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あの人
しおりを挟むそれは梅雨の明けた、雲ひとつない猛暑日だった。
強い日差しを避けるように、人通りの少ないビル路地にいた私は、病院へと急いでいた。
私は今、スーツ姿だ。
そして病院へ向かっているのは、診察のためではなく実習の為。
私が通っている薬学部では、五年生になると二ヶ月半の研修のようなものがあるのだ。
これが中々ハードで、毎日のようにレポートの提出はあるし、医者や看護師に混ざって症例検討に参加しなきゃいけないし、指導官は怖いしで毎日泣きそうになっている。
正直、こんなに大変だとは思わなかった。
飲食店でバイトをした事もあるし、学校の成績もそこまで悪くない。
……なのにどうしてこうなった。
私の担当の指導官は『患者や病気を、医療に携わる者が怖がるな』なんて凄く怒ってくるけれど、私が一番怖いのはアナタです。
なんでツーブロックに銀縁眼鏡なの。
どうみてもヤクザの若旦那にしか見えない。
昨日怒られたことを頭の中でグルグルさせながら歩いていると、突然後ろから声をかけられた。
「おはよっ、沙也加! どうしたの? そんなハクビシンを見つけたかのような驚いた顔して」
「おはよう、麗美。ハクビシンなんて私の田舎で見慣れてるから驚かないよ。いや……昨日の、さ……」
「あー、アレね! 沙也加ったら拳握りしめてさ、プルプルしながら泣くの堪えてたもんね。アタシ、それ見てゾクゾクしちゃった!」
「ちょっと、ソレどういうこと!? ってか麗美、私が怒られてるところを見てたの!?」
「まーねー。まぁアタシもその前に、あの鬼教官殿に怒られてたってだけなんだけど」
この会話センスのよく分からない子は麗美。
私と同じく実習生だ。
大学は違うけれど、同じ境遇の同志として自然と仲良くなった。
正直彼女が居なければ、この実習は耐えられなかったかもしれない。
……そうこうしているうちに、病院に着いてしまった。
ここから私達はスーツから白衣に着替え、薬剤師の卵としての勉強が始まる。
日中は指導官について周り、薬を調剤したり、カルテを読んだり。
患者さんに薬の説明をしたらレポートを書き、指導官に提出。
そして怒られる。
これが二ヶ月半続くのだ。
そして今日は泣いた。
昨日担当したガン患者さんが亡くなったのだ。
どうしようもない事だって分かってる。
患者さんだって、死ぬことはきっと覚悟してた。
でも学生の私の方が、死というモノに対して覚悟が足りなかったんだと思う。
もっと私が出来たことがあったんじゃないかって思ってしまう。
そう指導官に言ったら、今まで以上に怒られた。
「お前如きがどうにか出来るんなら、俺達が既にやっている!」と。
その言葉に私は泣いたのだ。
なんでこんなに指導官が厳しいことばっかり言うのか、私は今まで理解していなかったのだ。
勉強が足りていないのは、私が悪いと分かってる。
でも、患者さんにはそんなの関係ない。
習ってなくて力が足りないなら、自分から進んで勉強すればいい。
出来ないこと自覚し、出来ることを増やす努力をする。
それがプロへの道なのだ。
「そんなカッコつけたって、立ち直ってないのバレバレだよ~? いったい何個プリン食べるのさ?」
「いいの! これはこれから頑張る私へのエールなの。先行投資なの」
「はいはい。そうやって実習中にブクブク太って、スーツ着れなくなってもアタシは知らないよ?」
「うぐっ……だ、大丈夫。病院内を毎日駆け回ってるし、担当してる四階まで階段で上り下りするようにしてるから」
休憩室で私達はレポートを書き直しながら、そんな会話をしていた。でもこれで今日の実習は終わり。
だからこのスイーツ達は、今日頑張った私へのご褒美でもあるのだ。
「あ、いたいた! 今日メーカーの勉強会だって! これから五階の会議室に実習生は集合って言われたよ。はぁ~、これから帰ってゲームしようと思ったのに」
な、なんてこった。
同じく実習生仲間の男子が、聞きたくなかった情報を告げていった。
もう今日は頑張りたくないよ~。
「しょうがない。プリンチャージもしたことだし、行きますか」
「あはは。もう夜7時だよ? 帰り、何時になるかなぁ……」
……結局夜9時半過ぎまでかかった。
おかしいでしょ!!
学生に時間外労働させるの!?
残業代は!?
……あ、はい。
タダで勉強させてもらったんですよね、分かってますとも。
でも十二時間後には、またここに来るのよ~!!
八時間睡眠をしっかりとる派の私には、自由時間を欲する正当な権利がある!!
「じゃあ、その四時間の自由時間で勉強会のレポートを書かなきゃね~?」
「はぁぁぁ……」
どんよりとした空気で、私達実習生は会議室のある五階から、地下二階にある更衣室へとエレベーターで降りる。
階段? 今日の実習は終了したのだ。私は誰がなんと言おうと、エレベーターを使う!
ちなみに地下三階は倉庫、地下一階が霊安室、地上一階に薬剤部がある。
早速エレベーターに乗って、壁に疲れた身体を預けながら仲間たちと会話を続ける。
「もう夕飯って言うより、夜食だよなぁ。帰りに皆でマクナルでも行く?」
「あ、いいねぇ……もう夕飯要らないって親に言っちゃったし……」
――チィィン……
「えっ? なんでドアが開いたの? 誰かボタン押した?」
――ここはまだ地下一階……それにエレベーターホールには誰もいない……
「ん? 押してないぞ!? 冗談でもここに止まるのは嫌だぞ俺は!!」
「えっ、ちょっ。じゃあなんでよ? なんで止まったの?」
「だ、誰かここで乗ろうとしたんじゃない?」
「ちょっと、ここって霊安室よ!? なんでこんな時間に??」
「アタシだって分かんないわよ! きゅ、急変しちゃったとか……」
「おい……だとしても今ここで誰もエレベーターを待ってないなんて、おかしいだろ。」
「なんで? 来るのが待ち切れなくて、階段で帰ったんじゃない?」
「俺、実習中に見たことあるんだよ……亡くなった人って担架に乗せられて、この地下一階に来るだろ? それで霊安室のベッドに安置される。……じゃあその後は?」
「え? そりゃあ見送った人は戻るでしょうよ」
「担架……」
「えっ?」
「担架よ! 持って行った担架は!?」
「あっ……!」
「そうよ! 担架も持って帰るのよ! あんな大きなモノ、畳んでも階段じゃ無理よ!!」
「じゃ、じゃあ誰がエレベーターのボタンを……?」
――ウィイイイイン……
「ちょっと! また動き出したんだけど!!」
「待てよ! 今度は上に昇ってるぞ!! ……地下二階のボタン、押しっぱなしなのに!!」
「なんでよ!! なんで下に降りないの!! やだ!! どこ行くのよ!!!」
――チィィン……
「よ、四階だ……」
「また……誰もいないわよ……」
「もうやだ……アタシ帰りたい……」
「は、早く更衣室に帰ろう!! 閉じるぞ!!」
――エレベーターのドアが閉じる寸前、四階フロアの電気が一斉に――――消えた。
そして外からの照明が無くなったことで、私はあることに気付いた。
「いっいやぁぁああ!!!」
「うわぁああああ!!」
エレベーターの中に、沢山の手形がついていたのだ。
それも、膝よりも低い位置に、大人の手の平が……
あまりに唐突な出来事に、私達はエレベーターの狭い空間で言葉を失くし、立ち尽くした。
そして、エレベーターは何事もなかったかのように地下二階に私達を運んで行った。
辿り着いた瞬間、私達は急いで更衣室に逃げ込んで着替え、そのまま病院を脱出した。
……結局、あの夜に何故あんな事が起こったのかは未だに分からない。
しかし、今になってふと思うのだ。
あの日院内で亡くなった人は、たった一人だけだった、と。
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