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8 銀の渦
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ロゼはジュストが彼女の罪に罰を与えるのなら、甘んじて受けようと思っていた。
けれど彼は優しい看守だった。ロゼに手錠を嵌めて寝台につないだが、寒気に震えるロゼの体を毎日湯で絞った布で清めて、心地よい肌触りの夜着で包んでくれた。狂乱の夜の悪夢にうなされて目覚めるロゼを、大丈夫だとささやいて眠るまで頭を撫でていた。
あまり食事を取りたがらないロゼにどうにか食べさせようと、ジュストはこの町では手に入らないはずの高価な果物を取り寄せてくれた。手ずから果物をむいて暖かい飲み物とともに勧めるジュストに、ロゼは封じ込めていた日々を思い出す。
五年前、ロゼが孕んだことがわかった後、兄たちもしきりにロゼに食事を勧めた。けれど兄たちはロゼが嫌がる肉や魚を、ロゼをだましてでも食べさせようとした。血の通う食べ物は生まれてくる子の獣性を強めるものと言われていたからだった。
あのときもロゼは、暴力の末の子であっても、腹の中で育っていた存在を愛していた。
でも同じくらいその存在に怯えていた。優しかった兄たちは、もはやロゼの痛みも苦しみも思いやろうとはしてくれない。ロゼの体が悲鳴を上げて熱を出しても、熱が下がった翌日には狂ったように揺さぶられ、精を吐き出される。その獣性が形となるのだと思ったとき、獣そのものの赤子を産み落とす夢を毎晩のように見ることになった。
今は少しも暴力に怯えていない。ただ恐れているのは、ジュストに知られることだった。
「欲しいものはない?」
ジュストはロゼに宿った命を知らない。だからなのか、彼はロゼを真綿で包むように大切に扱ってくれる。
娼婦が子を宿したと彼に軽蔑されるのが怖くて、ロゼは変調の理由を伝えることができずにいた。
ロゼが首を横に振ると、ジュストは悲しそうに息をついた。ロゼが心に鍵をかけて遠ざかろうとするのを留めるように、彼はロゼをつないだ鎖を握りしめる。
ふいにロゼは顔を上げて窓の外を見る。南向きの部屋は静牢よりずっと暖かく過ごしやすかったが、大通りに面しているからよく人のにぎわいが聞こえてくる。今日はそれに、歓声のようなものも混じっていた。
「春待ちの祭りだね」
ジュストに教えられて、ロゼは夢見るように外を仰いだ。ロゼの故郷にも春待ちの祭りがあった。ほとんど隠されて育ったロゼは直接見たことはないが、紙の花を折って家を飾り、砂糖菓子を家族と食べた思い出がある。まだ両親が生きていた頃のことだ。
ロゼは祭りを見たいと口にしたわけではなかった。けれど戻らないときを振り向いたロゼのまなざしは、どこか危うかった。ジュストは眉を寄せて告げる。
「冷えては体に障る……が、少しなら」
連れ出したくないという思いをにじませながら、ジュストは立ち上がった。
ジュストはロゼの手錠を寝台から外して彼女を腕に抱くと、階下から宿屋の中庭に出た。
女性体が数少なくなったために、有翼人種の伴侶の多くは精霊界からさらわれてきた女精だ。彼女らは風や水と遊ばなければ弱ってしまう。けれど一方で有翼人種たちは伴侶を人目にさらすのを嫌がるために、高級な宿にはこういった外とは隔絶された箱庭が用意されているのだった。
中庭には、雪化粧をされた木立に囲まれて、小さな泉に臨む東屋が一つあった。四方は壁に囲まれているが、うずたかく積まれた石壁の向こうから、花吹雪のような紙片が入り込んでくる。春を待つ人々の願いが風に乗って舞い降りて、ひらりとロゼの髪をかすめる。
ロゼは蝶を追うように髪に触れていった紙片に手を伸ばしたが、紙片は気まぐれにロゼの指先をすりぬける。
ロゼが残念そうな顔をしたのを見て取って、ジュストはロゼを東屋の椅子にそっと下ろすと、懐から羊皮紙を取り出して折り始める。彼は春に眠りから目覚める花を作ると、ロゼの髪に挿した。
これではだめかな。泣いていたロゼの頭にそっと花冠を乗せてくれたいつかの少年は、困り顔で優しく訊ねた。
ロゼの胸を懐かしさが衝いて、思わず頬がほころぶ。笑顔というにはあまりに哀しそうだったが、ジュストははっと息を呑んでロゼをのぞきこんだ。
「いただけません」
ロゼは首を横に振って紙の花を外すと、ジュストの手に握らせる。ロゼはねずみのように娼館で欲望の残滓を糧にして生きてきた。あの頃とはもう何もかも違う。
顔を背けようとしたロゼの肩に手を置いて、ジュストは奪うように口づける。受け入れるのを拒むロゼに、ジュストは少しだけ顔を離して告げる。
「私の母は有翼人種の女性だ。彼女らが孕んだときに起こる変化は知っている」
ロゼはびくりと震える。ロゼの心に、青ざめた絶望の波が忍び寄る。ジュストはロゼの目を射抜くようにしてみつめながら問う。
「……そうなのか?」
瞬間、ロゼは力を振り絞ってジュストを突き放し、距離を取っていた。
ジュストに知られたなら、彼の今までの優しさは消えてしまう。その恐れは心の中でねじれて、狂乱の日々と混ざる。
優しかった人たちが別の生き物に変わった日。何度も体が引き裂かれるように貫かれ、愛しているのに誰より恐れている矛盾を体内で育てた日々。
「違う……違う」
ロゼは冷たい汗を流しながら、よろめくように後ずさる。ロゼの異変に気づいて、ジュストは声を和らげて言う。
「すまない。その話はまだ早かったな。……おいで、大丈夫だ」
けれどジュストが差し伸べた手を、ロゼは怯えるように見た。
ついに後ずさったロゼの足は泉に浸かり、水に足を取られそうになる。
ジュストがロゼを水から助け起こそうと性急に踏み込んだのは、ロゼの心を恐慌状態に落としてしまった。ロゼは声にならない悲鳴を上げて、水の中でうずくまる。
ロゼの悲鳴に応えるようにして、泉に銀の渦が巻き起こってロゼを包み込む。何度も人にあらざるものたちを癒した泉は、その優しさでもってロゼを人の生きる世界とは別の領域に誘う。
銀の籠の形をした精霊の手がロゼを包み込む。
「ロゼ!」
ジュストが伸ばした手の先で、ロゼは目を閉じて銀の渦の中に沈んでいった。
けれど彼は優しい看守だった。ロゼに手錠を嵌めて寝台につないだが、寒気に震えるロゼの体を毎日湯で絞った布で清めて、心地よい肌触りの夜着で包んでくれた。狂乱の夜の悪夢にうなされて目覚めるロゼを、大丈夫だとささやいて眠るまで頭を撫でていた。
あまり食事を取りたがらないロゼにどうにか食べさせようと、ジュストはこの町では手に入らないはずの高価な果物を取り寄せてくれた。手ずから果物をむいて暖かい飲み物とともに勧めるジュストに、ロゼは封じ込めていた日々を思い出す。
五年前、ロゼが孕んだことがわかった後、兄たちもしきりにロゼに食事を勧めた。けれど兄たちはロゼが嫌がる肉や魚を、ロゼをだましてでも食べさせようとした。血の通う食べ物は生まれてくる子の獣性を強めるものと言われていたからだった。
あのときもロゼは、暴力の末の子であっても、腹の中で育っていた存在を愛していた。
でも同じくらいその存在に怯えていた。優しかった兄たちは、もはやロゼの痛みも苦しみも思いやろうとはしてくれない。ロゼの体が悲鳴を上げて熱を出しても、熱が下がった翌日には狂ったように揺さぶられ、精を吐き出される。その獣性が形となるのだと思ったとき、獣そのものの赤子を産み落とす夢を毎晩のように見ることになった。
今は少しも暴力に怯えていない。ただ恐れているのは、ジュストに知られることだった。
「欲しいものはない?」
ジュストはロゼに宿った命を知らない。だからなのか、彼はロゼを真綿で包むように大切に扱ってくれる。
娼婦が子を宿したと彼に軽蔑されるのが怖くて、ロゼは変調の理由を伝えることができずにいた。
ロゼが首を横に振ると、ジュストは悲しそうに息をついた。ロゼが心に鍵をかけて遠ざかろうとするのを留めるように、彼はロゼをつないだ鎖を握りしめる。
ふいにロゼは顔を上げて窓の外を見る。南向きの部屋は静牢よりずっと暖かく過ごしやすかったが、大通りに面しているからよく人のにぎわいが聞こえてくる。今日はそれに、歓声のようなものも混じっていた。
「春待ちの祭りだね」
ジュストに教えられて、ロゼは夢見るように外を仰いだ。ロゼの故郷にも春待ちの祭りがあった。ほとんど隠されて育ったロゼは直接見たことはないが、紙の花を折って家を飾り、砂糖菓子を家族と食べた思い出がある。まだ両親が生きていた頃のことだ。
ロゼは祭りを見たいと口にしたわけではなかった。けれど戻らないときを振り向いたロゼのまなざしは、どこか危うかった。ジュストは眉を寄せて告げる。
「冷えては体に障る……が、少しなら」
連れ出したくないという思いをにじませながら、ジュストは立ち上がった。
ジュストはロゼの手錠を寝台から外して彼女を腕に抱くと、階下から宿屋の中庭に出た。
女性体が数少なくなったために、有翼人種の伴侶の多くは精霊界からさらわれてきた女精だ。彼女らは風や水と遊ばなければ弱ってしまう。けれど一方で有翼人種たちは伴侶を人目にさらすのを嫌がるために、高級な宿にはこういった外とは隔絶された箱庭が用意されているのだった。
中庭には、雪化粧をされた木立に囲まれて、小さな泉に臨む東屋が一つあった。四方は壁に囲まれているが、うずたかく積まれた石壁の向こうから、花吹雪のような紙片が入り込んでくる。春を待つ人々の願いが風に乗って舞い降りて、ひらりとロゼの髪をかすめる。
ロゼは蝶を追うように髪に触れていった紙片に手を伸ばしたが、紙片は気まぐれにロゼの指先をすりぬける。
ロゼが残念そうな顔をしたのを見て取って、ジュストはロゼを東屋の椅子にそっと下ろすと、懐から羊皮紙を取り出して折り始める。彼は春に眠りから目覚める花を作ると、ロゼの髪に挿した。
これではだめかな。泣いていたロゼの頭にそっと花冠を乗せてくれたいつかの少年は、困り顔で優しく訊ねた。
ロゼの胸を懐かしさが衝いて、思わず頬がほころぶ。笑顔というにはあまりに哀しそうだったが、ジュストははっと息を呑んでロゼをのぞきこんだ。
「いただけません」
ロゼは首を横に振って紙の花を外すと、ジュストの手に握らせる。ロゼはねずみのように娼館で欲望の残滓を糧にして生きてきた。あの頃とはもう何もかも違う。
顔を背けようとしたロゼの肩に手を置いて、ジュストは奪うように口づける。受け入れるのを拒むロゼに、ジュストは少しだけ顔を離して告げる。
「私の母は有翼人種の女性だ。彼女らが孕んだときに起こる変化は知っている」
ロゼはびくりと震える。ロゼの心に、青ざめた絶望の波が忍び寄る。ジュストはロゼの目を射抜くようにしてみつめながら問う。
「……そうなのか?」
瞬間、ロゼは力を振り絞ってジュストを突き放し、距離を取っていた。
ジュストに知られたなら、彼の今までの優しさは消えてしまう。その恐れは心の中でねじれて、狂乱の日々と混ざる。
優しかった人たちが別の生き物に変わった日。何度も体が引き裂かれるように貫かれ、愛しているのに誰より恐れている矛盾を体内で育てた日々。
「違う……違う」
ロゼは冷たい汗を流しながら、よろめくように後ずさる。ロゼの異変に気づいて、ジュストは声を和らげて言う。
「すまない。その話はまだ早かったな。……おいで、大丈夫だ」
けれどジュストが差し伸べた手を、ロゼは怯えるように見た。
ついに後ずさったロゼの足は泉に浸かり、水に足を取られそうになる。
ジュストがロゼを水から助け起こそうと性急に踏み込んだのは、ロゼの心を恐慌状態に落としてしまった。ロゼは声にならない悲鳴を上げて、水の中でうずくまる。
ロゼの悲鳴に応えるようにして、泉に銀の渦が巻き起こってロゼを包み込む。何度も人にあらざるものたちを癒した泉は、その優しさでもってロゼを人の生きる世界とは別の領域に誘う。
銀の籠の形をした精霊の手がロゼを包み込む。
「ロゼ!」
ジュストが伸ばした手の先で、ロゼは目を閉じて銀の渦の中に沈んでいった。
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