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五章

50 傷痕

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 この遺跡にやって来てから、シグファリスは暇さえあれば僕に魔素を注ぎ混んでいた。離れるのはシグファリスが食事や水浴びなどをするときだけ。それ以外は常に密着し、眠るときも逃亡防止のためにきつく抱きしめられていた。
 そうして迎えた五日目の深夜。ついにシグファリスは隙を見せた。

 僕を抱き込むたくましい腕を押し上げても、シグファリスは起きる気配もなく熟睡していた。ここのところずっと僕に魔素を注ぎすぎて流石に疲労しているのだろう。いつもだったら僕がほんの少し動いただけで目覚めるのに。
 僕は上半身を起こして、月明かりに照らされたシグファリスの寝顔を眺めた。顔の左側、眼窩の上から目尻にかけて傷跡が残っている。これは、小説では負わなかったはずの傷だ。
 指先でそっと傷跡に触れてみる。外傷だけではない。精神的にも散々苦しめ、踏み躙って――今も苦しませている。 
 シグファリスに目覚める兆しがないのを確かめてから、僕は首輪に繋がった鎖に触れた。鎖のもう片方の端は、僕には手の届かない柱の上部に繋がれている。僕は音を立てないように首元の鎖を持ち上げて、継ぎ目の部分をかりかりと引っ掻いた。
 シグファリスに毎日魔素をたっぷりと注がれているおかげで、爪も再生した。鋼鉄をも貫く悪魔の爪。だが僕自体に腕力がないので、ひたすら引っ掻いてちまちま削っていた。最後のひと押しとばかりに力を込めると、ようやく鎖を切断できた。
 シグファリスがいない間に作業を進め、切断するまでに時間がかってしまったが――これで、自由になれる。
 規則正しい寝息を立てるシグファリスから、静かに離れる。すぐに手の届く位置に、無造作に呪いの双剣が置かれていた。
 僕の角から錬成された魔剣。これさえあれば、魔術を使えなくてもシグファリスの命を奪うことができてしまう。僕は静かに呪いの双剣の片方に手を伸ばした。それでもシグファリスは目覚める様子がない。
「……こんなに油断して」
 もう一度、シグファリスの寝顔を眺める。眠っていてもなお眉間に皺がよって、苦しそうに見える。
 僕は双剣の片割れを手にして、音を立てないように遺跡の外に出た。
 静かな夜だった。満ちた月が冴え冴えと湖面を照らしている。
 あの日も満月だった。悪魔ディシフェルに体を奪われた僕が父を殺し、シグファリスの母エリアーヌをも殺し、離れに火を放った日も。

 §

 十五歳になった僕は、正式にオーベルティエ公爵になったことを内外に知らしめるために王都に登っていた。
 そして叔父のベルトランの策略に陥り、ディシフェルに体を奪われてしまってから。ディシフェルはシグファリスにも魔の手を伸ばした。
「なぜ、こんな……! なぜなんです、アリスティドお兄様!」
 父とエリアーヌの遺体を飲み込んで燃え盛る離れを背にして、シグファリスは僕と――ディシフェルと対峙していた。すぐそばには叔父のベルトランも控えている。
「ははは、卑小な身でこの私に剣を向けるとは、愚かな小僧だ」
 その声は確かに僕の声なのに、笑い声は狂気に染まっている。殺戮に酔った悪魔は笑いながらもシグファリスを睨め付ける。
 シグファリスは稽古用の短剣を手に構えているが、震えている。それでもシグファリスは逃げようとする素振りすら見せなかった。
「お前なんか、偽物だ! 本物のアリスティドお兄様を返せ!」
 震えながらも毅然と僕を睨みつけて、吠えるように叫ぶシグファリスを、ただ見ていることしかできなかった。逃げろ、逃げてくれ。頼むから逃げてくれ。いくら叫んでも、僕の声は誰にも届かない。
 小説のシグファリスは、アリスティドに殺されそうになり、命からがら逃げ出した。虐待され続けていたシグファリスには、アリスティドに歯向かうだけの力がなかったからだ。
 しかし、この世界でのシグファリスは違う。健全に育ち、剣術の鍛錬も欠かさなかった。それでも今はまだ十二歳。悪魔に勝てるはずがない。飛びかかってきたシグファリスに向かって、ディシフェルは無造作に魔術を放った。
「うぅっ!」
 闇の刃がシグファリスの体を引き裂く。シグファリスは咄嗟に防御したようだったが、小さな体が見る間に血だらけになる。特に顔に負った傷が深い。ディシフェルは狂ったように笑い、なおも追撃を加えようとする。 
 ――やめろ。やめろ。傷つけるな。僕の大切な弟を。僕のすべて。なによりも大切な光を。
「ああ、なんと素晴らしいお力だ……我が主人、いや、アリスティド。その忌まわしい小僧を殺せ!」
 美貌を歪めたベルトランが絶叫する。ディシフェルはゆったりとベルトランを振り返る。その隙をついてシグファリスは起き上がり、森の方角へ向かって走り出した。
「ふふ。狩というのも一興か」
 ディシフェルはシグファリスの姿が見えなくなるのを待ってから、魔獣を数体召喚して後を追わせた。
「なぜ、あの小僧を生かしておくのですか」
「貴様は何もわかっておらんな。光の加護は我ら悪魔にとって脅威ではあるが、あれの絶望は蜜の味がする。――ああ、愉しみだ。せいぜい復讐という希望を持って這い回るがいい。希望を抱けば抱くほど絶望も深くなる。あれは私だけの特別な餌だ。穢れて堕ちた魂を、全て使い潰してやろう」
 主人の意を汲んだベルトランは、にたりと微笑んでひざまづいた。
 その日から、シグファリスの過酷な旅路が始まった。

 §

「……余計なことしかできなかったな」
 剣を両手で抱えて、湖の岸辺まで歩く。シグファリスであれば難なく片手で持てる剣も、僕には重すぎる。
 よろけながらたどり着いた砂浜の上に両膝をつく。剣を鞘から抜くと、周囲から魔素が集まってくるのがわかった。
 この剣でなら、僕の魔核を貫けるはずだ。
 覚えていないけれど、前世で一回死んだ経験がある。死ぬことは怖くはない。これ以上シグファリスを不幸にすることの方が、ずっと恐ろしい。
 僕はシグファリスの世界を壊す異分子。この世界に生まれて来たこと自体が間違いだった。その間違いは、自らの手で正すべきだ。
 祈るような姿勢で、剣の柄を握りしめて刃先を自分の胸に当てる。瞳を閉じて、腕に力を込める。
 その刹那、光が差した。
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