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【1】22歳、地位と婚約者を失いました。
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「クララ姉さん! 次期当主の座をイザベラ姉さんに取られたって、本当なのか!? しかも、デリックに婚約破棄されたって!?」
数か月ぶりに領地に戻ってきた弟は、私を見るなり物凄い剣幕で尋ねてきた。私は領主邸の外庭にある小さな花壇で、ハーブを収穫していたところだった。
「ええ。本当よ」
「なんだよそれ……!」
ウィリアムはヒステリックに自分の髪をかきむしった……せっかくの綺麗な顔立ちが台無しだ。ウィリアムは私より七つ年下の一五歳で、王都の王立アカデミーに在籍している。蜂蜜色の濃い金髪と空色の瞳が美しい、王子様みたいな美少年だ。
「正確には、『取られた』ではなく『譲った』のよ。イザベラが、どうしても女伯爵になりたいと言って聞かなかったから」
四歳年下の妹イザベラは、昔から私のものを何でも欲しがる子だった。私は物に執着しない性格だから、ねだられたものは基本的に譲ることにしている。……今回ねだられたものだけは、少々驚いたけれど。
今回イザベラが欲しがったのは、次期伯爵の座だった。
この国は性別不問の長子相続制だから、特別な事情がなければ第一子が家を継ぐ。だから三人姉弟の長子である私が、このマグラス伯爵家の次期当主となる予定だったのだ。
「私には女伯爵なんて似合わないもの。イザベラがやる気になっているのなら、それでもいいと思うわ。あの子、社交的だから案外向いているかもしれない」
「これまで全然勉強してこなかったイザベラ姉さんに、次期伯爵なんて務まる訳がないじゃないか!」
「でも、私も次期伯爵の器ではなかったわ……社交のセンスは全然ないし。私が女伯爵になったとしても、婚約者だったデリック様が実権を握っていたはずよ」
そう呟きながら、私は地面にしゃがみこんでレモングラスを収穫していた――いい香り。サラダに添えたらおいしそう。
「……それに、イザベラとデリック様は、すでに深い恋仲だったんですって。それならむしろ、ちょうど良いかなと」
「何言ってるんだ! それって、浮気されてたってことだろ!?」
「そうね」
私は苦笑した。
相続辞退と同時に、私はデリック様との婚約解消を受け入れた。その直後にデリック様は、イザベラとの婚約を結び直したのだ。だからデリック様にとって、『次期当主の婚約者』という立場は変わらない。
あの二人が恋人関係だったと知って、「あらまぁ」とは思ったけれど。意外とショックはない。むしろその方が自然かな、と思ったくらいだ。
「デリック様は華やかな方だから、私では退屈だったと思うわ。実は私もデリック様が苦手だから、婚約を解消してもらえて助かっちゃった」
私はきらびやかな社交場よりも、花壇にいるほうが好き。こうやってのんびりと土いじりをしていると、心が落ち着く。
「お父様も本当は『イザベラに爵位を継がせたい』と考えていたそうよ。私では頼りないと思っていたみたい。だから全てがあるべき形に収まって、ちょうど良――」
「そんなバカなことがあるか!!」
ウィリアムの拳は、わなわなと震えている。
「なんだよ、それ。どうして誰もクララ姉さんの良さを分かってくれないんだ! 僕を育ててくれたのは、クララ姉さんなのに。……クララ姉さんばかりが、いつも損をする」
「ありがとう、ウィリアム。でも、そんなに怖い顔をしないの。――いい子だから」
そう言って頬を撫でると、ウィリアムは泣き出しそうな顔をした。
私は別に、強がりを言っている訳ではない。ただ本当に、爵位を継ぐのもデリック様の妻になるのも、『合わない生き方』だなぁと思っていたのだ。
もし許されるなら、草花を愛でてのんびり風に吹かれていたい。農地の一角を借りてハーブや花を育てたり、市場に出回る農作物を眺めたり。農家や商人と語らって、『今年の実りはどうだ』とか、『新しい麦の品種ができた』とか、そういう話をしながら暮らしたい。
それが伯爵家の娘にふさわしくない生き方だということは、とっくに分かっているけれど。
「……だけどクララ姉さんは、もう二十二歳だろ? 今から結婚相手を探すとなると」
「そうね、結婚は難しいかもしれない。この年齢で社交場に出ても、浮いてしまうし。婚約解消と相続辞退のウワサは、すぐに他家にも広まるでしょうし。色んな憶測を呼ぶだろうから」
女性の適齢期は十八歳から二十歳――私はとっくに過ぎている。だから、ご縁がないなら、無理に結婚しなくてもいい。
「何のんきなことを言って……」
「そのうち、領内のどこかの屋敷の管理でも任せてもらえたら嬉しいのだけれど。今度、お父様に頼んでみようかしら」
そうつぶやいて、私は伯爵邸を囲う柵の外へと目を馳せた。高さ五メートルを超える鉄柵の向こうは、見渡す限りの田園風景だ。
心安らぐ景色の中に、自分も溶けてしまいたい――。
と。そのとき。
柵の向こうから、一匹の黒猫が現れた。
短い足でトコトコと、柵の中へと入ってくる。
――なんてかわいい仔猫なのかしら。
仔猫に釘付けになっていた私の隣で、ウィリアムは怪訝そうな声を発した。
「なんだこいつ。野良猫か?」
どこかおぼつかない足取りで歩いていた仔猫は、きゅるりとした翡翠色の瞳で私を見上げた。
目と目が合った瞬間に、どきゅ、と心臓を射抜かれる音が聞こえた。
「……すてきな子」
「は!? 姉さん?」
私は、仔猫に手を差し伸べた。けれど仔猫は、その場でうずくまってしまった――具合が悪そうだ。
私はあわてて仔猫に駆け寄り、小さな体を抱き上げた。もふもふと柔らかく、儚いほど軽い……体重はたぶん、三キロもない。
「だいじょうぶ? お腹が減っているの?」
でも、空腹ではなさそうだ。私の胸に抱かれたまま、仔猫はくてんと脱力している。時折、吐き気を催したように舌を出して悶え苦しんでいて……。
「困ったわ。どうしたら良いのかしら」
ウィリアムが、嫌悪感も露わな態度で眉を寄せる。
「……その猫、病気みたいだ。感染されたら大変だから、さっさと捨てた方が良い」
「何を言っているの! こんなに苦しそうにしているのに!」
仔猫をやわらかく抱きながら、私はそっと背中を撫で続けた。
「かわいそうに。だいじょうぶよ、絶対に助けてあげるから――」
次の瞬間、仔猫は「けほっ」と咳き込んで、口から何かを吐き出した。紫色の光の塊みたいな『何か』は、仔猫の口から出た瞬間に弾けるように消えてしまった。
「……え? 今のは?」
謎の光を吐き出したことで、仔猫は具合が良くなったらしい。元気いっぱいに「にぃ!」と鳴いて、私に柔らかな体を擦り寄せてきた。
「クララ姉さん。こいつ、今へんなの吐き出したぞ」
「そうね。たぶん毛玉じゃないかしら」
「え。絶対に違うだろ」
警戒心も露わな態度で、ウィリアムは私に警告してきた。
「きっとこいつ、猫じゃなくて魔物だよ! 危ないから今すぐ警備隊に通報を――」
「それはダメ。こんなにかわいいんだから、絶対にただの仔猫ちゃんよ」
「根拠が無茶苦茶だよ、姉さん!」
私は、ウィリアムの言葉を聞き流すことに決めた。
仔猫は小さな舌を出し、さりさりと手を舐めてくる。愛おしさがこみあげてきて、私は仔猫を抱きしめた。そんな私の横で、なぜかウィリアムは悔しそうな顔で仔猫を睨んで歯ぎしりしている。
それにしてもこの仔猫ちゃん、本当にふしぎ。この子を抱いていると、どうしてこんなに甘い気分になれるのかしら……。
ずっとこうして、抱いていたい――幸福感に満たされていたそのとき。
「あーら。クララお姉様ったら、どうしたの? そんな汚い猫を抱いちゃって!」
という耳慣れた声が、私の背中に投じられた。
「泥まみれになるだけじゃあ飽き足らずに、汚ない猫まで飼うつもり? 本当、お姉様ったら貴族の自覚も誇りもないのねぇ。いっそ農婦にでもなっちゃえばいいのに!」
高笑いとともに姿を現したのは、私の妹――イザベラだった。
イザベラの登場に、ウィリアムはあからさまに不快そうな顔をしている。
「……口が悪いぞ、イザベラ姉さん。クララ姉さんは淑女の鑑だ。なのに泥まみれとか農婦になれとか……冗談でも許される台詞じゃあない!」
「うふふ。相変わらずウィルはクララお姉様に甘いわねぇ。こんな恥さらしをかばってあげるなんて、本当に優しい弟だこと」
おほほほ。と優雅に扇で口元を隠して笑いながら、イザベラはこちらに近づいてきた。とはいえ、花壇の土で汚れたら嫌だと思ったらしく、二メートルほど離れた場所で立ち止まる。
「あぁ、嫌だ嫌だ。泥臭くってグズでブスで、目に入れるのも嫌になるわ!」
それなら、わざわざ話しに来なければいいのに。……とも思いつつ、私は仔猫を抱いたままイザベラを見つめていた。
イザベラは一八歳。赤バラのような深紅のルージュがよく似合う、目鼻立ちのくっきりした美人だ。濃い蜂蜜色の金髪も、サファイアブルーの瞳も弟のウィリアムによく似ている。
三姉弟の中では、私だけ髪の色調が違う。私も金髪だけれど、ミルクティのような淡い色なのだ。目の色は琥珀色だし、妹弟のようなきらびやかな容貌ではない。私だけ母親が違うから、外見が多少似ていないのも当然と言える。
「おい、クララ姉さんのどこがブスなんだ!? どう見ても美女じゃないか。僕は王都で暮らしているけど、クララ姉さん以上の美女に出会ったことなんてないぞ!」
ウィリアム、それはさすがに盛りすぎよ……。心の中で、私は静かにツッコミを入れた。
「ふしゃー!」
唐突に、胸元で獰猛そうな声がした。私に抱かれていた仔猫ちゃんが、イザベラのほうを見て牙を剥いたのだ。……どうしたのかしら。
「きゃ、怖ぁい。なんて野蛮なのかしら。さっさと捨てなさいよ、そんなバカ猫!」
……む。
仔猫ちゃんをバカ呼ばわりされて、流石にカチンときた。
「ところでイザベラ。なにかご用があったんでしょう?」
「ええ、そうよ。単刀直入に言うけど、この汚い花壇を潰すことにしたから。さっさと退いてちょうだいね」
――え?
「前々から潰したいと思ってたのよね。だって不要でしょ、こんな花壇。当家には熟練庭師のジミーがいるし、庭園と薬草の管理はすべて庭師がやってるんだから! お姉様のムダな趣味のために、わざわざ伯爵邸の土地を提供する必要、ある?」
がん、と頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。……私の花壇を潰す?
「ま、待ってイザベラ! お願いだから、この花壇だけは奪わないで!」
「あらあら、すごい慌てぶりね」
「土いじりは、私の生き甲斐なの……! 私が役立たずだというのなら、役に立ってみせるから! ジミーの手伝いも、するわ! むしろ手伝わせてほしいと、これまで何度も頼んでいたはずだけど……」
「やっぱり花壇は没収ね、お姉様には貴族淑女としての自覚がなさすぎるもの。土から引き離して、社交場に立たせてあげる! 行き遅れのお姉様には、わたくしが責任をもって嫁ぎ先を探してあげるわ。次期当主として、不出来な姉を教育してあげなくちゃ。おほほ、わたくしったら本当に優しい」
……なんてこと。絶望で目の前が真っ暗だ。まさか、相続権を放棄したせいでこんなひどい目に遭うなんて。
次期当主の座をイザベラに譲ったことが、今さらになって悔やまれた。
「嫌がらせはやめろよ、イザベラ姉さん! どこまでクララ姉さんを追い詰めれば気が済むんだ!」
「あら、わたくしはお姉様に」
弟と妹が言い合っているのを、私は呆然と聞いていた。そのとき、
「フシャァ――――!」
仔猫が毛を逆立てて、イザベラを威嚇した。……もしかしてこの子、私をかばってくれている?
深緑色の目を鋭く尖らせ、小さい爪の生えた前足をバタつかせて、私の腕から飛び出そうとしている――イザベラに襲いかかろうとしているのだ。一見すると愛らしい仔猫がパタパタもがいているように見るけれど、暴れ狂うその様子にはどこか異様な迫力がある。
「ひっ! な、なによその猫……なんだか気味が悪いわ!」
「だ、だめよ猫ちゃん! 落ち着いて」
「ふぎゃぁ!」
毛を逆立たせて怒気を噴き上げる仔猫を、私は必死で押しとどめていた。もしイザベラを引っ掻いたりしたら、きっとこの子は酷い目に遭わされる――絶対に止めなくちゃ!
仔猫の体はくにゃくにゃと柔らかく、とらえどころがない。ウィリアムが戸惑いながら私を手助けしようとしていたそのとき――新たな闖入者が現れた。
「……若!」
――え? 誰?
黒い騎士服に身を包んだ二十代半ばくらいの男性が、鉄柵の向こうから「若!」と声を張り上げている。
「探しましたよ、もう! どうしてそんなところにいるんですか! てゆーか、何してるんです!?」
黒衣の騎士は鉄柵から腕を差し伸ばし、仔猫に向かって声を張り上げていた。
この騎士、何者?
マグラス伯爵家の騎士ではない。見たこともない騎士服だけれど。
「ふしゃー!」
仔猫は攻撃対象をイザベラから騎士へと切り替えた。鉄柵の向こうの騎士を目がけて飛びかかり、勢いよく騎士の腕を引っ掻いている。
「痛っ! こら、若!」
「ふぎゃー」
……これはどういう状況なの?
私たち妹弟は呆けた顔をして、騎士と仔猫を見つめていた。
数か月ぶりに領地に戻ってきた弟は、私を見るなり物凄い剣幕で尋ねてきた。私は領主邸の外庭にある小さな花壇で、ハーブを収穫していたところだった。
「ええ。本当よ」
「なんだよそれ……!」
ウィリアムはヒステリックに自分の髪をかきむしった……せっかくの綺麗な顔立ちが台無しだ。ウィリアムは私より七つ年下の一五歳で、王都の王立アカデミーに在籍している。蜂蜜色の濃い金髪と空色の瞳が美しい、王子様みたいな美少年だ。
「正確には、『取られた』ではなく『譲った』のよ。イザベラが、どうしても女伯爵になりたいと言って聞かなかったから」
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「私には女伯爵なんて似合わないもの。イザベラがやる気になっているのなら、それでもいいと思うわ。あの子、社交的だから案外向いているかもしれない」
「これまで全然勉強してこなかったイザベラ姉さんに、次期伯爵なんて務まる訳がないじゃないか!」
「でも、私も次期伯爵の器ではなかったわ……社交のセンスは全然ないし。私が女伯爵になったとしても、婚約者だったデリック様が実権を握っていたはずよ」
そう呟きながら、私は地面にしゃがみこんでレモングラスを収穫していた――いい香り。サラダに添えたらおいしそう。
「……それに、イザベラとデリック様は、すでに深い恋仲だったんですって。それならむしろ、ちょうど良いかなと」
「何言ってるんだ! それって、浮気されてたってことだろ!?」
「そうね」
私は苦笑した。
相続辞退と同時に、私はデリック様との婚約解消を受け入れた。その直後にデリック様は、イザベラとの婚約を結び直したのだ。だからデリック様にとって、『次期当主の婚約者』という立場は変わらない。
あの二人が恋人関係だったと知って、「あらまぁ」とは思ったけれど。意外とショックはない。むしろその方が自然かな、と思ったくらいだ。
「デリック様は華やかな方だから、私では退屈だったと思うわ。実は私もデリック様が苦手だから、婚約を解消してもらえて助かっちゃった」
私はきらびやかな社交場よりも、花壇にいるほうが好き。こうやってのんびりと土いじりをしていると、心が落ち着く。
「お父様も本当は『イザベラに爵位を継がせたい』と考えていたそうよ。私では頼りないと思っていたみたい。だから全てがあるべき形に収まって、ちょうど良――」
「そんなバカなことがあるか!!」
ウィリアムの拳は、わなわなと震えている。
「なんだよ、それ。どうして誰もクララ姉さんの良さを分かってくれないんだ! 僕を育ててくれたのは、クララ姉さんなのに。……クララ姉さんばかりが、いつも損をする」
「ありがとう、ウィリアム。でも、そんなに怖い顔をしないの。――いい子だから」
そう言って頬を撫でると、ウィリアムは泣き出しそうな顔をした。
私は別に、強がりを言っている訳ではない。ただ本当に、爵位を継ぐのもデリック様の妻になるのも、『合わない生き方』だなぁと思っていたのだ。
もし許されるなら、草花を愛でてのんびり風に吹かれていたい。農地の一角を借りてハーブや花を育てたり、市場に出回る農作物を眺めたり。農家や商人と語らって、『今年の実りはどうだ』とか、『新しい麦の品種ができた』とか、そういう話をしながら暮らしたい。
それが伯爵家の娘にふさわしくない生き方だということは、とっくに分かっているけれど。
「……だけどクララ姉さんは、もう二十二歳だろ? 今から結婚相手を探すとなると」
「そうね、結婚は難しいかもしれない。この年齢で社交場に出ても、浮いてしまうし。婚約解消と相続辞退のウワサは、すぐに他家にも広まるでしょうし。色んな憶測を呼ぶだろうから」
女性の適齢期は十八歳から二十歳――私はとっくに過ぎている。だから、ご縁がないなら、無理に結婚しなくてもいい。
「何のんきなことを言って……」
「そのうち、領内のどこかの屋敷の管理でも任せてもらえたら嬉しいのだけれど。今度、お父様に頼んでみようかしら」
そうつぶやいて、私は伯爵邸を囲う柵の外へと目を馳せた。高さ五メートルを超える鉄柵の向こうは、見渡す限りの田園風景だ。
心安らぐ景色の中に、自分も溶けてしまいたい――。
と。そのとき。
柵の向こうから、一匹の黒猫が現れた。
短い足でトコトコと、柵の中へと入ってくる。
――なんてかわいい仔猫なのかしら。
仔猫に釘付けになっていた私の隣で、ウィリアムは怪訝そうな声を発した。
「なんだこいつ。野良猫か?」
どこかおぼつかない足取りで歩いていた仔猫は、きゅるりとした翡翠色の瞳で私を見上げた。
目と目が合った瞬間に、どきゅ、と心臓を射抜かれる音が聞こえた。
「……すてきな子」
「は!? 姉さん?」
私は、仔猫に手を差し伸べた。けれど仔猫は、その場でうずくまってしまった――具合が悪そうだ。
私はあわてて仔猫に駆け寄り、小さな体を抱き上げた。もふもふと柔らかく、儚いほど軽い……体重はたぶん、三キロもない。
「だいじょうぶ? お腹が減っているの?」
でも、空腹ではなさそうだ。私の胸に抱かれたまま、仔猫はくてんと脱力している。時折、吐き気を催したように舌を出して悶え苦しんでいて……。
「困ったわ。どうしたら良いのかしら」
ウィリアムが、嫌悪感も露わな態度で眉を寄せる。
「……その猫、病気みたいだ。感染されたら大変だから、さっさと捨てた方が良い」
「何を言っているの! こんなに苦しそうにしているのに!」
仔猫をやわらかく抱きながら、私はそっと背中を撫で続けた。
「かわいそうに。だいじょうぶよ、絶対に助けてあげるから――」
次の瞬間、仔猫は「けほっ」と咳き込んで、口から何かを吐き出した。紫色の光の塊みたいな『何か』は、仔猫の口から出た瞬間に弾けるように消えてしまった。
「……え? 今のは?」
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「クララ姉さん。こいつ、今へんなの吐き出したぞ」
「そうね。たぶん毛玉じゃないかしら」
「え。絶対に違うだろ」
警戒心も露わな態度で、ウィリアムは私に警告してきた。
「きっとこいつ、猫じゃなくて魔物だよ! 危ないから今すぐ警備隊に通報を――」
「それはダメ。こんなにかわいいんだから、絶対にただの仔猫ちゃんよ」
「根拠が無茶苦茶だよ、姉さん!」
私は、ウィリアムの言葉を聞き流すことに決めた。
仔猫は小さな舌を出し、さりさりと手を舐めてくる。愛おしさがこみあげてきて、私は仔猫を抱きしめた。そんな私の横で、なぜかウィリアムは悔しそうな顔で仔猫を睨んで歯ぎしりしている。
それにしてもこの仔猫ちゃん、本当にふしぎ。この子を抱いていると、どうしてこんなに甘い気分になれるのかしら……。
ずっとこうして、抱いていたい――幸福感に満たされていたそのとき。
「あーら。クララお姉様ったら、どうしたの? そんな汚い猫を抱いちゃって!」
という耳慣れた声が、私の背中に投じられた。
「泥まみれになるだけじゃあ飽き足らずに、汚ない猫まで飼うつもり? 本当、お姉様ったら貴族の自覚も誇りもないのねぇ。いっそ農婦にでもなっちゃえばいいのに!」
高笑いとともに姿を現したのは、私の妹――イザベラだった。
イザベラの登場に、ウィリアムはあからさまに不快そうな顔をしている。
「……口が悪いぞ、イザベラ姉さん。クララ姉さんは淑女の鑑だ。なのに泥まみれとか農婦になれとか……冗談でも許される台詞じゃあない!」
「うふふ。相変わらずウィルはクララお姉様に甘いわねぇ。こんな恥さらしをかばってあげるなんて、本当に優しい弟だこと」
おほほほ。と優雅に扇で口元を隠して笑いながら、イザベラはこちらに近づいてきた。とはいえ、花壇の土で汚れたら嫌だと思ったらしく、二メートルほど離れた場所で立ち止まる。
「あぁ、嫌だ嫌だ。泥臭くってグズでブスで、目に入れるのも嫌になるわ!」
それなら、わざわざ話しに来なければいいのに。……とも思いつつ、私は仔猫を抱いたままイザベラを見つめていた。
イザベラは一八歳。赤バラのような深紅のルージュがよく似合う、目鼻立ちのくっきりした美人だ。濃い蜂蜜色の金髪も、サファイアブルーの瞳も弟のウィリアムによく似ている。
三姉弟の中では、私だけ髪の色調が違う。私も金髪だけれど、ミルクティのような淡い色なのだ。目の色は琥珀色だし、妹弟のようなきらびやかな容貌ではない。私だけ母親が違うから、外見が多少似ていないのも当然と言える。
「おい、クララ姉さんのどこがブスなんだ!? どう見ても美女じゃないか。僕は王都で暮らしているけど、クララ姉さん以上の美女に出会ったことなんてないぞ!」
ウィリアム、それはさすがに盛りすぎよ……。心の中で、私は静かにツッコミを入れた。
「ふしゃー!」
唐突に、胸元で獰猛そうな声がした。私に抱かれていた仔猫ちゃんが、イザベラのほうを見て牙を剥いたのだ。……どうしたのかしら。
「きゃ、怖ぁい。なんて野蛮なのかしら。さっさと捨てなさいよ、そんなバカ猫!」
……む。
仔猫ちゃんをバカ呼ばわりされて、流石にカチンときた。
「ところでイザベラ。なにかご用があったんでしょう?」
「ええ、そうよ。単刀直入に言うけど、この汚い花壇を潰すことにしたから。さっさと退いてちょうだいね」
――え?
「前々から潰したいと思ってたのよね。だって不要でしょ、こんな花壇。当家には熟練庭師のジミーがいるし、庭園と薬草の管理はすべて庭師がやってるんだから! お姉様のムダな趣味のために、わざわざ伯爵邸の土地を提供する必要、ある?」
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「ま、待ってイザベラ! お願いだから、この花壇だけは奪わないで!」
「あらあら、すごい慌てぶりね」
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……なんてこと。絶望で目の前が真っ暗だ。まさか、相続権を放棄したせいでこんなひどい目に遭うなんて。
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「嫌がらせはやめろよ、イザベラ姉さん! どこまでクララ姉さんを追い詰めれば気が済むんだ!」
「あら、わたくしはお姉様に」
弟と妹が言い合っているのを、私は呆然と聞いていた。そのとき、
「フシャァ――――!」
仔猫が毛を逆立てて、イザベラを威嚇した。……もしかしてこの子、私をかばってくれている?
深緑色の目を鋭く尖らせ、小さい爪の生えた前足をバタつかせて、私の腕から飛び出そうとしている――イザベラに襲いかかろうとしているのだ。一見すると愛らしい仔猫がパタパタもがいているように見るけれど、暴れ狂うその様子にはどこか異様な迫力がある。
「ひっ! な、なによその猫……なんだか気味が悪いわ!」
「だ、だめよ猫ちゃん! 落ち着いて」
「ふぎゃぁ!」
毛を逆立たせて怒気を噴き上げる仔猫を、私は必死で押しとどめていた。もしイザベラを引っ掻いたりしたら、きっとこの子は酷い目に遭わされる――絶対に止めなくちゃ!
仔猫の体はくにゃくにゃと柔らかく、とらえどころがない。ウィリアムが戸惑いながら私を手助けしようとしていたそのとき――新たな闖入者が現れた。
「……若!」
――え? 誰?
黒い騎士服に身を包んだ二十代半ばくらいの男性が、鉄柵の向こうから「若!」と声を張り上げている。
「探しましたよ、もう! どうしてそんなところにいるんですか! てゆーか、何してるんです!?」
黒衣の騎士は鉄柵から腕を差し伸ばし、仔猫に向かって声を張り上げていた。
この騎士、何者?
マグラス伯爵家の騎士ではない。見たこともない騎士服だけれど。
「ふしゃー!」
仔猫は攻撃対象をイザベラから騎士へと切り替えた。鉄柵の向こうの騎士を目がけて飛びかかり、勢いよく騎士の腕を引っ掻いている。
「痛っ! こら、若!」
「ふぎゃー」
……これはどういう状況なの?
私たち妹弟は呆けた顔をして、騎士と仔猫を見つめていた。
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