月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木

文字の大きさ
上 下
8 / 14

8 湯殿

しおりを挟む
 陽光の差し込む昼下がり、セシルは花びらを浮かべた湯殿にいた。
「あたたかいか?」
 陶器で出来た湯船に頬杖をついて、セルヴィウスが傍らからのぞき込んでいる。
 蒸らした布で頬をぬぐってやると、セシルは気持ちよさそうに目を細める。小さな吐息が湯を揺らして、波紋を作った。
 セルヴィウスは上気したセシルの頬をなでる。ひととき何かを思案するように、湯殿の波紋を眺めていた。
 ふいにセルヴィウスは目を上げて、セシルの呼吸を掠めるように口づける。
 湯をすくって肩にかけていた手がセシルの肌を滑ろうとして、握りしめられた。
「……「兄上がほしい」と、一言。ねだってくれぬか」
 耐えるように低い声でセルヴィウスは告げる。
「決して痛くなどせぬ。誰よりも優しく抱こう。セシル」
 そう言いながら、セルヴィウスは残酷な楽しみを持っていた頃がある。セシルの体内に押し入る想像をし、それらに近いものを求めて年若い処女の愛妾を抱くことがあった。
 けれど少年の時が過ぎ、その想像は楽しみではなく飢えになった。血が臭気に感じられて、悲鳴は雑音のようにわずらわしかった。たまらなくセシルが恋しくなっただけだった。
「私も懲りぬな」
 セルヴィウスはセシルの首筋に唇を寄せて苦笑すると、からんでいたセシルの横髪を耳にかけてやる。
「セシルの体をよく拭いて、着替えを」
 控えていた女官にセシルを託して、セルヴィウスは立ち上がる。
「私は宴に戻る。セシルはこのまま休ませてやるよう」
「かしこまりました。あの、陛下」
 何かというようにセルヴィウスが目を向けると、女官は「御髪が」とためらいがちに伝える。
 セルヴィウスの黒髪はセシルの肌にからんだために、つやめかしく濡れていた。セルヴィウスは笑って答えず、髪を直すことなく湯殿を後にする。
 セシルの部屋を出て、薔薇の花咲く小道を歩む。途中で、片膝をついて頭を下げていた娘に会う。
「立ってよい。隣を歩くことを許す」
 人払いがされていた。セルヴィウスが声をかけると、彼女はうやうやしく一礼して立ち上がる。
「そなたにした仕打ちを詫びよう。よく戻った」
 それは正妃のメティスだった。彼女が後宮を去る日にセシルの病状が急変したために、セルヴィウスはそれを里下がりという形にすり替えていた。
 メティスは首を横に振る。
「陛下のお声がかりがあるのなら、どんな場所からでも戻って参ります」
 むせ返る薔薇の香りの中、セルヴィウスとメティスは並んで歩く。
 次第に迷路のような道に入り込みながら、セルヴィウスはメティスを振り向いた。
「聞かせてくれぬか。そなたの従兄、アレン公子のことだ」
 メティスは幼い頃から皇帝の側に仕え、また元より沈着冷静な性格であったから、並みのことでは驚かない自信があった。
「彼の公子は、セシルを守り抜くことのできる男であろうか」
 その言葉にメティスは息を呑み、信じられないものを見るように皇帝を仰いだ。
「アレンに、月の姫宮を降嫁されようとお考えなのですか」
「セシルが気に入るのであればな」
「セヴィー様!」
 メティスは思わず乳母の子であった頃のようにセルヴィウスを呼び、その腕をつかんだ。
「御心の平穏をお守りくださいませ。姫宮を誰より愛していらっしゃるのは陛下でございます。姫宮をお側から離すなど」
 その後のことなど、メティスは恐ろしくて口にできなかった。
 セルヴィウスとメティスは血のつながりこそないが、記憶もあいまいな幼い頃から共に時を過ごしてきた。
 二人とももう気付いている。自分たちがお互いに抱くのは、夫婦というより限りなく姉弟の情に近い。
「……ですが私が何を言っても、もう決めてしまわれているのでしょう」
 メティスがうつむいて告げると、セルヴィウスはうなずく。
「すまぬな。そなたが正しいとわかっていても、私はそなたの忠告をいつも聞かない」
 自分以外の女性が心に焼き付いている夫は、良き夫とはとても言えない。
 けれどメティスは彼に抱かれ皇太子を産んだ今でも、彼に痛むほどの庇護欲をかきたてられる。
「私は兄なのだ」
 セルヴィウスはゆっくりとメティスの手を外し、哀しい笑みを口元に刻む。
「セシルにもう一度返してやりたいのだ。私が奪ってしまった、愛する兄を」
 自らの濡れた髪をつかんで、惜しむように握ると、セルヴィウスはそれを風の中に離した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

美しい公爵様の、凄まじい独占欲と溺れるほどの愛

らがまふぃん
恋愛
 こちらは以前投稿いたしました、 美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛 の続編となっております。前作よりマイルドな作品に仕上がっておりますが、内面のダークさが前作よりはあるのではなかろうかと。こちらのみでも楽しめるとは思いますが、わかりづらいかもしれません。よろしかったら前作をお読みいただいた方が、より楽しんでいただけるかと思いますので、お時間の都合のつく方は、是非。時々予告なく残酷な表現が入りますので、苦手な方はお控えください。 *早速のお気に入り登録、しおり、エールをありがとうございます。とても励みになります。前作もお読みくださっている方々にも、多大なる感謝を! ※R5.7/23本編完結いたしました。たくさんの方々に支えられ、ここまで続けることが出来ました。本当にありがとうございます。ばんがいへんを数話投稿いたしますので、引き続きお付き合いくださるとありがたいです。この作品の前作が、お気に入り登録をしてくださった方が、ありがたいことに200を超えておりました。感謝を込めて、前作の方に一話、近日中にお届けいたします。よろしかったらお付き合いください。 ※R5.8/6ばんがいへん終了いたしました。長い間お付き合いくださり、また、たくさんのお気に入り登録、しおり、エールを、本当にありがとうございました。 ※R5.9/3お気に入り登録200になっていました。本当にありがとうございます(泣)。嬉しかったので、一話書いてみました。 ※R5.10/30らがまふぃん活動一周年記念として、一話お届けいたします。 ※R6.1/27美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛(前作) と、こちらの作品の間のお話し 美しく冷酷な公爵令息様の、狂おしい熱情に彩られた愛 始めました。お時間の都合のつく方は、是非ご一読くださると嬉しいです。※R6.5/18お気に入り登録300超に感謝!一話書いてみましたので是非是非! *らがまふぃん活動二周年記念として、R6.11/4に一話お届けいたします。少しでも楽しんでいただけますように。 ※R7.2/22お気に入り登録500を超えておりましたことに感謝を込めて、一話お届けいたします。本当にありがとうございます。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。 一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。 しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。 皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【電子書籍発売に伴い作品引き上げ】私が妻でなくてもいいのでは?

キムラましゅろう
恋愛
夫には妻が二人いると言われている。 戸籍上の妻と仕事上の妻。 私は彼の姓を名乗り共に暮らす戸籍上の妻だけど、夫の側には常に仕事上の妻と呼ばれる女性副官がいた。 見合い結婚の私とは違い、副官である彼女は付き合いも長く多忙な夫と多くの時間を共有している。その胸に特別な恋情を抱いて。 一方私は新婚であるにも関わらず多忙な夫を支えながら節々で感じる女性副官のマウントと戦っていた。 だけどある時ふと思ってしまったのだ。 妻と揶揄される有能な女性が側にいるのなら、私が妻でなくてもいいのではないかと。 完全ご都合主義、ノーリアリティなお話です。 誤字脱字が罠のように点在します(断言)が、決して嫌がらせではございません(泣) モヤモヤ案件ものですが、作者は元サヤ(大きな概念で)ハピエン作家です。 アンチ元サヤの方はそっ閉じをオススメいたします。 あとは自己責任でどうぞ♡ 小説家になろうさんにも時差投稿します。

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

処理中です...