碧落に君は消えゆく

藤橋峰妙

文字の大きさ
上 下
8 / 10
第一章 根雪

04 遠吠え

しおりを挟む

 アズサは声の出所を探し、しばらく川沿いを歩き続けた。
 そして、山側の岩壁に、ぽかりと空いた穴を見つけた。膝を付いて身を屈めれば入れる洞穴だ。助けた獣は小型の犬ほどであったからここにいるのかもしれない。そう思って、アズサは入口へ近づいた。
 洞穴の入り口に、打ち付けられた雪と岩肌の黒色がはっきりとした境界線を作っていた。その上にはアズサが追いかけていた赤い血の跡が残っている。

「いるの?」

 アズサは洞穴の奥に声を投げた。返事は無い。
 からん、とランタンが揺れ、湿った穴の岩肌を橙色の光が照らした。アズサは唇を引き結んで洞穴の中に体を潜らせた。

 入口の狭さとは一転して、中には広々とした空間が存在していた。手を付いて立ち上がったアズサは、目の前の光景に思わず言葉を失った。

「こ、氷……?」

 そこは、天井から壁、地面まで、青く透き通った物体に囲まれていたのだ。
 アズサは初め、青い氷かと思った。しかしそれはよく見ると不思議な色合いをしていた。深い瑠璃色、薄い水色、透明、緑がかった色。ランタンの光によって、様々な色に変化していく。その壁はどこかじんわりとした熱を帯びていた。

「なんだろう、氷じゃないのかな。でも、石でもない。色が、動いてる……うわっ!」

 ぬるい水に触れたような、人肌にふれたような暖かさに、アズサは驚いて手を引いてしまった。氷だと思っていたのに、冷たくない。洞穴の全てが得体の知らないもののようで、天井の岩肌からぴちゃんと垂れ落ちた雫の音も、ただ静かな岩肌も、全てが不気味な気配を纏っている。
 
「なんだろう、これ……」

 岩壁から突き出た塊にもう一度触れようと、アズサが手を伸ばしたその時だった。洞穴の奥から、唸り声が聞こえてきた。

 ――グルル、グルルル……。

 静かな足音と獣の低い声に、アズサは振り返った。地の底から溢れ出すような声が洞穴の暗闇から聞こえる。まるで、酷い痛みを身体の内側に押しとどめているような声だ。

「そこにいるの?」

 アズサはランタンを向けた。

 洞穴の奥から、銀色の小さな獣が現れた。獣は長い鼻筋に皺を寄せ、牙を剥き、眼光を光らせてアズサを睨み付けている。
 その銀色の毛並みは鈍く曇っていた。以前は輝いて見えていたその毛並みも、今では血と泥に塗れて見る影もない。銀糸の毛並みの一部は赤黒く固まっている。
 幼さの抜けきらない丸い瞳が、警戒の色を強めてアズサを睨んでいた。

「だ、大丈夫だよ。僕だ、忘れちゃった?」

 恐る恐る話しかけると、獣はさらに顔を歪めて足を後ろへ引く。細められたその金の瞳が、静かに揺れていた。
 敵意や怒りではない。恐れと不安がひしひしと伝わってくるようで、アズサは優し気に語りかた。
 
「だいじょーぶ、大丈夫だよ。痛くて、つらいよね」

 狼の子供だろうかと、始めにアズサは思っていた。その顔と胴体がこの山に棲む野生の狼にも似ていたからだ。
 しかし、その背には二対の鷲のような羽が生えていたのだ。首のたてがみは馬のように長く伸び、そしてピンと立った短い二つの耳の間には丸みを帯びた角がちょこんと付いている。さらに、腰の辺りから長く伸びた毛の下には、蜥蜴の鱗のようにザラザラとした尾が生えていた。それは、アズサの知る狼の特徴ではなかった。

 ――グルルル……。

 よく見ると、右の足首の辺りに巻いた包帯が取れかけている。アズサはランタンを引いて、もう一度、静かに話し掛けた。

「怪我、まだ治っていないでしょ。だから僕、薬を取りに行ったんだ」

 薬の包みを取り出して目の前に掲げると、金色の瞳はアズサの一挙一動をじっと監視するように動いた。

「右足の包帯も取れかけているし、こんな場所にいたら、いずれ死んでしまうよ」

 丸い金の眼がアズサを貫き、獣は少しだけ唸り声をひそめた。――信用できるのか。そう問われているようでアズサは喉を鳴らした。
 アズサは膝をついて、その金色の瞳を見つめた。

「僕を信じて。――大丈夫、怪我を見るだけ。悪いことはしない」

 果たして獣に言葉が通じているか分からなかったが、獣が探るように視線を合わせてくる。しばらく、二つの影の間には静寂が満ちた。
 身動きもせずアズサは待った。心の内を見透かすような金色の瞳から、目を逸らしてはいけないような気がした。

 そのうち獣は顔を伺うように身を低くしてアズサに数歩近づくと、薬の包みに黒い鼻の頭を近づけた。二度ほど短く息を吸い込むように匂いを嗅いだと思えば、獣はくるりと背を向けて歩き出す。

「えっ、ちょっとまって!」

 引き留められた小さな獣は一度だけ振り返り、そしてまた背を向けて歩き出した。
 アズサはしばらく呆然とその場に立っていた。獣は足を引きずって数歩だけ歩くと、再び振り返って、止まったままのアズサに視線を投げる。

「……ついて来いってこと?」

 獣は、そうだとも、すんとも、何とも言わなかった。ただ無言のまま背を向けて歩き出し、立ったまま動かないアズサにまた振り返った。
 それが何度も続いて、アズサはその背に向かって足を踏み出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【本編完結済み/後日譚連載中】巻き込まれた事なかれ主義のパシリくんは争いを避けて生きていく ~生産系加護で今度こそ楽しく生きるのさ~

みやま たつむ
ファンタジー
【本編完結しました(812話)/後日譚を書くために連載中にしています。ご承知おきください】 事故死したところを別の世界に連れてかれた陽キャグループと、巻き込まれて事故死した事なかれ主義の静人。 神様から強力な加護をもらって魔物をちぎっては投げ~、ちぎっては投げ~―――なんて事をせずに、勢いで作ってしまったホムンクルスにお店を開かせて面倒な事を押し付けて自由に生きる事にした。 作った魔道具はどんな使われ方をしているのか知らないまま「のんびり気ままに好きなように生きるんだ」と魔物なんてほっといて好き勝手生きていきたい静人の物語。 「まあ、そんな平穏な生活は転移した時点で無理じゃけどな」と最高神は思うのだが―――。 ※「小説家になろう」と「カクヨム」で同時掲載しております。

もう死んでしまった私へ

ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。 幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか? 今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!! ゆるゆる設定です。

ナイナイづくしで始まった、傷物令嬢の異世界生活

天三津空らげ
ファンタジー
日本の田舎で平凡な会社員だった松田理奈は、不慮の事故で亡くなり10歳のマグダリーナに異世界転生した。転生先の子爵家は、どん底の貧乏。父は転生前の自分と同じ歳なのに仕事しない。二十五歳の青年におまるのお世話をされる最悪の日々。転生チートもないマグダリーナが、美しい魔法使いの少女に出会った時、失われた女神と幻の種族にふりまわされつつQOLが爆上がりすることになる――

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...