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一章

08 悪魔崇拝

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 僕を抱きかかえたまま、叔父は軽い足取りで長い廊下を移動していく。抵抗したくとも身体中が痺れて指一本動かせない。
 叔父の裏切りという想定外の出来事に動揺しながらも、視線だけを動かして状況を探る。敷布や壁にこびりついた、おびただしい血痕。所々に焦げた痕があるのは火炎魔法を得意とする僕の侍従が応戦した痕跡に違いない。戦闘中は消音魔法がかけられていたのか、テラスにいた僕は異常に気づくことができず、叔父に勧められるがまま薬が仕込まれたワインを口にしてしまった。
 今日この瞬間まで、一度たりとも叔父を疑ったことがなかった。僕は叔父の後押しがあったからこそ幼い身でオーベルティエの当主となることができたのだから。僕が邪魔であればもっと早い段階で排除できたはず。王太子の政策に賛同したことを内心不興に思っていたのだとしても、わざわざ僕が成人するのを見届けてから反旗を翻す理由がわからない。叔父が口にした「我が主の器」という言葉の意味も。
 嫌な想像が脳裏を掠める。自分の推測を否定したくてあらゆる可能性を探るが、考えれば考えるほど確信が深まっていく。
 まさか。そんなはずはない。叔父の企みがどのようなものであるにせよ、大丈夫だ。僕の侍従は強いし機転も利く。きっと逃げのびて助けを呼んできてくれるはずだ。夜会には僕の友人たちも招いている。彼らまでもが僕を裏切るはずがない。
 やがてたどり着いた広間で待ち受けていた光景は、僕が縋りついた希望をいとも容易く打ち砕いた。
「今夜の主役がいらっしゃったぞ」
「おお、我らが美しき祝福の御子、アリスティド様……今宵は格別に麗しく……」
 僕たちの姿を見て感極まった歓声をあげたのは、僕もよく知るオーベルティエの信奉者たち。集まっているのは招待客のうちの約半数、三十人ほどだろうか。彼らの眼差しはいつもと同じ。僕を見ているが、僕自身を見ていない。彼らが崇めているのは僕の容姿と、この体に流れる血。いつもと違うのは、皆が一様に羽織っている黒いローブと手に持った燭台。そこに刻まれた五芒星と瞳を模った紋章は――悪魔崇拝の印。
「驚いたかな? しかし君の晴れ舞台を飾るために用意したものはこれだけではないよ」
 叔父が広間の奥へと足を進めると、集まった人々が左右に分かれて道を作る。人垣に沿って進んだ先には祭壇のようなものが設られていた。中央に鎮座するのは、てのひらに収まるほどの大きさの、球状の宝玉。禍々しい光を放つそれが照らしているのは――僕の侍従。護衛。侍女。友人たち。僕に寄り添い、支えてくれていた彼らの首が、祭壇の下に無造作に転がされていた。
 もはや悲鳴を上げることすら叶わない。目の前が暗くなる。遠くなりかけた意識を引き戻したのは、歌うような叔父の声だった。
「ああ、なんて美しい表情だろう……姉上と同じその顔が絶望に染まるのを、ずっと見たいと願っていた」
 叩き落とされた絶望の底から叔父の顔を見上げる。優雅な笑みを貼り付けてはいるが、その眼差しには深い憎悪が宿っていた。
「姉上が病で倒れられた時、私がどれほど悲嘆に暮れたか……この私を無能と蔑み、王妃殿下の愛人程度なら務まるでしょうと嘲笑ったあの女に罰を与える機会を永遠に失ってしまったのだから」
 叔父は母上を敬愛していたはずなのに。僕に語って聞かせた母上への想いがすべて嘘だったなんて。
 最も近しい家族である、優しい叔父。ずっと頼りにしていた。お互いに深く信頼し合っていると思っていたのに。
「しかし至高の力に導かれた今の私にとって、あの女の嘲弄などもはや些事に過ぎない。それに姉上は、君という素晴らしい人形を私に遺して下さった」
 そう語りながら叔父は僕を祭壇の上に横たえさせた。恭しく僕の胸元の装飾布を取り去り、シャツをはだけさせる。ただ愕然としたまま叔父を見上げることしかできない僕の真上に、祭壇に祀られていた宝玉が掲げられた。
「このスフィールには、我が主――ディシフェル様のお力の一部が封印されている。ディシフェル様のことは君もよく知っているだろう?」
 ルミエ王国の者なら誰もが知っている。かつてこの大陸を支配していた邪悪な悪魔の名前。魔王と呼ばれ恐れられたかの悪魔は、光の加護を持つ勇者によって魔界へと退けられた。
 そして、『緋閃のグランシャリオ』を読んだ僕が知っているのは。アリスティドが力を得るために契約した悪魔の名がディシフェルだということ。
「悪魔の大いなる力の前では、魔力を持つ貴族といえど矮小な存在でしかない。それは姉上も同じこと。我らがオーベルティエは、ディシフェル様の加護により人智を超えた存在へと進化する。そのためには、アリスティド。君が必要なんだ。誰よりも色濃くオーベルティエの美しさを受け継ぎながら、脆弱な力しか持たない哀れな欠落者――。ディシフェル様がこの世界に降臨なさるための器として、君以上に相応しい存在はない」
 小説ではアリスティドに叔父がいたという記述はなかったし、アリスティドの身内が悪魔崇拝に手を染めていたという説明もなかったはずだ。でも。辻褄が合ってしまう。前世を思い出した八歳の時点で、僕の心根にはすでに平民への蔑視が蔓延っていた。貴族としての過剰な自尊心も選民意識も、幼い子供が自然に抱く感情ではない。無意識のうちに周囲の大人の影響を受けていたはず。そして――幼いアリスティドの側にいた家族といえる存在は、叔父だけだ。
「これまでに何人もの器を用意したけれど、ディシフェル様の魔力に耐えられず砕けてしまった。……だが、オーベルティエの正統な血を受け継いだ君ならば。必ず耐えられると信じているよ」
 叔父の顔をした死神が嗤う。葬り去ったはずの残酷な運命が棺の蓋を開けようとしている。
「――ッ!」
 僕の心臓の真上に、昏い輝きを放つ宝玉が乗せられる。おぞましい魔力を肌に直接感じて総毛立つ。
 叔父が大仰な仕草で両手を広げる。それを合図に、集まった信者たちが一斉に詠唱を開始する。呪詛と表現するのに相応しい詠唱が響くのに反応して、胸元に痛みが走る。焼け爛れた皮膚を力任せに引き裂くような、壮絶な苦痛と共に凶悪な魔力が僕の中に侵食する。僕の意思とは関係なく拒否反応でがくがくと全身が震える。意識が遠ざかっていく。駄目だ、ここで抵抗できなければ、シグファリスが。
 渾身の力を込めて手を伸ばす。胸元の宝玉を払い落とそうとした手を叔父が握りしめる。狂気に染まり切っていた叔父の瞳に、ほんのわずかに理性が灯る。
「……ずっと愚かなままでいてくれたら良かったのに」
 懺悔のような囁き声が耳に届いたのを最後に、僕の意識は闇に飲まれた。

 §

 僕の肉体はディシフェルに奪われてしまったが、魂は消滅することなくとどまっていた。
 どうにかして体を取り戻せないか機会を伺い続けたが、どれほど祈っても、願っても、ディシフェルの手で大切な人たちが傷ついていく光景をただ見ていることしかできなかった。
 ディシフェルは僕の体を器として差し出した対価に、叔父の願いを叶えることを約束した。叔父の願いは、姉を超えること――ルミエ王国の支配を望んでいた。そのためにまずは目障りな父を殺し、エリアーヌを殺し、シグファリスすら手にかけようとした。シグファリスは逃げ延びてくれたが、結局は小説と同じ過酷な運命に晒されることになってしまった。
 オーベルティエ公爵の皮を被ったディシフェルはルミエ王国の重鎮たちを闇の力で洗脳した。国の中枢を容易く手中に収めたディシフェルは数々の戦乱を引き起こし、大量の戦死者が出るよう仕向け、命を落とした者たちの魂を喰らった。そうして力を蓄え続けたディシフェルはシグファリスの恋人である聖女の魂をも喰らい、魔王としての力を取り戻した。
 もはやオーベルティエ公爵という立場は必要ない。ディシフェルが本性を現したことで僕の肉体も醜く変貌した。銀色の髪は黒く染まり、紫の瞳は血の色で濁った。邪悪な悪魔の象徴である赤黒い角が生え、長く伸びた黒い爪は鉄を容易く裂き、悪魔信仰に傾倒していた人々を戯れに虐殺した。ディシフェルを操っていると錯覚していた叔父もあっけなく殺されてしまった。
 ディシフェルの目的は、かつて自らを封じた王家への復讐だけではなかった。人間の魂を狩り尽くし、魔界をこの世界に顕現させ、さらなる力を手に入れること。そのために多くの罪なき者たちの命を奪い続けた。
 凄惨な光景から目を逸らすこともできず、ただただ絶望と後悔に打ちのめされる日々が続いた。それでも。小説の筋書き通りの悲劇が起きてしまったということは、主人公である勇者シグファリスが魔王アリスティドを倒す日が、必ずやってくるということ。
 最後の時はきっとシグファリスが殺してくれる。それだけが僕に残された唯一の希望だった。

 だから。王城を舞台にした最終決戦で、たくましく成長したシグファリスの手で切り伏せられた時、やっと死ねたと思ったのに。
 僕は生きていた。
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