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熱帯魚.1
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吸入薬越しの先生のフェロモンは、それでも、やっぱり、心地良かった。温かく包まれて、僕自身が百パーセントになったみたい。欠けた部分がぴったり満たされる。
でも、その多幸感は一瞬。魂ごと持っていかれるような、前後不覚にうっとりすることはなくなった。その分クリアに、せんせいの薫りが去った後の飢餓感が心を疼かせる。
教室の横壁のサブ黒板の上部には、ズラッと白い文字が並んでいる。委員会名とクラスメイトの名前。真っ直ぐで均等な先生の板書。松流という文字も。
僕の存在は黒板の名前。公平で、一律で、みんなと同じ。当たり前の現実がオメガの子宮にずっしり突き刺さる。
嫌!
嫌だ。
これは嫉妬だ。ただ並んだ名前にまで、僕は焦れている。運命のアルファが欲しい。まるで物語の中の恋のよう。裏で冷めて眺めていた漫画や小説のような狂気が、僕の中にあるなんて。
駄目だ。この運命は賭け事。僕をチップにしたゲーム。番さんにも、誰にも負けない。先生の心を奪うのは、僕。
そのために足りないのは……
「いちご!」
教室の空気が瞬時に凍る。
休み時間の甲高いお喋りに飲み込まれようとしていた級友たち。全員の意識が一斉に集まってくるのがわかる。
「いちご、に相談があるんだけど」
これも、賭。
可愛い名前を三浦一五は極端に嫌がっている。みんなは彼が怒り出すと予想して、ハラハラと見守る。
一五は、教室中に音を響かせ立ち上がった。
怒らせたいんじゃない。欲しいのは、本当はアドバイスでもない。欲しいのは、彼の影響力。
お坊ちゃん御用達の学園は、平和で平等で清純なだけの世界じゃない。名家らしい妬みも悪意も、複雑に絡み合う利害関係の鎖もある。
いくつかあるヒエラルキーの山。その一つの大三角形の頂点にいる一五。集団の中に必ず一人はいるだろう、仲良くなりたい一緒にいたら楽しいと周囲に思わせる人間。
その一五と、みんなの前で一足飛びに仲良くなりたい。綺麗事は言わない。先生を奪うために、一五の影響力を利用したい。
人望のない僕には一五の後押しが必要だ。今のままの僕では、この運命の横恋慕がバレるのは危険。学園中の反感を買うだけ。奪う云々以前の問題だ。
今までさして親しく見えなかった、むしろ正反対。優等生でオメガの僕がタブーの名前を呼んだ。
さあ皆さまお立ち会い、相談の中身に興味が湧いたでしょ?
初めて発情してパニックに陥った時、無意識の僕の『いちご』呼びを一五はスルーしてくれた。平時の今は? 怒りと好奇心と、どちらが勝つ?
賭。
柴漬け色の頭がズンズン迫ってくる。間にあった机が二つも倒れる。
いつもなら僕は危ない橋は絶対に渡らない。でも、どうしても、先生が欲しい。荒技でも手段は選ばない。
一五の手が僕の襟を掴む。鼻息がかかる。
……殴られる! 失望と共に、とっさに両手で下腹をかばった。
「何だよ?」
よし。
「松流! 相談って何なんだよっ?!」
好奇心の勝ち。それと、彼の持って生まれた人の良さが勝った。
ごめんね、一五。
「いちご、にじゃなきゃ話せないの」
「『み、う、ら』だっ! くそっ、何だよ、言ってみろよ!」
教室の空気がザワリと溶けた。
重要なのは、みんなの前で一五の特別になること。
「いちご、ここだと……」
言葉をかき消すように鐘が鳴る。
「いちご」
駄目押しで彼の名前を呼び、教室の扉へ促した。一五は僕の名前連呼を諦めたのか、無言で外へ出る。
これでいい。みんなの中に、松流・一五ラインが印象づけられたはず。
三浦一五を『いちご』と呼べるのは、僕だけだ。
倒れた机の持ち主と和希に、素早くごめんの目線を送る。あとは気の利く友だちが片付けてくれる。僕はゆっくり、短気で善良な人気者の背を追う。一五を完全に味方につけるために。
教室の水槽がふと目に入る。先輩の残した熱帯魚が、ただ、ひらひら揺れている。
あれは、きっと、僕たちだ。
でも、その多幸感は一瞬。魂ごと持っていかれるような、前後不覚にうっとりすることはなくなった。その分クリアに、せんせいの薫りが去った後の飢餓感が心を疼かせる。
教室の横壁のサブ黒板の上部には、ズラッと白い文字が並んでいる。委員会名とクラスメイトの名前。真っ直ぐで均等な先生の板書。松流という文字も。
僕の存在は黒板の名前。公平で、一律で、みんなと同じ。当たり前の現実がオメガの子宮にずっしり突き刺さる。
嫌!
嫌だ。
これは嫉妬だ。ただ並んだ名前にまで、僕は焦れている。運命のアルファが欲しい。まるで物語の中の恋のよう。裏で冷めて眺めていた漫画や小説のような狂気が、僕の中にあるなんて。
駄目だ。この運命は賭け事。僕をチップにしたゲーム。番さんにも、誰にも負けない。先生の心を奪うのは、僕。
そのために足りないのは……
「いちご!」
教室の空気が瞬時に凍る。
休み時間の甲高いお喋りに飲み込まれようとしていた級友たち。全員の意識が一斉に集まってくるのがわかる。
「いちご、に相談があるんだけど」
これも、賭。
可愛い名前を三浦一五は極端に嫌がっている。みんなは彼が怒り出すと予想して、ハラハラと見守る。
一五は、教室中に音を響かせ立ち上がった。
怒らせたいんじゃない。欲しいのは、本当はアドバイスでもない。欲しいのは、彼の影響力。
お坊ちゃん御用達の学園は、平和で平等で清純なだけの世界じゃない。名家らしい妬みも悪意も、複雑に絡み合う利害関係の鎖もある。
いくつかあるヒエラルキーの山。その一つの大三角形の頂点にいる一五。集団の中に必ず一人はいるだろう、仲良くなりたい一緒にいたら楽しいと周囲に思わせる人間。
その一五と、みんなの前で一足飛びに仲良くなりたい。綺麗事は言わない。先生を奪うために、一五の影響力を利用したい。
人望のない僕には一五の後押しが必要だ。今のままの僕では、この運命の横恋慕がバレるのは危険。学園中の反感を買うだけ。奪う云々以前の問題だ。
今までさして親しく見えなかった、むしろ正反対。優等生でオメガの僕がタブーの名前を呼んだ。
さあ皆さまお立ち会い、相談の中身に興味が湧いたでしょ?
初めて発情してパニックに陥った時、無意識の僕の『いちご』呼びを一五はスルーしてくれた。平時の今は? 怒りと好奇心と、どちらが勝つ?
賭。
柴漬け色の頭がズンズン迫ってくる。間にあった机が二つも倒れる。
いつもなら僕は危ない橋は絶対に渡らない。でも、どうしても、先生が欲しい。荒技でも手段は選ばない。
一五の手が僕の襟を掴む。鼻息がかかる。
……殴られる! 失望と共に、とっさに両手で下腹をかばった。
「何だよ?」
よし。
「松流! 相談って何なんだよっ?!」
好奇心の勝ち。それと、彼の持って生まれた人の良さが勝った。
ごめんね、一五。
「いちご、にじゃなきゃ話せないの」
「『み、う、ら』だっ! くそっ、何だよ、言ってみろよ!」
教室の空気がザワリと溶けた。
重要なのは、みんなの前で一五の特別になること。
「いちご、ここだと……」
言葉をかき消すように鐘が鳴る。
「いちご」
駄目押しで彼の名前を呼び、教室の扉へ促した。一五は僕の名前連呼を諦めたのか、無言で外へ出る。
これでいい。みんなの中に、松流・一五ラインが印象づけられたはず。
三浦一五を『いちご』と呼べるのは、僕だけだ。
倒れた机の持ち主と和希に、素早くごめんの目線を送る。あとは気の利く友だちが片付けてくれる。僕はゆっくり、短気で善良な人気者の背を追う。一五を完全に味方につけるために。
教室の水槽がふと目に入る。先輩の残した熱帯魚が、ただ、ひらひら揺れている。
あれは、きっと、僕たちだ。
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