恋の罠 愛の檻

桜 朱理

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第2章 新婚初夜は蜜色の企み

13)

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 夕食の準備はしてもらったから、片付けは自分がすると高坂に申し出て、美園は彼を風呂場に向かわせた。
 台所に一人残って、美園はひっそりとため息を吐く。
 片付けと言っても、大型の食洗器に水洗いした食器をセットするだけだった。調理器具も、料理をしながら高坂が手際よく洗い物もしていたので、大きなものは残っていない。
 男の料理だから自信がないようなことを言っていたが、謙遜だったのだろう。手際もよかったし、味も盛りつけも上手かった。
 ――明日は、夕飯の準備をちゃんとしよう。
 夕食は作ってもらったから
 美園は全ての食器を食洗器にセットしスイッチを押した。
 台所の片づけを終えた美園はアレックスを連れ台所を出た。
 アレックスの寝床を整え、寝室に併設されている浴室で、入浴を済ませた。
 風呂から出ても高坂の姿は、寝室になかった。
 そのことにホッとして、けれど同時に、これからの時間を想像して、落ち着かなくなる。
 ――どうしよう?
 昨日は怒りと衝動に任せて行動を続けたが、冷静になればなるほどに、津波のような後悔が押し寄せてきていた。
 このままではまずいと思うのに、どうしたらいいのかわからない。
 部屋の中をうろうろと歩き回って、窓辺に辿り着く。窓から見上げた夜空には、猫の爪のような細く鋭角に尖った三日月が、昇り始めていた。
 月はまるで今の美園の気持ちを表しているように、歪な形に見えた。
 どこにも丸さはない。尖って、荒れて、乱れる、美園の心――昨日からずっと落ち着く場所を探している。
 ――いっそ今からでも別の寝室を探そうか。子どもが出来にくい期間だと言い張って、アレックスと一緒に寝てしまおう。そうすれば、高坂さんも追いかけてはこないのでは……
 そう思いついて、窓辺を離れたまさにその瞬間、寝室のドアが音を立てて開いた。
 寝室に入って来た高坂の姿を見て、美園の肩がびくりと跳ねあがる。
 目が合って、二人の視線が絡み合う。一瞬、時が止まった気がした。一気に空気が緊張感を孕んだものに変わった。
 二人のどちらかが動けば、何もかもがバラバラになるような錯覚を覚えて、美園は身じろぎ一つ出来なくなる。
 それを破ったのは、先に動いた高坂だった。ゆっくりとした動作で寝室の扉を閉めた男は、美園に歩み寄り手を伸ばしてきた。
 美園はただそれを見ていた。声もなく、戦慄いた腕を引かれて、抱き寄せられた。吐息の触れる距離に男の端整な美貌が迫る。 
 その漆黒の瞳に情欲の輝きが見て取れて、美園は何故かひどく泣きたくなった。
 近づく男の唇に目を閉じたのは、自分でも何故なのかわからない。
 理性的な判断などできずに、どこか乖離したように意識が遠かった。
 ただ、美園に触れる男の手がひどく熱くて、かすかに湿った男の吐息の感触だけがやけにリアルに感じた――
 強引に抱き寄せた割に、触れるか触れないかの、羽のような軽い口づけが落とされて、美園は思わず瞼を開いた。唇に淡い感触だけが残されている。
 高坂の瞳には美園以外の何者も映っておらず、美園の瞳の中にも高坂だけがいた。
 そう感じた瞬間に覚えたのは、昨日から感じていた怒りや失望、不快さが混じりあった暴力的な衝動ではなかった。ただ柔らかな痛みが、美園の胸に去来した。
 手が伸びたのは無意識だった。濡れたように輝く男の瞳を覗きこみながら、その滑らかな頬を撫でれば、腰をさらに強く抱き寄せられた。
「美園……」
 名前を呼ばれた。初めて呼び捨てられて、美園は小さく息を呑む。
 見上げた男の瞳に映る自分は、まるで泣く寸前の子どものような表情をしていた。
 そんな美園の表情を見下ろした高坂がふっと笑って、美園の背を撫でた。緊張をほぐすように何度も、手を滑らせる。それこそ泣きそうな子どもを慰めるような仕草だ。
「私はもう子どもじゃない……」
「知っています。私は子ども相手にこんなことはしない」
 再び男の端整な顔が近づいてきて、少しずつ上がり始めた吐息ごと唇を奪われた。
 緊張に渇いた唇を潤そうとするように、男の舌が美園の唇を舐め、舌先が口の中に忍び込んでくる。
 絡められた舌先に、甘い陶酔感が背筋を滑り落ちた。
 幾度も角度を変え、触れる強さを変え、唇を吸い上げてくる男に、美園の心は翻弄される。
「やだ……」
 ほんのわずかに解放された瞬間、唇から拒絶が零れ落ちた。
「本当に?」
 濡れた眼差しが美園を射る。何もかもを見透かしたような男の瞳に腹が立つ。
 目の前の男を憎めたら、美園の気持ちもいっそ楽になるのに、憎めもしない。
 高坂は謝罪も後悔も見せない。何を想って、こんな馬鹿げた取引に応じたのか、美園はいまだに知らない。
 ただの野心なら話は単純に済んだのに、目の前の男が見せる誠実さが、野心とは違う感情に起因するものだと思いたくなる。そこに別の感情を探したくなるのだ。それが初恋の見せる幻であるのならば、自分の馬鹿さ加減を笑うしかない。
 答えない美園に、高坂が焦れたように唇を重ね合わせてくる。腰を強く抱かれて、男の手管に甘い声が引きずり出される。
「く、ふ……んんぅ!」
 キスで腫れぼったくなった美園の下唇の感触を楽しむように、高坂の薄い唇が擦りつけられた。
「美園。本当に嫌?」 
 情欲を孕み掠れた声で、耳朶に囁きが落とされて、美園の顔が赤く染まった。
 普段は敬語で話す男の、こんな時だけ乱れる言葉に、美園の鼓動が速くなる。
 男の顔をまとも見ていられなくて、美園は視線を下げた。隙間もなく抱き寄せられているせいで、間近に男のぬくもりを感じた。
「意味がない」
「意味ならある」
 ぽつりと呟いた反論を、男はあっさりと切り捨てる。けれど、それ以上の答えも、目の前の男はくれはしない。
 自分自身の心さえもわからないのに、この男の胸の中を知りたくてしかたない。心の中にあるものを引きずり出したくてたまらなくなる。
 自分を抱き寄せる男の胸に額を押し付ける。何かを考えての行動ではなかった。さらりと流れた前髪が美園の表情を隠す。
 甘く清潔な香りが、熱を上げた男の体温とともにふわりと昇って来て、美園の鼻先をくすぐった。
「美園」
 再び名を呼ばれて、額に口づけられる。顔を上げるように促されているのがわかったが、このままでいたかった。男の顔を見てしまえば、このまま流されてしまいそうな自分がいた。
「私が怖いですか」
 俯いたまま反応しない美園に、高坂の問いが降ってくる。そっと問いかけてくる声は、夜の闇に溶けていきそうなほどに柔らかく、美園の頑な心を静かにノックする。
 どう答えればいいの迷って、唇を噛んでいると、髪を耳にかけられた。
「怖くない……」
「そう? なら、私に触れられるのが嫌ですか?」
 再び投げられた問いに、美園は首を横に振る。
 ――嫌じゃない……嫌じゃないから困っているのだ。
「困ったな……」
「何が?」
「そんな態度を取られると、期待したくなる。美園は本当にずるい」
 柔らかに笑う男の言葉が、美園の心に波紋を描く。そして、無意識だった自分の振る舞いを自覚した。
 ――確かに私はずるい。
 思春期の少女のようにぎこちなく潔癖に振る舞って、そのくせ視線や眼差しで、目の前の男を誘っていた。
 夕食の時、アベルの話題を振ったのはわざとだ。彼に嫉妬する高坂の気持ちをわざと煽った。
 美園自身、思い切るには躊躇いがあって、そのくせ離して欲しくないのだ。
 どうしようもなくずるい自分を自覚して、ただ震える息が漏れた。
 この先の展開が予想も出来ず、かといって逃げ出すことも出来ない。
 身動きが取れない美園に代わって、今度も高坂が先に動いた。
「え……?」
 高坂が美園を抱き上げた。まるで子どものように、男の腕に抱き上げられて、美園はただ驚いた。
 人一人を抱えているとは思えなスムーズさで歩いて、高坂が美園をベッドの端に座らせた。
 目の前にひざまずく男に、美園はただただ呆気にとられる。
「あなたの嫌がることはしない」
 そう言って美園の足首を掴んだ高坂が、爪先に口づけを落とした――


 
 
 
 
 
 
 
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