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三章

29 解除のヒント

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 世界滅亡という爆弾を抱えたまま魔界召喚陣の研究に勤しむジュリアンを止めなくてはならない。だがシグファリスは僕と言葉を交わそうとはしなかった。
 シグファリスは大体十日から七日おきに牢獄へやってくる。対話のきっかけを作るために罵ったり嘲笑ったりしても、シグファリスは挑発に乗らず、淡々と僕に血を与えて去っていく。拷問どころか僕を殴ることさえしない。憎い仇である僕を殺せないどころか、十年間も世話をし続けなくてはならないことに絶望して、拷問する気力が沸かないのかもしれない。
 これでは魔界召喚陣は短期間で解除可能なのだと伝える隙がない。なんとかしてこの状況を打破したいが、虜囚である僕にできることは限られている。手を打ったところで成功する見込みはかなり低い。それでも、ほんのわずかでもシグファリスの助けになる可能性があるのなら、どんな些細な手段でも講じておきたかった。

〈わりにあわない〉
 ちび竜が僕の元にやってくるのはこれで四度目。僕の爪を食べてご機嫌だったものの、面倒な頼み事をしたせいで若干不貞腐れていた。
「なんとか頑張ってほしい。髪もあげるから」
 追加報酬として髪を何本か抜いて渡す。現金なヴリュソールはささっと僕の前にかしこまり、髪を受け取ってもぐもぐと口にした。満足げな表情からすると髪もそれなりに美味しいらしい。小型の魔物たちに見せびらかしながら一本ずつしっかり味わい、いつものように窃視魔法を展開してから牢獄を飛び立っていった。
 眩しいほどの青空の中をぐるりと飛び、目的地に向かって下降していく。玉座の間に忍び込むのも手慣れたもの。やがてヴリュソールの視界に、たった一人きりで魔法陣の解析作業に勤しむジュリアンの姿が映った。
 ジュリアンは床に這いつくばり、時折何事か唸り声をあげている。
「えへへ……へへぇ……! ……え? おあっ? なにこれ、すっごい、ふワォ……!」
 もはや変人を通り越して変態だ。若干引きながら様子を見ていると、ジュリアンは突如としてうつ伏せに倒れ込んだ。それきり動かなくなったジュリアンに、ヴリュソールが慎重に近づいていく。やがて画面に映し出されたのは、白目を剥いてイビキをかくジュリアンの寝顔だった。寝食を削って解析作業に打ち込み、体力に限界が訪れたらしい。眠るというか気絶に近い状態だと思われた。
 ジュリアンの周囲には殴り書きされたメモが散らばっている。気力がみなぎっている時に書いたと思われるメモはまだ丁寧だが、それも比較的ましだというだけ。書いた本人にも読めるかどうか怪しい癖字が羅列している。これなら僕の計画を実行に移しても問題はなさそうだった。
「ヴリュソール。できそうか?」
〈できなくは、ない〉
 渋々、といった感覚が伝わってくるが、ヴリュソールはそれでも僕の命令を遂行するために動き出した。
 玉座の間の片隅には敷物が敷かれており、そこにジュリアンが生活するための道具が置かれている。今回のように寝落ちするのがほとんどなのか、寝袋は使った形跡もなく綺麗に畳まれたままだった。
 ヴリュソールは敷物の脇に置かれた机の上に着地した。どこかの執務室から運び込んだのか、大人が寝転がれるほどの大きさの重厚な机の上には、ジュリアンが書き留めたメモが積み上げられ、一部は崩れて床に溢れている。雑然とした机上で唯一秩序を保っているのは、新しい用紙の束と、複数置かれたペンだけ。
 ヴリュソールはペンを持ち上げて、まっさらな用紙に構成図を描き込み始めた。

 虜囚である僕が苦し紛れに講じた策。それは魔界召喚陣を解除するためのヒントを玉座の間に忍ばせるという計画だった。
 今ヴリュソールに書いてもらっている構成図は、魔法陣を単純な図形に置き換えたものだ。その図形の端に「結晶体が魔法陣を維持している」とご丁寧に書き記す。魔術の心得がある者が見れば十分に仕組みが理解できるだろうし、解除の方法を思いつけるはずだ。
 ジュリアン以外で玉座の間によく顔を出すのは、ジュリアンのお世話係であるフロレンツ。フロレンツは吟遊詩人と名乗っているが、元は隣国の王子だ。魔術の素養があり、凄腕の魔法剣士でもある。彼にメモを見つけてもらえれば話が早い。
 まずは何より、実行役のヴリュソールにメモを作成してもらわなくては。
 さすがは魔物の中で最も知能が高い竜種、僕が教えた構成図はすぐに覚えた。しかし「ペンで紙に書く」という行為には悪戦苦闘している様子だった。ヴリュソールの視界を映し出している画面が激しく揺れている。小さな体で、よたよたとよろけながら必死に書き込んでいるに違いない。
 前回ヴリュソールを牢獄に呼び出した時は文字を書く練習をさせるだけで時間切れになってしまった。その時は外から拾ってきた木の枝で器用に地面をなぞっていたが、やはり紙に書くとなると勝手が違う。力加減でインクの出方も変わるし、文字を書きながら紙を抑えることができないのですぐにくしゃくしゃになってしまう。
 言葉にはしないものの、「ちょっとこれ無理だな」「もうやめたい」というヴリュソールの本音がなんとなく伝わってくる。そもそも文字を書く練習も最初から嫌がっていた。誇り高き竜種として、芸を仕込まれる見せ物の動物のような扱いが気に入らないのだろう。
 今の僕にヴリュソールを強制的に従わせる力はない。匙を投げられてしまえばそれまでだ。ここはなんとか書き切ってもらいたい。
「ほう、器用なものだな。さすが誉高き竜、最も高い知能を持つと恐れられるのも納得だ。まさかこんなことまでできるとは」
 やる気を出してもらうために褒めてみると、画面の動きがぴたりと止まった。わざとらしすぎて逆に機嫌を損ねてしまっただろうか。
〈――ふふん。我、竜ぞ。きようで、かしこい〉
 再び画面が動き出す。先ほどまでのうんざりした様子とは打って変わって、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で着々と書き進められていく。
「そうそう、うまいぞ、あと少し、いい調子だ」
 動きが緩慢になってきたタイミングを見計らって声をかける。ヴリュソールは褒められると伸びるタイプらしく、声をかけるたびに格段に動きが良くなっていく。
 やがて完成した構成図は、内容を理解してもらうのは難しそうな出来栄えだった。それでも初めてペンを持った子が必死に頑張ってここまで書き上げたのだ。
「すごい、よく書けてる! いい子だね!」
 感動して口が滑った。さすがに「いい子」はまずい、と思ったが、ヴリュソールは満更でもない様子だった。
〈我、きようで、かしこくて、いいこ。ふんす〉
 ヴリュソールの姿は見えないが、きっと鼻息荒くふんぞりかえっているにに違いない。凶悪な殃禍竜に、おだてに弱いという弱点があったとは知らなかった。
 ようやく書きあげた傑作を玉座の間の入り口付近に忍ばせてから、ヴリュソールは意気揚々と魔界に引き上げていった。

§

 ヴリュソールは一度人間界にやってきた後は力が弱ってしまうらしく、数日間は呼んでも反応がない。回復すれば僕の呼びかけに答えてくれるけれど、呼ばなくても僕の体の爪を食べたくなったら気まぐれにやってくる。
 自力で人間界に滞在できるのはほんの数分。僕の爪を食べて魔素を摂取すれば体感で一時間前後は留まることができる。
 最初は構成図を一枚書くだけで時間を使い切っていたが、慣れるに従って複数枚書けるようになっていった。同じメモが何枚もあったら不自然なので、文面も微妙に変えている。繰り返すうちに字が上手くなってしまい、ジュリアンの筆致に合わせてわざと下手に書くという芸当までこなしてみせた。これならジュリアン自身も自分で書いた解析結果と見分けがつかないだろう。思いがけない大活躍だった。
〈こんなことができる我は? 我は?〉
「ああ、とてもいい子だ。偉くて賢い。どんな竜も君ほど器用にはこなせないだろうな」
〈ふんすふんす〉
 爪以外に褒めも要求するようになったヴリュソールは、今日も鼻息荒く僕の計画に付き合ってくれている。
 最初は慎重に、ジュリアンが気絶している時にだけ作業をしようと思っていたが、床に這いつくばって解析作業をしている間は完全に魔法陣に集中し切っている。周囲に注意を払っている様子がないので堂々と進めていた。
 仕上がったメモは玉座の間の出入り口付近に多めに撒いてもらっている。ここならフロレンツが必ず通るし、魔術博士たちが再び来訪するかもしれない。目につく機会が多い場所に潜ませながらも、悪目立ちはしないように。わざとらしいアピールをすればかえって悪魔の罠だと警戒させてしまう。その辺りの匙加減もヴリュソールは心得ていた。

 ヴリュソールに地道な作業を重ねてもらい、僕の爪はもうすぐ両手分がなくなろうとしていた。魔素を収集する器官である角さえあれば爪程度すぐにでも再生するだろうが、シグファリスに与えられる血の量では生命を維持するだけで手一杯らしい。剥がした爪の痕はうっすらと膜が張ったような状態になっているだけで、再生する様子はない。
 足の爪でも納得してもらえるだろうか。髪もあるけれど、髪だけで長い時間活動できるだけの魔素を供給するとなるとひと束分ぐらいは必要になるだろう。急に僕がハゲ出したらシグファリスにも怪しまれてしまう。とりあえずは両手足の爪がなくなるまでは続けてもらうことにする。

 ダメで元々。その程度の気持ちで始めた計画だったが、意外にも短期間で成果が出た。
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