落火流水

桜 朱理

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プロローグ

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 荒淫に半ば意識を失ったエミリアの髪を、指に絡めて弄ぶ。しっとりと濡れた絹のような手触りが、指を通る感触が気持ちよくて離せない。
 起きているエミリアに、こんなことは出来ない。触れれば、好きにはさせるだろうが、歪む顔が簡単に想像できた。わざわざそんな顔を見たいとは思わないが、飛蘭はエミリアのこの白銀の髪が気に入っていた。
 水龍族では未分化の間では髪を切らないらしい。分化して番を得て初めて髪を切る。
 切った髪は水嵐玉という宝玉に変化する。その玉を守りの腕輪として番と交換するのが、契の証なのだと聞いた。
 いまだに分化しないエミリアの髪は、ずっと伸ばされたまま――
 長く、長く伸ばされた白銀の髪は、寝所の灯りに仄かに輝いて見えた。
 世界最古の一族で、創造神最初の従者の末裔――そう言われる水龍族は謎多き、神秘の一族だった。
 性別を持たずに生まれてくることも、未分化のうちに切った髪が宝玉に変わるところも何もかもが不思議で、謎に満ちていた。
 創造神の寵愛の深さゆえに、さまざまな特殊性が与えられていると信じられていた。
 他族と番うことも珍しくない時代になっても、彼らは北方の小さな島国に一族のみで暮らし、他族と交わることを好まなかった。
 その性の特性ゆえか、治水と灌漑を得意とし、請われれば世界中に技術者を派遣してはいたが、自ら大陸に渡ってくるものは滅多にいなかった。
 指の間をするするとエミリアの髪が滑り落ちていく。それはまるでエミリア自身の心のように思えて、飛蘭の心がささくれ立つ。
 捕えたと思っても、この指をすり抜けるエミリア。幾夜、肌を重ね、共に夜を過ごしても、この番の体は女になることを、拒み続けている。
「……んぅ」
 髪を強く掴み過ぎたのかエミリアが、小さな呻き声を上げた。
 我に返った飛蘭はいつの間にか握りしめていた髪を離す。するすると白銀の髪が飛蘭の指から零れ落ちた。飛蘭はもう一度、エミリアの髪を指に絡める。
 エミリアはわずかに身じろぎ、再び寝息を立て始めた。
 初めてエミリアを番と意識したのは、この綺麗な髪がきっかけだった。
 エミリアはあの戦場での出会いが、二人の最初の出会いだと思っているようだが、飛蘭にとっては違う。
 彼がエミリアを宿命の番だと意識したのは、もっと前――あの奇襲の夜より二年も前になる。
 当時、砂漠の国であるトライドットでは、領土の拡大とそれに伴う人口増加に対応するため、新たなオアシスの探索と水路の増設が検討されていた。
 大陸の南西に位置し、国土の三分の一を砂漠に覆われた帝国は、灼熱の国だと言われている。だが、点在するオアシスの地下水脈は豊富で、砂漠には多種多様な鉱山資源が眠っており、人々の生活を支えていた。首都は水路が張り巡らされ、ロザナリアが咲き乱れる国でもあった。
 水路は生活の生命線であり、権力の象徴だった。新たな水路の増設は、皇帝の威信を示すための国家事業として計画されたものだった。
 その協力要請のために、水龍族の島に使節団が送られることになった。軍部にいた飛蘭がその護衛に紛れ込んだのは、ただの気まぐれだった。
 十五歳で初陣を飾ってから、負け知らずで十年。戦場では『紅の死神』と恐れられ、皇太子の地位も安定した当時、飛蘭は退屈していた。
 拡大した領土に、これ以上の侵略ではなく、内政の安定に目が向けられ始め、戦場から遠ざかっている時期だった。
 まさかそこで自分の宿命の番に出会うなどと考えてもいなかった。
 あの時まで、宿命の番などただのおとぎ話だと――そう信じていた。
 謎の多い水龍族の島を訪れる機会など滅多にない。ほんの少しの好奇心に誘われて、訪れた島国は、小さくて平和そうな国だった。
 侵略と戦争で大きくなった祖国とはあまりに違って、使節団の護衛が宮をふらふら出来る程度には、隙があった。
 彷徨うちに辿り着いた奥宮――そこは薄紅の花の木が咲き乱れる場所だった。
 うららかな春の青空に、花びらが風に舞っていた。けれど、飛蘭が足を止めたのは、その花の美しさではなかった。日に煌めく白銀の光に目を惹かれたのだ。
 ――何だ?
 その光の元を辿った先に、こちらに背を向けて立つ子どもがいた。
 髪を一つに結い上げ、背筋をまっすぐに伸ばして立つ姿に視線が吸い寄せられた。
 ――少年? いや、水龍族は子どものうちは性別を持たないんだったか?
 何故、自分がその水龍族の子どもが気になるのかわからなかった。ただ、どうしようもなく視線が吸い寄せられて離せない。
 これまでの人生でそんな経験はなく、飛蘭はひどく戸惑った。
 水龍族は未分化の内はたとえ皇族であっても、他族の前には姿を現さない。
 未分化の水龍族の髪だけが水嵐玉という宝玉に変わることから、それは徹底されて守られているのだと聞いていた。
 もし、今、飛蘭がここにいることがばれたら、かなり面倒になる。
 理性は一刻も早くここから去るべきだと訴えていたが、飛蘭は動けなかった。
 長く伸ばされた白銀の髪が、薄紅の花と一緒に風になびくさまが美しいと思った。
『エミリアさま!』
 奥宮の方から舌足らずな声とともに、軽やかな足音が聞こえてきた。
『ユリア!』
 手に花を抱えた子どもがエミリアと呼ばれた子どもに駆け寄ってくる。
 ――エミリア。
 その名が脳裏に刻まれた。水龍族の子どもは幼い時は皆が女名を付けられると聞いたことを飛蘭は思い出す。成人し男性に分化したものだけが、名を変える。
 その時、エミリアが動いた。自分に駆け寄ってくるユリアと呼ばれた子どもを出迎えるために、振り返ったその横顔が見えて、飛蘭は息を飲んだ。
 水龍族特有の白い肌、白銀の長い睫毛、氷青の瞳――美しいと思った。水龍族の美貌は大陸でも評判のものではあったが、その中でもエミリアの美しさは群を抜いたものに、飛蘭の瞳には映った。
 言葉に出来ない衝撃が、飛蘭を襲った。そして次の瞬間――
 ――ああ、あれは己のものだ。
 そう本能が叫んだ。あの瞬間、あの水龍族の子どもが自分のものなのだと――己の宿命の番なのだと悟った。
 理屈なんて何もなかった。ただ、あの子どもを手に入れなければならないと思った。
 目の前でエミリアが駆け寄って来た幼い子どもに無邪気に微笑んでいる。
 ――その柔らかな笑みは、自分に向けられるべきものだ。
 あの笑みも涙も何かも、髪筋一本に至るまで、己のものだと思った。
 焦燥ともいえる感情が飛蘭の中を満たしていった。
 けれど、エミリアは気づかない。すぐ傍に、己の宿命の番が、飛蘭がいることに。
 ただ無邪気に、子ども同士で花を愛でて笑っていた。
 今すぐにでもエミリアを己のものにしてしまいたい衝動に駆られたが、明らかに貴人、しかも皇族に連なるだろう子を連れ去るわけにはいかなかった。
 今、エミリアに何かあれば、真っ先に炎龍族の使節団が疑われる。そうなれば逃げ切れるものではなかった。
 宿命の番であるとわかれば、周囲は諦めるかもしれない。けれど、それを証明する術がわからない。まして、炎と水。相反する性の二人を、周囲が許すはずがなかった。
 宿命の番だと言っても、劇的な何かが起こるわけではなかった。
 互いの体に証となるものが浮かぶわけでも、目に見える何かが起こるわけでもなかった。
 御伽噺の中には、互いの体に神の祝福が刻まれると記されたものもあったはずなのに、二人の間には何も起こらなかった。
 ただ、本能があれは己のものだと叫んでいた。全身で、エミリアが己の宿命の番だと反応していたが、それは飛蘭だからこそわかるものだった。
 実際に、エミリアは何も気づいていない。
 ――時期を待つしかない。
 衝動に熱くなる心の片隅で、冷静に計算する己がいた。
 漏れ聞こえてくる会話に、エミリアが水龍族の次代の帝になる子どもだと知った。そして、ユリアと呼ばれ子がエミリアの番に選ばれた子であることも。
 ――分化する前にあの子どもを手に入れる。誰にも渡すものか。
 そう決めて、飛蘭は水龍族の島を後にした。
 その後、二年をかけて飛蘭はエミリアを手に入れるために動いた。
 皇帝や軍部を説得し、水龍族の島を侵略する計画を立てた。
 世界最古の一族を陥落させることに、当初は難色を示された。だが、帝国として、水龍族が持つ治水と灌漑の技術は、喉から手が出るほどにほしいものではあった。その技術を奪うことを目的に、飛蘭たちは水龍族への侵略を決めた。
 そうして奇襲が成功したあの夜、戦場でエミリアを捕えた。
 炎と戦場の狂騒の最中に、エミリアが己を番と認めた瞬間の狂喜を飛蘭は忘れられない。
 絶望と驚愕に染まる瞳は、確かに飛蘭が己の半身であると認めていた。
 互いを番と認め合った結果か。二人の左手首に赤い光を纏った茨が巻き付いた。
 それは神の祝福か、呪いか――
 二人の手首に消すことのできない文様が刻み込まれた。それは真実、二人が宿命の番であると言う証だった。
 飛蘭の周囲は騒然とした。相反する水の性の皇族が、しかも女ですらない未分化のものが、飛蘭の宿命の番であることに。
 エミリアの抹殺を企てるものが出るほどに、過激な反応も出た。
 飛蘭を皇帝に望む者たちにとって、エミリアの存在は許されざるものだった。
 だが、飛蘭は周囲の反対も何かもを切り捨て、エミリアを己の宮の奥深くに囲った。
 浚って、閉じ込めて、快楽で己に縛り付けた。
 誰にも見せず、触れさせず、己の腕の中に捕えた。

 それでも、この番は決して「己のもの」とは言えない。

 いつまでも分化することなく、頑ななまでに未成熟であり続けるエミリアの姿に、飛蘭はどうしようもない苛立ちを覚えてしまう。
「いっそお前を殺せれば、何もかも楽になるのか……」
 何度、そう思ったか知れない激情が、飛蘭の唇をついて出る。
 だが、殺せるわけがなかった。殺して終わりに出来るくらいの想いなら、いっそ楽だった。指に絡めたエミリアの髪にそっと口づけた。

 たとえ憎まれても、恨まれても、それでも自分はこの未熟な番を手放せない。
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