上 下
5 / 35

4 やけに用意がいいようですが

しおりを挟む
 淡い光に照らし出されて、吹き抜けの空間が広がっていた。
 白い大理石と黒曜石がダイヤ模様を描く床に、ぶどう色のじゅうたんが敷かれている。壁際にはランタンの形をした小さな明かりがかけられて、中央の水晶のシャンデリアを取り囲む花びらのようだった。
 ぽけっとみとれた撫子は、かなり間抜けな顔をしていたに違いない。
「ごめんなさい」
 借金取りから両親と共に逃げ回りながら泊まったホテルとは違う品格に、思わず謝ってしまった撫子だった。
「どうしました、撫子」
「どうぞお構いなく」
 どさくさにまぎれて引き返そうとした撫子の手を、オーナーがしっかりとつかみ直す。
「施設の案内はおいおいに。今日は疲れたでしょう? 部屋でゆっくり休みなさい」
「いえ、帰してください」
「あれは終電ですよ。あきらめなさい」
 撫子はそろそろ抵抗することができなくなっていた。
 見知らぬ人にホテルに連れ込まれるのは危ないと思うのだが、オーナーの言う通り、車両を端から端まで全力疾走したり窓枠にぶらさがったりして体が限界だ。正直、逃げようにも足が棒のようで一歩も走れない。
「おかえりなさいませ、オーナー」
 猫耳の少年二人が、声変わり前の少し高い声でオーナーを迎える。
「留守中、変わりはありませんでしたか」
「はい」
 オーナーはその答えにうなずく。
「では、チャーリー。彼女のベルボーイをあなたに一任します」
 背の高い方の少年の耳がぴくりと動いた。
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
 二人は揃って胸に手を当てて、綺麗な礼をしてみせた。
 撫子が立ち上がると、オーナーは軽く撫子を引く。
「わかりました。いいです。もう逃げる体力ありません……」
「それは結構」
「ちょ!」
 オーナーはほほえんであっさり撫子を抱き上げると、そのままロビーを横切った。
 壁の前でオーナーが立ち止まってスイッチを押すと、目の前の石造りの壁が横に開いた。
「へ?」
「何を驚いているんです」
「だ、だってこれ。今勝手に動きましたよ」
 チンっていう、レンジみたいな音もした。これはたぶんとあれだと、撫子はまじまじとみつめる。
「エレベーターですよ。よくあるでしょう?」
「あの世にもあるんですね」
 撫子は新鮮な驚きを感じながら問いかける。
「電気通ってるんですか?」
「さて、さきほど私たちが乗って来たのは何でしょう」 
 言われてみればそうだ。撫子は電車に乗って来たのだった。
「正確にはあなたの知っているようなエネルギーで動いてはいませんが、それもまたおいおいに」
「あ、はい。それで結構です。ですから下りて歩きます」
 撫子はうなずいて、多少気に入らなさそうなオーナーの腕から降りて自分でエレベーターに乗り込む。
 静かに上昇していくのを点灯した番号で確認しながら見ていると、五階まであっという間に辿り着く。
「ええっ?」
 今度は真横に引っ張られて、撫子は足踏みをした。
「横にも進むとは」
「よくあるでしょう?」
「そうでしたっけ?」
 ちょっと常識がわからなくなったところでまた上昇し始めて、やがて止まる。
 エレベーターから降りて、オーナーが先に立って歩き始める。まもなくオーナーは一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここがあなたの部屋です」
 彼はスーツの上ポケットからプレートを取り出して扉につりさげる。
「元動物のお客様なら匂いでわかるようになっているのですが、あなたでは感じ取れないでしょう。この花のプレートを目印になさい」
 花びらの先がぎざぎざになっている、ちょっと珍しい形の小さな花。撫子は両親が話していたのを思い出して声を上げた。
「なでしこの花ですね」
 撫子の声と同時にオーナーは扉を開いた。
 花の上に白猫が寝そべった形のシャンデリアに照らされて、撫子はその部屋に立ち入った。
 廊下を抜けるとリビングと和室があって、キッチンまでついている。一つ一つが撫子の今まで住んだことのあるアパートとはことごとく広さも高級感も違う。
「ひええ」
「どこか変な所でもありましたか」
「いや、だってまるでここ高級マンション」
「当ホテルは自他ともに認める一流ホテルです」
 オーナーはしれっとした顔で撫子を見下ろしながら言う。
「お客様に最高の休暇を。それが当ホテルの信条ですから」
 休暇と撫子が繰り返すと、オーナーはうなずく。
「ここは死の終着駅に着く前に、疲れた魂を休ませる保養地なのです。それも、人の姿を取って休暇を過ごされるお客様のためのホテルです」
「魂の保養地ですか」
 何ともあの世には粋な場所があるものだ。撫子は感心して息をついた。
 オーナーは撫子の手に分厚いファイルを渡して告げた。
「このファイルにホテルの施設について載せてあります。生活するための備品は一通り揃っているはずですが、何か足りないものや訊きたいことがあれば」
 オーナーは机の上に置いてあるしゃれた陶器の鈴を示す。
「この鈴を鳴らしなさい。チャーリーが呼べます」
 ではと踵を返して、彼は部屋を出て行こうとする。
 一瞬撫子は立ち竦んだが、すぐにオーナーに飛びつく。
「あ、あの!」
 撫子は思わずオーナーの白い尻尾をむぎゅっとつかんでいた。
「つかまずとも聞こえます」
 笑顔のまま口の端をひきつらせて振り返ったオーナーに、撫子はばつが悪そうにつぶやく。
「はみ出てたもので」
 つかみやすかったんです、そこ。
 オーナーはぴくりと耳を動かして、不気味なほど笑みを深めた。
「ここは大事な体の一部ですが」
「すみません! アイデンティティーでした!」
 耳と同じで人格に触れてはまずい。撫子が焦っていると、オーナーはまあそれでと言葉を続けた。
「何ですか?」
「いえ、肝心なことを教えて頂いていないと思って」
 撫子はオーナーを見上げながら問う。
「私はここで何をすればいいんですか?」
 オーナーはその言葉に穏やかにほほえんだ。
 彼は猫目を細めて屈みこむ。
「何もしなくてもよいですし、思いつく限りのあらゆることをしてもよいです」
 撫子の顔の前に指を一本立てて、彼は静かに告げた。
「長期休暇を与えられたと思って、あなたのしたいようになさい」
 長期休暇。
 その言葉は馴染みがあるような、全く未知のものであるような、不思議な響きがした。
 足音も立てずに去っていくオーナーの背中を、撫子はぼんやりと見送った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

人違いラブレターに慣れていたので今回の手紙もスルーしたら、片思いしていた男の子に告白されました。この手紙が、間違いじゃないって本当ですか?

石河 翠
恋愛
クラス内に「ワタナベ」がふたりいるため、「可愛いほうのワタナベさん」宛のラブレターをしょっちゅう受け取ってしまう「そうじゃないほうのワタナベさん」こと主人公の「わたし」。 ある日「わたし」は下駄箱で、万年筆で丁寧に宛名を書いたラブレターを見つける。またかとがっかりした「わたし」は、その手紙をもうひとりの「ワタナベ」の下駄箱へ入れる。 ところが、その話を聞いた隣のクラスのサイトウくんは、「わたし」が驚くほど動揺してしまう。 実はその手紙は本当に彼女宛だったことが判明する。そしてその手紙を書いた「地味なほうのサイトウくん」にも大きな秘密があって……。 「真面目」以外にとりえがないと思っている「わたし」と、そんな彼女を見守るサイトウくんの少女マンガのような恋のおはなし。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しています。 扉絵は汐の音さまに描いていただきました。

人質同然に獣人の王に嫁いで「お前を愛すことはない」と言われたけど陛下の様子が変ですわ?

家紋武範
恋愛
 同盟のために獣人の国に嫁ぐことになった王女ナリー。  しかし結婚とは名ばかりで、彼女は人質として軟禁されるのであった。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

憧れの騎士さまと、お見合いなんです

絹乃
恋愛
年の差で体格差の溺愛話。大好きな騎士、ヴィレムさまとお見合いが決まった令嬢フランカ。その前後の甘い日々のお話です。

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

曰く付きの家に嫁いだら、そこは龍神さまのお屋敷でした~恋を知らなかった私達が愛にたどり着くまで~

あげは凛子
恋愛
※ただいま休載中です。ご迷惑をおかけしております。  時は大正時代。まだ明治時代が色濃く残るそんな時代。 異国で生まれ育った鈴は幼い頃に両親を亡くし、たった一人の親戚である叔父を頼って日本へやってきた。 けれど親戚達は鈴に当たりが強く、とうとう曰く付きで有名な神森家にお見合いに行く事に。 結婚が決まるまではお試し期間として身柄を拘束させてもらうと言う神森家の掟に従って鈴はその日から神森家で暮らすことになったのだが、この家の住人は皆どうやら人間ではなかったようで……。 龍と少女の現代恋愛ファンタジー。 ※こちらの作品はもんしろ蝶子の名義で『龍の箱庭』というタイトルでアマゾン様とがるまに様で発売中です。本でしか読めないイチャラブやおまけがありますので、そちらも是非! ※このお話はフィクションです。実在している団体や人物、事件は一切関係ありません。 ※表紙はACサイト様からお借りしたものを編集しています。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

処理中です...