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四章

34 薬師マリー

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 最後にシグファリスの顔を見てから十日が経過した。
 僕に魔素を与えるのはそれほど頻繁でなくともよいし、魔素が宿るものは血に限らないと伝わったのか怪しいものだったが、怒らせて足が遠のいたのなら結果的によかった。
 他にやることのない僕は、相変わらずヴリュソールに爪をねだられ、城内を覗き見していた。全体的に大きな動きはなく、復旧作業も順調に進んでいる。
 こうして噂話を聞きながら俯瞰していると、人間関係も見えてくる。元王国軍と義勇軍の間に小競り合いが発生しても大きな衝突に至らないのは、ひとりの少女――薬師のマリーの活躍によるものと思われた。

 オーベルティエ公爵邸に迎え入れられる前、シグファリスは王都で暮らしていた。
 シグファリスが光の加護を授かっていると発覚する以前の父は、かなり荒れた生活を送っていたようだった。オーベルティエ公爵家の婿になったというのに、生まれたのは保有する魔素量の少ない子供。とても後継にはなれない。用済みだと切り捨てられた父は、王都の貴族街に小さな屋敷を与えられてはいたものの、貴族社会では半ば放逐されていた。
 貴族社会に居場所を失った父は平民街に入り浸るようになった。王都の貴族たちの生活を支えるために働いている平民たちにとって、父は平民を差別しない人格者に見えたらしい。やがて酒場で働いていた赤髪の美しい女性――エリアーヌと結ばれ、シグファリスを授かった。
 エリアーヌは産後の肥立が良くなかったのか、シグファリスを産んでから病がちになってしまう。貴族の愛人とはいえ、平民のエリアーヌを診察するのは平民の医師。その平民医師の娘がマリーだった。
 貴族の血を引いているシグファリスは、平民の子供達から「半端者」と謗られ、爪弾きにされていた。しかしマリーは違った。「私の方が三日早く生まれたから、私の方がお姉さんなんだよ!」と主張し、シグファリスを差別することなく世話を焼いていた。
 シグファリスにとってマリーは唯一の友人だったが、公爵邸に連れていかれてからは交流も途絶えてしまった。

 二人が再会したのは、魔王アリスティドが表立って王国を支配するようになってから。
 オーベルティエ公爵として影から王国を操っていたディシフェルは、魔王としての力を取り戻してからは正体を隠さなくなった。目立った反抗勢力や脅威になる上位貴族たちは既に排除し終えている。国王は処刑され、王国の中枢は貴族の皮を被った魔物たちに掌握されていた。
 魔物の巣窟となった王都は大混乱に陥った。国を支える名臣であったオーベルティエ公爵がまさか悪魔だったなんて。かつて聖女エステルが告発したことは真実だったのだと判明したが、今更わかったところで何もかも手遅れだった。
 王都で暮らしていた人間たちはほとんどが殺され、生き残った者たちも魔物の餌として飼育された。からくも脱出を果たした者たちは、魔王アリスティドに対抗すべく結束し、対貴族勢力であった義勇軍と合流した。その中にはシグファリスの幼馴染であるマリーもいた。
 混乱の最中で両親を失ったマリーは、薬師として義勇軍に参加するようになる。前線で魔物と戦う力こそないが、傷ついた仲間たちを癒し、励まし、希望を捨ててはいけないと鼓舞する彼女の存在は、義勇軍の精神的な支柱となっていた。
 義勇軍は勇者シグファリス一行と共闘するようになり、二人は再会を果たす。
 幼い頃からシグファリスを差別することのなかったマリー。それは成長した今でも変わっていなかった。

「もう! どうして今まで黙ってたの!?」
 王城の救護所でシグファリスの怪我を診ていたマリーは、普段は穏やかなまなじりを釣り上げてシグファリスを叱っていた。
 マリーが怒るなんて珍しい。だがそれ以上に周囲の人々が驚いているのは、相手が勇者シグファリスだからだ。魔王を倒した立役者。神の力を授かった特別な存在。平民も貴族も自分の立場に関係なく、皆一様にシグファリスを特別視している。そんなシグファリスが女の子に叱られ、子供のように不貞腐れているのである。二人の関係を知らない者からすれば驚きでしかない。
 マリーは傷病者たちの視線を集めていることに気づき、はっと口元を押さえ、救護所の端までシグファリスを引っ張っていった。

 魔王アリスティドと勇者シグファリスの最終決戦の折、義勇軍は陽動部隊として活躍した。王国軍の兵士たちは家族を人質に取られ、仕方なく魔王アリスティドに従っていた。シグファリスの仲間たちの手により人質を解放されてからは義勇軍と合流。勢いに乗じてシグファリスは魔王アリスティドの元まで辿り着いた。
 その後――つまり現在、マリーは激闘を終えた彼らの治療にあたっていた。急拵えの救護所として解放されたのは王城の広間。救護所では貴族も平民も関係ない。手当を受けられるのは怪我の重い者から。身分の差など関係なく、誰の命もかけがえのない大切なもの。マリーは誰が亡くなっても涙し、泣きながらも決して看護の手を止めず、傷病者の手当てを続けた。
 マリーのことを「癒しの天使」と呼んでいる者は多くいた。その愛らしい顔立ち以上に、彼女の心根には確かに清らかさを感じさせるものがある。水色の瞳が絶望で翳ることはない。長かった薄桃色の髪は看護の邪魔だからと短く切られているが、少年めいた快活さはより一層彼女に明るさを与えている。
 しかしシグファリスの怪我を診ていた天使はご立腹だった。
「怪我をしたらすぐに私のところに来るって約束だったでしょ」
「……こんなもん怪我じゃねえよ、かすり傷だし」
「かすり傷だって立派に怪我です! 放っておいたら酷いことになる時だってあるんだから!」
 再びぷんぷん怒り出したマリーにシグファリスは煩わしそうな顔を隠さないが、大人しくされるがままになっている。僕はヴリュソールの視覚越しにそんな二人の様子を眺めていた。
 救護所の端には簡易的な診察室がいくつか設えられていた。布で仕切られただけだが、そこで細やかな手当てを施すことができる。
 ヴリュソールは壁に張り付いて、シグファリスの背後から二人を視界に入れている。シグファリスの顔は見えないが、マリーの表情はよく見えた。怪我を放置していたシグファリスに怒っていたようだったが、治療を終える頃には悲しげに目を伏せていた。
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