補い合えるような関係だと思っていた。
孝明と一緒にいる時が、一番自分らしくいられた気がした。時々、喧嘩をしながらも、茜と孝明は順調に付き合いを続け、二人の関係は社会人になっても変わらなかった。
そして、付き合い始めて五年目の夏。茜は孝明にプロポーズされた。
就職したばかりで、仕事が楽しくなってきたころだったから、正直そのプロポーズには困惑した。
それに結婚なんてまだ早い……
そう俯く茜に、結婚しても仕事を続けてもいいと孝明は言ってくれた。それに『仕事を頑張る茜が好きだから、茜が安心して帰れる場所になりたいし、俺の帰る場所になってほしい』という孝明の言葉が嬉しくて、茜は孝明のプロポーズを受け入れたのだ。
幸せだった。
たぶん、今までの人生で一番、幸せな時だった。
歯車が狂いだしたのは、いつだったのだろう?
茜には七歳年下の妹がいる。
勝気な茜とは違って、人見知りで大人しかった満。
子供の頃は、どこに行く時もいつも茜の後ろをついて回るような子だった。それは満が高校生になっても変わらず、茜が就職して一人暮らしを始めてからも、よく一緒に買い物に行ったり、茜の部屋に遊びに来たりしていた。
茜は年の離れた妹が、かわいかった。
近所でも評判の仲良し姉妹だった茜と満。
男兄弟の中で育った孝明は昔から妹が欲しかったらしく、満をかわいがり、三人で一緒に出掛けることも多かった。
人見知りな満も、孝明にはよく懐いていた。
茜と孝明の結婚が決まった時、誰よりも祝福し、喜んでくれたのは満だった。それなのに……
何が、いけなかったのだろう?
いくら考えてもわからない。
自分の幸せに酔って、満の苦悩を見逃したから?
プロポーズされたという現実に胡坐をかいて、孝明の変化に目をつぶったから?
今さら後悔しても、何も変わらない。いくつもあったはずの前兆を、仕事と結婚式の準備の忙しさを言い訳に、見なかったふりをしたのは茜だ。
前はよく三人で出かけていたのに、それを断るようになり、そして茜と孝明の結婚式が近づくにつれ、満はげっそりと痩せ、笑わなくなった。
茜と一緒に結婚式の準備をしながらも、どこか上の空だった孝明。
徐々に増えていく違和感に気づきながらも、あの頃の茜はマリッジ・ブルーだと自分に言い聞かせて、現実から目を逸らしていた。
結果から言えば、茜は大好きで大切だった二人に裏切られた。それも最低最悪な形で。
まだ高校生だった満が、孝明の子を妊娠していた。
それを知ったのは結婚式の三ヶ月前。
八月の酷く暑かった、土曜日の夕暮れ。一人暮らしの部屋に差す西日がやけにまがまがしい赤をしていたのを覚えている。
満と孝明は二人揃って現れた。なぜ、二人が一緒なのか疑問に思ったが、それよりも、しばらく見ない間にげっそりと痩せた満の姿に驚いた。
たぶん、十キロ近く落ちていたのではないだろうか。
もともと少しぽっちゃりめで、笑うとえくぼができるかわいかった顔が、まるで幽鬼のように青白くなり頬がこけている。
そして、瞼は赤く腫れていて、孝明に連れられてきた時、満はずっと泣いていた。
両親から最近、満の様子がおかしいとは聞いていたが、まさかここまでとは思わず、何か悪い病気なのかと心配した。両親が問いただしても、食欲がないのは茜の結婚式でかわいいドレスを着るためにダイエットしているせいだ、と言い張って本当のことを話してくれないから、一度話をしてほしいと言われていたのだ。
しかし、色々と忙しかった茜は、なかなか満と会う時間を作ることができなかった。
痩せ細った満が泣き続ける様子を見て、茜は会わずにいたことを酷く後悔する。
何があったのかと聞いても、満はただ泣き続けるばかりで、まともに答えてくれなかった。
このままでは埒が明かないと思い、満を連れてきた孝明なら何か事情を知っているのかと問おうとした時、突然孝明が土下座する。
何が起こったのかわからず、呆気にとられた茜に孝明が一言、言い放った。
『……すまん、茜。結婚を……結婚を取りやめたい……』
絞り出すように告げられた孝明の言葉に、茜は目を見開く。そして、その瞬間、満の嗚咽が激しくなった。
『……ど……う……い……うこと?』
事態が理解できずに、震える声で茜は聞いた。酷く憔悴して泣きながらこの場にいる満と、突然結婚をやめたいと言い出した孝明。
嫌な予感がした。酷く嫌な予感が。
孝明がこの先に言うであろう言葉を聞きたくなかった。聞いてはいけない気がした。
真夏なのに鳥肌が立つほどに寒くて仕方なくて、思わず自分で自分を抱き締める。
聞きたくない。何も聞きたくないと思った。だけど。
『満が……満が妊娠している。俺の子だ……』
次に孝明が放った一言に、茜の世界は崩壊した。
目の前が黒く染まり、酷い耳鳴りがした。体がガタガタと震えて立っていられず、茜は思わずその場にへたり込む。
『ご……め……ひっく……な……ぃ……。お……ね……ちゃ……ご……め……な……い』
『違う……悪いのは俺なんだ。全部、俺なんだ……満を責めないでやってくれ……』
泣きながら謝り続ける満と、それを庇う自分の婚約者。
悪夢だと思いたかった。何もかもが悪夢だと思いたかった。
しかし、すべては現実。
それから、茜は自分がどうしたのかあまり覚えていない。泣きながら孝明と満を罵った気もするし、茫然と座り込んでいた気もする。
ただ、憔悴しきって痩せ細った満をこのままにしておくわけにはいかず、孝明と二人で病院に連れて行ったことだけは覚えている。
そして、診察の結果、やっぱり満は妊娠していた。しかも、妊娠しているのに、食事もとれないほどにやつれてしまったために、子供は週数にしては育成状況が悪いという。
満はそのまま入院することになった。手続きをしている間も満は、ずっと泣きながら茜に謝り続けていた。
そのあと、急遽、両家の親を呼び出して、今後についての話し合いが行われた。
その場でも、孝明は土下座して、悪いのは自分だと言い続けたと記憶している。
茜の父親に殴られても、自分の母親に罵られても、一切反論することなく謝罪し続け、満との結婚を望んだ。
周りにどんなに責められ、非難されても孝明の決心は変わらず、彼は満を庇い続ける。
そして、それは満も同じだった。
あの泣き虫で、大人しかった満が、周りの非難に耐え、孝明は悪くないと言い続けたのだ。
互いを庇い合う二人を、茜はどこか他人事のように眺めていた。
たぶん感情が麻痺していて、何も考えられなかったのだろう。
いつから、二人がそんな関係だったのか、どうしてこんなことになったのかわからない。聞きたくもなかったし、知りたくもない。
孝明は一切言い訳をせず、ただ、茜に謝罪し続けた。
真面目で優しく、嘘がつけない孝明が好きだった。
だけど、こんなことになっても言い訳一つせず、満を守ろうとする孝明が恨めしい。
そして、そのことに、茜は孝明の覚悟を感じた。茜の知る孝明は、穏やかさの中に一本筋の通った強さを持った人間だった。一度こうと決めたら、それをやりぬくためにはどんな努力も惜しまない。
誠実で優しくて、人を傷つけることを嫌悪していた孝明。
その孝明が、周囲の人間を、茜を傷つけても、満との結婚を決めたのだ。
もうだめだと思った。
茜一人がどんなに嫌だと泣き喚いたところで、きっと孝明の決意は変わらない。それがわかった瞬間、茜はすべてを諦めた。
茜が孝明との婚約破棄に同意したことで、修羅場と化していた両家の話し合いは、一応の収束を迎える。実際は、満と子供のことがあり、揉めている時間がなかったというのが正しいのかもしれない。けじめとして、茜には婚約破棄の代償として孝明から慰謝料が支払われ、長く続いた春は終わりを告げた。
その年の暮れ、満は無事に元気な男の子を出産し、孝明と結婚した。
あれから、五年。まるで嫌な現実から逃げるように茜は仕事に没頭し、すべてを忘れることを選んだ。
おかげで、仕事ではある程度の成功を収めることができた。
この先も仕事一筋でずっと一人で生きていこう。
誰よりも身近で、誰よりも大切だった二人の裏切りは、茜の心をぼろぼろに傷つけ、恋や愛に対して酷く臆病にした。
孝明と別れたあと、誰とも付き合わなかったわけではない。
荒んだ気持ちのまま、夜の街で馬鹿な真似をしていた時期もあったが、節操なく誰とでも寝られるような性格ではなかったから、すぐにばかばかしくなってやめた。
この人なら好きになれるだろうか、と思える人もいたが、また裏切られるのではないかという思いに駆られ、どうしても最後の一歩が踏み出せない。
もう傷付くのが怖かった。また誰かを好きになって裏切られるのが酷く怖かった。
一度味わった苦い経験と喪失感は、茜の中に根深いトラウマを植え付けていたのだ。
だから、もう二度と誰かと深く関わるつもりなんてなかったのに。
* * *
どんなに嫌なことがあって、朝なんて来なければいいと思っても、茜の意思など無視して、朝はやってくる。
目覚ましなんてなくても、長年の習慣で六時になったら嫌でも目が覚める。
寝不足で頭がぼんやりとしていた。まだ温かい布団から出るのが億劫な冬の朝。寒さに震えながらヒーターの電源を入れる。
当たり前だけど朝起きても、やっぱり現実は何一つ変わっていなかった。
ガラステーブルの上に放置したままの妊娠検査薬は、変わらずに陽性反応を示していて、現実を茜に知らしめた。
昨日の夜から癖になっている溜息が零れる。
とりあえず出勤準備をするために、茜は重い体を引きずって洗面所に向かう。
「ひっどい顔」
鏡の中に映る自分の顔に、思わず笑い出したくなる。寝不足で目の下にうっすらと浮かんだ隈に、むくんだ顔。鏡の中では疲れた顔をした女が乾いた笑みを浮かべていた。
もう自分は若くないと自覚する。二十代の前半は、多少夜更かししても、平気だった。こんな風に隈が浮かぶことも、顔がむくむこともなかったと思う。最近は肌も張りがなくなり、寝不足だと化粧ののりが悪くなった。
それも仕方ないかと思う。今日でもう二十九歳。色々と努力はしているが、衰えていくものがあるのは仕方ない。若いころの肌の張りを取り戻せないのなら、それに合わせて化粧の仕方を変えるだけと開き直ってやる。
ばしゃん!!
鏡の中で不景気な顔をしている女の顔に、水をぶっかけて気持ちを切り替える。
子どものことは、今、悩んだところで結論なんて出ないに決まってる。だったら、出勤前のこの忙しい時間に悩むのは時間の無駄だ。
今日も、仕事は詰まっている。立ち止まってる時間なんて茜にはない。
今週、早く仕事を切り上げられる日に、産婦人科に行ってちゃんと診察を受けようと決める。
考えるのはそれからでも、遅くないはずだ。
気持ちを引き締めるために、わざと冷たい水でバシャバシャと顔を洗う。
残っていた眠気とだるさがふき飛ぶ気がした。
それからいつもの手順で簡単に朝食を食べ、経済面を中心にじっくりと新聞に目を通し、化粧をして、スーツを身にまとった。
その頃には、平常心が戻ってきている気がした。
部屋を出る前に鏡で確認したら、いつもの強気な営業ウーマンの顔をしていた。そのことに茜は少しだけほっとした。
普段通り始業時間の三十分前に会社に着くように家を出る。朝の拷問のような満員電車には辟易するが、社会人になって七年以上経つと慣れたもの。近づく副都心の光景を電車の窓から眺めながら、会社の最寄駅で降りる。
そこにあるのは普段と変わらない風景だった。
出社するとロッカールームに寄り、営業二課の自分のデスクに向かう。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「おはよう!」
途中、同僚たちと朝の挨拶を交わす。昨日片付けて帰ったはずのデスクの上にはもういくつもの書類やメモが置いてある。
鞄を机の中にしまうと、仕事の優先順位を考えながら、パソコンの電源を入れてメールのチェックを行う。
途中、ちらりと斜め前の桂木の席を見るが、その席はここ二週間空席のまま。
茜の人生最大の悩み事の原因を作ってくれた男は現在、次回プロジェクトの市場調査のために、遠い中国の空の下にいる。
帰国は三日後の予定。それが今の茜にとっていいことなのか、悪いことなのかわからず、複雑な心境に駆られた。
桂木に相談するべきなのか。
あれは酔った勢いの一夜の過ち。それで妊娠したから責任とって結婚しろなんて言うつもりは、さらさらない。だけど桂木が何を思って、あの夜に茜を抱いたのかわからないから、どうすればいいのかわからない。
互いに大きな仕事の成功と、酒に酔って興奮していた。それだけのこと。
そこに感情はなかったはずだ。あの夜のあとも、桂木は何一つ変わらなかった。
いつもどおり淡々と仕事をこなし、茜に対する態度も普段通り。あの夜のことを匂わせることは何一つなかった。
茜はそのことに大きな安堵とほんの少しの落胆を覚えた。
別に態度を変えていてほしいなんて、思っているわけじゃなかった。むしろ、変わらないでいてくれてありがたかったのだが……
また、溜息が出そうになるが、寸前でこらえる。
だめだ。今は仕事に集中しよう。仕事に集中していれば、余計なことを考えなくて済む。
「おはようございます! 茜先輩!」
そして、茜が午前中の打ち合わせの資料の用意をしていると、ハイテンションな声が聞こえた。隣のデスクの三歳年下の後輩、間山康貴が出勤してきたのだ。
「茜先輩! 大変です! スクープです! 営業二課の一大事です!」
「かつ、ら……ぎさん」
名前を呼べば、桂木が茜の髪を先ほどと同じように優しい手つきで梳いてくる。
「大丈夫か?」
茜は無言で頷いた。吐息が触れる距離にある男の瞳から、目が離せない。切れ長の男の瞳が潤み、眉を歪める様に、茜は桂木も感じているのだと知って、体だけではなく心も満たされる気がした。絡んだ視線を離さないまま桂木がゆっくりと近づいてきたので、茜は瞼を閉じた。
「……んぅ!」
口づけと一緒に緩やかな律動が始まった。最初は様子を窺うようにゆっくりと動いていたが、徐々に腰の動きは速くなっていく。
桂木が動くたびに生まれる悦楽に、茜は息を乱した。
「茜……」
名前を呼ばれた。体が熱く疼く。
苦しいのに気持ちよくて、甘いのに苦く感じた。相反する感覚が茜の体を乱す。
快楽と苦しさの狭間で、茜は自分を支配する圧倒的な質量と熱に、ただ溺れた。声を上げることもできないほど揺さぶられて、体の奥まで突き上げられる。
「あ……や……イ……ッちゃ……う!!」
溺れるほどの快楽に、茜は必死で桂木の肩にしがみ付いた。
目の前が白く染まって、落ちると思った瞬間、桂木の力強い腕に背中を支えられた。
「くっ……茜……」
掠れた声で桂木が茜の名を呼んだ瞬間、二人は同時に果てた。
ずるりと抜け出されるときですら震えるほどに感じていた。
安っぽいホテルの部屋の中。二人の荒い息遣いが響く。互いの胸を合わせるように抱き合って、横になる。
汗に濡れた体を互いに離すことができない。触れ合った場所が酷く熱かった。
息が上がって言葉にならないけれど、互いの瞳を見つめていれば言葉なんて必要ない気がした。今この瞬間の情欲に言葉なんて無意味だった。
息が乱れて酷く苦しいのに、桂木の唇が恋しくなる。キスがしたいと思った。ほんのわずかに首を動かせば触れられる距離にある男の唇が恋しくて仕方ない。
荒い呼吸を繰り返す男の唇に引き寄せられるように、今度は自分から口づける。触れた唇は少しだけかさついていた。そのかさつきを舌でなぞると、すぐに絡められる。あっさりと主導権を奪われて、甘い喘ぎがキスの合間に零れた。
燻るような情動が二人を支配していた。抑え切れず茜は再びしどけなく足を開いて、桂木を受け入れる。
『手加減は、なしだ……』と言った言葉通り、桂木は本当に容赦がなかった。
そのあとも、朝まで何度も何度も求められた。
何回したかなんて、記憶にない。
熱に浮かされ、求められるままに、ただ爛れた時間を二人で過ごした。
与えられるキスに、熱に、茜はただ翻弄され続けた。
* * *
二ヶ月前のあの時。なんで、せっかく眠りにつこうとした猛獣をわざわざ起こした、自分。完全に酔っていたとしか思えない。
でも桂木が『その気がないならやめるか』と言って離れていこうとした時、どうしても我慢できなかった。
だから、離れていった桂木を挑発するような真似をした。
自慢じゃないが、二十九年の人生の中で、あんな風に男を挑発するような真似をしたことなんて、あとにも先にもない。
落ち込みどころが満載な出来事を思い出し、さらにどん底な気分になる。
そもそも普段の茜なら、一夜だけの関係なんて承知しなかった。そういうことを許容できる性格なら、いつまでも昔のトラウマを引きずって、五年も一人でなんていない。
本当にもうあの日の自分はどうかしていた。
きっと、大きな仕事の成功による興奮と、アルコール、何より桂木のキスに酔って、理性が働かなくなっていたのだろう。
だいたい桂木のキスは卑怯だ。あんな極上で甘いキス。私は知らない。
一瞬で、忘れていたはずの女としての本能が目覚めさせられた。
なんであんなにキスが上手なんだ、あの男は! あれさえなければ、一夜の過ちなんて、馬鹿なことをせずに済んだ。
抱き締めていたクッションにぎゅうぎゅうと顔を押し付ける。
なんで、あの時、キスなんてしてきたのよ、桂木さん。
なんで、私を誘ったのだ。いつも喧嘩ばかりしている私を。
……なんで! なんでちゃんと避妊しなかった!! 桂木のバカヤロー!!
抱き締めていたクッションを、怒りにまかせて床に叩きつける。
底辺まで沈んでいたはずの気分は、桂木に対する怒りに変わって一気に沸点にまで達した。
いくら酔ってたとはいえ、大人としての最低限のマナーは守れ!!
そして自分! いくら久しぶりのセックスで、わけがわからなくなっていたとはいえ、相手がゴムをつけてるかぐらい確認しろよ! なんで中に出されたことに気づかなかった!!
茜は桂木を信用していた。その辺の馬鹿な男たちとは違っていると思っていた。だから、桂木に体を預けたのに。
ぜぇー。ぜぇー。
ひとしきり暴れて、肩で息をしながら、茜は床に叩きつけたクッションの上に倒れこむ。
あのなんでもそつなくこなす桂木が、そんな危ない橋を渡るとは思えない。それだけ余裕がなかったということだろうか。
束の間、問題の夜を振り返って、それはないなと思う。あれだけ人を翻弄してくれたのだ。余裕がなかったなんて言わせない。だったらどうしてと思わずにいられないが、その疑問に答えてくれる男はここにはいない。
また溜息が零れる。
わかってる。桂木に責任を転嫁しても、どうしようもない。
お互い、いい大人だ。酔っていたとはいっても合意の上での行為。つまり、責任はイーブン。でも、こうしてリスクを負うのはいつだって女なのだ。それだけで、女として生まれてきたことが不公平に思えてくる。
産むにしろ、産まないにしろ、このことはきっと茜の今後の人生を大きく変えるだろう。
茜の選択次第では、一つの命が生まれてくる前にこの世から消える。
そう思うと怖くて仕方なかった。縋る思いで形が変わるほどにクッションを抱き締める。
女としての崖っぷちの二十九歳の誕生日。茜は人生最大の岐路に立たされた。
本当にどうするよ、私?
考えても答えなんて出ない。
とりあえず、今日はもう寝よう。明日も仕事だ。
こんなところで妊娠検査薬と睨めっこしても、クッション相手に百面相していても、事態は何も変わらない。茜はのろのろと起き上がり、ベッドの上に倒れこんで瞼を閉じる。
これが夢なら……。ありえないと思っていても、そう願ってしまった。
もう男の人に振り回されるのはうんざりなのに……
* * *
五年前、茜には結婚を約束した恋人がいた。
相手は大学時代から付き合っていた岡野孝明という男。茜が所属していた英語サークルの二つ年上の先輩だ。
サークルの副部長だった孝明は、茜を含めた新入生に、単位の取り方から、教授たちの特徴まで教えてくれる面倒見の良い男だった。ただのサークルの先輩から、憧れの先輩になるまで、時間はかからなかった。
孝明に想いを寄せる女子は多かった。だから、大学に入って初めての夏休みに孝明から二人で出かけようと誘われた時のことは今でも鮮明に覚えている。
ドキドキしながら出かけた映画。
初めはうまく話もできなかったが、その当時ヒットしていたアクション映画の面白さに緊張を忘れ、かなり話が弾んだ。そして、二度目のデートの約束をして、別れる。
夏休み中、何度か孝明とデートを重ね、徐々に彼と二人で過ごすことに慣れていった。
夏休み最後のデート。二人で海辺にドライブに行った帰りのこと。
『……好きだ。付き合ってほしい』
そう告白された時には、茜は孝明のことが大好きになっていた。
だから、その告白に頷いた。
付き合い始めは、サークル仲間に散々からかわれたが、孝明の人柄のためか、茜に対するやっかみはほとんどなかった。
勝気な茜と穏やかな孝明。性格は反対だったけど、それが良かったのか、二人の相性は良かった。互いの足りないものを補い合えるような関係だと思っていた。
孝明と一緒にいる時が、一番自分らしくいられた気がした。時々、喧嘩をしながらも、茜と孝明は順調に付き合いを続け、二人の関係は社会人になっても変わらなかった。
そして、付き合い始めて五年目の夏。茜は孝明にプロポーズされた。
就職したばかりで、仕事が楽しくなってきたころだったから、正直そのプロポーズには困惑した。
それに結婚なんてまだ早い……
そう俯く茜に、結婚しても仕事を続けてもいいと孝明は言ってくれた。それに『仕事を頑張る茜が好きだから、茜が安心して帰れる場所になりたいし、俺の帰る場所になってほしい』という孝明の言葉が嬉しくて、茜は孝明のプロポーズを受け入れたのだ。
幸せだった。
たぶん、今までの人生で一番、幸せな時だった。
歯車が狂いだしたのは、いつだったのだろう?
茜には七歳年下の妹がいる。
勝気な茜とは違って、人見知りで大人しかった満。
子供の頃は、どこに行く時もいつも茜の後ろをついて回るような子だった。それは満が高校生になっても変わらず、茜が就職して一人暮らしを始めてからも、よく一緒に買い物に行ったり、茜の部屋に遊びに来たりしていた。
茜は年の離れた妹が、かわいかった。
近所でも評判の仲良し姉妹だった茜と満。
男兄弟の中で育った孝明は昔から妹が欲しかったらしく、満をかわいがり、三人で一緒に出掛けることも多かった。
人見知りな満も、孝明にはよく懐いていた。
茜と孝明の結婚が決まった時、誰よりも祝福し、喜んでくれたのは満だった。それなのに……
何が、いけなかったのだろう?
いくら考えてもわからない。
自分の幸せに酔って、満の苦悩を見逃したから?
プロポーズされたという現実に胡坐をかいて、孝明の変化に目をつぶったから?
今さら後悔しても、何も変わらない。いくつもあったはずの前兆を、仕事と結婚式の準備の忙しさを言い訳に、見なかったふりをしたのは茜だ。
前はよく三人で出かけていたのに、それを断るようになり、そして茜と孝明の結婚式が近づくにつれ、満はげっそりと痩せ、笑わなくなった。
茜と一緒に結婚式の準備をしながらも、どこか上の空だった孝明。
徐々に増えていく違和感に気づきながらも、あの頃の茜はマリッジ・ブルーだと自分に言い聞かせて、現実から目を逸らしていた。
結果から言えば、茜は大好きで大切だった二人に裏切られた。それも最低最悪な形で。
まだ高校生だった満が、孝明の子を妊娠していた。
それを知ったのは結婚式の三ヶ月前。
八月の酷く暑かった、土曜日の夕暮れ。一人暮らしの部屋に差す西日がやけにまがまがしい赤をしていたのを覚えている。
満と孝明は二人揃って現れた。なぜ、二人が一緒なのか疑問に思ったが、それよりも、しばらく見ない間にげっそりと痩せた満の姿に驚いた。
たぶん、十キロ近く落ちていたのではないだろうか。
もともと少しぽっちゃりめで、笑うとえくぼができるかわいかった顔が、まるで幽鬼のように青白くなり頬がこけている。
そして、瞼は赤く腫れていて、孝明に連れられてきた時、満はずっと泣いていた。
両親から最近、満の様子がおかしいとは聞いていたが、まさかここまでとは思わず、何か悪い病気なのかと心配した。両親が問いただしても、食欲がないのは茜の結婚式でかわいいドレスを着るためにダイエットしているせいだ、と言い張って本当のことを話してくれないから、一度話をしてほしいと言われていたのだ。
しかし、色々と忙しかった茜は、なかなか満と会う時間を作ることができなかった。
痩せ細った満が泣き続ける様子を見て、茜は会わずにいたことを酷く後悔する。
何があったのかと聞いても、満はただ泣き続けるばかりで、まともに答えてくれなかった。
このままでは埒が明かないと思い、満を連れてきた孝明なら何か事情を知っているのかと問おうとした時、突然孝明が土下座する。
何が起こったのかわからず、呆気にとられた茜に孝明が一言、言い放った。
『……すまん、茜。結婚を……結婚を取りやめたい……』
絞り出すように告げられた孝明の言葉に、茜は目を見開く。そして、その瞬間、満の嗚咽が激しくなった。
『……ど……う……い……うこと?』
事態が理解できずに、震える声で茜は聞いた。酷く憔悴して泣きながらこの場にいる満と、突然結婚をやめたいと言い出した孝明。
嫌な予感がした。酷く嫌な予感が。
孝明がこの先に言うであろう言葉を聞きたくなかった。聞いてはいけない気がした。
真夏なのに鳥肌が立つほどに寒くて仕方なくて、思わず自分で自分を抱き締める。
聞きたくない。何も聞きたくないと思った。だけど。
『満が……満が妊娠している。俺の子だ……』
次に孝明が放った一言に、茜の世界は崩壊した。
目の前が黒く染まり、酷い耳鳴りがした。体がガタガタと震えて立っていられず、茜は思わずその場にへたり込む。
『ご……め……ひっく……な……ぃ……。お……ね……ちゃ……ご……め……な……い』
『違う……悪いのは俺なんだ。全部、俺なんだ……満を責めないでやってくれ……』
泣きながら謝り続ける満と、それを庇う自分の婚約者。
悪夢だと思いたかった。何もかもが悪夢だと思いたかった。
しかし、すべては現実。
それから、茜は自分がどうしたのかあまり覚えていない。泣きながら孝明と満を罵った気もするし、茫然と座り込んでいた気もする。
ただ、憔悴しきって痩せ細った満をこのままにしておくわけにはいかず、孝明と二人で病院に連れて行ったことだけは覚えている。
そして、診察の結果、やっぱり満は妊娠していた。しかも、妊娠しているのに、食事もとれないほどにやつれてしまったために、子供は週数にしては育成状況が悪いという。
満はそのまま入院することになった。手続きをしている間も満は、ずっと泣きながら茜に謝り続けていた。
そのあと、急遽、両家の親を呼び出して、今後についての話し合いが行われた。
その場でも、孝明は土下座して、悪いのは自分だと言い続けたと記憶している。
茜の父親に殴られても、自分の母親に罵られても、一切反論することなく謝罪し続け、満との結婚を望んだ。
周りにどんなに責められ、非難されても孝明の決心は変わらず、彼は満を庇い続ける。
そして、それは満も同じだった。
あの泣き虫で、大人しかった満が、周りの非難に耐え、孝明は悪くないと言い続けたのだ。
互いを庇い合う二人を、茜はどこか他人事のように眺めていた。
たぶん感情が麻痺していて、何も考えられなかったのだろう。
いつから、二人がそんな関係だったのか、どうしてこんなことになったのかわからない。聞きたくもなかったし、知りたくもない。
孝明は一切言い訳をせず、ただ、茜に謝罪し続けた。
真面目で優しく、嘘がつけない孝明が好きだった。
だけど、こんなことになっても言い訳一つせず、満を守ろうとする孝明が恨めしい。
そして、そのことに、茜は孝明の覚悟を感じた。茜の知る孝明は、穏やかさの中に一本筋の通った強さを持った人間だった。一度こうと決めたら、それをやりぬくためにはどんな努力も惜しまない。
誠実で優しくて、人を傷つけることを嫌悪していた孝明。
その孝明が、周囲の人間を、茜を傷つけても、満との結婚を決めたのだ。
もうだめだと思った。
茜一人がどんなに嫌だと泣き喚いたところで、きっと孝明の決意は変わらない。それがわかった瞬間、茜はすべてを諦めた。
茜が孝明との婚約破棄に同意したことで、修羅場と化していた両家の話し合いは、一応の収束を迎える。実際は、満と子供のことがあり、揉めている時間がなかったというのが正しいのかもしれない。けじめとして、茜には婚約破棄の代償として孝明から慰謝料が支払われ、長く続いた春は終わりを告げた。
その年の暮れ、満は無事に元気な男の子を出産し、孝明と結婚した。
あれから、五年。まるで嫌な現実から逃げるように茜は仕事に没頭し、すべてを忘れることを選んだ。
おかげで、仕事ではある程度の成功を収めることができた。
この先も仕事一筋でずっと一人で生きていこう。
誰よりも身近で、誰よりも大切だった二人の裏切りは、茜の心をぼろぼろに傷つけ、恋や愛に対して酷く臆病にした。
孝明と別れたあと、誰とも付き合わなかったわけではない。
荒んだ気持ちのまま、夜の街で馬鹿な真似をしていた時期もあったが、節操なく誰とでも寝られるような性格ではなかったから、すぐにばかばかしくなってやめた。
この人なら好きになれるだろうか、と思える人もいたが、また裏切られるのではないかという思いに駆られ、どうしても最後の一歩が踏み出せない。
もう傷付くのが怖かった。また誰かを好きになって裏切られるのが酷く怖かった。
一度味わった苦い経験と喪失感は、茜の中に根深いトラウマを植え付けていたのだ。
だから、もう二度と誰かと深く関わるつもりなんてなかったのに。
* * *
どんなに嫌なことがあって、朝なんて来なければいいと思っても、茜の意思など無視して、朝はやってくる。
目覚ましなんてなくても、長年の習慣で六時になったら嫌でも目が覚める。
寝不足で頭がぼんやりとしていた。まだ温かい布団から出るのが億劫な冬の朝。寒さに震えながらヒーターの電源を入れる。
当たり前だけど朝起きても、やっぱり現実は何一つ変わっていなかった。
ガラステーブルの上に放置したままの妊娠検査薬は、変わらずに陽性反応を示していて、現実を茜に知らしめた。
昨日の夜から癖になっている溜息が零れる。
とりあえず出勤準備をするために、茜は重い体を引きずって洗面所に向かう。
「ひっどい顔」
鏡の中に映る自分の顔に、思わず笑い出したくなる。寝不足で目の下にうっすらと浮かんだ隈に、むくんだ顔。鏡の中では疲れた顔をした女が乾いた笑みを浮かべていた。
もう自分は若くないと自覚する。二十代の前半は、多少夜更かししても、平気だった。こんな風に隈が浮かぶことも、顔がむくむこともなかったと思う。最近は肌も張りがなくなり、寝不足だと化粧ののりが悪くなった。
それも仕方ないかと思う。今日でもう二十九歳。色々と努力はしているが、衰えていくものがあるのは仕方ない。若いころの肌の張りを取り戻せないのなら、それに合わせて化粧の仕方を変えるだけと開き直ってやる。
ばしゃん!!
鏡の中で不景気な顔をしている女の顔に、水をぶっかけて気持ちを切り替える。
子どものことは、今、悩んだところで結論なんて出ないに決まってる。だったら、出勤前のこの忙しい時間に悩むのは時間の無駄だ。
今日も、仕事は詰まっている。立ち止まってる時間なんて茜にはない。
今週、早く仕事を切り上げられる日に、産婦人科に行ってちゃんと診察を受けようと決める。
考えるのはそれからでも、遅くないはずだ。
気持ちを引き締めるために、わざと冷たい水でバシャバシャと顔を洗う。
残っていた眠気とだるさがふき飛ぶ気がした。
それからいつもの手順で簡単に朝食を食べ、経済面を中心にじっくりと新聞に目を通し、化粧をして、スーツを身にまとった。
その頃には、平常心が戻ってきている気がした。
部屋を出る前に鏡で確認したら、いつもの強気な営業ウーマンの顔をしていた。そのことに茜は少しだけほっとした。
普段通り始業時間の三十分前に会社に着くように家を出る。朝の拷問のような満員電車には辟易するが、社会人になって七年以上経つと慣れたもの。近づく副都心の光景を電車の窓から眺めながら、会社の最寄駅で降りる。
そこにあるのは普段と変わらない風景だった。
出社するとロッカールームに寄り、営業二課の自分のデスクに向かう。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「おはよう!」
途中、同僚たちと朝の挨拶を交わす。昨日片付けて帰ったはずのデスクの上にはもういくつもの書類やメモが置いてある。
鞄を机の中にしまうと、仕事の優先順位を考えながら、パソコンの電源を入れてメールのチェックを行う。
途中、ちらりと斜め前の桂木の席を見るが、その席はここ二週間空席のまま。
茜の人生最大の悩み事の原因を作ってくれた男は現在、次回プロジェクトの市場調査のために、遠い中国の空の下にいる。
帰国は三日後の予定。それが今の茜にとっていいことなのか、悪いことなのかわからず、複雑な心境に駆られた。
桂木に相談するべきなのか。
あれは酔った勢いの一夜の過ち。それで妊娠したから責任とって結婚しろなんて言うつもりは、さらさらない。だけど桂木が何を思って、あの夜に茜を抱いたのかわからないから、どうすればいいのかわからない。
互いに大きな仕事の成功と、酒に酔って興奮していた。それだけのこと。
そこに感情はなかったはずだ。あの夜のあとも、桂木は何一つ変わらなかった。
いつもどおり淡々と仕事をこなし、茜に対する態度も普段通り。あの夜のことを匂わせることは何一つなかった。
茜はそのことに大きな安堵とほんの少しの落胆を覚えた。
別に態度を変えていてほしいなんて、思っているわけじゃなかった。むしろ、変わらないでいてくれてありがたかったのだが……
また、溜息が出そうになるが、寸前でこらえる。
だめだ。今は仕事に集中しよう。仕事に集中していれば、余計なことを考えなくて済む。
「おはようございます! 茜先輩!」
そして、茜が午前中の打ち合わせの資料の用意をしていると、ハイテンションな声が聞こえた。隣のデスクの三歳年下の後輩、間山康貴が出勤してきたのだ。
「茜先輩! 大変です! スクープです! 営業二課の一大事です!」
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