落火流水

桜 朱理

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第一章 水の商人

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「飛蘭……」
 咄嗟にまずいと思った。それが顔に出てしまったのだろう。飛蘭の表情がますます険しくなった。アレイルはいきなり現れた飛蘭に、驚き硬直している。
 飛蘭が大股で二人に歩み寄ってくると、無言でアレイルの手を振り払った。
「……うわぁ!」
 悲鳴をあげて、アレイルが地面に転がった。
「飛蘭!」
 飛蘭が無言で剣を抜いたのに気づいて、エミリアは彼の左手の肘を掴んだ。
 じろりと飛蘭がエミリアを見下ろした。その瞳の威圧感に、たじろぎそうになるが、手を離すわけにはいかなかった。
「何をしていた?」
「彼はここに初めて訪れて迷子になっただけの商人! 中央回廊までの道案内を頼まれた!」
「それで何で手を握る必要がある?」
「あ、あの! すみません! 案内をしてくれると言ってくださったので、嬉しくてつい手を握ってしまっただけで、他意はありません!」
 ガタガタと震え再び土下座しながら、アレイルも状況を説明する。
 だが、二人の証言がぴったりと合えば合うほどに、飛蘭の纏う空気がびりびりとしたものになっていく。
「こんなところまで入り込んだ奴の言うことを信じろと?」
「いきなり剣を出す必要はないでしょう?!」
「何故?」
「案内人とはぐれて迷子になっただけの商人を殺すなんて、あなたの評判に関わるはだろう! ここで慈悲の心くらい見せても罰は当たらない!」
 絶対に離すものかと飛蘭の腕にしがみ付くエミリアを見下ろして、飛蘭が不機嫌そうに黙り込む。
 飛蘭が何を考えているのかわからない。怖いと思う。けれど、飛蘭から目を離すことも、腕を離すことも出来ない。
 エミリアがしがみ付いていたところで、飛蘭がその気になれば、アレイルの首は簡単に跳ね飛ばされる。
 先程まで自分こそが、アレイルの始末を考えていたのに、今は彼の助命を願ってる。何とも矛盾した状況ではあるが、エミリアは必死だった。
「僕、水孤族の商人のアレイルと言います。皇太子殿下よりご依頼のあった品をお見せするために本日は伺いました! 案内の人とはぐれてしまって、本当に迷子になっただけなんです! 信じてください!」
 自分の命がかかっているせいか、アレイルが必死に叫ぶ。アレイルの名乗りに、飛蘭が何か思い当たることがあったのか、わずかに眉間に皺が寄った。束の間、考える様な間の後に、「文琳」と飛蘭が彼の側近の護衛の名を呼んだ。
「はい」
 回廊の方から呼ばれた文琳が姿を現す。
「この男を連れて行け。身元を調べろ」
「わかりました」
 余計なことは何一つ言わず文琳は、アレイルの傍に歩み寄り彼の腕を掴み立たせると、後ろ手に拘束した。
「あの、僕! 水孤族の商人でアレイルと申します! あそこの荷物の中に通商許可証と身元保証書が入ってます!」
 アレイルが必死に目線だけで先ほど隠れていた茂みを示して、文琳に訴える。
 彼を連れて歩き出した文琳は、無言で茂みに歩み寄り彼の荷物を拾い上げた。そのまま二人は回廊の向こうに姿を消す。
 ――助かったの?
 緊張から解き放たれてエミリアは、膝から力が抜けて、その場に座り込んでしまう。
 力を込めすぎたせいか強張ったままの指は、いまだ飛蘭の腕を掴んでいる。彼の腕にぶら下がっているような状況になったまま、おずおずと顔を上げると飛蘭がじろりと見下ろしてくる。
「……ありがとう」
 ホッとして緩んだ表情で礼を言ったエミリアに、飛蘭は不快そうに眉を寄せた。
「お前は馬鹿か?」
 痛みを覚えるほどの力で、顎を掴まれた。屈みこんだ飛蘭の黄金の瞳が、吐息の触れる距離で、エミリアの顔を覗き込む。
「飛蘭?」
「あの男が刺客だったら、どうする気だった? 宮をうろつく貴族の女どもが、邪魔なお前を消すために送って来た刺客だったら? もしくは俺の政敵だったら? お前を拉致されれば俺は身動きが取れなくなるかもしれない。お前はそう言うことを考えたのか?」
「それは……!」
 咄嗟に返す言葉が思いつかず、エミリアは詰まる。飛蘭が示した可能性に、背筋を冷たいものが滑り落ちた。
 ――正直、そこまで考えてなかった……
 水霊たちと戯れている光景を、見られてしまったことに気を取られていた自分の脇の甘さを自覚する。
 いっそ互いに殺し合ってしまえば楽になれると、何度思ったかわからない相手だ。
 飛蘭の地位も立場も知ったことかと割り切れればいいのに、飛蘭が飛蘭らしくいられる場所を失ってしまうきっかけを自分が作るのは嫌だと思う。こんな時、自分の心のありようがわからなくなる。胸に去来する思いは複雑すぎて、自分でももう理解できない。
「……自衛くらいは出来る」
 結局、返せたのはそんな言い訳にならない情けない言葉だった。
「はっ! どうだか。この華奢な腕で、自衛も何もないだろう」
 嘲るように吐き捨てると、飛蘭はエミリアの顎を離した。不意のことにエミリアはバランスを崩して、地面に手をついた。その間に、飛蘭は剣を鞘に納めた。
「お前、しばらく俺が宮にいるとき以外は、部屋の外に出るな」
「なっ! そこまでするのか!?」
「うるさい」
 一方的な命令に不服の声を上げたが、飛蘭は不機嫌そうに切り捨てると、エミリアを地面から抱き上げた。片腕で子どものように抱えられ、不安定さにエミリアは咄嗟に飛蘭の首に抱き着ついた。
「飛蘭!」
「また鎖で繋がれたくなかったら、大人しく言うこと聞け」
 その言葉に、エミリアの顔から血の気が引く。それを面白くなさそうに見やった飛蘭が、大股で歩き出した。
 大人しく飛蘭に運ばれるエミリアは、この皇太子宮に連れて来られた頃のことを思い出していた。飛蘭を受け入れられるようになるまで、エミリアは飛蘭の寝室に鎖で繋がれていた時期がある。
 正直、あの頃のことは思い出したくない。
 快楽も過ぎれば拷問になるのだと、あの時教え込まれた。反抗する気力も矜持も何もかもへし折られた。
「大人しく言うことを聞くのであれば、水浴びは俺がいるときにさせてやる」
 それで話は終わったとばかりに、飛蘭が私室に戻る道を進む。
 無言で歩む男の腕の中で、エミリアはがっくりと項垂れた。
 私室に辿り着き、飛蘭が居間に足を踏み入れる。背後でぱたんと扉が閉まる音がして、エミリアは顔を上げた。
「本、読みたい」
 閉じ込められている間は暇だ。ぼそりと願いを口にすれば、飛蘭の纏っていた空気がほんの少しだけ和らいだ。
「後で運ばせる」
 端的な返答に、エミリアはホッと小さく息を吐く。長椅子の上に下ろされた。
「しばらく英琳をお前につける。俺か英琳が持ってくる以外の食事に手を付けるな」
 長椅子の前に立った飛蘭からの注意に、エミリアは瞳を瞠る。
 英琳は飛蘭の乳姉妹で、現在はこの皇太子宮の侍女頭をしている人だ。彼女がエミリアに付く言うことは、アレイルのこと以外にも飛蘭に何事か起こっているのだろう。
「わかった」
 質問したところで、飛蘭がまともに答えてくれるとは思えず、エミリアは素直に頷いておく。それに満足したのか、飛蘭も長椅子に座った。
 再び伸びてきた腕に引き寄せられ、エミリアは彼の膝の上に乗せられた。
 普段は見上げることの多い男と目線がほぼ同じになる。
「朝よりは顔色はよくなったな」
 確認するようにそう言った飛蘭に、エミリアは瞼を伏せる。
 まるでこちらの身を心配するようなことを言くらいなら、もう少し手加減してくれと思う。だが、訴えてみたところで、仕方ない。
 時々、互いにどうしようもない衝動が湧き上がり、それをぶつけずにはいられないのだ。
 宿命を呪い、神を呪い、番への憎悪を募らせる。この六年その繰り返しだった――

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