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暗殺者の決意と野良猫姫の慟哭

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「あら? どうしたのですか、ヴィクター様……」

 代理人の依頼を受けてから三日後、ヴィクターはニーナ姫の住む小屋を再び訪れていた。

「連日の無礼をお許しください、ニーナ様。実は少々、お話したいことがありまして……」

 手土産のリンゴチップスを手渡しながら、簡単な挨拶を告げる。
 ニーナ姫は少しやつれた表情だったが、すぐに笑顔になった。

「お気になさらないで、ヴィクター様。私もお会いできて嬉しいですわ」
「それはよかったです。なにかお変わりは無いですか?」
「えぇ、おかげさまで。……ところで、本日はどのようなご用件でしょうか?」

 ニーナ姫は先日と同じようにお茶を淹れながらヴィクターに訊ねる。
 今日はミントを使ったハーブティーのようだ。清涼感のある香りが部屋に漂った。


「単刀直入に言えば、トリノ共和国との婚約パーティについてです……その、ニーナ様はどうお考えなのでしょうか」
「……あぁ、ヴィクター様の耳にも入ってしまわれたのですか」

 ニーナは一瞬だけ顔を強張らせたが、すぐに元の表情に戻った。


「はい、もちろん。……すみません、不躾なことを申しました」
「いえ、そういうわけでは……ただ、あまりにも急に決まったことでしたので」

 そう言ってニーナ姫は様変わりした部屋に視線を向けた。
 前回訪れた時には無かったドレスなどが、部屋のそこかしこに飾られていた。


「でも私、母との思い出の残るこの家を離れたくありません。誰かの都合の良い人形にされるぐらいなら、私はここで静かに死にたいのです」
「やはり貴方は……」
「――えぇ。あの注文書の件は知っていました。もちろん、シードル家がどんなことをしているのかも」

 ヴィクターは何かがおかしいと思っていた。
 ニーナ姫がただの無能なら、とっくに今の王妃に亡き者にされていたはずだ。
 そうならなかったのは、ひとえに彼女が情報戦に長け、人を操る術を得ているということ。
 そしてヴィクターを騙すほどに演技が上手い。


「しかし何故、そんな無茶苦茶なことを……」
「ふふ。王子よりも暗殺者さんの方がずっと紳士的でしょう?」

 そう言って彼女は無邪気に笑った。
 その暗殺者は何とも言えず、苦笑いを浮かべる。


「王子との縁談話はおそらく、王妃陛下が提案されたのでしょうね。これまでの嫌がらせ程度でしたら、どうにか躱せたのですが――」
「今回だけは防げなかったと」
「はい。まさかお父様まで一緒になって私を追い出そうとするなんて……あはは、遂にしてやられちゃいました」

 おどけたように肩を竦ませるニーナ姫だったが、その目には疲労の色が見えていた。
 そろそろ彼女も孤独で戦い続けるのは限界だったのだろう。


「まぁ、それでもあの王子とは結婚せずに済みそうで良かったですわ。私の夢は叶いそうもありませんが、代わりに素敵な殿方と出逢えましたし」
「夢、ですか?」
「えぇ。私はこの家で、素敵な男性と結婚して幸せな家庭を築きたかったのです。……でも、それはもう無理でしょう」

 ニーナ姫は家の中をグルリと見渡す。
 たとえ叶わなくとも、夢は彼女にとって慰めの一つだったのだろう。


「……悔しくは、ないのですか?」
「そりゃあ、当然悔しいですよ。でも誰かの恨みごとを口にするのは、母が死んだ時に止めましたから。憎しみを糧に生きるよりも、母との思い出に浸りながらここで朽ちた方が幸せだと悟ったので」
「思い出、ですか……」
「はい。……ねぇ、ヴィクター様。もし私の夢が叶って、誰かと結婚できるとしたら……どんな相手が良いと思いますか?」

 夢の話の続きだろうか。
 ヴィクターは少しだけ逡巡してから口を開いた。


「結婚相手ですか。ニーナ様のように、芯のある強い男性なら良いかもしれませんね。加えて林檎のパイが好きな相手ならば最高でしょう」
「……ふふ、それは良いですね。ヴィクター様は私のことをとても良く分かっていらっしゃいますわ」
「いえいえ、思ったことを言ったまでです」

 お互いにクスクスと笑い合う。
 だがそんな和やかな時間はもう終わりだ。


「……さて、お喋りはこの辺にしておきましょう。依頼はこの家で済ませますか?」
「いや、実は……」

 ヴィクターはここへやってきた理由を正直に話すことにした。


「私を助けたい……ですか?」

 ヴィクターは彼女が驚く顔は初めて見たが、とても可愛らしいと思った。


「そ、それはどうして……」
「それは……」
「だって! 私を助けたところで、ヴィクター様には何の得もないではありませんか!!」

 ニーナ姫は珍しく声を荒げた。
 どうにもヴィクターの言うことが信じられない様子だ。


「……貴方は、私の大切な友人だからです」
「~っ!? そんな理由だけで!!」
「それに貴方は、今までずっと一人で戦ってきたのでしょう? もう孤独に耐える必要なんてない。辛くて苦しい時こそ、友人である私を頼るべきです!」

 ヴィクターは席から立ち上がり、狼狽えるニーナ姫の両手をそっと握りしめる。


「それに俺が先代から受け継いだのは、殺す技術だけじゃない。この国の未来を思う心、民を護るための力だ。俺がこの家業をしているのは、断じてクソな野郎どもの欲望を満たすためなんかじゃない!!」
「で、ですが……王家に背いたりなんかすれば、シードル家が……」
「悪党の犬に成り下がるぐらいならいっそ、侯爵家は私の代で無くなった方が良い」

 確固たる意思を瞳に宿らせ、ヴィクターは語気を強めて断言した。

 これまで汚れ仕事をしながらも、国の為という信条の元やってきた。彼なりに譲れないプライドがあるのだろう。


「それでも……私には、母との思い出だけしかありません。生きる理由も、私の価値も……」
「ニーナ様。過去の美しい記憶を大切にすることは良いことだと思います。ですが、思い出というのはいつか色褪せるものです。それよりも、これから新たに思い出を作ることも大事なのではないでしょうか?」
「新たに思い出を……作る……」

 今まで、過去しか見てこなかった。
 そんなニーナ姫にとって、これが未来を向いた初めての瞬間だった。


「私と一緒に、楽しい思い出を作って欲しい。私はこの国で、貴方と歩む未来を作りたい」

 真っ直ぐに、ニーナ姫を見つめる。


「私が貴方の夢を叶えましょう。そして貴方のことは、私が必ず守りきってみせる」
「ヴィクター様……」

 何かを告げようとしたニーナ姫の口が、ヴィクターによって塞がれた。

 有無を言わせぬ説得をされ続け、遂にニーナ姫は陥落した。


「……ヴィクター様」

 ニーナ姫は瞑っていた目をゆっくりと開く。


「何ですか?」
「私を……助けてくださいますか?」
「……えぇ、喜んで」

 それ以上の言葉は不要だった。

 誰にも頼らず、自分だけを信じてきた。

 ヴィクターによって、ニーナの凍り付いていた心が溶かされていく。

 ずっと張り詰め続けてきた感情が、緊張が、我慢がすべてはじけ飛ぶ。


「あぁ……ああぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 ニーナ姫はヴィクターの腕の中で、初めて本当の自分をさらけ出した。






 次の日、モンドール王国に訃報が流れた。
 王城の外れにある小屋が不審火により延焼し、そこに住んでいた第二王女が亡くなった、と。

 速やかに葬儀が執り行われたが、棺桶には亡骸はなく。
 代わりに真っ白なドレスが入れられていた。
 火災の現場に合った彼女は、とてもじゃないが表に出せるものではなかったからだ。

 数人の参列者が見送る中。
 ゆっくりと棺桶が運び出され、王家の墓場へと向かっていく。

 その列に、王や王妃の姿は無かったという。

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