若頭と小鳥

３ 若頭と小鳥の聴く調べ

　義兄は教養豊かな人で、子どもの頃は外出もできなかった朔のために、音楽や文学など、その道に優れた客を招いて朔に引き合わせてくれた。
　義兄のおかげで、ほとんど口も利けなかった朔の感性は人並み以上に育った。だから朔は、その感性で気づいてしまうことがある。
「朔さんのお義兄様は、どんな曲がお好きなの？」
　その日朔にそう訊ねたのは、朔のために招かれたピアニストの女性だった。
　危うい世界にいる義兄だが、彼に興味を持つ女性はとても多い。義兄の持つ地位と財産と、揺らがない我の強さが女性を引き付ける。
　朔は控えめにうなずいて女性に答える。
「義兄は何でも好んで聴く人です」
「教養の深い方だものね。何でもよく知っていらっしゃるし。でも、だから」
　女性は朔に身を寄せてささやく。
「……特別に好んでいただきたいわ。少し二人だけのお時間をいただける？」
　そう言った女性に、朔は瞬間的に過去が蘇って震えた。
　朔が子どもだった頃、やはり義兄に好意を持った女性に連れ出されたことがある。
　売れない体にしてやって。その女性は、柄の悪い男たちにそう言った。
　朔は恐怖が強すぎて、泣きわめくこともできなかった。裸にされた朔は、舌なめずりしてのしかかる男の下で、ほとんど失神していた。
　目が覚めた朔は義兄の寝室にいる自分に気づいて、過去に戻ったのかと思った。
　目の前でのぞきこむ義兄を見て、朔は声にならない叫びを上げる。
「うぅ……あぁ！」
　しがみついてきた朔を義兄は腕の中に包み込んで、子どもをあやすように抱き上げた。
「さっちゃん、さっちゃん。怖かったね。一人にしてごめんね……」
　義兄は朔の背中をさすりながら、繰り返しわびる。朔は言葉にできない恐怖の中で、ぎゅうぎゅうと義兄にしがみついた。
　義兄はそんな朔を優しく包み込んでくれたから、朔は次第に恐怖が遠ざかっていくのを感じていた。
　朔が義兄の胸から顔を上げると、義兄はぐしゃぐしゃになった朔の顔を見て言った。
「ほら、もう大丈夫。ここにはさっちゃんとお兄ちゃんしかいないよ」
「あ……」
　すっかり精悍な面立ちになった義兄の顔を見て、朔はようやく現在を取り戻す。
　そう思うと、子どもでもないのに失神して泣きわめいた自分が、消え入りたいくらいに恥ずかしかった。
「ごめん……」
「さっちゃんが弱いおかげで、俺は強くなれた」
　義兄は朔をベッドに下ろして座らせると、その横に腰かけて言った。
「だからいいんだよ、さっちゃん。いつまでも俺を困らせてくれたら、俺はずっとさっちゃんを独り占めできる。……最高だ」
　義兄は朔の頭を抱きしめて、そっと口づけた。
　朔は義兄の腕の中で、自分と義兄の関係を思う。
　義兄弟で独り占めし合う。それはなんだか歪んでいて……朔が変なのかもしれないけど、幸せだ。
　そこは他人を世界に入れない、朔と義兄の閉じられた籠の世界。
　義兄は朔の顔を覗き込んで問う。
「眠る前に何か弾いてあげようか？」
　義兄に言われて、朔ははにかんで答える。
「……やさしいモーツァルトの曲がききたい」
「うん。いいよ」
　なんでも聴く義兄だけれど、実は自分で弾く方が好きなのを知っているのは、たぶん朔だけだ。
　やがて部屋には朔の大好きな調べが満ちて、朔は今日も目を閉じる。