17 / 17
エピローグ 副社長氏の本音
しおりを挟む
反田晃は自分がひねくれ者である自覚がある。
「麻衣子、おい。起きろ。寝ぐせひどいぞ」
妻を毎朝起こすのは彼の役目だが、たいがい余計な一言がついてくる。
「こういう髪質なんだってば」
ぶつくさ言いながら麻衣子は起き上がって髪をなでつけるのだが、本当はその髪を自分が直してやりたいと思っている。
「顔洗って下りてこい。コウキを起こしてくる」
ちょっと癖毛で手に甘えるような髪を触ると朝にあるまじき気分になるのは内緒で、晃は早々に部屋から出ていった。
妻に比べるとだいぶ寝起きのいい息子を起こして、一階で朝食を作り始める。
その間に麻衣子も下りてきて、食卓の準備をしていた。
三人そろってから朝ごはんを取る。ここのところ晃は夜が遅いことが多いので、三人そろうのは朝だけだ。
「お母さんのおむれつ、おいしい」
はしゃいだ声を上げる息子に、麻衣子はちらっと晃を振り向く。
毎朝、朝ごはんを作っているのは晃だ。そして実は麻衣子より晃の方が断然料理が上手い。
「そっか。じゃあまたオムレツにしようね」
でもコウキは三歳にして父親に対抗心を持っていて、晃が作ったとわかると絶対に料理をほめない。
それだとコウキの好みがわからん。しばらくはお前が作ったことにしておけ。そういう取り決めが夫婦でされたことは、まだ息子の知らないところだった。
朝ごはんが終わって支度を整えると、幼稚園のバスにコウキを乗せる。
「あなた、ちょっと」
慌ただしい時間だが、晃にとってささやかな幸せがある。
「だめでしょ。副社長氏がこんな格好でどうするの」
麻衣子に呼び止められて、ネクタイを直される。
副社長氏をめっと子どものように叱ることができるのは麻衣子だけだ。
首に麻衣子の呼吸が当たって、ちょっと乱暴にタイを締められる瞬間。実はそれがお気に入りの時間でわざと適当にタイを締めているなんて知られたら、妻に中学生みたいと呆れられるに違いない。
麻衣子が直してくれなかった襟などは自分で直して、晃は出社する。麻衣子は病気の療養のため、自宅でテレワークをしながらリハビリ中だ。
仕事をしているときの晃は、まあ鬼のようだ。基本的に甘い言葉はかけず、会社の悪役になりきって仕事をしている。
「おつかれさま」
「……おう。お前もな」
昼休みに喫茶ルームでモニターに映る妻の顔を見ないと、自分に優しい部分なんてないんじゃないかとさえ思う。
「無理するなよ。体調が悪かったら呼べよ。あと薬忘れずに飲めよ。絶対だ」
「わかってる。毎日聞いてる」
時間が惜しくて晃が一方的に命令口調で話してしまうから、通話を切った後に自己嫌悪になることも多い。
晃は療養中の麻衣子に負担をかけたくなかったので、昼は商品の試食をするから弁当は要らないとそっけなく言っていた。
でも実は、麻衣子が気まぐれに持たせてくれるスープが大好物だったりする。
通話を切った後、晃は麻衣子のスープジャーを開けて、OLのように写真を撮ってから食べる。
そんな副社長氏は喫茶ルームでの心配そうな声音と通話後の自己嫌悪タイムで優しい旦那さんだと社員たちにばれているのだが、まだ本人は知らない。
次々とやって来る仕事を片づけるうちに時間は過ぎ、夕方になる。
「じゃ、お先に」
社長の出海が退社しても、晃の仕事は続く。
とはいえ麻衣子が入院中は晃がつきっきりで彼女を看病していて、仕事は出海に丸投げだった頃もあった。
出海は現在、子育てに夢中だ。可愛い娘と愛妻との時間を邪魔するのはやぶさかではない。俺だってそうしたいという思いはあるが、後々のこともあるのでひとまず今は譲っている。
黙々と仕事をこなして家に帰ると、コウキはもう眠っていた。
「コウキ、お父さんはわーかほりっくだって言ってた」
「どこで覚えてきたんだ、そんな言葉」
「心配してるのよ」
麻衣子と二人、リビングで一センチの晩酌をする。
向き合った麻衣子は、最近は目に見えて顔色がよくなった。何が何でも回復させてやるという晃の熱意が実って、安心している。
「そろそろ寝るか」
そう、麻衣子が元気なことが何よりなんだ。自分に言い聞かせるようにして言葉をかけたときだった。
「晃」
ふいに麻衣子が晃の名前を呼んだ。
「……ごめんね。私がこんな体だから、いろいろ無理してるでしょ」
麻衣子は手を伸ばして、晃の袖をつかもうとしてやめる。
細いその指が空をひっかく様子だけで、晃がぞくっとするくらい気持ちがざわつくのを、たぶんこの妻はまだ知らない。
「お前な」
晃は怒ったように麻衣子をにらむ。
実際はにらんでいるのではなく照れているんだと、さすがにもう妻に伝えている。
「望むところなんだよ。好きな女のために歯を食いしばるのは」
麻衣子の手を握り締めると、晃はその手を引いて立ち上がる。
「馬鹿。せっかく寝るつもりだったのに」
ああ、実は結構な確率でがまんしてるぞ、俺は。
寝室にこもってそういう話をしたのは、二人だけの秘密。
「麻衣子、おい。起きろ。寝ぐせひどいぞ」
妻を毎朝起こすのは彼の役目だが、たいがい余計な一言がついてくる。
「こういう髪質なんだってば」
ぶつくさ言いながら麻衣子は起き上がって髪をなでつけるのだが、本当はその髪を自分が直してやりたいと思っている。
「顔洗って下りてこい。コウキを起こしてくる」
ちょっと癖毛で手に甘えるような髪を触ると朝にあるまじき気分になるのは内緒で、晃は早々に部屋から出ていった。
妻に比べるとだいぶ寝起きのいい息子を起こして、一階で朝食を作り始める。
その間に麻衣子も下りてきて、食卓の準備をしていた。
三人そろってから朝ごはんを取る。ここのところ晃は夜が遅いことが多いので、三人そろうのは朝だけだ。
「お母さんのおむれつ、おいしい」
はしゃいだ声を上げる息子に、麻衣子はちらっと晃を振り向く。
毎朝、朝ごはんを作っているのは晃だ。そして実は麻衣子より晃の方が断然料理が上手い。
「そっか。じゃあまたオムレツにしようね」
でもコウキは三歳にして父親に対抗心を持っていて、晃が作ったとわかると絶対に料理をほめない。
それだとコウキの好みがわからん。しばらくはお前が作ったことにしておけ。そういう取り決めが夫婦でされたことは、まだ息子の知らないところだった。
朝ごはんが終わって支度を整えると、幼稚園のバスにコウキを乗せる。
「あなた、ちょっと」
慌ただしい時間だが、晃にとってささやかな幸せがある。
「だめでしょ。副社長氏がこんな格好でどうするの」
麻衣子に呼び止められて、ネクタイを直される。
副社長氏をめっと子どものように叱ることができるのは麻衣子だけだ。
首に麻衣子の呼吸が当たって、ちょっと乱暴にタイを締められる瞬間。実はそれがお気に入りの時間でわざと適当にタイを締めているなんて知られたら、妻に中学生みたいと呆れられるに違いない。
麻衣子が直してくれなかった襟などは自分で直して、晃は出社する。麻衣子は病気の療養のため、自宅でテレワークをしながらリハビリ中だ。
仕事をしているときの晃は、まあ鬼のようだ。基本的に甘い言葉はかけず、会社の悪役になりきって仕事をしている。
「おつかれさま」
「……おう。お前もな」
昼休みに喫茶ルームでモニターに映る妻の顔を見ないと、自分に優しい部分なんてないんじゃないかとさえ思う。
「無理するなよ。体調が悪かったら呼べよ。あと薬忘れずに飲めよ。絶対だ」
「わかってる。毎日聞いてる」
時間が惜しくて晃が一方的に命令口調で話してしまうから、通話を切った後に自己嫌悪になることも多い。
晃は療養中の麻衣子に負担をかけたくなかったので、昼は商品の試食をするから弁当は要らないとそっけなく言っていた。
でも実は、麻衣子が気まぐれに持たせてくれるスープが大好物だったりする。
通話を切った後、晃は麻衣子のスープジャーを開けて、OLのように写真を撮ってから食べる。
そんな副社長氏は喫茶ルームでの心配そうな声音と通話後の自己嫌悪タイムで優しい旦那さんだと社員たちにばれているのだが、まだ本人は知らない。
次々とやって来る仕事を片づけるうちに時間は過ぎ、夕方になる。
「じゃ、お先に」
社長の出海が退社しても、晃の仕事は続く。
とはいえ麻衣子が入院中は晃がつきっきりで彼女を看病していて、仕事は出海に丸投げだった頃もあった。
出海は現在、子育てに夢中だ。可愛い娘と愛妻との時間を邪魔するのはやぶさかではない。俺だってそうしたいという思いはあるが、後々のこともあるのでひとまず今は譲っている。
黙々と仕事をこなして家に帰ると、コウキはもう眠っていた。
「コウキ、お父さんはわーかほりっくだって言ってた」
「どこで覚えてきたんだ、そんな言葉」
「心配してるのよ」
麻衣子と二人、リビングで一センチの晩酌をする。
向き合った麻衣子は、最近は目に見えて顔色がよくなった。何が何でも回復させてやるという晃の熱意が実って、安心している。
「そろそろ寝るか」
そう、麻衣子が元気なことが何よりなんだ。自分に言い聞かせるようにして言葉をかけたときだった。
「晃」
ふいに麻衣子が晃の名前を呼んだ。
「……ごめんね。私がこんな体だから、いろいろ無理してるでしょ」
麻衣子は手を伸ばして、晃の袖をつかもうとしてやめる。
細いその指が空をひっかく様子だけで、晃がぞくっとするくらい気持ちがざわつくのを、たぶんこの妻はまだ知らない。
「お前な」
晃は怒ったように麻衣子をにらむ。
実際はにらんでいるのではなく照れているんだと、さすがにもう妻に伝えている。
「望むところなんだよ。好きな女のために歯を食いしばるのは」
麻衣子の手を握り締めると、晃はその手を引いて立ち上がる。
「馬鹿。せっかく寝るつもりだったのに」
ああ、実は結構な確率でがまんしてるぞ、俺は。
寝室にこもってそういう話をしたのは、二人だけの秘密。
13
お気に入りに追加
71
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
【R18】鬼上司は今日も私に甘くない
白波瀬 綾音
恋愛
見た目も中身も怖くて、仕事にストイックなハイスペ上司、高濱暁人(35)の右腕として働く私、鈴木梨沙(28)。接待で終電を逃した日から秘密の関係が始まる───。
逆ハーレムのチームで刺激的な日々を過ごすオフィスラブストーリー
法人営業部メンバー
鈴木梨沙:28歳
高濱暁人:35歳、法人営業部部長
相良くん:25歳、唯一の年下くん
久野さん:29歳、一個上の優しい先輩
藍沢さん:31歳、チーフ
武田さん:36歳、課長
加藤さん:30歳、法人営業部事務
Promise Ring
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
浅井夕海、OL。
下請け会社の社長、多賀谷さんを社長室に案内する際、ふたりっきりのエレベーターで突然、うなじにキスされました。
若くして独立し、業績も上々。
しかも独身でイケメン、そんな多賀谷社長が地味で無表情な私なんか相手にするはずなくて。
なのに次きたとき、やっぱりふたりっきりのエレベーターで……。
地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!
めーぷる
恋愛
見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。
秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。
呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――
地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。
ちょっとだけ三角関係もあるかも?
・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。
・毎日11時に投稿予定です。
・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。
・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。
セカンドラブ ー30歳目前に初めての彼が7年ぶりに現れてあの時よりちゃんと抱いてやるって⁉ 【完結】
remo
恋愛
橘 あおい、30歳目前。
干からびた生活が長すぎて、化石になりそう。このまま一生1人で生きていくのかな。
と思っていたら、
初めての相手に再会した。
柚木 紘弥。
忘れられない、初めての1度だけの彼。
【完結】ありがとうございました‼
ヤリたい男ヤラない女〜デキちゃった編
タニマリ
恋愛
野獣のような男と付き合い始めてから早5年。そんな彼からプロポーズをされ同棲生活を始めた。
私の仕事が忙しくて結婚式と入籍は保留になっていたのだが……
予定にはなかった大問題が起こってしまった。
本作品はシリーズの第二弾の作品ですが、この作品だけでもお読み頂けます。
15分あれば読めると思います。
この作品の続編あります♪
『ヤリたい男ヤラない女〜デキちゃった編』
優しい微笑をください~上司の誤解をとく方法
栗原さとみ
恋愛
仕事のできる上司に、誤解され嫌われている私。どうやら会長の愛人でコネ入社だと思われているらしい…。その上浮気っぽいと思われているようで。上司はイケメンだし、仕事ぶりは素敵過ぎて、片想いを拗らせていくばかり。甘々オフィスラブ、王道のほっこり系恋愛話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる