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10 二つの願い
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セシルは引き込まれるように泉に沈んでいった。
奇妙だった。メティスと水際で遊んだことがあるが、この泉は一番深いところでもセシルの膝までしかない。体すべてが沈んでも足がつかないなど、あるはずがなかった。
けれどセシルをみつめる青年の蒼い瞳に、囚われてしまったようだった。自分でも息苦しいのかさえわからないまま、青い水の中に引きずり込まれていく。
水底で、青年は王座に坐すように岩の上に掛けて、悠然とセシルを見ていた。
ふいに泉の底から水草が伸びてきて、セシルの手足に巻き付いた。触れた途端、氷のようなその冷たさに震えた。
氷の水草は生き物のようにセシルの体をつたい、襟元や袖元からセシルのドレスの下に忍び込む。冷たい舌のようにざらついていて、触れたところからセシルの肌が粟立つ。
一本の細い水草がセシルの下腹部に触れたとき、セシルは壊れるような悲鳴を上げていた。
「嫌ぁ!」
セシルの意識は黒く塗りつぶされて、心に恐怖が迫る。
「助けて! 兄上、兄上! 嫌ぁ!」
「セシル!」
混乱のままに身をよじったセシルの肩を、誰かの手が押さえる。
「落ち着け、大丈夫だ。ゆっくり息を吸って……私をごらん」
涙を拭われて、セシルは少し視界が晴れた。次第に灯りにも目が慣れて、そこが見慣れた自分の寝室だと気づく。
ベッドに座って、セルヴィウスがセシルをのぞきこんでいた。
セルヴィウスはセシルと目が合うと、そっとセシルの頬をなでた。
「すまなかった。慣れない場で緊張させてしまったな」
セルヴィウスは眉を寄せて言う。
「無理をせずともよい。そなたがひととき楽しめれば、それで」
なじみ深い手のぬくもりに、セシルはいたたまれなくなった。弱々しくセルヴィウスの手を避けると、背を向けて体を丸める。
「ごめんなさい……」
そのまま言葉を途切れさせて泣き始めたセシルに、セルヴィウスは問いかけた。
「私は何があってもそなたを責めたりせぬ。話してくれぬか?」
女官からの報告では、セシルは泉の側で意識を失う前、メティスやルイジアナと楽しく話していたという。
誰かがセシルを傷付けるようなことを言ったのだろうか。一言自分に告げればすぐにその者を遠ざけてやれるのだが、セシルの口から誰かを責める言葉は聞いたことがない。
セシルはまるで汚れを嫌うように、しきりに夜着の上から自分の体に爪を立てる。セルヴィウスはそれに気づいて、その手をつかもうとした。
びくりとセシルの体が震えた。怯えてセルヴィウスの手を振り払う。
セルヴィウスの脳裏に、あってはならない想像が浮かんだ。
「……まさか、誰かそなたに触れたのか?」
セルヴィウスは自分の声に満ちた憎悪に嫌悪を覚えた。
セシルの降嫁を考えていながら、セルヴィウスの心はまるでそれを認めようとしていない。
初めて触れた日から、セシルは自分を拒んでいるではないか。今だってセシルは背を向けているのに、なぜその肩を無理やり引き戻そうとするのか。
セルヴィウスの中にあるわずかな良心がそれ以上の行為を止めていた、そんなとき。
「兄上、手をつないで」
セシルは不安そうにぽつりと言った。
「触らないで……触れていて。おしつぶさないで、でも」
いかないで。セシルの言葉を聞いて、セルヴィウスは確かに喜んだ。
セシルが恐れるものが何かはわからなくとも、自分はまだセシルが助けを求める存在なのだとうぬぼれていたかった。
セルヴィウスはセシルの隣に体を横たえると、セシルの手を自らの手で包み込む。
「どこにもいかぬ」
だから行かないでくれと、セルヴィウスはセシルと同じ言葉を異なる思いで願いながら、虚空をみつめた。
奇妙だった。メティスと水際で遊んだことがあるが、この泉は一番深いところでもセシルの膝までしかない。体すべてが沈んでも足がつかないなど、あるはずがなかった。
けれどセシルをみつめる青年の蒼い瞳に、囚われてしまったようだった。自分でも息苦しいのかさえわからないまま、青い水の中に引きずり込まれていく。
水底で、青年は王座に坐すように岩の上に掛けて、悠然とセシルを見ていた。
ふいに泉の底から水草が伸びてきて、セシルの手足に巻き付いた。触れた途端、氷のようなその冷たさに震えた。
氷の水草は生き物のようにセシルの体をつたい、襟元や袖元からセシルのドレスの下に忍び込む。冷たい舌のようにざらついていて、触れたところからセシルの肌が粟立つ。
一本の細い水草がセシルの下腹部に触れたとき、セシルは壊れるような悲鳴を上げていた。
「嫌ぁ!」
セシルの意識は黒く塗りつぶされて、心に恐怖が迫る。
「助けて! 兄上、兄上! 嫌ぁ!」
「セシル!」
混乱のままに身をよじったセシルの肩を、誰かの手が押さえる。
「落ち着け、大丈夫だ。ゆっくり息を吸って……私をごらん」
涙を拭われて、セシルは少し視界が晴れた。次第に灯りにも目が慣れて、そこが見慣れた自分の寝室だと気づく。
ベッドに座って、セルヴィウスがセシルをのぞきこんでいた。
セルヴィウスはセシルと目が合うと、そっとセシルの頬をなでた。
「すまなかった。慣れない場で緊張させてしまったな」
セルヴィウスは眉を寄せて言う。
「無理をせずともよい。そなたがひととき楽しめれば、それで」
なじみ深い手のぬくもりに、セシルはいたたまれなくなった。弱々しくセルヴィウスの手を避けると、背を向けて体を丸める。
「ごめんなさい……」
そのまま言葉を途切れさせて泣き始めたセシルに、セルヴィウスは問いかけた。
「私は何があってもそなたを責めたりせぬ。話してくれぬか?」
女官からの報告では、セシルは泉の側で意識を失う前、メティスやルイジアナと楽しく話していたという。
誰かがセシルを傷付けるようなことを言ったのだろうか。一言自分に告げればすぐにその者を遠ざけてやれるのだが、セシルの口から誰かを責める言葉は聞いたことがない。
セシルはまるで汚れを嫌うように、しきりに夜着の上から自分の体に爪を立てる。セルヴィウスはそれに気づいて、その手をつかもうとした。
びくりとセシルの体が震えた。怯えてセルヴィウスの手を振り払う。
セルヴィウスの脳裏に、あってはならない想像が浮かんだ。
「……まさか、誰かそなたに触れたのか?」
セルヴィウスは自分の声に満ちた憎悪に嫌悪を覚えた。
セシルの降嫁を考えていながら、セルヴィウスの心はまるでそれを認めようとしていない。
初めて触れた日から、セシルは自分を拒んでいるではないか。今だってセシルは背を向けているのに、なぜその肩を無理やり引き戻そうとするのか。
セルヴィウスの中にあるわずかな良心がそれ以上の行為を止めていた、そんなとき。
「兄上、手をつないで」
セシルは不安そうにぽつりと言った。
「触らないで……触れていて。おしつぶさないで、でも」
いかないで。セシルの言葉を聞いて、セルヴィウスは確かに喜んだ。
セシルが恐れるものが何かはわからなくとも、自分はまだセシルが助けを求める存在なのだとうぬぼれていたかった。
セルヴィウスはセシルの隣に体を横たえると、セシルの手を自らの手で包み込む。
「どこにもいかぬ」
だから行かないでくれと、セルヴィウスはセシルと同じ言葉を異なる思いで願いながら、虚空をみつめた。
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