恋の罠 愛の檻

桜 朱理

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第3章 結婚発表は謀略を産む

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 本館に近づくごとに、美園に注がれる眼差しが、増えていく。
 何も気づいていない振りで美園は真っ直ぐに本館の玄関に向かった。
 隙を見せたら、すぐに掴まりそうで、美園は誰とも目を合わなせなかった。
 それはある程度、効果のある作戦だった。
「美園ちゃん!」
 しかし、美園のそんな頑なな態度を打ち破るように、玄関に入る直前に横から声をかけられた。誰かを確認する間もなく、飛びつくように抱き着かれた。予想外の衝撃に美園は驚きに固まる。
「久しぶり! 元気だった?」
 首に男の手が巻き付き、抱き寄せられた。聞き馴染みのある声と、その行動に美園はため息を一つ吐く。波立つ心をなんとか落ち着けると、首に回った手を外して、男と距離を開ける。
「颯。子どもみたいなことはやめてよね」
「ごめん。でも、久しぶりに美園ちゃんに会えて、嬉しくてつい」
 怒る美園に、年下の従兄である神林颯が、悪戯が成功した子どものような顔で笑った。
 颯は従兄の中で最年少だ。父の三人いる妹の一番下の叔母の子で、美園の三歳下だ。従兄弟たちの中で、美園と一番仲が良く、留学してからも連絡は頻繁に取り合っていた。大人になってからも、たまに一緒に遊びに行く仲だった。だからと言って油断もできない。彼が後継者の地位を狙う三人の従兄弟の最後の一人だ。
 まるで少年のような悪戯を仕掛けるこの従弟が、そこそこに腹黒な部分を持っていることを美園は知っている。
 去年、取引先の社長令嬢と婚約したはずなのに、兄の死をきっかけに先日、婚約を破棄している。
 仲の良いこの従弟ですら、美園をトロフィー扱いするのかと思えば、胸の中に鬱屈が溜まる。
 だが今は、自分の感情に係ずらわっている場合ではない。
「美園ちゃん。少し痩せた? 大丈夫?」
 颯が美園の顔を心配そうな顔で覗き込み、頬に触れようと手を伸ばしてくる。しかし、触れる直前で、後ろから伸ばされた手が、それを阻んだ。
「高坂室長? 何のつもり?」
 自分の手を掴む男を、颯が不思議そうに見上げた。
「失礼しました」
 何事もなかったように高坂が、颯の手を離す。
「高坂室長?」
「総帥がお待ちです。美園さん、行きましょう」
 颯からガードするように、高坂が美園を促す。慇懃無礼とも取れる高坂の態度に、颯がにこりと笑った。
 感情の読めないその笑みは、颯が怒っているときのサインだ。
 面倒なことになる前にこの場を離れようと、「後でね。颯。法要前にお父さんに呼ばれているのよ」と言って、美園は高坂に合図を送って歩き出そうとした。だが、それよりも早く颯の手が美園の左手を掴んだ。
「ねえ、美園ちゃん。この指輪は何? 高坂室長とお揃いに見えるんだけど?」
 周囲に聞かれないようにだろうか、ぐっと声を落として颯が問うてくる。
 ――こういうところは本当に目敏いな。
 美園は一瞬だけ、高坂に視線を向ける。高坂が無言でうなずくのを確認して、颯に向かって微笑む。
「今はまだ秘密よ。後でちゃんと報告するわ」
 唇の前に指を立てる美園に、すべてを察したのか颯が「あーあ」と天井を見上げた。
「僕、また失恋するのかーせっかくチャンスが来たと思ったのにー」
 大げさに嘆いて見せる颯に、美園は軽く肩を竦める。言葉ほどに颯の表情には、悲壮感はない。
 ――その失恋相手は私なの? それとも後継者の地位?
 そんな皮肉なことを考えて、美園は掴まれていた自分の手を引き抜く。手はあっさりと解放された。
「じゃあ、また、後でね」
 そう言って今度こそ、高坂と二人で歩み出す。
「……高坂室長はずいぶん、うまくやったんだね。貴方がここまで野心家だと思わなかったよ」
 すれ違いざま、颯が二人にだけ聞こえるようにぼそりと嫌味を放った。
「手遅れになる前に、愛する人を手に入れただけですよ」
 さらりとそう答えて、高坂が美園の腰に手を回した。周りに二人の関係を見せつけるような行動に、美園の胸がどきりと高鳴る。
 高坂は何事もないように、美園の腰を抱いたまま歩みを進める。そんな二人の姿に周りがざわつき始める。
「いいの? こんなことして……」
「どうせ公表は時間の問題です。それならこれ以上、他の男があなたに近づかないようにこうしていた方が、私の精神安定に繋がります」
 淡々とした表情に似合わない男の言葉に、美園はまじまじと高坂を見上げてしまう。
「……もしかして、何か妬いてます?」
「妻が他の男に抱き着かれて、笑って許していられるほど、私は寛容ではありませんよ」
 耳朶に甘く歪んだ囁きが落とされ、美園の腰を抱く手に、力が籠められた。
 こんな場で不謹慎だと思うのに、美園の胸が甘い疼きで満たされる。顔が熱く感じられて、美園は思わず俯いた。
 そのまま二人は会場になっている座敷に向かった。庭に面した座敷は四〇畳ほどの広さがある。雨戸が全て開け放されているおかげで、庭の緑の美しさがよく見えた。本館は和洋折衷の作りになっているせいか、こちらの庭は日本庭園として整えられている。座敷にあがると、祭壇前にはすでに父が座っていた。
 入ってきた二人を無言でじろりと眺めたあと、父は祭壇に顔を向けた。父に会うのは一方的に高坂との結婚を告げられ、離れに閉じ込められたあの時以来だ。
 ――また痩せた?
 久しぶりにまともに見る顔が、覚えているよりもさらに小さくなっている気がして、美園の胸に心配が過る。
 大切に育てた後継者を失い、父は父なりに心労があるのだろうと思う。
 今の美園にとっては横暴な暴君でしかないが、兄には愛情を注いでいたことを知っている。
 こちらを見ようともしない父に、内心でため息をつき、美園はその父の横に高坂と並んで座る。
 時間になり親族たちが続々と座敷に集まり始める。父の隣に座る美園と高坂に、好奇心と疑心が混じった眼差しが向けられる。二人はそれに気づかない振りで、背筋を伸ばして親族たちを迎え入れる。
 菩提寺の住職が時間通りにやって来て、四十九日の法要が始まった。
 朗々と響き渡る読経の声に応えるように、セミが鳴き始める。
 兄が亡くなってから、確実に季節が進んだことを美園は実感する。 
 住職の法話を聞き、納骨のために菩提時に向かう。父が納骨室の扉を開け、美園が兄の骨壺をそこに収める。
 再び、住職が読経を上げる。喪服の上に、真夏の日差しが降り注ぎ、背や肩が熱を持つ。
 美園は朝と同じように、雲一つない空を見上げた。
 こうして一つ一つ喪の仕事を終えるごとに、兄がいない現実を受け入れていく。
 胸の中に開いた大きな虚は埋めようもないが、悲しみは徐々に形を変えて、和らいでいくのだと知る。
 納骨を無事に終え、精進落としのために本館に戻った。
 座敷には使用人たちの手によって精進落としの用意がすでなされていた。それぞれの席に皆がつく。
 父が上座に立ち、親族一同を見渡して、おもむろに口を開く。
「今日は智也のために集まってくれてありがとう。無事に四十九日の法要を済ませることができた。改めて礼を言う」
 そこで一度言葉を切り、父が小さく頭を下げた。顔を上げた父の表情は息子を亡くした施主のものから、冷徹な四宮グループ総帥のものへと切り替わる。
「皆が集まっているこの機会に、一つ重要な発表をさせてもらうと思う。皆も気にしているだろう後継者のことだ」
 親族たちが一気にざわざわとし始める。あからさまな視線が美園に向けられた。
「美園、高坂」
 父に呼ばれて、美園と高坂は立ち上がり、父の横に並ぶ。美園はともかく、高坂も一緒に呼ばれたことに、ざわめきが大きくなる。
「気づいているものもいるみたいだが、この度この二人が結婚した。私の後は婿である高坂に継がせ、いずれは二人の子どもに継がせる――」


 
 
 
 
 
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