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1巻

1-3

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 吐息の触れる距離でにこりと微笑んだ恵理子が、身をひるがえしてキッチンに入っていった。

「百合ちゃん、冷蔵庫、開けてもいいー?」
「いいよ」
「じゃあ、百合ちゃんは、そこに座って待ってて! 超特急で美味おいしい朝ごはんを作るから! まことさんもそんなところに立ってないで、座ってて」

 恵理子のおかげで、一気に家の中が明るくなる。くるくると表情を変える恵理子の姿は見ているだけで飽きない。そんな恵理子をいつくしむような眼差しで見つめていた園村と目が合って、百合は軽く肩をすくめてみせた。
 ここは大人しく恵理子の言う通りにした方がいいだろうと、視線だけで会話する。
 百合は恵理子の言葉に従って、先ほどまで座っていたカウンターの席に座った。園村は寒かったのか、ストーブの傍のソファに腰かける。
 百合はカウンターからキッチンで作業する恵理子の様子を見守っていた。
 恵理子は勝手知ったる様子で小鍋を用意すると、冷蔵庫の中から自分の差し入れたオニオンスープを取り出して、小鍋で温め始めた。次にフランスパンを適当な大きさに切り分ける。それをココットに入れ、上から温めたオニオンスープをそそいで、とろけるチーズをのせた。
 それをオーブントースターに入れる。家の中にチーズのとろける匂いと玉ねぎの甘い匂いが広がり始める。食欲をそそるその匂いに、百合は恵理子の言う通り自分が空腹だったことを知る。

「いい匂い」
「もうちょっと待っててね」

 にこりと笑う恵理子に、百合の表情も自然と緩む。いつもこの明るさに助けられていた。

「はい。お待たせしました。熱いから気をつけて……」

 厚手の鍋掴みをした手が、カウンターにココットを置いてくれる。

「味は百合ちゃん直伝じきでんのオニオンスープグラタンだから、絶対に美味おいしいはずだよ?」
「ふふふ……それは楽しみ」

 スプーンを渡されて、百合はオニオンスープグラタンを口に入れた。舌が火傷やけどしそうなほどに熱い。よく炒められた玉ねぎの甘みと、とろけたチーズの塩味が口の中で溶け合って、優しい味が口の中に広がった。胃の奥から温められた血潮がゆっくりとめぐり始めて、寒さや緊張に強張こわばっていた体から力が抜けた。

美味おいしい……」
「それはよかった」
「腕を上げたね」
「百合ちゃんの指導のたまものだね!」

 百合のめ言葉に、キッチンにいた恵理子は照れくさそうにはにかんだ。
 一口食べれば、止まらなくなった。あっという間に、恵理子が用意してくれたオニオンスープグラタンを食べきってしまった。

「ごちそうさま」
「お粗末さまでした。顔色も良くなったね。やっぱり朝ごはんはちゃんと食べないと駄目ね」

 血色の良くなった百合を見た恵理子の表情は安心したように、ぐっと優しく柔らかなものになる。

「さ、ご飯も食べたし、百合ちゃんはもうちょっと寝てた方がいいよ。その間に、私たちは家の前とお店の周りの雪かきをしておくから」

 恵理子の言葉に、百合はさっきの不安を思い出す。

「大丈夫なの? 園村さんにこの時期の雪かきを頼んで」
「大丈夫よ。ていうか、大丈夫にする! 誠さんも最近は除雪に慣れてきたし、これからも北海道で生きていくって言うなら、頑張ってもらうしかないわ。ねえ、誠さん?」
「そうだな。君の足を引っ張らないように頑張るよ」

 声をかけられて、園村がゆったりと肩をすくめてみせた。

「誠さんもこう言ってるから安心して。百合ちゃんはこっちのことは気にしないで、今はゆっくりと休んで体を回復させることを一番に考えよ?」
「でも……これ以上、迷惑をかけるわけには……それに熱は下がったから動けるし、自分でやるよ?」
「何言ってるの? こういう病気は治りかけが肝心だよ? それに私たちがインフルエンザで倒れた時は、百合ちゃんが面倒を見てくれたじゃない。こういう時は、お互いさま」

 今までそうやって助け合ってきたでしょう? と、恵理子の眼差しに込められた言葉にしない想いを感じ取って、百合の胸の奥が温かいもので満たされる。

「ありがとう」
「礼を言われることじゃないわ。さ、百合ちゃんはベッドに行って休んで!」

 恵理子に背を押されるようにして、寝室に戻る。そうして、子どものように布団の中に寝かしつけられた。
 いつもは見下ろすことの多い恵理子をベッドの中から見上げるのは、不思議な気分だった。

「何か子どもに戻った気分」
「たまにはいいんじゃない? 百合ちゃんはいつも頑張りすぎだもの。たまにこうしてお世話出来て、私は楽しいよ?」

 百合が負担に思わないように、にっと笑ってそう言った親友に、百合の体から自然と力が抜けた。
 ――さっきあんなことがあったのに、恵理子は何も聞かないな……
 優しく微笑む親友の顔を見上げるが、その顔からは百合に対するいたわりの想いしか読み取れない。
 今、きっと間宮のことを一言でも口にされたら、百合の張っていた虚勢は崩れ落ちる。
 それがわかっているから、言いたいことも、聞きたいこともあるだろうに、あえて何も言わずにいてくれる親友の気遣いが身に染みた。

「お昼に一回様子見にくるから、それまではゆっくり寝てたらいいよ」
「うん」
「おやすみ」

 恵理子が寝室を出ていった。一人になって横になると、どっと疲労が押し寄せてきて眠くなる。あの短時間で、余程自分は気力を使い果たしてしまったのだろう。
 考えなければならないことは、たくさんある。なのに、まぶたが重くて言うことをきかない。
 閉じたまぶたの裏に間宮の姿がくっきりと浮かぶ。その姿は六年前に別れた時の姿ではなく、今朝見た間宮の姿だった。
 ――何で……今頃……
 二度と会うことはないと思っていた男との邂逅かいこうに、百合の心は激しく掻き乱された――


     ☆


『六年前、話をしたいと言った私に、あなたは何をした? 一度だって答えてくれなかったでしょ?』

 タクシーの座席の背もたれに背中を預けた途端、間宮の耳に百合の言葉がよみがえる。
 ――百合の言う通りだ。彼女があんなに話がしたいと訴えていた時、俺はそれを拒絶した。
 誤解と怒りに目がくらんでいたとしても、彼女を信じ切れなかった自分が悪い。
 たった一回、こばまれただけで、自分はひどく傷ついている。あの時、自分の行動で百合がどれほど傷ついたのか想像すれば、今のこの状況は完全なる自業自得だ。
 わかっていても、百合の拒絶は予想よりもはるかに、間宮の胸をえぐった。
 ――もっと冷静に対処出来ると思ったんだけどな……
 自嘲じちょうがため息となって溢れ出る。朝早く訪れたにもかかわらず、百合の家の奥から男が出てきたことに、間宮は一瞬我を忘れた。
 そんな権利はとっくの昔に失ったはずなのに、嫉妬と怒りが胸をがした。
 その感情の揺らぎを百合は見逃さなかった。もともと彼女には人の感情にさといところがあった。
 怒りにきらめいていた瞳が、一瞬でてついた拒絶に変わったのはあの瞬間だった。
 再会してわかった。自分はいまだに百合を忘れられず愛しているのだと、はっきりと自覚した。
 この六年――もう忘れた。百合もその辺にいる打算まみれの女と変わらなかったと、ずっと言い聞かせていた。けれど、それは、裏を返せば、彼女のことを何一つ忘れていない証拠だった。
 言い聞かせなければ、忘れたとも思えないほどに、百合の存在が大きかったのだ。
 怒りは当然のように想像していたが、百合の中にあったのは怒りだけではない、冷たい拒絶だった。この北の大地のようにてついた壁がそこにはあった。それが、過去の自分を思い出させて、間宮の心を罪悪感がさいなむ。
 ――だが、ここで諦めるわけにはいかない。たった数分の拒絶が何だ?
 この先の未来を思えば、これは間宮が乗り越えなければならないものだ。
 あの後、祖父に息子の――万葉のアルバムや動画を渡された。季節の折々に、百合が祖父に送ってきたものらしい。中には祖父自身が撮影したものも交じっていた。
 百合を気に入っていた祖父は、間宮と別れた後も彼女を気にかけ、息子の出産にも立ち会ったらしい。万葉が生まれてからは、年に一、二回は二人のもとを訪れていたそうだ。
 生まれたばかりの時の写真、掴まり立ちが出来るようになった時の写真、立って歩けるようになった時の動画――
 初めてその動画を見た時、間宮は涙が止まらなかった。
 自分は何も知らない。百合が何故、息子に万葉と名付けたのかも、万葉が生まれてきてからの五年間の歩みも、何も知らないのだ。そう思うと、ひどく苦しかった。

『万葉! こっち! こっちよ!』
『カズ君! 頑張れ! あとちょっと!』

 おぼつかない足取りで、自分に向かって歩いてくる息子の姿に、笑い声を立てながら応援する百合の声。その場に交じる、彼女の親友だという女性の声――
 笑みが溢れるその場面に寄り添っていたのは、彼女の親友たちではなく、自分だったかもしれない。あり得たかもしれない過去を想像して、どうしようもなく胸が痛んだ。
 百合との結婚が決まった直後、間宮は秘書の勧めでブライダルチェックという名の検診を受けた。
 グループの傘下にある病院が、結婚相談所と提携している検診プランの一つだったこともあり、勧められるまま気軽に受けた。その結果が、『無精子症』だった。人工授精ですら子どもを授かるのは難しい数の精子だと、医師に告げられた。
 その診断を受けた後、間宮はかなりの間、苦悩した。当時の百合は二十四歳と若く、間宮が相手でなければ、子どもをもうけることも可能だ。いくら経済的に恵まれていたとしても、このまま彼女を自分に縛り付けていていいのかと悩んだ。
 診断結果を正直に告げても、百合はきっと傍にいてくれただろう。それだけ愛されているという自信が間宮にはあった。かといって、自分から彼女を手放す勇気が持てず、結局悩んだ果てに間宮が選んだのは、百合に憎まれることだった。
 秘書の女性に協力を依頼して愛人役を演じてもらい、結婚前の心変わりを演出した。
 間宮の浮気が原因での破談であれば、百合には一切の非はない。多額の慰謝料を払って、自分が身を引くつもりでいた。
 だがしかし、百合の妊娠で、間宮は裏切られたショックと怒りに目がくらみ、それまでの自分の行為を棚に上げて、彼女をひどく傷つけた。
 何て馬鹿だったのだろうと今なら思うが、当時の間宮は自分の傷しか見えていなかった。
 祖父に真実を知らされた後、間宮は二軒の病院を受診し検査を受けた。どちらの結果も、間宮の生殖機能に問題はないというものだった。
 何故、六年前、自分が無精子症等と診断されたのか――あれさえなければ、今頃自分たちは無事に結婚し、親子三人で暮らしていたかもしれない。
 間宮は息子の誕生を間近で見守り、その成長に一喜一憂出来ただろう。
 ――いや、違うな。俺さえ百合を信じていれば……あるいは、あの診断結果を正直に百合に告げていれば……
 今となってはもう意味のない、たらればをつい繰り返してしまうのは、自分がひどく疲れているからだろう。
 この二週間、間宮はほとんど寝ていなかった。今日からの十日間の休暇を取るために、寝る間を惜しんで仕事をこなしてきた。休暇中に間宮でなければこなせない案件は、リモートで対応する予定でスケジュールを調節した。何かに打ち込んでいなければ、罪悪感に押し潰されそうだったのだ。
 すべての仕事の目途めどをつけられたのが昨日。最終便で北海道に来て、新千歳空港の傍のホテルに泊まった。そして夜が明けるのを待って、百合たちの住む市までタクシーを飛ばしてきた。
 当面は札幌のホテルに泊まる予定でいる。
 ――疲れたな。もう年か?
 落ち込む心を自嘲じちょうに紛らわせるが、心は軽くならなかった。
 タクシーの背もたれに預けた体がひどく重い。間宮は、ホテルに着くまでの短い間に休息を取ることを自分に許して、目を閉じる。
 閉じたまぶたの裏に浮かぶのは出会った頃の百合の姿だった。
 ジムのプールを切り裂くように高速で泳ぐ彼女の姿は、まるで人魚のようで、強く心惹かれたことを思い出す。
 間宮に一切興味を示すことなく淡々と泳ぐ姿に、その視線を自分に向けたくて、子どもっぽい勝負を挑み続けた。
 ――百合。
 その名を胸の内で呼ぶと、心は急速に出会った頃に引き戻される――



   第2章 過去の春――八年前――


 ――出会いは八年前の春。


 プールのカルキの匂いに、百合は大きく伸びをする。子どもの頃からずっと嗅いでいた水の匂いに、体がうずうずし始める。
 プールサイドでゆっくりと体をほぐした後、百合は誰も泳いでいないレーンを探して、プール内に視線をめぐらせた。といっても、夜も更けてきたこの時間に、プールで泳ごうという人間は、百合も含めて片手で足りる。その人数で競技にも使える五十メートルプールを使えるのだから、贅沢ぜいたくな話だ。
 この時間にいるのは本気で泳ぎたいという人間ばかりで、皆それぞれのレーンで、淡々と好きに泳いでいる。
 ここは百合が勤めているホテルが提携しているスポーツジムだった。福利厚生の一環で、ホテルの従業員はジムの月額利用料が割安となるため、入社二年目で安月給の百合でも無理なく通うことが出来た。二十四時間営業で、好きな時間に来られるのも利用しやすい理由だった。
 他の人と離れたレーンを選んで、プールに入るとカルキの匂いが間近になる。大きく息を吸い込んで、百合は泳ぎ出した。
 最初はゆっくりと体を慣らすために、レーンを何回か往復する。
 体が温まってきたところで、ギアを上げた。ぐっと増す水の抵抗に、百合の心は無心になる。
 小さい頃から泳ぐのが好きだった。学生時代はオリンピックの強化選手の候補に挙がったこともあるし、インターハイや国体での入賞経験もある。
 学生時代、授業以外はプールにいたと言っても過言ではないほどに、競泳漬けの青春だった。
 地元の友人たちには河童かっぱの生まれ変わりに違いないと、よく揶揄からかわれたものだ。
 オリンピック選手を夢見たこともあったが、百合の世代には天才と言われる選手が何人もいて、努力だけでは埋められない差を痛感し、競泳は高校卒業と同時に引退した。
 だけど、やはり泳ぐのは好きで、就職先のホテルが提携しているスポーツジムのプールを使えることを知って、今は週に一、二回仕事終わりにこうして泳ぎに来ている。
 ――今のホテルに就職してよかったって思える理由の一つってこれだよね。
 ホテルの調理師の給料は決して高くはないが、百合が就職したホテルグループは全世界に展開しており、社員の福利厚生が手厚いことで有名だった。就活時の倍率も高く、人気の就職先だったのも頷ける。厳しい就活戦線を勝ち残り、水泳と同じくらい大好きな料理の修業が出来るのは百合にとって、幸せなことだった。
 どれくらい泳いでいただろう。不意に隣のレーンから誰かが泳いでくる水圧を感じた。
 ガラガラのプールでわざわざ隣にくる人間に心当たりがあって、百合は泳ぎながらちらりと隣のレーンに視線を向けた。
 ここ最近ですっかり見慣れたネイビーの水泳帽が見えて、百合は内心でくすりと笑いを漏らす。
 百合と並ぶように泳いでいた男は、百合が自分に気づいたことを確かめると、泳ぐ速度を上げた。百合もそれに合わせて、速さを調節する。二人とも今はプールの半ばにいる。あと少しで端につく。そこからが勝負だ。
 プールの端の一メートル手前で、体をひねって下向きに回転し、壁を思いっきり蹴ってターンを決める。そこからは本気で泳ぎ始めた。
 百合はまるで放たれた弾丸のように迷いなく水を切り、前に突き進む。隣のレーンでも、男が百合に追いつこうと泳いでいるのを感じるが、まだ百合の方が速い。
 ここ二、三か月、たまにプールで一緒になる男。名前も知らないその人は、百合が泳いでいるとわざわざ隣のレーンに来て、無言で勝負を仕掛けてくる。プール往復百メートル。それが二人の暗黙のルールだった。
 現役の選手ではないが、まだまだ水泳好きの一般人に負けるほど、おとろえてはいない。
 今のところの戦績は百合の全勝。でも、ここ何回かはかなりいい勝負をするようになっている。
 ――でも、まだ負けるつもりはない。
 ワクワクと胸を躍らせて、百合は泳ぐ。五十メートル泳いで、再びターンを決める。隣で男がほとんど時間を置かずにターンするのが視界の端に見えた。
 ――後、十メートル。
 プールの底にある距離を表すマーカーを確かめて、そこから自分を追い上げて、さらにスピードを上げる。
 壁にタッチして隣を振り返れば、二呼吸後に隣のレーンの男が壁に手をついた。
 ――よし! 勝った!
 内心でガッツポーズを決める。百合が先に到着していたことに気づいて、男の形の良い唇が面白くなさそうにむっと引き結ばれる。何か言われるかと思って男を見ていると、ふいっと顔をそむけた。そのまま男は、再び泳ぎ出す。
 ――子どもか。
 男の大人げない態度に、百合は思わず笑ってしまう。
 ――そろそろ上がろう。
 思い切り泳いで、心地いい疲労感が全身を包んでいた。百合はプールから上がり、プールサイドの荷物置き場に置いていた自分のタオルを肩にかける。
 帰る間際、ちらりとプールに視線を向ければ、先ほどの男が淡々とクロールで泳いでいるのが見えた。引き締まった大柄な体が力強く水を切り進んでいく様に、目を奪われる。
 彼がこのスポーツジムの女性陣の、熱い眼差しを集めていることを百合は知っていた。
 確かにカッコいい人だと思うが、百合に負けてむっとする様はどこか子どもっぽい。
 名前も知らなければ、どんな仕事をしているのかも知らない。
 月に一、二回、このスポーツジムで勝負をするだけの不思議な関係。
 彼との勝負は、百合に競技をしていた頃の高揚感を思い出させて楽しくなるから、他のことはどうでもよかった。
 この時の彼は、百合にとってジムで出会うちょっと不思議な関係の男性――それくらいの軽い存在だった――


     ☆


 ――あ、もう来てる。
 プールサイドに立った百合は、もうすっかり見慣れてしまったネイビーの水泳帽の彼がすでに泳いでいることに気づいた。彼はまだ百合の存在に気づいてないらしく、黙々と泳いでいる。百合は準備運動をしながら、彼の泳ぐ姿を眺めた。
 ――フォームがだいぶ綺麗になったな。
 泳ぐスピードも速くなっている。彼との勝負ももう半年以上。初めて勝負をした春から、季節は二つ過ぎて、冬に差し掛かろうとしていた。今のところ百合の負け知らずだが、ここ二か月はいつ負けてもおかしくないほどに、迫られてる。
 ――さて、どうしようかな。
 いつもこのジムには百合の方が先に着いていたから、勝負を仕掛けてくるのは彼。百合が後から来たのは、今日が初めてだった。
 視線をめぐらせれば、今日もプール内は閑散かんさんとしている。当然のように彼の両隣のレーンはいていた。
 ――あ、今日はもうお終い?
 百合が迷っている間に、プールの端に辿たどり着いた彼が、そこで泳ぐのをやめた。長く見つめすぎたのか、彼は視線に気づいたように、百合の方を振り返った。
 ゴーグルを頭に上げた彼が、真っ直ぐな視線を百合に向けてくる。二人の間で視線が絡み合う。その視線の強さに、百合の胸が音を立てた。
 時間にしたらほんのまばたきほどの間、二人は見つめ合った。そして、彼はくいっとあごで隣のレーンを示した。何の疑いもなく、百合が彼と勝負すると思っている態度に、小さく笑いを漏らす。
 ――圧が強いって……
 人が従うのが当然といった彼の態度に、半ば呆れつつ百合は彼の隣のレーンに歩み寄る。

「体がまだ温まってないから、何回か泳がせて」

 自分から初めてそう声をかけると、彼は無言で頷いた。
 百合はゴーグルを装着して、プールに入る。それを見た彼が、泳ぎ始めた。百合も後を追うように泳ぎ出す。
 何往復かして、体が温まってきたところで隣のレーンを見れば、彼がもういいかと言うように百合の傍に寄ってくる。百合はぐっとスピードを上げた。彼がついてくる。次のターンで勝負だ。
 二人は呼吸を合わせて、ターンを決める。壁を蹴った力を利用し、一気にトップスピードに乗る。
 泳ぐ間も、今日はいつもよりも距離を詰められている気がした。追い上げられているのをひしひしと感じる。途中から、隣を気にする余裕がなくなる。本気で泳いで、壁にタッチする。急いで隣を見ると、肩で息をした男が百合を見下ろしていた。
 ――負けた?
 百合がそう思った次の瞬間、男がこぶしを振り上げた。

「よっしゃあ! 勝った‼」

 大きな声に百合の肩が跳ね上がる。ゴーグルをしていてもわかるほど、顔中で喜びをあらわにしている男に、百合の口元も思わず緩む。
 正直、負けたのは悔しいが、ここまで体全体で喜ぶのを見ていると、いっそ清々すがすがしい気持ちになった。

「次は負けないから」

 笑顔でそう宣言して、彼の返事を待つことなく百合は水の中にもぐる。返事は聞かなくてもわかる気がした。もし、彼が勝ったことに満足して、もう勝負をしないと言うのなら、今度は百合が仕掛ければいい。だから、彼の返事も待たなかった。
 まだまだ泳ぎ足りなかった百合は、いつも通りに泳ぎ続けた。いつの間にか、隣のレーンの彼はいなくなっていた。
 満足するまで泳ぎ切って、百合はプールから上がった。心地よい疲労感が百合の全身を包んでいる。ジムのスパを堪能して、帰り支度を終えた百合は、ロビーに降りた。
 ――何かざわざわしてる?
 百合はロビーにぐるりと視線をめぐらせた。
 ロビーは受付とその横にカフェスペースが併設されている。このカフェスペースでは、ジム会員はただで珈琲コーヒーやお茶を飲めるサービスがあり、その他にジムのおすすめのプロテインの試飲や販売もしている。
 だから、いつもロビーはそこそこにぎわっているのだが、今日はいつもとは違うざわめきを感じた。
 ――ざわざわっていうか、キャーキャー? 女の人が多い? 何で?
 周囲の落ち着きのなさに、もう一度ロビーに視線をめぐらせる。そして、皆がカフェスペースに注目してることに気づいてそちらを見た。

「あ……」

 ジムのカフェに彼がいた。カフェの椅子に腰かけ、長い足を持て余すように足を組み、何かの書類を熱心に眺めている。ジム帰りとは思えないほど、びしりとスーツをまとう姿は、プールで百合に勝負を仕掛けてくるどこか子どもっぽい男とは全くの別人に見えた。
 いつもは声をかける隙もなく、運動したら早々に帰る彼が、珍しくカフェにいる。そのことに、周囲の女性利用者がざわついているようだ。

「ねえ、声かけてみない? こんなチャンス滅多にないよ?」
「え、でも……誰か待ってるんじゃない?」
「そうだとしても、いいじゃない! 当たって砕けるだけよ!」

 百合の推測を裏付けるように、傍にいた女性二人組が、彼に熱視線を向けながらこそこそと話し合っている。積極的な一人が、意を決した様子で、カフェに向かうため足を踏み出した。
 その視線に気づいたように、彼が顔を上げた。百合と彼の目が合う。
 強すぎる眼差しに射貫かれて、百合の頬に血がのぼる。
 彼は百合に視線を固定したまま、器用にそれまで見ていた書類を片付けカフェを出てきた。

「あ、ねえ! こっちに来るよ! チャンスだよ!」
「ほ、本当だ……」

 先ほどの女性たち二人が、興奮した様子でささやき合っている。それを彼女らの後ろで聞きながら、百合は何故か彼から視線を離せず、その場から動けなかった。

「あ、あの!」

 近づいてくる彼に、目の前にいた女性の一人が思いきった様子で声をかけた。自分に自信があるタイプなのだろう。実際に彼女はとても可愛いらしい見た目をしていた。百合が芸能人に詳しくないだけで、モデルか何かをしているのかもしれない。
 そうでなければ、こんな場所で彼に声をかけようなんて勇気は、なかなか持てない。それとも、こんな場所だからこそなのだろうか。
 しかし、彼女のアプローチは見事に玉砕する。彼は彼女が声をかけたことにも気づかない様子で、真っ直ぐ百合のもとに歩み寄ってきた。

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