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第八章✪命の危機
命の危機
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「だって、ムカつくじゃないか」
吐き捨てるように言ったのは、
昼間っから酒を飲み始めたイルドナだ。
「妖魔女は蛇威丸の元に帰りたがり、
それに蛇威丸も同じように、妖魔女を欲しているんだろ。
両思いで……なんだか腹が立つ」
蛇威丸の集団から逃れて、
やっと安全な地にたどり着いたや否や、イルドナは宿で酒を煽る。
聞いていたグラベンは舌打ちをした。
「はっ!!そんなくだらねぇ理由かよ。
妖魔女を連れてきたのはよ」
グラベンはまだ傷が完治しない為、食欲も戻らない。
「他に何の理由があるって言うんだ?」
「おめぇやっぱアホだな」
「はぁ?」
グラベンとイルドナは互いに睨み合う。犬猿の仲だ。
ガタガタ...
そこへ部屋の戸を開いたランレートが入室してきた。
「――グラベン君」
表情を硬直させ気味のランレート。
グラベンの疲れた顔を見るなり、すぐに診察に入る。
「おう、ラン..」
グラベンも安堵の色を見せる。
普段は間の抜けたことを言うランレートでも頼りになる存在だ。
「派手にやられたね」
「蛇威丸のヤツ..手加減なしだったからな。
本気で俺を殺る気だったんだろ」
パァアアアア.....
話をしながら、ランレートは能力を発揮する。
温かい光がグラベンの傷を癒してゆく。
「...まだ傷は痛むと思うけど、
これで生命の問題はなくなったから、安心して」
一段落すると、それまで黙っていたイルドナが口を挟む。
「あの妖魔女は診てやったのか?
吐血していたようだったが、
まさかマズイ病とか患っているのだろうか?」
ランレートはグラベンを丁寧に扱いながら、イルドナに答える。
「妖魔女を診察する必要はないでしょ。
大病でも、関係ないよ。
蛇威丸の使いだったんでしょ?
病を治したら、あいつの思う壺だ」
冷徹なランレート。目付きが冷たかった。
「まぁ..そうだが...」
イルドナは口を紡ぐ。
グラベンもランレートも、イルドナにとってはクラーザ程親しくないので、本音を話せない。
グラベンもランレートも、イルドナには壁を作っている。
クラーザの知り合いだから、攻撃し合わないだけだ。
「君が妖魔女を連れて来たんだってね?
理由がどうあれ、クラーザの敵に違いないんだから、可笑しな行動は許さないよ」
ランレートは更に釘を刺す。
どうせイルドナの女好きの性格からの行動だと思ったからだ。
「...」
イルドナは返す言葉を見失う。
亜紀が美人だから、という単純な理由で亜紀を連れて来た訳ではないが、なんとなく訳を話せずにいる。
「ラン」
ふいに、グラベンが口を開く。
「どうしたの?グラベン君」
グラベンには対応が変わるランレート。
口調が優しくなる。
「あのな、イルドナを弁解する訳じゃねぇが、
妖魔女を診てやってくんねーか?」
「は..?」
あれだけ亜紀を嫌っていたグラベンなのに、
とランレートは驚きを隠せなかった。
「妖魔女は..あいつは、悪いヤツじゃねーと思うんだ」
グラベンは少し戸惑いながら、話を続けた。
「俺を殺そうとした蛇威丸を..あいつが止めてくれたんだ」
「それは何か狙いがあってではなくて?」
「そんなんじゃねぇと思う」
はっきりと断言するグラベン。
ランレートはとても気になったが、
そこからは、もう何も追求しなかった。
「グラベン君が言うなら...わかったよ」
快く頷くランレート。
「悪ぃな、ラン。
でもおめぇしかいねんだ。頼むぜ」
「任せてよ」
ランレートはとても不思議な男だ。掴み所がない。
イルドナはランレートと話すのが、あまり得意ではなかった。
ランレートは腹黒い..そう感じる。
ガァァァ――――
しばらくして、ランレートとイルドナで、
気絶した亜紀を寝かせてある部屋に移った。
戸を開けると、小さな部屋に亜紀が横たわっている布団が一つだけ見えた。
「...クラーザは..」
イルドナはクラーザの姿を探した。
てっきり、亜紀がいるこの部屋にいるものとばかり思っていた。
「クラーザなら出掛けたよ。すぐに戻ってくるけどね」
ランレートはそう言って、
布団のすぐ側に膝を落とした。
「ふぅ..ん。そうか。――――って、うわぁっ!!」
イルドナはいきなり叫んだ。
亜紀が眠っている布団から、
小さな子供の足が見えたからだ。
「もぉ!!うるさいなぁ!」
ガザゴゾと音をたてて布団から出てきたのは、例の式神の男の子だった。
亜紀の布団の中で、一緒に寝ていたのだ。
「なっなんだ?このガキ」
イルドナは男の子を凝視する。初めて見た。
「妖魔女に着いていた式神だよ。
何の能力もないから、心配ない」
ランレートが面倒臭そうに言った。
男の子を連れて来たのはランレートだ。
「はぁ..」
イルドナはまたしても言葉を失う。
「おいっ!魔法使い!お姉ちゃんをどうする気だよぉ!
早く元気にしろよぉ!」
「魔法使いって...」
ランレートは呆れた顔をして、
眠っている亜紀の診察を始めた。
誰もが疑うようなランレートの変な診察。
イルドナは首を傾げながら、その様子を見守った。
亜紀の顔に息をふぅっと吹きかけたり、耳の穴を軽くほじってみたり、しまいには鼻の穴に..
「おいおい..」
さすがのイルドナも、その診察はいかがなものかと思った。
「ちょっと黙っててよ」
ランレートの不機嫌な顔。
イルドナは口をへの字に曲げながら、黙ることとなる。
ガァァァ――――
「入るぞ」
低い声が聞こえ、クラーザが入室してきた。
「クラーザ」
イルドナはすぐさま、クラーザに助けを求めるような声を出した。
『こいつ、頭おかしいぞ』そう言う表情をまざまざと見せる。
「様子はどうだ」
クラーザがランレートに尋ねると、
ランレートは変な診察をようやく止めて、クラーザに振り返った。
「うん..それが..」
しぶるランレート。眉間にシワを寄せている。
「なんなんだよっ!お姉ちゃんは大丈夫なのかよ!
早く治せよ!ばかっ!!」
男の子が罵声を浴びせる。
イルドナは『糞ガキ』と言うような目線を送るが、
クラーザもランレートも、知らぬ顔をしている。
男の子の生意気な態度に、そろそろ慣れてきたところだ。
ランレートは顎を触りながら、
言いにくそうに診断結果を話しだす。
「かなり――――深刻な状態だ。
もって2・3週間だろう..」
「なっ..!!!!」
イルドナが衝撃的な結果に息を止める。
「――――」
クラーザも大きく眼を見開き、驚きを隠せぬ様子。
「うわぁぁぁあん!!!!!
嘘だぁ!なんでそんなこと言うんだよぉ!!ばかっ!」
男の子は騒ぎ立てる。
亜紀にしがみついて、やだやだと首を振る。
「その病に効く薬はないのか」
思わずクラーザが口にした。ランレートは頷く。
「薬なんてものはないよ。
なんてったって、これは病じゃあないからね」
「どういう意味だ?
病じゃないなら、一体なんだってんだ?」
イルドナが苛立つ。
ランレートのはっきりしない態度が気に入らない。
「寿命だよ」
イルドナを見返すように視線をよこしたランレートもまた苛立っていた。
「―――ん...」
亜紀は深い眠りから、ようやく目が覚めた。
まるで、小鳥のさえずりに起こされたかのように、清々しく目が覚める。
パサッ..
布団から上半身を起こし、
すぐに近くにいたクラーザを見付ける。
「あ..」
何かを言いかけて、口を閉じそうになる。
「具合はどうだ」
クラーザから尋ねてきた。
冷たい眼に変わりないが、なんとなく温かさ感じる。
「ごめんなさい..アタシ、大丈夫..」
クラーザが近くにいてくれたことに、ほっとする亜紀。
少しの立ちくらみはあるが、
置いて旅立たれるのは嫌なので、平気を装う。
「その..」
「え?なぁに??」
クラーザが言葉を選ぶ顔をすると、
亜紀は食い付くように寄ってくる。
「あの..行きたい場所とか..あるのか」
「え..?」
『蛇威丸の元に帰りたいのか』とは、クラーザは聞けなかった。
いや、聞きたくなかった。
「あんたの行きたい場所に、連れて行ってやる」
クラーザはそう言いながら、
亜紀の返事を聞きたくないような目をしていた。
「...?」
亜紀はそれがどういう意味を表すのか理解できなかった。
「...」
「行きたい場所なんて..ないよ。
あなたの側にいさせて..」
遠慮がちに答える。
クラーザは自分が亜紀に無理矢理そう答えさせてるように思えたが、どこかほっとする。
「そうか」
「...」
亜紀は静かにクラーザを見つめた。
クラーザが無事で良かった。
だが、こうやって無事でいるということは、
先程の戦いは蛇威丸の方が負けたのだろうか..
蛇威丸の安否が無性に気になったが、亜紀は口には出さないことにした。
蛇威丸も心配だが、自分はクラーザを選んだのだから。
「怪我――――」
「えっ??」
「怪我..していたが、何かあったのか」
クラーザが小さな声で独り言のように呟いた。
ランレートが亜紀の診察をしている時に、あちこちの傷を見付け、クラーザに報告したのだ。
「あ..」
亜紀は自分の胸元に手を当てる。
蛇威丸に乱暴されたことしか思い当たらない。
ぶたれた顔や身体。
縛られた腕。
そして、沢山のキスマーク。
「心配するな。傷は完治してる」
ランレートの能力で痣は消えた。
「あ..アタシ...」
亜紀は胸元の手にぐっと力を込める。
もしかして、キスマークをクラーザに見られたのかと不安になった。
汚された自分を見られてしまったのかと、悲しくなって泣き出す。
「..なぜ泣く」
クラーザははっとした顔をして、亜紀を見つめ返す。
「み..見たの..?アタシの身体..見たの..?」
「誤解するな。
あんたの傷を治しただけだ。何もしていない」
クラーザの慌てた態度に、亜紀は首を横に何度も振る。
「違う..そうじゃなくて..」
「...」
小さく震える亜紀を、クラーザは心配そうに見つめる。
「アタシ..汚いから..あなたに見られたく..ないの。
見られて..嫌われたくないの..」
「汚いって..」
クラーザは困ったような顔をした。
小さな亜紀を抱き寄せたくなる。
「怖かった...怖くて..怖くて..
アタシ..あなたの名前を呼んだの。
助けてほしくて..
あなたには届かないってわかってるのに、
あなたを何度も何度も呼んだの..」
亜紀は我がままになる。
つい、クラーザに甘えて困らせたくなった。
「すごく怖くて..」
亜紀は顔を隠して泣き出した。
今更、思い出して身を震わせる。
トン..
クラーザは座り込んでいる亜紀の肩に手を置いた。
「なぜ俺を呼んだ。聞こえる訳がないだろう..」
言葉はキツいが、口調は優しい。
とても困っているようだった。
「どうして..来てくれなかったの..
ずっとずっと、あなたを呼んでたのに...」
クラーザに会いたかった。
クラーザをずっと求めていた。
「...」
一人で落ち込んでいる亜紀を見ているクラーザは、
いきなり胸が苦しくなった。
「アタシずっと、あなたのことを想っていたの..」
グッ..
突然クラーザは亜紀を引き寄せて、強く抱き締めた。
「あっ..」
亜紀は自分からクラーザを求めたのに、まさかと思って驚く。
クラーザは亜紀の華奢な身体を強く抱きしめ、
亜紀の顔を自分の大きな胸に押し付ける。
ググッ..
「――――」
クラーザは亜紀を包み込んで、離さなかった。
(....クラーザ....)
ずっとクラーザの胸に引き寄せられることを願っていたのに、
いざ、その腕に包み込まれると、
安心することができなかった。
「――――」
グッ..
無言で亜紀を抱き締めるクラーザ。
その胸はとても熱かった。
ドキン...ドキン...ドキン...
居心地が悪く、身動きが取れない。
「...ん..」
亜紀はクラーザの腕の中で、小さく身をよじった。
慣れているはずの力強いクラーザの腕が、全く落ち着かない。
...ドキン...ドキン...
それは、新鮮な気持ちだった。
「――――」
「....」
(アタシ..緊張してる..)
まるで初めて好きな男に、
抱き締められているようだった。
緊張していたが、
クラーザが抱き寄せてくれたので、
それに応えようと、亜紀は両手をクラーザの広い背中に回した。
ギュッ..
しがみ付くように抱き付く亜紀。
クラーザも更に力を加えてきた。
「....」
「....」
無言で抱き合うふたり。
どちらも何も話さなくなった。
クラーザは、どうして抱き締めてくれるのだろう..
亜紀の脳裏に疑問が浮かんだが、
答えは見付からなかった。
グイ――..
するとクラーザは、そっと亜紀を引き離した。
それでも、互いに背中に手を回したままだ。
至近距離で目と目が通じ合う。
「...ラーザ...」
小さな声で、微かに亜紀はクラーザの名を呼んだ。
「―――」
クラーザは紅い眼を細めた。
互いの顔が近づく..
「....」
すっと近付いた顔は、
唇が今にも触れそうな距離で止まった。
触れたいけど、触れられない..
近付きたいけど、近付くことができない..
互いに、確かな壁を感じていた。
だが、今ならすぐにでも壊してしまえる壁だ。
後ほんのわずかで、触れ合うことができる..
『アキは俺のだ!』
ふと、クラーザの記憶の蛇威丸が叫んだ。
『蛇威丸の女』
そう言ったグラベンの言葉も気にかかり始める。
「―――」
クラーザの視線が固まる。
冷静さを取り戻し始めた。
キュッ..
なんとなくクラーザの空気が変わったのに気付いた亜紀は、クラーザの服の裾を握った。
やっぱり..突き放されちゃうの..?
優しい眼付きから、
次第に冷徹な眼に変わってゆくのが、目に見えてわかった。
スルスルと放されていくクラーザの手。
「..ふぅっ...」
亜紀の口から、咄嗟に嘆きの声がもれた。
やだ..離れていかないで..
アタシから、どんどん遠ざかっていかないで..
あなたとアタシとの間に、
厚くて大きな壁を、いくつもつくってしまわないで..
それは、口に出して言える言葉ではなかった。
口にすれば、きっともっとクラーザは遠ざかってしまうだろう。
「....はぁっ..」
泣き声を必死に殺す亜紀。
泣いたところで、どうにかなるものか。
泣くことで、余計に引いてしまうだけだ。
けれど、なぜか..
そう分かっていればいる程、悲しくて切なくて、
泣かずにはいられなくなってしまう。
サッ..
「―――」
クラーザは完全に手を離した。
「あ..」
亜紀は寂しそうに顔を上げた。
馬鹿みたいに泣いたせいで、クラーザが離れていってしまう。
「...」
クラーザは亜紀の瞳を見つめず、目線を下にしていた。
パサッ..
亜紀も伸ばしていた手を離した。
いつまでも、しつこくしてはいけない。
クラーザには『覚醒者』という立場がある。
あまり困らせてはいけない。
優しい人だから...
迷惑かけては、我がままを言ってはいけない。
「――あの..あぁ..あの....」
亜紀は何か言わなければと試行錯誤して、この場にふさわしい言葉を考える。
「...」
オロオロしている亜紀が何か言おうとしているのを、
クラーザはじっと待った。
「あっ..えっと..アタシに触っちゃダメ..
アタシ妖魔女だし、力がその...弱くなっちゃうかもだから..」
『そんなことはないハズだけど』
と付け加えながら、亜紀は慌てて言った。
「―――なぜ泣く」
「えっ?」
クラーザに言われて、亜紀は顔に手を当てた。
無理して笑顔をつくろうとしている瞳からは、ポロポロと涙が溢れてきている。
もう泣きたくないのに、
次から次へと大粒の涙が溢れてくる。
ササッ..
亜紀は無造作にそれを拭って虚勢を張る。
「ほっとしただけ..!
ちょっと怖い思いしたから、今頃になってほっとして泣けたの!でも、もう平気!
誰かに優しくされると、無駄に泣けてきちゃう!」
笑顔を見せる亜紀。
だが、涙は止まらない。
「アタシに触っちゃダメ..
あなたの力、吸い取っちゃうかもしれないもの!
また怒らせるの嫌だし、睨まれるのも嫌だもん..!」
「―――」
スッ..
無理して笑う亜紀の頬に、
クラーザが再び手を伸ばして触れてきた。
「えっ..」
亜紀は動揺して、後ろに身を引こうとする。
グッ――..
だが、クラーザの長い腕が、
また一瞬にして、亜紀を引き寄せた。
「あ...」
亜紀は簡単に抱き寄せられてしまい、顔を上げた瞬間...
「ん..」
クラーザの方から唇を重ねてきた。
深い口づけ。
ギュッ..
亜紀の身体を強く抱き締めながら、クラーザは熱い口づけを交わしてきた。
「―――」
無言のまま、クラーザは唇を放し、
再び強く亜紀を抱き締める。
ドキン..ドキン..ドッキン..
亜紀の胸の高鳴りが、スピードを上げる。
「...クラーザァ..」
キュッ..
亜紀ももう離れまいと、クラーザにしがみついた。
簡単に壊されてしまう、亜紀の強がり。
クラーザがまた亜紀を引き離し、
顔を近付けると、目が通じ合う。
「...」
「...」
言葉もなく、ただ見つめ合っているだけで、どんどん気持ちが溢れてきた。
スッ..
クラーザが亜紀の頬に手を当て、
真っ直ぐに亜紀を見つめると、亜紀はゆっくりと瞳を閉じた。
「―――」
クラーザも紅い眼を細める。
うっすらと眼を開けたまま、再び唇を重ねた。
深い口づけ..
クラーザも亜紀も、
その瞬間から、無我夢中で互いの唇を求めあう。
「...っ」
息ができない程に、長い口づけが続く。
亜紀がクラーザの首に手を回せば、
クラーザは亜紀の背中に手を回し、しっかりと抱き合う。
気持ちが高ぶっている亜紀が、
胸を上下させて息を荒くすれば、
クラーザは額を押しあてて、
亜紀の両頬に触れて、小さな唇を見つめる。
..だがふたりは、すぐに唇を寄せあう。
とにかく、慌てるように唇を交わしあった。
トサッ..
そして、ふたりは布団の上に倒れ込んだ。
「....」
「....」
無言のまま、ふたりは言葉も交わさず、
いや..
言葉を交わせば、きっと理性が働いて身動きが取れなくなると思い、あえてふたりは本能のままに互いを求めあった。
パサッ
服が擦れる音。
クラーザはランレートが着せ替えた亜紀の着物を少しずつ脱がせていく。
帯を締めたまま、胸元がはだける。
脚元がいやらしく見え隠れする。
スッ..
クラーザの手はするすると亜紀のひんやり冷たい肌に触れていく。
クラーザの熱い大きな手が、亜紀の白い肌を赤く染めていった。
「....っ」
亜紀は声を殺して、クラーザの愛撫を感じた。
深い口づけは互いの心を近付けた。
クラーザ..
クラーザ..
亜紀は夢中でクラーザを呼び続けた。
クラーザを求め続けた。
いつの間にか、涙は止まっていた。
クラーザの服も乱れ、
更にふたりが近付こうとした時..
ガタッ―――!
部屋の扉が勝手に開いた。
「――――クラーザ」
そこに現れたのは、
何も知らずに部屋の扉を開いたイルドナだった。
「..ぁわっ..!」
咄嗟にイルドナは驚きの声を上げた。
「―――!」
その声で、ようやくふたりはイルドナの存在に気付く。
バタン!!!
「申し訳ない!」
慌てふためくイルドナは、
勢い良く今開けた扉を再び閉めた。
「....」
「....」
ガタガタッ..
部屋の外で、イルドナがじたばたと動揺している音が聞こえた。
そして、扉近くでイルドナがクラーザに向かって声をかける。
「―――あ゛っ...グッ..グラベンの傷が完全回復したんで、ランレートがクラーザを呼んで来るようにと..!」
パサ..
シュッ...
イルドナが言葉に詰まりながら話している間に、
クラーザが衣類を着直す。
「って言っても...ただ、また酒を飲むとかそんなだろうから、別にそんななんて言うか、絶対に来いとかそんなんじゃない感じではあったしっ..」
サッ...
亜紀は盗み見するようにして、チラッとだけクラーザに視線をよこしたが、クラーザは亜紀を一切見なかった。
「まぁその..つまり別にその快気祝い的な感じ?って訳だろうし、私もその別に暇だったから、ちょっとまぁこちらに寄ってみただけで..」
イルドナらしからぬ動揺。
声すら裏返りそうだ。
ガタッ―――
「ぅおっ...クラーザ..!」
いきなり扉を開けて、部屋を退出しようとするクラーザに、再びイルドナは声を上げて驚いた。
「――」
スッ..
クラーザはイルドナに眼も合わさず、
黙って横を通り過ぎて行こうとした。
「クラーザ..どこへ?」
イルドナはまばたきを何度もしながら、クラーザに問いかけたが、クラーザは全く何も答えずに、グラベンやランレートのいる部屋とは逆の方向に、早々と立ち去って行った。
「...........マズかったのだろうか..」
イルドナは、恥ずかしながら自分を責めた。
ギシッ――..
イルドナはクラーザの背中を見送ると、部屋の中を覗いた。
「....」
部屋の中では、
着物を乱した美しい妖魔女が、
余韻に浸りながら、自分の身体を抱えていた。
「すっ..すまん..
その悪気はなかったんだか、癖でつい..」
イルドナは頭の後頭部に手をあてながら、必死に亜紀に言い訳しようとしていた。
「....」
亜紀は何か返事をしようとしたが、その場にふさわしいと思われる言葉が見つからず、結局何も言えないままだった。
タッ..タッ..タッ..タッ..タッ..
「...」
クラーザは早足で宿を出た。
その足が何かを急かしているようで、クラーザの苛立ちを表していた。
なぜだ..
急速に亜紀に惹かれていく自分に、クラーザは戸惑っていた。
なぜだ..!
そんな亜紀がもう長くは生きられないということに、なかなか納得がいかない。
「なんでだ.....!!」
ドサッ..
クラーザは宿を出て、人気のない場所に出てすぐに、
地面に膝をついて頭を抱えた。
「....っ....!」
肩が震える。
不安か?
戸惑いか?
悲しみなのか?
クラーザは顔を覆って、小さくうずくまった。
―――亜紀の..
クラーザの心にすっと入り込んでくる亜紀の愛らしい笑顔が、クラーザの脳裏に広がり、クラーザの心を苦しくさせた。
「嫌だ...」
「今、なんて...?」
その日の夕方、クラーザが宿に戻ると、
皆が集合した部屋で、ランレートが何かを悟った顔で話をした。
「彼女を元の世界に帰す。
そう言ったんだよ、クラーザ」
「元の世界..」
クラーザはランレートの言葉を繰り返す。
体調が優れない亜紀も、
訳のわからないといった表情を見せた。
「それが唯一、君が生き残れる道なんだよ。
色々、調べてはみたんだけど、それしか方法がない」
「ラン、そりゃどーゆー意味だ?訳がわかんねぇぞ」
グラベンは胡座をかいて、首を傾げた。
ランレートは亜紀の正面に座り、亜紀の肩をぽんと叩いた。
「落ち着いて聞いてね。
君は...もう長くは生きられない」
「えっ..」
亜紀の表情が一気に曇る。
「君は時代を越えて来ているね?
式神の男の子からも、話は聞いているよ。
それで...君は時代を越え過ぎている。
それが君の寿命を縮めている原因だ。
身体が適応しきれず、かなりの負担がかかっている」
「あ..」
亜紀はわなわなと震え、顔を歪める。
「ラン、本気でそんなこと信じてんのか?
時代を越えるなんて、ありえねぇだろ??
式神の話を鵜呑みにし過ぎだろっ?」
「グラベン君、これは本当の話だ。間違いないよ」
「まさかっ...」
イルドナも信じられないという顔で、目を見開いてランレートの話に耳を傾ける。
「嘘なもんかぁ!!!」
男の子はグラベンに怒鳴り、亜紀の身体にしがみついた。
「本当かよ..」
グラベンは顔を引きつらせる。
「出来るかどうかはわからないけれど、
彼女をこの世界に来る前に戻す」
ランレートは『もちろん、君も』と、式神の男の子にも語りかけた。
「そんなこと出来るのか?一体どうやるってんだ?」
イルドナは皆の顔をかわるがわる見つめる。
「やったことはないけど、
時間を戻す魔術を、昔に聞いたことがある」
「黒魔術か」
クラーザが呟くと、ランレートは頷く。
黒魔術は負担が大きく、代償も大きかった。
恐ろしい術なのだ。
すると亜紀がじわりと冷や汗を流し、ランレートの腕にすがりついた。
「やっ―――嫌です..!アタシ..帰りたくない...!」
元の世界。
それは、クラーザのいない亜紀が生まれ育った世界。
それとも、クラーザが死んでしまった闇の世界のどちらかだ。
どちらも亜紀の愛するクラーザはいない。
「なぜ帰りたくないのか、
理由は知らないけれど、
このままでは、君はすぐにでも死んでしまうのだよ」
ランレートは掴まれた腕を見つめて、
亜紀を説得するように、重みのある声で言った。
「―――」
亜紀は瞳を潤ませた。
自分が死ぬ...
クラーザの方を見る。
クラーザは亜紀の顔を見つめ返し、顔を背けた。
「―――帰ったとしても..アタシは死んだも同然なの..」
死ぬように生きる。
それならば、残りの時間をクラーザの顔を見て生きて、静かに死んでゆきたい。
亜紀の意味深な発言に、一同は沈黙となった。
「馬鹿言うんじゃねぇ..!」
その沈黙を破ったのは、チームのリーダー、グラベンだった。
「死んだ後始末を誰がしなきゃならねぇと思ってんだ!
妖魔女なんざ、死んだら何が起こるかわかんねぇってのに、後始末なんかできねぇぞ!!
死ぬなら、てめぇの世界で死ねってんだ!」
ドンッと畳を叩いて、グラベンは亜紀を睨んだ。
「...うっ...」
グラベンのあまりに酷い言葉に亜紀は泣き出した。
「グラベン君..」
さすがにランレートも、亜紀の立場が可哀想に思えた。
「死にたきゃ勝手に死ね!
けどな!この世界で死ぬことは許さねぇぞ!!!」
亜紀と式神の男の子以外の誰もが、グラベンは亜紀を生かそうとして言っているのだということをわかっていた。
だが、あんまりな言葉だ。
「ましてや、こっちには覚醒者のクラーザがいるってのに!」
「...ごめんなさい..」
亜紀は肩を落として、深々と謝罪する。
「うぇぇぇん!ばかぁぁあ!!!
お姉ちゃんに死ね死ね言うなぁ!」
式神の男の子が暴れだす。
「―――もう...とにかく皆、落ち着いてよ..」
ランレートは困惑した顔で、ため息をついた。
「で?ラン、どうやったら、
その時間とやらを戻せるんだ?」
グラベンが事を急がせる。
クラーザはただ黙っていた。
「とにかく..一度、村に戻ろう。
黒魔術をするのに、今回は色々と準備がいる」
ランレートはパザナの村に帰ることを提案した。
まずは、安全な地を確保することだ。
「ふぅっ...うっ―――..」
亜紀は泣いてるかと思えば、いきなり息苦しそうにした。
腹部を押さえ、苦しがる。
グイッ..!
「―――どうしたっ」
ふいにクラーザが亜紀の身体に触れた。
「あっ――うぅっ..」
亜紀はお腹を抱えて、前屈みにうずくまった。
「おい、苦しいのか」
クラーザが問い掛けると、
亜紀は真っ青にした顔を上げて、クラーザを見上げた。
「お腹が..お腹が痛い....」
「おい、あんた」
クラーザが両手を差し伸べた時、
また亜紀は気を失い、そのまま抱きかかえられるように倒れこんだ。
「やべっ!大丈夫なのかよっ!!?」
グラベンは焦って、その場を立ち上がった。
「うわぁぁん!!!!お姉ちゃぁぁあん!」
男の子は亜紀にすがりつく。
そして、いっせいにランレートに視線が集まった。
「―――思った以上に、寿命が近いね..」
この時ばかりは、皆がランレートだけを頼りにする。
「寿命って..腹痛から始まるのか?」
イルドナが突発的に思いついた疑問を口に出した。
ランレートが厳しい顔つきになる。
「実は..彼女、どうやら妊娠しているようなんだ。
なんだか不思議で、妊娠何ヵ月かがわからないんだけど..
たぶん2ヶ月くらいだと..」
「子供がいんのか...」
グラベンはごくりと唾を飲んだ。
まさか、蛇威丸の..
「...」
黙ったままのクラーザを、イルドナは横目で見つめた。
「ばかやろぉぉ!お姉ちゃんに馴々しく触るなぁ!
今更、お姉ちゃんに媚びるなんて汚いぞっ!!!!」
バカッ...バカッ..!
男の子はクラーザの腕を思いっきり叩いた。
「お姉ちゃんのお腹の子は、お前のじゃないぞっ!!!
ざまーみろっ!ばかっ!!!」
男の子が暴言を吐くので、
いつクラーザが切れてしまわないかイルドナはハラハラしたが、クラーザは無表情のままでいた。
「――――」
バスッ..バスッ..!
男の子は無茶苦茶にパンチを繰り出しながら、
ここぞとばかりに、クラーザに言いたいことをぶちまけた。
「お前なんかっ...!
お前なんか、お姉ちゃんに『涙』を流させてばっかで、余計に寿命が縮まるんだよっ!!!
この野郎っ!お姉ちゃんの命を返せっ!ばかっ!」
「...離せ」
クラーザは軽く男の子の腕を振り払う。
「無愛想なツラしてさぁ!
そんなんで、ワガママ言ってお姉ちゃんを振り回すなぁっ!!!」
男の子はクラーザとは会話もしたことがない。
前の世界で、クラーザと亜紀がもめていたのを見たことがあるだけだ。
男の子はクラーザを初めて見た時から、敵意識が芽生えていた。
男の子は亜紀を気に入っている。
その亜紀がクラーザを目で一生懸命に追いかけているのを見るのが、つまらなかった。
...単に、子供の焼きもちだ。
「お前なんかなぁ!邪魔者なんだよ――――だっ!」
「離れろ」
ドンッ!
男の子が憎たらしくあっかんべをした時、
クラーザは強く男の子を突き放した。
「―――うっ...わぁぁぁん!!
痛いよぉ!!押したぁぁぁ!
僕を押したよぉぉ!うわぁぁぁん!痛ぁぁい!」
所詮、子供である。
男の子は畳にしりもちを着いて、わめき声を上げた。
「お..おい、クラーザ。そんな、ムキになんなよ。
そのガキ騒がせたら、うるさくてたまんねぇんだよ」
グラベンは頭を掻き毟った。
普段が無表情なクラーザも、額に手を当てて、ため息をつく。
「まぁまぁ...
上手く時間を戻せれば、
お姉ちゃんが死ぬことはないんだしさぁ..
そんなに、大声出さないでよぉ」
ランレートが男の子をあやしにかかった。
男の子はランレートを睨み付けながら、ジタバタと暴れている。
「んじゃ、さっさとやれよぉ!!!
早く僕とお姉ちゃんを、元の世界に帰せぇ!
こんなところにいたくないんだよっ!ばかっ!!!」
こんな様子では、気絶して倒れた亜紀が、男の子の声で起きるのではないかと思うくらいだった。
「わかってるよ。
でも今回の魔術は、私一人では不可能だから、ちょっと気が引けるけど、昔の知人に助けを求めるよ」
ランレートもため息をついた。
グラベン一行は、結局、その宿には宿泊せずに、
夜のうちにパザナの村に向かって走り出した。
黒魔術士のランレート。
覚醒者のクラーザ。
その二人に加え、力自慢のイルドナ。
グラベンも完全回復し、この一行が向こうところ敵無しの状況だった。
あっという間に、目的地にたどり着く。
パザナの村に入ったのは、翌日の早朝であった。
かゆが起き、亜紀の姿を目にして怒りだす前。
まだ空が薄暗い時に、クラーザは旅立つことになる。
「今度の仕事はいつまで?」
支度を始めているクラーザに、後ろからランレートが尋ねた。
ランレートの真横にはイルドナもいる。
「10日程..」
「結構長いんだね。なるべく早く帰って来れるかな」
「やることは二件だけだから。
イルドナは置いていくし、何かあれば代わりにイルドナを」
「わかったよ。
クラーザの代わりに、たんまりとこき使わせてもらうよ」
クラーザの今度の仕事は、大規模なものだった。
新羅に出会うきっかけとなる任務である。
結局、イルドナは不参加の為、
パラン総長と仕事をすることはなかった。
スッ..
クラーザは小さな荷物を抱えて立ち上がった。
「クラーザ」
イルドナが呼び止める。
「...」
クラーザは静かに振り向いた。
「私が行こうか..?」
仕事には自分が出向こうと言いだすイルドナ。
10日もクラーザを旅立たせるのは、なんだか気が引けた。
「...」
イルドナの細やかな気遣いが、クラーザにはわかった。
「クラーザ..」
一歩前に進み出てきたイルドナに、
クラーザは首を横に振って、イルドナの肩に手を置いた。
トン..
「イルドナ、あいつを頼む」
いつ死ぬか分からない状態の亜紀から、クラーザを引き離すのは、なぜか可哀想だとイルドナは思っていた。
あれだけ、クラーザのことを慕っている。
それにクラーザも..
「...わかった」
だが、男に二言はない。
頼りにされたのなら、それ以上のことをやってやろう。
イルドナはそう心に決めた。
「では、行って来る」
「うん、クラーザ頑張ってね」
ランレートは笑顔でクラーザを見送った。
「なに考えてんのよっっ!!!!!」
想像通りのかゆの雄叫びが、村中に響き渡った。
「意味わかんないっ!!意味わかんないっっ!!!!
なんで、また連れて帰ってくんのよっ!!
頭の中、どうかしちゃってるんじゃないのっ!!!?」
これは予想外。
かゆのみならず、みーちゃんもくどい程にグラベンをまくし立てる。
「あ――ぁ...まぁ..」
グラベンが何か声を発しても、二人は聞く余地もない。
「グラベンのばかっ!!
さっさと今すぐに、どこかに捨ててきてよ―――っ!!!」
かゆは全身を怒りで震わせている。
グラベンがやっと村に帰ってきたと思ったら、やはりこれだ。
「そうよっ!!!
とっとと始末しなきゃ、許さないわよっ!」
みーちゃんもかゆに便乗して、怒りを倍増させる。
「やっと帰ってきたと思えば、
いっつもいっつも、いらないことばっかりして!
無駄なことばっかりで、
お金は全く持って帰ってこないんだからっ!!!!」
ここぞとばかりに、かゆは溜まっていた気持ちをぶちまける。
「そうよ!そうよ!
そんなんだったら、ずぅ―っと帰ってこなくていいわよっ!!!
帰ってくるなら、手土産の一つでも持って帰ってきてみなさいよっ!」
みーちゃんは口から産まれたような人で、口が達者だ。
この村に来て、さほど日数は経っていないのに偉そうな態度である。
二人は、息をつく間もなく、
怒涛のように怒鳴りまくった。
「うるせぇ―――っっ!!!!!」
すると、いきなりグラベンが爆発した。
二人に向かって指をさし、
今度は反対にグラベンが怒鳴り始めた。
「おめぇらは、黙るってことができねぇのか!
やっと帰ってこれたと思ったのに、わぁわぁ文句言いやがってっ!
女らしく『おかえりなさい』って何で言えねんだよ!!!
こんな家なら、もう二度と帰らねぇぞっ!」
「あ..ぅ...」
かゆが、一瞬ひるむ。
が、みーちゃんが黙っていなかった。
「じゃあ、さっさと出て行きなさいよ!せいせいするわっ!!!」
「ふざけんなっ!!!この村は俺の村だぞ!
出て行くのはおめぇの方だ!」
『あっちへ行け』というように、
グラベンは手で二人を追い払う仕草をする。
「いるかいないかも分からないような奴が、偉そうなこと言わないでよ!
ここを守ってあげてるのは、私達なんだからねっ!!!!!」
「守ってあげてるだとぉ!?ちゃんちら可笑しいぜ!!」
グラベンとみーちゃんの一騎打ちになる。
カタッ..
そのうちに、気絶して眠っていた亜紀の目が覚める。
グラベンの横で寝かされていた亜紀が、大きな口論の声で起きた。
「ぎゃっ!!!鬼が起き上がった!」
みーちゃんはわざとらしく、亜紀に脅える真似をする。
「てんめぇ...!」
みーちゃんの口の悪さに、グラベンは更に怒りを込み上げた。
「アタシの...せいですか..」
亜紀は口論の原因が自分にあるのではないかと、不安な表情を見せた。
「はぁぁ?いきなり何よっ!!
許可するまで、あんたは口を開かないで!」
「この野郎!てめぇいい加減にしろよ!」
グラベンがドンと床を叩く。
だが、みーちゃんは一瞬も引かない。
「また呪われるかもしれないじゃない!
自分の身を自分で守って何が悪いのよっ!」
「誰がいつ呪ったってんだよ!嘘ばっかつくなっ!!!!」
「いつ私が嘘をつ..」
激しい口論が再び勃発しそうな時、亜紀は『待って』と話の中に入り込んだ。
「どうして..どうして喧嘩するの..?」
「はぁ...?」
亜紀の問いかけに、みーちゃんは馬鹿馬鹿しいという顔をした。
「喧嘩って..」
グラベンもつい口をつぐむ。
「あなたのせいよ。あなたがいるから..」
かゆが事の発端の原因となった亜紀を見つめた。
亜紀はそう言われることは分かっていたので、悲しむことなく事実を受け入れる。
「アタシはすぐにいなくなります。
だから..グラベンさんを責めないで」
美し過ぎる亜紀。
寝起きさえも、なおも亜紀の儚げな美しさを増して見せていた。
「なんで、あなたにそんなこと言われなくちゃいけないのよ..」
なんだか腹が立つ。
かゆは、亜紀をライバル視した。
「言われなきゃ..きっとわからないでしょ..?」
この時の亜紀は、今までと違っていた。
口調はいつもと変わりなく優しいが、言葉に刺があった。
何かを伝えようとしていた。
「なっ...!」
「グラベンさんは、傷を負って死にそうだったの。
やっと傷が癒えて...
やっと帰ってきたのに...
どうして優しくしてあげられないの...?」
かゆもみーちゃんも、面食らった顔をしていた。
どうして見知らぬ妖魔女に、こんなことを言われなくてはならないのか、とても腹立たしかったが、正論を言われているようで、何も強く言い返せなくなる。
「今度こそ本当に死んじゃうかもしれないのに...
かゆさんは、それでいいの?」
「――――っ」
ガタン!
気分を損ねたかゆは立ち上がった。
すぐに部屋を出て行こうとする。
ピタ..
だが、亜紀に一言残していく。
「私は――――グラベンが死ぬかもしれないから、
優しくしなきゃいけないの!?人は皆死ぬわ。
そんなこと考えていたら、私の身がもたないわよ!」
「待って!」
亜紀はすぐにかゆの手を握り、
かゆが行かないように止めた。
「かゆさんは..?
もしかしたら、明日自分が死ぬかもしれないとしたら..
グラベンさんと喧嘩ばかりしていて後悔しないの..?
それで天国に行けるの..?」
亜紀の大きな瞳が、かゆの言葉を待った。
「離してよっ!!!」
かゆは亜紀の手を振り切った。
「例え明日死んだって後悔しないわよ!
私はグラベンの癒しの為に生きている訳じゃないのよ!!」
バッ..!
かゆは怒りをぶちまけて、さっさと部屋を出て行った。
「....」
亜紀は振り切られた手が寂しく感じた。
「..........」
グラベンは亜紀のしょぼんとした横顔を見つめていた。
亜紀の為をと思って先程言った、
『死ぬなら自分の世界で死ね』の言葉に罪悪感を感じる。
亜紀がとても小さくて儚くて繊細に見えた。
「...ごめんなさい..」
亜紀は誰に謝る訳でなく、呟くようにそう言った。
「はぁ?何か言った!?ってか、いついなくなるのよ?
目が覚めたのなら、とっとといなくなってよね!」
やたら強気のみーちゃんが、
捨て台詞を吐いて、かゆの後を追って部屋から出ていく。
カタンッ..
「...」
亜紀は黙って俯いていた。
「おう...具合はどうだよ?
なんか...うるさくして起こしちまって、ワリかったな」
「え...いえ..」
緊張した面持ちの亜紀は、真っ直ぐ視線を飛ばしてくるグラベンに、遠慮がちに返事をした。
『ど―――――して俺は、かゆの言葉を、もっと真剣に聞いてやらなかったんだろうなぁ!!!!...って今更、後悔してる!』
結局は、かゆが先に死んで、
グラベンがそうぼやくことになる。
『こうなることがわかってりゃ、
退屈な話でも、1日中、聞いてやったのになぁ...』
逆に、グラベンが先に死ぬことになっていたのならば、かゆはグラベンと同じことを言うのだろうか..
いや..
かゆならば、きっとグラベンのように後悔したりしないのであろう。
とても悲しくなる、現実である。
吐き捨てるように言ったのは、
昼間っから酒を飲み始めたイルドナだ。
「妖魔女は蛇威丸の元に帰りたがり、
それに蛇威丸も同じように、妖魔女を欲しているんだろ。
両思いで……なんだか腹が立つ」
蛇威丸の集団から逃れて、
やっと安全な地にたどり着いたや否や、イルドナは宿で酒を煽る。
聞いていたグラベンは舌打ちをした。
「はっ!!そんなくだらねぇ理由かよ。
妖魔女を連れてきたのはよ」
グラベンはまだ傷が完治しない為、食欲も戻らない。
「他に何の理由があるって言うんだ?」
「おめぇやっぱアホだな」
「はぁ?」
グラベンとイルドナは互いに睨み合う。犬猿の仲だ。
ガタガタ...
そこへ部屋の戸を開いたランレートが入室してきた。
「――グラベン君」
表情を硬直させ気味のランレート。
グラベンの疲れた顔を見るなり、すぐに診察に入る。
「おう、ラン..」
グラベンも安堵の色を見せる。
普段は間の抜けたことを言うランレートでも頼りになる存在だ。
「派手にやられたね」
「蛇威丸のヤツ..手加減なしだったからな。
本気で俺を殺る気だったんだろ」
パァアアアア.....
話をしながら、ランレートは能力を発揮する。
温かい光がグラベンの傷を癒してゆく。
「...まだ傷は痛むと思うけど、
これで生命の問題はなくなったから、安心して」
一段落すると、それまで黙っていたイルドナが口を挟む。
「あの妖魔女は診てやったのか?
吐血していたようだったが、
まさかマズイ病とか患っているのだろうか?」
ランレートはグラベンを丁寧に扱いながら、イルドナに答える。
「妖魔女を診察する必要はないでしょ。
大病でも、関係ないよ。
蛇威丸の使いだったんでしょ?
病を治したら、あいつの思う壺だ」
冷徹なランレート。目付きが冷たかった。
「まぁ..そうだが...」
イルドナは口を紡ぐ。
グラベンもランレートも、イルドナにとってはクラーザ程親しくないので、本音を話せない。
グラベンもランレートも、イルドナには壁を作っている。
クラーザの知り合いだから、攻撃し合わないだけだ。
「君が妖魔女を連れて来たんだってね?
理由がどうあれ、クラーザの敵に違いないんだから、可笑しな行動は許さないよ」
ランレートは更に釘を刺す。
どうせイルドナの女好きの性格からの行動だと思ったからだ。
「...」
イルドナは返す言葉を見失う。
亜紀が美人だから、という単純な理由で亜紀を連れて来た訳ではないが、なんとなく訳を話せずにいる。
「ラン」
ふいに、グラベンが口を開く。
「どうしたの?グラベン君」
グラベンには対応が変わるランレート。
口調が優しくなる。
「あのな、イルドナを弁解する訳じゃねぇが、
妖魔女を診てやってくんねーか?」
「は..?」
あれだけ亜紀を嫌っていたグラベンなのに、
とランレートは驚きを隠せなかった。
「妖魔女は..あいつは、悪いヤツじゃねーと思うんだ」
グラベンは少し戸惑いながら、話を続けた。
「俺を殺そうとした蛇威丸を..あいつが止めてくれたんだ」
「それは何か狙いがあってではなくて?」
「そんなんじゃねぇと思う」
はっきりと断言するグラベン。
ランレートはとても気になったが、
そこからは、もう何も追求しなかった。
「グラベン君が言うなら...わかったよ」
快く頷くランレート。
「悪ぃな、ラン。
でもおめぇしかいねんだ。頼むぜ」
「任せてよ」
ランレートはとても不思議な男だ。掴み所がない。
イルドナはランレートと話すのが、あまり得意ではなかった。
ランレートは腹黒い..そう感じる。
ガァァァ――――
しばらくして、ランレートとイルドナで、
気絶した亜紀を寝かせてある部屋に移った。
戸を開けると、小さな部屋に亜紀が横たわっている布団が一つだけ見えた。
「...クラーザは..」
イルドナはクラーザの姿を探した。
てっきり、亜紀がいるこの部屋にいるものとばかり思っていた。
「クラーザなら出掛けたよ。すぐに戻ってくるけどね」
ランレートはそう言って、
布団のすぐ側に膝を落とした。
「ふぅ..ん。そうか。――――って、うわぁっ!!」
イルドナはいきなり叫んだ。
亜紀が眠っている布団から、
小さな子供の足が見えたからだ。
「もぉ!!うるさいなぁ!」
ガザゴゾと音をたてて布団から出てきたのは、例の式神の男の子だった。
亜紀の布団の中で、一緒に寝ていたのだ。
「なっなんだ?このガキ」
イルドナは男の子を凝視する。初めて見た。
「妖魔女に着いていた式神だよ。
何の能力もないから、心配ない」
ランレートが面倒臭そうに言った。
男の子を連れて来たのはランレートだ。
「はぁ..」
イルドナはまたしても言葉を失う。
「おいっ!魔法使い!お姉ちゃんをどうする気だよぉ!
早く元気にしろよぉ!」
「魔法使いって...」
ランレートは呆れた顔をして、
眠っている亜紀の診察を始めた。
誰もが疑うようなランレートの変な診察。
イルドナは首を傾げながら、その様子を見守った。
亜紀の顔に息をふぅっと吹きかけたり、耳の穴を軽くほじってみたり、しまいには鼻の穴に..
「おいおい..」
さすがのイルドナも、その診察はいかがなものかと思った。
「ちょっと黙っててよ」
ランレートの不機嫌な顔。
イルドナは口をへの字に曲げながら、黙ることとなる。
ガァァァ――――
「入るぞ」
低い声が聞こえ、クラーザが入室してきた。
「クラーザ」
イルドナはすぐさま、クラーザに助けを求めるような声を出した。
『こいつ、頭おかしいぞ』そう言う表情をまざまざと見せる。
「様子はどうだ」
クラーザがランレートに尋ねると、
ランレートは変な診察をようやく止めて、クラーザに振り返った。
「うん..それが..」
しぶるランレート。眉間にシワを寄せている。
「なんなんだよっ!お姉ちゃんは大丈夫なのかよ!
早く治せよ!ばかっ!!」
男の子が罵声を浴びせる。
イルドナは『糞ガキ』と言うような目線を送るが、
クラーザもランレートも、知らぬ顔をしている。
男の子の生意気な態度に、そろそろ慣れてきたところだ。
ランレートは顎を触りながら、
言いにくそうに診断結果を話しだす。
「かなり――――深刻な状態だ。
もって2・3週間だろう..」
「なっ..!!!!」
イルドナが衝撃的な結果に息を止める。
「――――」
クラーザも大きく眼を見開き、驚きを隠せぬ様子。
「うわぁぁぁあん!!!!!
嘘だぁ!なんでそんなこと言うんだよぉ!!ばかっ!」
男の子は騒ぎ立てる。
亜紀にしがみついて、やだやだと首を振る。
「その病に効く薬はないのか」
思わずクラーザが口にした。ランレートは頷く。
「薬なんてものはないよ。
なんてったって、これは病じゃあないからね」
「どういう意味だ?
病じゃないなら、一体なんだってんだ?」
イルドナが苛立つ。
ランレートのはっきりしない態度が気に入らない。
「寿命だよ」
イルドナを見返すように視線をよこしたランレートもまた苛立っていた。
「―――ん...」
亜紀は深い眠りから、ようやく目が覚めた。
まるで、小鳥のさえずりに起こされたかのように、清々しく目が覚める。
パサッ..
布団から上半身を起こし、
すぐに近くにいたクラーザを見付ける。
「あ..」
何かを言いかけて、口を閉じそうになる。
「具合はどうだ」
クラーザから尋ねてきた。
冷たい眼に変わりないが、なんとなく温かさ感じる。
「ごめんなさい..アタシ、大丈夫..」
クラーザが近くにいてくれたことに、ほっとする亜紀。
少しの立ちくらみはあるが、
置いて旅立たれるのは嫌なので、平気を装う。
「その..」
「え?なぁに??」
クラーザが言葉を選ぶ顔をすると、
亜紀は食い付くように寄ってくる。
「あの..行きたい場所とか..あるのか」
「え..?」
『蛇威丸の元に帰りたいのか』とは、クラーザは聞けなかった。
いや、聞きたくなかった。
「あんたの行きたい場所に、連れて行ってやる」
クラーザはそう言いながら、
亜紀の返事を聞きたくないような目をしていた。
「...?」
亜紀はそれがどういう意味を表すのか理解できなかった。
「...」
「行きたい場所なんて..ないよ。
あなたの側にいさせて..」
遠慮がちに答える。
クラーザは自分が亜紀に無理矢理そう答えさせてるように思えたが、どこかほっとする。
「そうか」
「...」
亜紀は静かにクラーザを見つめた。
クラーザが無事で良かった。
だが、こうやって無事でいるということは、
先程の戦いは蛇威丸の方が負けたのだろうか..
蛇威丸の安否が無性に気になったが、亜紀は口には出さないことにした。
蛇威丸も心配だが、自分はクラーザを選んだのだから。
「怪我――――」
「えっ??」
「怪我..していたが、何かあったのか」
クラーザが小さな声で独り言のように呟いた。
ランレートが亜紀の診察をしている時に、あちこちの傷を見付け、クラーザに報告したのだ。
「あ..」
亜紀は自分の胸元に手を当てる。
蛇威丸に乱暴されたことしか思い当たらない。
ぶたれた顔や身体。
縛られた腕。
そして、沢山のキスマーク。
「心配するな。傷は完治してる」
ランレートの能力で痣は消えた。
「あ..アタシ...」
亜紀は胸元の手にぐっと力を込める。
もしかして、キスマークをクラーザに見られたのかと不安になった。
汚された自分を見られてしまったのかと、悲しくなって泣き出す。
「..なぜ泣く」
クラーザははっとした顔をして、亜紀を見つめ返す。
「み..見たの..?アタシの身体..見たの..?」
「誤解するな。
あんたの傷を治しただけだ。何もしていない」
クラーザの慌てた態度に、亜紀は首を横に何度も振る。
「違う..そうじゃなくて..」
「...」
小さく震える亜紀を、クラーザは心配そうに見つめる。
「アタシ..汚いから..あなたに見られたく..ないの。
見られて..嫌われたくないの..」
「汚いって..」
クラーザは困ったような顔をした。
小さな亜紀を抱き寄せたくなる。
「怖かった...怖くて..怖くて..
アタシ..あなたの名前を呼んだの。
助けてほしくて..
あなたには届かないってわかってるのに、
あなたを何度も何度も呼んだの..」
亜紀は我がままになる。
つい、クラーザに甘えて困らせたくなった。
「すごく怖くて..」
亜紀は顔を隠して泣き出した。
今更、思い出して身を震わせる。
トン..
クラーザは座り込んでいる亜紀の肩に手を置いた。
「なぜ俺を呼んだ。聞こえる訳がないだろう..」
言葉はキツいが、口調は優しい。
とても困っているようだった。
「どうして..来てくれなかったの..
ずっとずっと、あなたを呼んでたのに...」
クラーザに会いたかった。
クラーザをずっと求めていた。
「...」
一人で落ち込んでいる亜紀を見ているクラーザは、
いきなり胸が苦しくなった。
「アタシずっと、あなたのことを想っていたの..」
グッ..
突然クラーザは亜紀を引き寄せて、強く抱き締めた。
「あっ..」
亜紀は自分からクラーザを求めたのに、まさかと思って驚く。
クラーザは亜紀の華奢な身体を強く抱きしめ、
亜紀の顔を自分の大きな胸に押し付ける。
ググッ..
「――――」
クラーザは亜紀を包み込んで、離さなかった。
(....クラーザ....)
ずっとクラーザの胸に引き寄せられることを願っていたのに、
いざ、その腕に包み込まれると、
安心することができなかった。
「――――」
グッ..
無言で亜紀を抱き締めるクラーザ。
その胸はとても熱かった。
ドキン...ドキン...ドキン...
居心地が悪く、身動きが取れない。
「...ん..」
亜紀はクラーザの腕の中で、小さく身をよじった。
慣れているはずの力強いクラーザの腕が、全く落ち着かない。
...ドキン...ドキン...
それは、新鮮な気持ちだった。
「――――」
「....」
(アタシ..緊張してる..)
まるで初めて好きな男に、
抱き締められているようだった。
緊張していたが、
クラーザが抱き寄せてくれたので、
それに応えようと、亜紀は両手をクラーザの広い背中に回した。
ギュッ..
しがみ付くように抱き付く亜紀。
クラーザも更に力を加えてきた。
「....」
「....」
無言で抱き合うふたり。
どちらも何も話さなくなった。
クラーザは、どうして抱き締めてくれるのだろう..
亜紀の脳裏に疑問が浮かんだが、
答えは見付からなかった。
グイ――..
するとクラーザは、そっと亜紀を引き離した。
それでも、互いに背中に手を回したままだ。
至近距離で目と目が通じ合う。
「...ラーザ...」
小さな声で、微かに亜紀はクラーザの名を呼んだ。
「―――」
クラーザは紅い眼を細めた。
互いの顔が近づく..
「....」
すっと近付いた顔は、
唇が今にも触れそうな距離で止まった。
触れたいけど、触れられない..
近付きたいけど、近付くことができない..
互いに、確かな壁を感じていた。
だが、今ならすぐにでも壊してしまえる壁だ。
後ほんのわずかで、触れ合うことができる..
『アキは俺のだ!』
ふと、クラーザの記憶の蛇威丸が叫んだ。
『蛇威丸の女』
そう言ったグラベンの言葉も気にかかり始める。
「―――」
クラーザの視線が固まる。
冷静さを取り戻し始めた。
キュッ..
なんとなくクラーザの空気が変わったのに気付いた亜紀は、クラーザの服の裾を握った。
やっぱり..突き放されちゃうの..?
優しい眼付きから、
次第に冷徹な眼に変わってゆくのが、目に見えてわかった。
スルスルと放されていくクラーザの手。
「..ふぅっ...」
亜紀の口から、咄嗟に嘆きの声がもれた。
やだ..離れていかないで..
アタシから、どんどん遠ざかっていかないで..
あなたとアタシとの間に、
厚くて大きな壁を、いくつもつくってしまわないで..
それは、口に出して言える言葉ではなかった。
口にすれば、きっともっとクラーザは遠ざかってしまうだろう。
「....はぁっ..」
泣き声を必死に殺す亜紀。
泣いたところで、どうにかなるものか。
泣くことで、余計に引いてしまうだけだ。
けれど、なぜか..
そう分かっていればいる程、悲しくて切なくて、
泣かずにはいられなくなってしまう。
サッ..
「―――」
クラーザは完全に手を離した。
「あ..」
亜紀は寂しそうに顔を上げた。
馬鹿みたいに泣いたせいで、クラーザが離れていってしまう。
「...」
クラーザは亜紀の瞳を見つめず、目線を下にしていた。
パサッ..
亜紀も伸ばしていた手を離した。
いつまでも、しつこくしてはいけない。
クラーザには『覚醒者』という立場がある。
あまり困らせてはいけない。
優しい人だから...
迷惑かけては、我がままを言ってはいけない。
「――あの..あぁ..あの....」
亜紀は何か言わなければと試行錯誤して、この場にふさわしい言葉を考える。
「...」
オロオロしている亜紀が何か言おうとしているのを、
クラーザはじっと待った。
「あっ..えっと..アタシに触っちゃダメ..
アタシ妖魔女だし、力がその...弱くなっちゃうかもだから..」
『そんなことはないハズだけど』
と付け加えながら、亜紀は慌てて言った。
「―――なぜ泣く」
「えっ?」
クラーザに言われて、亜紀は顔に手を当てた。
無理して笑顔をつくろうとしている瞳からは、ポロポロと涙が溢れてきている。
もう泣きたくないのに、
次から次へと大粒の涙が溢れてくる。
ササッ..
亜紀は無造作にそれを拭って虚勢を張る。
「ほっとしただけ..!
ちょっと怖い思いしたから、今頃になってほっとして泣けたの!でも、もう平気!
誰かに優しくされると、無駄に泣けてきちゃう!」
笑顔を見せる亜紀。
だが、涙は止まらない。
「アタシに触っちゃダメ..
あなたの力、吸い取っちゃうかもしれないもの!
また怒らせるの嫌だし、睨まれるのも嫌だもん..!」
「―――」
スッ..
無理して笑う亜紀の頬に、
クラーザが再び手を伸ばして触れてきた。
「えっ..」
亜紀は動揺して、後ろに身を引こうとする。
グッ――..
だが、クラーザの長い腕が、
また一瞬にして、亜紀を引き寄せた。
「あ...」
亜紀は簡単に抱き寄せられてしまい、顔を上げた瞬間...
「ん..」
クラーザの方から唇を重ねてきた。
深い口づけ。
ギュッ..
亜紀の身体を強く抱き締めながら、クラーザは熱い口づけを交わしてきた。
「―――」
無言のまま、クラーザは唇を放し、
再び強く亜紀を抱き締める。
ドキン..ドキン..ドッキン..
亜紀の胸の高鳴りが、スピードを上げる。
「...クラーザァ..」
キュッ..
亜紀ももう離れまいと、クラーザにしがみついた。
簡単に壊されてしまう、亜紀の強がり。
クラーザがまた亜紀を引き離し、
顔を近付けると、目が通じ合う。
「...」
「...」
言葉もなく、ただ見つめ合っているだけで、どんどん気持ちが溢れてきた。
スッ..
クラーザが亜紀の頬に手を当て、
真っ直ぐに亜紀を見つめると、亜紀はゆっくりと瞳を閉じた。
「―――」
クラーザも紅い眼を細める。
うっすらと眼を開けたまま、再び唇を重ねた。
深い口づけ..
クラーザも亜紀も、
その瞬間から、無我夢中で互いの唇を求めあう。
「...っ」
息ができない程に、長い口づけが続く。
亜紀がクラーザの首に手を回せば、
クラーザは亜紀の背中に手を回し、しっかりと抱き合う。
気持ちが高ぶっている亜紀が、
胸を上下させて息を荒くすれば、
クラーザは額を押しあてて、
亜紀の両頬に触れて、小さな唇を見つめる。
..だがふたりは、すぐに唇を寄せあう。
とにかく、慌てるように唇を交わしあった。
トサッ..
そして、ふたりは布団の上に倒れ込んだ。
「....」
「....」
無言のまま、ふたりは言葉も交わさず、
いや..
言葉を交わせば、きっと理性が働いて身動きが取れなくなると思い、あえてふたりは本能のままに互いを求めあった。
パサッ
服が擦れる音。
クラーザはランレートが着せ替えた亜紀の着物を少しずつ脱がせていく。
帯を締めたまま、胸元がはだける。
脚元がいやらしく見え隠れする。
スッ..
クラーザの手はするすると亜紀のひんやり冷たい肌に触れていく。
クラーザの熱い大きな手が、亜紀の白い肌を赤く染めていった。
「....っ」
亜紀は声を殺して、クラーザの愛撫を感じた。
深い口づけは互いの心を近付けた。
クラーザ..
クラーザ..
亜紀は夢中でクラーザを呼び続けた。
クラーザを求め続けた。
いつの間にか、涙は止まっていた。
クラーザの服も乱れ、
更にふたりが近付こうとした時..
ガタッ―――!
部屋の扉が勝手に開いた。
「――――クラーザ」
そこに現れたのは、
何も知らずに部屋の扉を開いたイルドナだった。
「..ぁわっ..!」
咄嗟にイルドナは驚きの声を上げた。
「―――!」
その声で、ようやくふたりはイルドナの存在に気付く。
バタン!!!
「申し訳ない!」
慌てふためくイルドナは、
勢い良く今開けた扉を再び閉めた。
「....」
「....」
ガタガタッ..
部屋の外で、イルドナがじたばたと動揺している音が聞こえた。
そして、扉近くでイルドナがクラーザに向かって声をかける。
「―――あ゛っ...グッ..グラベンの傷が完全回復したんで、ランレートがクラーザを呼んで来るようにと..!」
パサ..
シュッ...
イルドナが言葉に詰まりながら話している間に、
クラーザが衣類を着直す。
「って言っても...ただ、また酒を飲むとかそんなだろうから、別にそんななんて言うか、絶対に来いとかそんなんじゃない感じではあったしっ..」
サッ...
亜紀は盗み見するようにして、チラッとだけクラーザに視線をよこしたが、クラーザは亜紀を一切見なかった。
「まぁその..つまり別にその快気祝い的な感じ?って訳だろうし、私もその別に暇だったから、ちょっとまぁこちらに寄ってみただけで..」
イルドナらしからぬ動揺。
声すら裏返りそうだ。
ガタッ―――
「ぅおっ...クラーザ..!」
いきなり扉を開けて、部屋を退出しようとするクラーザに、再びイルドナは声を上げて驚いた。
「――」
スッ..
クラーザはイルドナに眼も合わさず、
黙って横を通り過ぎて行こうとした。
「クラーザ..どこへ?」
イルドナはまばたきを何度もしながら、クラーザに問いかけたが、クラーザは全く何も答えずに、グラベンやランレートのいる部屋とは逆の方向に、早々と立ち去って行った。
「...........マズかったのだろうか..」
イルドナは、恥ずかしながら自分を責めた。
ギシッ――..
イルドナはクラーザの背中を見送ると、部屋の中を覗いた。
「....」
部屋の中では、
着物を乱した美しい妖魔女が、
余韻に浸りながら、自分の身体を抱えていた。
「すっ..すまん..
その悪気はなかったんだか、癖でつい..」
イルドナは頭の後頭部に手をあてながら、必死に亜紀に言い訳しようとしていた。
「....」
亜紀は何か返事をしようとしたが、その場にふさわしいと思われる言葉が見つからず、結局何も言えないままだった。
タッ..タッ..タッ..タッ..タッ..
「...」
クラーザは早足で宿を出た。
その足が何かを急かしているようで、クラーザの苛立ちを表していた。
なぜだ..
急速に亜紀に惹かれていく自分に、クラーザは戸惑っていた。
なぜだ..!
そんな亜紀がもう長くは生きられないということに、なかなか納得がいかない。
「なんでだ.....!!」
ドサッ..
クラーザは宿を出て、人気のない場所に出てすぐに、
地面に膝をついて頭を抱えた。
「....っ....!」
肩が震える。
不安か?
戸惑いか?
悲しみなのか?
クラーザは顔を覆って、小さくうずくまった。
―――亜紀の..
クラーザの心にすっと入り込んでくる亜紀の愛らしい笑顔が、クラーザの脳裏に広がり、クラーザの心を苦しくさせた。
「嫌だ...」
「今、なんて...?」
その日の夕方、クラーザが宿に戻ると、
皆が集合した部屋で、ランレートが何かを悟った顔で話をした。
「彼女を元の世界に帰す。
そう言ったんだよ、クラーザ」
「元の世界..」
クラーザはランレートの言葉を繰り返す。
体調が優れない亜紀も、
訳のわからないといった表情を見せた。
「それが唯一、君が生き残れる道なんだよ。
色々、調べてはみたんだけど、それしか方法がない」
「ラン、そりゃどーゆー意味だ?訳がわかんねぇぞ」
グラベンは胡座をかいて、首を傾げた。
ランレートは亜紀の正面に座り、亜紀の肩をぽんと叩いた。
「落ち着いて聞いてね。
君は...もう長くは生きられない」
「えっ..」
亜紀の表情が一気に曇る。
「君は時代を越えて来ているね?
式神の男の子からも、話は聞いているよ。
それで...君は時代を越え過ぎている。
それが君の寿命を縮めている原因だ。
身体が適応しきれず、かなりの負担がかかっている」
「あ..」
亜紀はわなわなと震え、顔を歪める。
「ラン、本気でそんなこと信じてんのか?
時代を越えるなんて、ありえねぇだろ??
式神の話を鵜呑みにし過ぎだろっ?」
「グラベン君、これは本当の話だ。間違いないよ」
「まさかっ...」
イルドナも信じられないという顔で、目を見開いてランレートの話に耳を傾ける。
「嘘なもんかぁ!!!」
男の子はグラベンに怒鳴り、亜紀の身体にしがみついた。
「本当かよ..」
グラベンは顔を引きつらせる。
「出来るかどうかはわからないけれど、
彼女をこの世界に来る前に戻す」
ランレートは『もちろん、君も』と、式神の男の子にも語りかけた。
「そんなこと出来るのか?一体どうやるってんだ?」
イルドナは皆の顔をかわるがわる見つめる。
「やったことはないけど、
時間を戻す魔術を、昔に聞いたことがある」
「黒魔術か」
クラーザが呟くと、ランレートは頷く。
黒魔術は負担が大きく、代償も大きかった。
恐ろしい術なのだ。
すると亜紀がじわりと冷や汗を流し、ランレートの腕にすがりついた。
「やっ―――嫌です..!アタシ..帰りたくない...!」
元の世界。
それは、クラーザのいない亜紀が生まれ育った世界。
それとも、クラーザが死んでしまった闇の世界のどちらかだ。
どちらも亜紀の愛するクラーザはいない。
「なぜ帰りたくないのか、
理由は知らないけれど、
このままでは、君はすぐにでも死んでしまうのだよ」
ランレートは掴まれた腕を見つめて、
亜紀を説得するように、重みのある声で言った。
「―――」
亜紀は瞳を潤ませた。
自分が死ぬ...
クラーザの方を見る。
クラーザは亜紀の顔を見つめ返し、顔を背けた。
「―――帰ったとしても..アタシは死んだも同然なの..」
死ぬように生きる。
それならば、残りの時間をクラーザの顔を見て生きて、静かに死んでゆきたい。
亜紀の意味深な発言に、一同は沈黙となった。
「馬鹿言うんじゃねぇ..!」
その沈黙を破ったのは、チームのリーダー、グラベンだった。
「死んだ後始末を誰がしなきゃならねぇと思ってんだ!
妖魔女なんざ、死んだら何が起こるかわかんねぇってのに、後始末なんかできねぇぞ!!
死ぬなら、てめぇの世界で死ねってんだ!」
ドンッと畳を叩いて、グラベンは亜紀を睨んだ。
「...うっ...」
グラベンのあまりに酷い言葉に亜紀は泣き出した。
「グラベン君..」
さすがにランレートも、亜紀の立場が可哀想に思えた。
「死にたきゃ勝手に死ね!
けどな!この世界で死ぬことは許さねぇぞ!!!」
亜紀と式神の男の子以外の誰もが、グラベンは亜紀を生かそうとして言っているのだということをわかっていた。
だが、あんまりな言葉だ。
「ましてや、こっちには覚醒者のクラーザがいるってのに!」
「...ごめんなさい..」
亜紀は肩を落として、深々と謝罪する。
「うぇぇぇん!ばかぁぁあ!!!
お姉ちゃんに死ね死ね言うなぁ!」
式神の男の子が暴れだす。
「―――もう...とにかく皆、落ち着いてよ..」
ランレートは困惑した顔で、ため息をついた。
「で?ラン、どうやったら、
その時間とやらを戻せるんだ?」
グラベンが事を急がせる。
クラーザはただ黙っていた。
「とにかく..一度、村に戻ろう。
黒魔術をするのに、今回は色々と準備がいる」
ランレートはパザナの村に帰ることを提案した。
まずは、安全な地を確保することだ。
「ふぅっ...うっ―――..」
亜紀は泣いてるかと思えば、いきなり息苦しそうにした。
腹部を押さえ、苦しがる。
グイッ..!
「―――どうしたっ」
ふいにクラーザが亜紀の身体に触れた。
「あっ――うぅっ..」
亜紀はお腹を抱えて、前屈みにうずくまった。
「おい、苦しいのか」
クラーザが問い掛けると、
亜紀は真っ青にした顔を上げて、クラーザを見上げた。
「お腹が..お腹が痛い....」
「おい、あんた」
クラーザが両手を差し伸べた時、
また亜紀は気を失い、そのまま抱きかかえられるように倒れこんだ。
「やべっ!大丈夫なのかよっ!!?」
グラベンは焦って、その場を立ち上がった。
「うわぁぁん!!!!お姉ちゃぁぁあん!」
男の子は亜紀にすがりつく。
そして、いっせいにランレートに視線が集まった。
「―――思った以上に、寿命が近いね..」
この時ばかりは、皆がランレートだけを頼りにする。
「寿命って..腹痛から始まるのか?」
イルドナが突発的に思いついた疑問を口に出した。
ランレートが厳しい顔つきになる。
「実は..彼女、どうやら妊娠しているようなんだ。
なんだか不思議で、妊娠何ヵ月かがわからないんだけど..
たぶん2ヶ月くらいだと..」
「子供がいんのか...」
グラベンはごくりと唾を飲んだ。
まさか、蛇威丸の..
「...」
黙ったままのクラーザを、イルドナは横目で見つめた。
「ばかやろぉぉ!お姉ちゃんに馴々しく触るなぁ!
今更、お姉ちゃんに媚びるなんて汚いぞっ!!!!」
バカッ...バカッ..!
男の子はクラーザの腕を思いっきり叩いた。
「お姉ちゃんのお腹の子は、お前のじゃないぞっ!!!
ざまーみろっ!ばかっ!!!」
男の子が暴言を吐くので、
いつクラーザが切れてしまわないかイルドナはハラハラしたが、クラーザは無表情のままでいた。
「――――」
バスッ..バスッ..!
男の子は無茶苦茶にパンチを繰り出しながら、
ここぞとばかりに、クラーザに言いたいことをぶちまけた。
「お前なんかっ...!
お前なんか、お姉ちゃんに『涙』を流させてばっかで、余計に寿命が縮まるんだよっ!!!
この野郎っ!お姉ちゃんの命を返せっ!ばかっ!」
「...離せ」
クラーザは軽く男の子の腕を振り払う。
「無愛想なツラしてさぁ!
そんなんで、ワガママ言ってお姉ちゃんを振り回すなぁっ!!!」
男の子はクラーザとは会話もしたことがない。
前の世界で、クラーザと亜紀がもめていたのを見たことがあるだけだ。
男の子はクラーザを初めて見た時から、敵意識が芽生えていた。
男の子は亜紀を気に入っている。
その亜紀がクラーザを目で一生懸命に追いかけているのを見るのが、つまらなかった。
...単に、子供の焼きもちだ。
「お前なんかなぁ!邪魔者なんだよ――――だっ!」
「離れろ」
ドンッ!
男の子が憎たらしくあっかんべをした時、
クラーザは強く男の子を突き放した。
「―――うっ...わぁぁぁん!!
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所詮、子供である。
男の子は畳にしりもちを着いて、わめき声を上げた。
「お..おい、クラーザ。そんな、ムキになんなよ。
そのガキ騒がせたら、うるさくてたまんねぇんだよ」
グラベンは頭を掻き毟った。
普段が無表情なクラーザも、額に手を当てて、ため息をつく。
「まぁまぁ...
上手く時間を戻せれば、
お姉ちゃんが死ぬことはないんだしさぁ..
そんなに、大声出さないでよぉ」
ランレートが男の子をあやしにかかった。
男の子はランレートを睨み付けながら、ジタバタと暴れている。
「んじゃ、さっさとやれよぉ!!!
早く僕とお姉ちゃんを、元の世界に帰せぇ!
こんなところにいたくないんだよっ!ばかっ!!!」
こんな様子では、気絶して倒れた亜紀が、男の子の声で起きるのではないかと思うくらいだった。
「わかってるよ。
でも今回の魔術は、私一人では不可能だから、ちょっと気が引けるけど、昔の知人に助けを求めるよ」
ランレートもため息をついた。
グラベン一行は、結局、その宿には宿泊せずに、
夜のうちにパザナの村に向かって走り出した。
黒魔術士のランレート。
覚醒者のクラーザ。
その二人に加え、力自慢のイルドナ。
グラベンも完全回復し、この一行が向こうところ敵無しの状況だった。
あっという間に、目的地にたどり着く。
パザナの村に入ったのは、翌日の早朝であった。
かゆが起き、亜紀の姿を目にして怒りだす前。
まだ空が薄暗い時に、クラーザは旅立つことになる。
「今度の仕事はいつまで?」
支度を始めているクラーザに、後ろからランレートが尋ねた。
ランレートの真横にはイルドナもいる。
「10日程..」
「結構長いんだね。なるべく早く帰って来れるかな」
「やることは二件だけだから。
イルドナは置いていくし、何かあれば代わりにイルドナを」
「わかったよ。
クラーザの代わりに、たんまりとこき使わせてもらうよ」
クラーザの今度の仕事は、大規模なものだった。
新羅に出会うきっかけとなる任務である。
結局、イルドナは不参加の為、
パラン総長と仕事をすることはなかった。
スッ..
クラーザは小さな荷物を抱えて立ち上がった。
「クラーザ」
イルドナが呼び止める。
「...」
クラーザは静かに振り向いた。
「私が行こうか..?」
仕事には自分が出向こうと言いだすイルドナ。
10日もクラーザを旅立たせるのは、なんだか気が引けた。
「...」
イルドナの細やかな気遣いが、クラーザにはわかった。
「クラーザ..」
一歩前に進み出てきたイルドナに、
クラーザは首を横に振って、イルドナの肩に手を置いた。
トン..
「イルドナ、あいつを頼む」
いつ死ぬか分からない状態の亜紀から、クラーザを引き離すのは、なぜか可哀想だとイルドナは思っていた。
あれだけ、クラーザのことを慕っている。
それにクラーザも..
「...わかった」
だが、男に二言はない。
頼りにされたのなら、それ以上のことをやってやろう。
イルドナはそう心に決めた。
「では、行って来る」
「うん、クラーザ頑張ってね」
ランレートは笑顔でクラーザを見送った。
「なに考えてんのよっっ!!!!!」
想像通りのかゆの雄叫びが、村中に響き渡った。
「意味わかんないっ!!意味わかんないっっ!!!!
なんで、また連れて帰ってくんのよっ!!
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これは予想外。
かゆのみならず、みーちゃんもくどい程にグラベンをまくし立てる。
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グラベンが何か声を発しても、二人は聞く余地もない。
「グラベンのばかっ!!
さっさと今すぐに、どこかに捨ててきてよ―――っ!!!」
かゆは全身を怒りで震わせている。
グラベンがやっと村に帰ってきたと思ったら、やはりこれだ。
「そうよっ!!!
とっとと始末しなきゃ、許さないわよっ!」
みーちゃんもかゆに便乗して、怒りを倍増させる。
「やっと帰ってきたと思えば、
いっつもいっつも、いらないことばっかりして!
無駄なことばっかりで、
お金は全く持って帰ってこないんだからっ!!!!」
ここぞとばかりに、かゆは溜まっていた気持ちをぶちまける。
「そうよ!そうよ!
そんなんだったら、ずぅ―っと帰ってこなくていいわよっ!!!
帰ってくるなら、手土産の一つでも持って帰ってきてみなさいよっ!」
みーちゃんは口から産まれたような人で、口が達者だ。
この村に来て、さほど日数は経っていないのに偉そうな態度である。
二人は、息をつく間もなく、
怒涛のように怒鳴りまくった。
「うるせぇ―――っっ!!!!!」
すると、いきなりグラベンが爆発した。
二人に向かって指をさし、
今度は反対にグラベンが怒鳴り始めた。
「おめぇらは、黙るってことができねぇのか!
やっと帰ってこれたと思ったのに、わぁわぁ文句言いやがってっ!
女らしく『おかえりなさい』って何で言えねんだよ!!!
こんな家なら、もう二度と帰らねぇぞっ!」
「あ..ぅ...」
かゆが、一瞬ひるむ。
が、みーちゃんが黙っていなかった。
「じゃあ、さっさと出て行きなさいよ!せいせいするわっ!!!」
「ふざけんなっ!!!この村は俺の村だぞ!
出て行くのはおめぇの方だ!」
『あっちへ行け』というように、
グラベンは手で二人を追い払う仕草をする。
「いるかいないかも分からないような奴が、偉そうなこと言わないでよ!
ここを守ってあげてるのは、私達なんだからねっ!!!!!」
「守ってあげてるだとぉ!?ちゃんちら可笑しいぜ!!」
グラベンとみーちゃんの一騎打ちになる。
カタッ..
そのうちに、気絶して眠っていた亜紀の目が覚める。
グラベンの横で寝かされていた亜紀が、大きな口論の声で起きた。
「ぎゃっ!!!鬼が起き上がった!」
みーちゃんはわざとらしく、亜紀に脅える真似をする。
「てんめぇ...!」
みーちゃんの口の悪さに、グラベンは更に怒りを込み上げた。
「アタシの...せいですか..」
亜紀は口論の原因が自分にあるのではないかと、不安な表情を見せた。
「はぁぁ?いきなり何よっ!!
許可するまで、あんたは口を開かないで!」
「この野郎!てめぇいい加減にしろよ!」
グラベンがドンと床を叩く。
だが、みーちゃんは一瞬も引かない。
「また呪われるかもしれないじゃない!
自分の身を自分で守って何が悪いのよっ!」
「誰がいつ呪ったってんだよ!嘘ばっかつくなっ!!!!」
「いつ私が嘘をつ..」
激しい口論が再び勃発しそうな時、亜紀は『待って』と話の中に入り込んだ。
「どうして..どうして喧嘩するの..?」
「はぁ...?」
亜紀の問いかけに、みーちゃんは馬鹿馬鹿しいという顔をした。
「喧嘩って..」
グラベンもつい口をつぐむ。
「あなたのせいよ。あなたがいるから..」
かゆが事の発端の原因となった亜紀を見つめた。
亜紀はそう言われることは分かっていたので、悲しむことなく事実を受け入れる。
「アタシはすぐにいなくなります。
だから..グラベンさんを責めないで」
美し過ぎる亜紀。
寝起きさえも、なおも亜紀の儚げな美しさを増して見せていた。
「なんで、あなたにそんなこと言われなくちゃいけないのよ..」
なんだか腹が立つ。
かゆは、亜紀をライバル視した。
「言われなきゃ..きっとわからないでしょ..?」
この時の亜紀は、今までと違っていた。
口調はいつもと変わりなく優しいが、言葉に刺があった。
何かを伝えようとしていた。
「なっ...!」
「グラベンさんは、傷を負って死にそうだったの。
やっと傷が癒えて...
やっと帰ってきたのに...
どうして優しくしてあげられないの...?」
かゆもみーちゃんも、面食らった顔をしていた。
どうして見知らぬ妖魔女に、こんなことを言われなくてはならないのか、とても腹立たしかったが、正論を言われているようで、何も強く言い返せなくなる。
「今度こそ本当に死んじゃうかもしれないのに...
かゆさんは、それでいいの?」
「――――っ」
ガタン!
気分を損ねたかゆは立ち上がった。
すぐに部屋を出て行こうとする。
ピタ..
だが、亜紀に一言残していく。
「私は――――グラベンが死ぬかもしれないから、
優しくしなきゃいけないの!?人は皆死ぬわ。
そんなこと考えていたら、私の身がもたないわよ!」
「待って!」
亜紀はすぐにかゆの手を握り、
かゆが行かないように止めた。
「かゆさんは..?
もしかしたら、明日自分が死ぬかもしれないとしたら..
グラベンさんと喧嘩ばかりしていて後悔しないの..?
それで天国に行けるの..?」
亜紀の大きな瞳が、かゆの言葉を待った。
「離してよっ!!!」
かゆは亜紀の手を振り切った。
「例え明日死んだって後悔しないわよ!
私はグラベンの癒しの為に生きている訳じゃないのよ!!」
バッ..!
かゆは怒りをぶちまけて、さっさと部屋を出て行った。
「....」
亜紀は振り切られた手が寂しく感じた。
「..........」
グラベンは亜紀のしょぼんとした横顔を見つめていた。
亜紀の為をと思って先程言った、
『死ぬなら自分の世界で死ね』の言葉に罪悪感を感じる。
亜紀がとても小さくて儚くて繊細に見えた。
「...ごめんなさい..」
亜紀は誰に謝る訳でなく、呟くようにそう言った。
「はぁ?何か言った!?ってか、いついなくなるのよ?
目が覚めたのなら、とっとといなくなってよね!」
やたら強気のみーちゃんが、
捨て台詞を吐いて、かゆの後を追って部屋から出ていく。
カタンッ..
「...」
亜紀は黙って俯いていた。
「おう...具合はどうだよ?
なんか...うるさくして起こしちまって、ワリかったな」
「え...いえ..」
緊張した面持ちの亜紀は、真っ直ぐ視線を飛ばしてくるグラベンに、遠慮がちに返事をした。
『ど―――――して俺は、かゆの言葉を、もっと真剣に聞いてやらなかったんだろうなぁ!!!!...って今更、後悔してる!』
結局は、かゆが先に死んで、
グラベンがそうぼやくことになる。
『こうなることがわかってりゃ、
退屈な話でも、1日中、聞いてやったのになぁ...』
逆に、グラベンが先に死ぬことになっていたのならば、かゆはグラベンと同じことを言うのだろうか..
いや..
かゆならば、きっとグラベンのように後悔したりしないのであろう。
とても悲しくなる、現実である。
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意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
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