見上げれば月

夕空余情

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夢のマジックアワー

見上げれば月

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「天歌ちゃん~!こっちに来て!!」「はい!小母様!!」さんさんと降り注ぐ太陽の光の下、私はずっしりとしたかぼちゃを抱えて小母様のもとに駆けていった。「本当に天歌はよく働いて偉い子だな~!もう立派なうちの娘だよ。」そう言って、微笑んだのは、小父様だった。スラーの家は農業を営むかたわら、小母様が洋服を作る内職をしたり、昼間は小父様が街で書店を経営したりして生計を建てているそうだ。どんなに働いてもなかなか一家は豊かにならないのが、小父様と小母様の悩みの種らしい…。「それに引き換えスラーは何をしてるんだ。あいつは、明日は手伝うと言って毎日畑に来ないじゃないか!小父様は薩摩芋の泥を軍手をはめた手ではらいながら言った。「あの子はまた何か曲を書き始めたようですよ。」「ほぅ。」そう言った小父様の声は少し楽しそうにも聞こえる。この愛情一杯の両親は、息子の才能に少し期待を寄せているようだった。たしかにスラーには並外れた才能があると私も思う。16年間音楽に触れてきた私が思うのだから、間違いないと思う。私たち3人は、かぼちゃやら栗やら薩摩芋やら秋の収穫物がどっさりと入った籠を持って家へと向かった。朝食の後でスラーに部屋に呼び出された。「座って。」と言ってスラーは私をピアノの椅子に座らせ、自分も適当な椅子を探して隣りに座る。「この前、秋祭りの話したよね?」「うん。」「実はそこで発表する歌を天花に歌って欲しいんだけど…。僕が作曲してリタラが作詞することになってるんだ。テーマはもちろんあの『悲劇の女神エレン』だよ。」スラーがどうかな?というような表情で首を少し傾ける。「つまり私がエレンになりきって歌うってことだよね?」「そうなるね。」「上手くやれるかわからないけどやってみたい!」「引き受けてくれてよかった。ありがとう!なんてったって僕のミューズの初ステージだからね!」私たちは顔を見合わせてフフッと笑った。「あぁあぁあぁあぁあー。」ピアノの音がだんだん高くなっていく。こんなにしっかり発声練習をしたのは久々だった。「さすが天歌!一音の乱れもないね。」ピアノの鍵盤からスラーが顔をあげる。「私絶対音感持ってるから…。」なるほどと言う風にスラーが首を縦に振ったとき部屋のドアが勢いよく開いて嵐のような人物が入って来た。「スラーと天歌ちゃんおっはよー!」私たちは「わぁ!!!」っと小さな叫び声を上げてしまった。「リタラ、ノックぐらいしろ!」「あっごめんー!!曲の詩が出来たよー。」リタラは薄っすらと紫色をしている紙をスラーに手渡した。私もそれを覗き込む。『風が吹く 今年も黄金の稲穂が揺れる 思い出す あの麦畑の横の小道を走ったことを 愛しいあなたに早く会いたいとめいいっぱい急いだのを 愛しい貴方私に後悔はない 私の願いはたった一つ 雲の上の私のことを忘れないで *信じて 信じて 愛しい人と愛しい私を どんなに孤独な夜も
 一人寂しい夜も 見上げれば月』(*繰り返し、二回目の「見上げれば月」はデクレッシェンドで)と書かれていた。(すごい…。)私はこんなロマンチックな詞がリタラから出てきたものかとリタラと詞を交互に見てしまう。「やっぱり、リタラの詞はすごいなぁ。」「だろう?スラー!後は君がこの詞を音と言う名の機織り機にかけて、織り込んでいくだけだよ。」リタラはまだ詩的表現から抜け出せていないようだった。その後私たちはそれぞれの立場から意見を出し合い、タイトルや曲調を熱心に議論しあった。ときどき二人が白熱するあまり、エレンのまねをして、高い声で喋ったり、流し目をしてこっちをみたりしているのはおかしくておかしくて痛くなるほど、ほっぺたの内側を噛んだ。結局タイトルは決まらなかった。が、その日は解散となった。数日後私が二階の部屋で眠っいるとだんだんと階段を上がってくる音がした。部屋の掛け時計は午前2時を差している。丑三つ時なので私は幽霊か何かだと思って、白い布団の中から少し顔をだす。少しずつ音が近づいてくる。心臓が太鼓のばちでたたかれるかのようにバクバクバクと鳴る。キィーと音を立ててドアが開いた。私は冷や汗をかいている。真っ暗すぎて何も見えないけど、なんとなく170cmくらいの物体が立っていた。「出来た!出来た、出来た、出来たよ、天歌!!」その声はスラー?と思いながらもいきなりベッドに飛び込んで来たスラーを私は半ば反射的に思いっきりビンタしてしまった。私は呼吸を整えてから、電気をパチッとつけた。叩かれたことは何も言わず、スラーは右頬をさすりながら楽譜を渡してきた。私はごめんと呟きながらも受け取る。見ただけでなんとなくメロディーは想像がつく。曲の前半はいきいきとした旋律、半ばは比較的短調で、後半は誇り高い和音の連続で締めくくられていた。眠気も吹き飛ばすほどの世界観に惹き込まれた。「こんな夜中にいったい何の騒ぎだ?」見ると、眠たそうな顔をした小父様と小母様が部屋に駆けつけていた。「いまちょうど……」スラーが何か言いかけた時、彼は膝からガクリと折れてその場に倒れてしまった。「何日間も徹夜して馬鹿だね~この子は…。」次の日の昼下りに、スラーの部屋にお見舞いに行った時、小母様がぬるくなったお絞りを水に浸しながら言う。どうやら疲労から熱が出たらしい。スラーはぐっすりと眠っていた。小母様の目に心配の色が映る。「寝てるからチャンスね!ちょっと天花ちゃんこれを見て。」小母様がスラーの机から引き抜いて持って来たのは、一冊の手帳だった。中を開くと優しい字でこう書いてあった。『大切なアニーへ
 君を失ってからもう3ヶ月が経つね。アニーと音楽について語りあった日々を本当に懐かしく思うよ。君がいない日々はとても淋しいけど、僕は夢を叶えるためにどんな努力でもする。君の命は短かったけど、生きる時間を与えらている僕は、君の分まで精一杯生きて生きて生きて、悲しくて哀しくて寂しくて淋しい、そんな人にも、もう一度生きる勇気を与える音楽が響く世界を創ってみせるから、それまで見守っててね。
 兄 スラーより』これを読み上げていた小母様の声は最後になるにつれて、どんどんかすれていった。「天歌ちゃん、アニーのことは聞いているかしら?」「はい。」小母様の目を見る勇気はなくて少し目線を外しながら言う。「スラーはアニーと凄く仲がよかったの。でもね、アニーが亡くなってからは心の穴を埋めるように、音楽ばかりに打ち込んで…いつか体を壊さないかって私たちずっと心配してたの。天歌ちゃんが来てからスラーは変わったわ。元のように笑うようになったの。きっと、天歌ちゃんがスラーの傷を癒やしてくれているのね。本当にありがとう。」小母様の優しい台所洗剤の香りが近づいて来て、小母様の細い両腕が私を抱きしめた。「私こそ、なんとお礼を言ったらいいか…スラーにも様々なことを教えてもらって…こちらこそありがとうございます。」私まで思わず泣いてしまう。お昼頃は雨が降っていたので露がキラキラと虹色に輝いていた。しばらく2人で抱きあって涙を流していると、小母様の膝の上に手が伸びて手帳をひったくった。「母さん、勝手に見るなよ…ちょっと天歌と話したいから、しばらく席を外してくれるかな?」小母様はきまり悪そうに出ていった。ドアが閉まる音がして、スラーと目が遭った時、急に怒りが込み上げてきた。「スラー!なんであんなに無理するの!!!体が一番大事なのに…死んでしまったら何にもならないのよ!!」なんだか、それは自分の中の自分にも言っているようだった。3ヶ月前の私はこの言葉を聞いてどう思っただろうか…。本当の生きるという意味を理解していなかった自分がなりよりも腹立たしく、情けなくて、こんなに勇気をくれているスラーが体を壊すまで思い詰めていることに気づけなかった自分が恥ずかしくて、とにかく色々な感情がぐちゃぐちゃになり、過呼吸になるくらいまで泣いた。スラーは私をベッドの側まで来させて、私の頭を撫でながら「ごめん。」と静かな声で言った。そして優しい声で歌いだした。スラーが歌うのを聴くのは初めてだった。歌は私が初めてここへ来た日の夜、星空を見上げながら歌ったあの歌だった。透き通るような、少し切ない歌声は、本当の彼の強さと優しさを音と共にも運んでくる。歌い終わったスラーが口を開く。「この歌覚えてるよね?天歌の歌を聴いたのは、これが初めての曲だったよ。」私は頬の涙がだんだん乾いてきて、カピカピになるのを感じながらうなずく。「僕はこの曲を聴いて、天花にミューズになって欲しいって思ったけど、それだけじゃなくて、音楽の楽しさも思い出せたんだ。その日から僕の音楽のテーマは『明日にもう一度生きる勇気』になったんだよ。」「明日にもう一度生きる勇気?」「うん、天花には不思議な力があるよ。心の奥から誰にも言ったことのない、思い出したくもない辛い過去も、聴いている人の心の中から、引き出して、優しく語りかけ悪いものを勇気や希望に替えて、また心の中に戻してあげることができるようなそんな力だよ。僕はあの歌の中でもう一度アニーに会えた気がするんだよ。」こんなに自分の歌声を褒められたのは始めてだった。そして、深く語り合ったことで、今までとは違う形でスラーが瞳の中に映るようになった。彼の大きな青い目には長いまつ毛が被さっており、目が遭った瞬間電気がバチッと走ったような刺激があり、次の瞬間にはドキドキ胸を打ついつもより少し速い鼓動に変わるのだ。私は無意識的に上目使いになっていたかもしれない。彼を真直ぐ見ることができなくて…。「ありがとう。」それ以上は何も言えなかった。私が立ち上がって部屋を出ていこうとした時スラーが私の袖をつかんで「昨日、天歌が夢に出てきたよ。じゃ!おやすみ。」と言った。スラーは素早く布団にまた潜り込んでしまった。私もおやすみと言葉を捨て去るように言い、わけもなく、小走りで部屋を後にした。私はドアを閉めた後、ドアにもたれかかった。昨日私が夢に出てきた。その言葉を頭の中で繰り返す。なんとなくその意味が分かったような気がして、私は急に頬が熱くなってきた。私が考えたことと、スラーの意図はずれているかもしれない。でも、こういう事が分かるようになるってことが、大人になるってことかもしれない…。廊下の窓から見えた、秋の夕暮れはマジックアワーで、ピンク色の雲が青い春の色の空に、ふわふわと浮かんでいた。
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