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五章
27.イーディスとリガロ
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「そうだ。これ、渡してくれって頼まれていたんだ」
「これは?」
「イーディスの友人達が送ってきてくれた手紙だ。ずっと心配してくれたんだ。彼らにだけは、戻ってきたことを伝えてあげなさい」
「はい! ありがとうございます」
父は大量の紙袋をイーディスに渡すと「異常がないか医者に看てもらわないと!」と手を叩いた。そして使用人にイーディスを部屋まで連れ戻すように命じた。ベッドに座りながら、袋から手紙を取り出していく。中身を確認するのは医者が来てからになるが、封筒に書かれた名前だけでも確認したかった。
ほとんどがマリアからの手紙。おそらくキースからのものも同封してあるのだろう。だがキースとローザからの手紙の倍以上ある。ずっと心配してくれていたのだろう。あちらの世界のキースが放った『馬鹿』という言葉が身にしみる。リガロからの手紙は一枚もなかった。
「私、もう捨てられたのかな……」
唇を噛みしめ、口内には血の味が広がっていく。十年間いなかったことを思えば、乙女ゲームシナリオや魔なんて関係なく仕方のないことだと言える。それでもほんの少しだけ、イーディスの身を心配してくれていたりするのではないか、なんて甘いことを考えていた。こちらの世界でも第二の剣聖になったのだろう彼が消えた女のことなんて考えている暇なんてないことくらい、あちらの世界で何度も剣聖の噂を耳にしたイーディスならよく分かっていたはずなのに。
父はずっと心配してくれた彼らにだけは戻ってきたことを伝えるように言った。そこにリガロは含まれていない。つまりはそういうことだ。
期待なんてするな。マリアが待っていてくれただけで、他の友人もこうして袋がいっぱいになるほどの手紙を送ってくれているだけありがたいのに。なぜそれ以上を望んでしまうのだろう。
「バーカバーカ、私のバーカ」
言葉を吐くごとにボロボロと涙が溢れていく。
脳筋なんて、リガロ=フライドなんて嫌いだった。
自分勝手で婚約者を簡単に捨てて、さらし者にする男が大嫌いだった。
でも今は、心の真ん中に居座る男が嫌い。
嬉しそうに笑う顔が頭に焼き付いて離れないのに、もうずっと遠くの、手を伸ばせない場所に行ってしまったリガロ=フライドという男が大嫌い。
だがそれよりも思いに気付くのが遅すぎた鈍感な自分が大大大っ嫌いだ。
◇ ◇ ◇
「イーディスが戻ったって本当ですか?」
「どこから聞きつけたのですか?」
「ここ数日、ローザ様の様子がおかしかったので聞き出しました」
リガロがローザの異変に気付いたのは三日前。
王子妃になってから淡々と仕事をこなしていた彼女が妙にそわそわするようになったのだ。スチュワート王子からは彼女に恋人が出来たのではないか。やはりバッカスと出来て……なんて相談されもしたが、リガロの頭に浮かんだのは魔の研究に進展があったのではないかということだった。彼女はイーディスが消えてからずっと魔の研究に打ち込んできた。それは王子妃になってからも変わらず、度々カルドレッド特別領に足を運んではあちらの研究者と議論を交わしている。だが二日ほど様子を見ても、彼女がカルドレッドに向かおうとする気配は一切ない。それどころか王子妃としての参加しなければならない社交の日程を聞いては渋い表情を浮かべていた。まるで今、城から離れることを拒んでいるよう。まさか、と思い、しつこくローザを問い詰めたところ、ようやく今朝口を割ってくれた。本意ではないことは表情を見れば明らかだった。リガロをイーディスに会わせたくなかったのだろう。それでも、居ても立ってもいられなかった。顔は見られずとも、せめて彼女の様子だけは聞いておきたかったのだ。すぐに馬を走らせ、フランシカ屋敷へと向かった。最近ではめっきりと足を運ぶことがなくなった、イーディスの家だ。
息を切らせてやってきたかと思えば、前のめりになるリガロに、フランシカ男爵は深いため息を吐く。黙秘を続けても無駄だと理解したのだろう。
「あなたにはあの子がこの国を去ってからお伝えするつもりでした」
「彼女の体調は?」
「かかりつけの医者と、カルドレッド領から派遣してもらった医者のどちらにも診せましたが問題はなし。帰ってきてから一日の半分以上を寝て過ごしていますが、それも疲労が原因だろうと。ただ前例のないことなので、これからのことはなんとも言えないと」
「そんな……。療養地はどちらに?」
「カルドレッド特別領とギルバート領がイーディスを預かりたいと申し出てくださっています。またバッカス様とローザ様はあの子の身元引受人になりたいと。魔についてはまだ分かっていないことが多い。ですが、魔の専門家が集まった場所なら少しでも長生きが出来るかもしれない。……私は彼らの好意に甘えるつもりです」
「私が手伝えることはありますか?」
「……イーディスは戻ってきてから一度もあなたの名前を口に出しません。何か思うところがあったのでしょう。私はザイル様の跡を継ぎ、剣聖となられたリガロ様を尊敬しています。けれど娘を渡すことは出来ません。あなたの隣では、剣聖の隣ではあの子が幸せになることは出来ませんから」
何もしてくれるな、と。
お前ではイーディスを不幸にすると突き放された。
リガロは無力だ。
剣聖の妻は栄誉なんかじゃない。次が見つかるまで剣聖と一緒に繋がれ続ける。王都を離れて隠居暮らしとなった祖父だが、未だ剣聖はつきまとう。本当の意味で解放されることなんてないのだろう。それをフランシカ男爵も分かっているからこそ、鋭利な言葉を突き刺すのだ。
自分の数年間は無駄だったのだ。剣聖になんてならなければ良かったーーそう、思えたらきっとリガロは幸せを手にしたことだろう。だがそれが偽りだと分かってしまうから。縋りそうになる手をぎゅっと抑えて頭を下げる。
「急な訪問、申し訳ありませんでした」
リガロは邪魔でしかない。
彼女の幸せを願うなら、納得しなければならない。
他の男の手を取る姿を想像すると胸が苦しくなる。
それでもどこかで笑っていてくれるのなら。
リガロは馬に跨がり、自らの屋敷へと戻る。
報酬としてもらったあの屋敷だ。フライド屋敷に居たくなくて、ここに移り住んだ。住居といっても寝に帰るだけ。大事なものなんて一つも置いていない。食事は城の食堂か屋台で摂り、使用人すらいない。たまに実家から侍女が何人か来ては掃除をしているようだが、どうでも良かった。
イーディスの死亡届が受理され、婚約関係が消滅した時、目の前は真っ暗になった。イーディスのいない世界で生きる意味が分からないと、死ぬことも考えた。それでもリガロは生き続けた。いや、生かされ続けたのだ。
しばしば、ギルバート夫人としてシンドレアに足を運ぶマリアの言葉によって。
「リガロ様が死ぬのは勝手です。けれどもしあなたが死んだ後、口さがない者が戻ってきたイーディス様にあなたの死の理由を告げたとしたら、私はあなたを許しません。土の下に埋まっているのを掘り起こしてでもあなたを責め続けます。一生を終えたくらいで逃れられると思わないでくださいね。魂が擦り切れてもなお、許すことはありませんから」
マリアは絶対に実行する。彼女は本気でイーディスが戻ってくると信じている。もしもイーディスが戻るよりも先にマリアが死んだら、彼女は棺桶の中からでも彼女の声を探し求めることだろう。そう思わせるだけの気迫と執念があった。だからリガロは死ねなかった。マリアが怖いのではない。ただ自分が死んだ後にイーディスが誰かも分からぬ相手に責められるのが嫌だったのだ。
それからリガロは空っぽの屋敷に少しずつ家具を持ち込むようになった。
イーディスが戻ってきた時、きっと自由に外に出ることは難しくなるのだろうーーと。けれど護衛として付き添った先で海を見て、イーディスを屋敷に閉じ込めていたくはないと思ってしまった。彼女は本が好きだが、同じくらい外が好きなのだ。マリアのためと貝殻を拾い、鳥の羽根を探していた彼女の目が輝いていたのことをリガロはよく知っているから。
その日を境に、リガロの価値観は少しずつ変わっていった。
イーディスのいない世界で大人にならざるを得なかった。
「俺には剣しかない。けれど剣聖で居続ける限り、魔道書が暴走した時に駆けつけられる。守ってあげられるんだ。隣に立てなくても、この場所だけは誰にも譲らない。それが、俺なりの愛なんだ」
隣に立つことは許されない。それどころかこの先、イーディスの顔を見ることすらなくなるのだろう。それでもいい。どこかで生きていてくれるのなら。
いつかイーディスが困った時に彼女の盾となれるのならば。
彼女を幸せにする役目くらい誰かに譲ったって構わなかった。
「これは?」
「イーディスの友人達が送ってきてくれた手紙だ。ずっと心配してくれたんだ。彼らにだけは、戻ってきたことを伝えてあげなさい」
「はい! ありがとうございます」
父は大量の紙袋をイーディスに渡すと「異常がないか医者に看てもらわないと!」と手を叩いた。そして使用人にイーディスを部屋まで連れ戻すように命じた。ベッドに座りながら、袋から手紙を取り出していく。中身を確認するのは医者が来てからになるが、封筒に書かれた名前だけでも確認したかった。
ほとんどがマリアからの手紙。おそらくキースからのものも同封してあるのだろう。だがキースとローザからの手紙の倍以上ある。ずっと心配してくれていたのだろう。あちらの世界のキースが放った『馬鹿』という言葉が身にしみる。リガロからの手紙は一枚もなかった。
「私、もう捨てられたのかな……」
唇を噛みしめ、口内には血の味が広がっていく。十年間いなかったことを思えば、乙女ゲームシナリオや魔なんて関係なく仕方のないことだと言える。それでもほんの少しだけ、イーディスの身を心配してくれていたりするのではないか、なんて甘いことを考えていた。こちらの世界でも第二の剣聖になったのだろう彼が消えた女のことなんて考えている暇なんてないことくらい、あちらの世界で何度も剣聖の噂を耳にしたイーディスならよく分かっていたはずなのに。
父はずっと心配してくれた彼らにだけは戻ってきたことを伝えるように言った。そこにリガロは含まれていない。つまりはそういうことだ。
期待なんてするな。マリアが待っていてくれただけで、他の友人もこうして袋がいっぱいになるほどの手紙を送ってくれているだけありがたいのに。なぜそれ以上を望んでしまうのだろう。
「バーカバーカ、私のバーカ」
言葉を吐くごとにボロボロと涙が溢れていく。
脳筋なんて、リガロ=フライドなんて嫌いだった。
自分勝手で婚約者を簡単に捨てて、さらし者にする男が大嫌いだった。
でも今は、心の真ん中に居座る男が嫌い。
嬉しそうに笑う顔が頭に焼き付いて離れないのに、もうずっと遠くの、手を伸ばせない場所に行ってしまったリガロ=フライドという男が大嫌い。
だがそれよりも思いに気付くのが遅すぎた鈍感な自分が大大大っ嫌いだ。
◇ ◇ ◇
「イーディスが戻ったって本当ですか?」
「どこから聞きつけたのですか?」
「ここ数日、ローザ様の様子がおかしかったので聞き出しました」
リガロがローザの異変に気付いたのは三日前。
王子妃になってから淡々と仕事をこなしていた彼女が妙にそわそわするようになったのだ。スチュワート王子からは彼女に恋人が出来たのではないか。やはりバッカスと出来て……なんて相談されもしたが、リガロの頭に浮かんだのは魔の研究に進展があったのではないかということだった。彼女はイーディスが消えてからずっと魔の研究に打ち込んできた。それは王子妃になってからも変わらず、度々カルドレッド特別領に足を運んではあちらの研究者と議論を交わしている。だが二日ほど様子を見ても、彼女がカルドレッドに向かおうとする気配は一切ない。それどころか王子妃としての参加しなければならない社交の日程を聞いては渋い表情を浮かべていた。まるで今、城から離れることを拒んでいるよう。まさか、と思い、しつこくローザを問い詰めたところ、ようやく今朝口を割ってくれた。本意ではないことは表情を見れば明らかだった。リガロをイーディスに会わせたくなかったのだろう。それでも、居ても立ってもいられなかった。顔は見られずとも、せめて彼女の様子だけは聞いておきたかったのだ。すぐに馬を走らせ、フランシカ屋敷へと向かった。最近ではめっきりと足を運ぶことがなくなった、イーディスの家だ。
息を切らせてやってきたかと思えば、前のめりになるリガロに、フランシカ男爵は深いため息を吐く。黙秘を続けても無駄だと理解したのだろう。
「あなたにはあの子がこの国を去ってからお伝えするつもりでした」
「彼女の体調は?」
「かかりつけの医者と、カルドレッド領から派遣してもらった医者のどちらにも診せましたが問題はなし。帰ってきてから一日の半分以上を寝て過ごしていますが、それも疲労が原因だろうと。ただ前例のないことなので、これからのことはなんとも言えないと」
「そんな……。療養地はどちらに?」
「カルドレッド特別領とギルバート領がイーディスを預かりたいと申し出てくださっています。またバッカス様とローザ様はあの子の身元引受人になりたいと。魔についてはまだ分かっていないことが多い。ですが、魔の専門家が集まった場所なら少しでも長生きが出来るかもしれない。……私は彼らの好意に甘えるつもりです」
「私が手伝えることはありますか?」
「……イーディスは戻ってきてから一度もあなたの名前を口に出しません。何か思うところがあったのでしょう。私はザイル様の跡を継ぎ、剣聖となられたリガロ様を尊敬しています。けれど娘を渡すことは出来ません。あなたの隣では、剣聖の隣ではあの子が幸せになることは出来ませんから」
何もしてくれるな、と。
お前ではイーディスを不幸にすると突き放された。
リガロは無力だ。
剣聖の妻は栄誉なんかじゃない。次が見つかるまで剣聖と一緒に繋がれ続ける。王都を離れて隠居暮らしとなった祖父だが、未だ剣聖はつきまとう。本当の意味で解放されることなんてないのだろう。それをフランシカ男爵も分かっているからこそ、鋭利な言葉を突き刺すのだ。
自分の数年間は無駄だったのだ。剣聖になんてならなければ良かったーーそう、思えたらきっとリガロは幸せを手にしたことだろう。だがそれが偽りだと分かってしまうから。縋りそうになる手をぎゅっと抑えて頭を下げる。
「急な訪問、申し訳ありませんでした」
リガロは邪魔でしかない。
彼女の幸せを願うなら、納得しなければならない。
他の男の手を取る姿を想像すると胸が苦しくなる。
それでもどこかで笑っていてくれるのなら。
リガロは馬に跨がり、自らの屋敷へと戻る。
報酬としてもらったあの屋敷だ。フライド屋敷に居たくなくて、ここに移り住んだ。住居といっても寝に帰るだけ。大事なものなんて一つも置いていない。食事は城の食堂か屋台で摂り、使用人すらいない。たまに実家から侍女が何人か来ては掃除をしているようだが、どうでも良かった。
イーディスの死亡届が受理され、婚約関係が消滅した時、目の前は真っ暗になった。イーディスのいない世界で生きる意味が分からないと、死ぬことも考えた。それでもリガロは生き続けた。いや、生かされ続けたのだ。
しばしば、ギルバート夫人としてシンドレアに足を運ぶマリアの言葉によって。
「リガロ様が死ぬのは勝手です。けれどもしあなたが死んだ後、口さがない者が戻ってきたイーディス様にあなたの死の理由を告げたとしたら、私はあなたを許しません。土の下に埋まっているのを掘り起こしてでもあなたを責め続けます。一生を終えたくらいで逃れられると思わないでくださいね。魂が擦り切れてもなお、許すことはありませんから」
マリアは絶対に実行する。彼女は本気でイーディスが戻ってくると信じている。もしもイーディスが戻るよりも先にマリアが死んだら、彼女は棺桶の中からでも彼女の声を探し求めることだろう。そう思わせるだけの気迫と執念があった。だからリガロは死ねなかった。マリアが怖いのではない。ただ自分が死んだ後にイーディスが誰かも分からぬ相手に責められるのが嫌だったのだ。
それからリガロは空っぽの屋敷に少しずつ家具を持ち込むようになった。
イーディスが戻ってきた時、きっと自由に外に出ることは難しくなるのだろうーーと。けれど護衛として付き添った先で海を見て、イーディスを屋敷に閉じ込めていたくはないと思ってしまった。彼女は本が好きだが、同じくらい外が好きなのだ。マリアのためと貝殻を拾い、鳥の羽根を探していた彼女の目が輝いていたのことをリガロはよく知っているから。
その日を境に、リガロの価値観は少しずつ変わっていった。
イーディスのいない世界で大人にならざるを得なかった。
「俺には剣しかない。けれど剣聖で居続ける限り、魔道書が暴走した時に駆けつけられる。守ってあげられるんだ。隣に立てなくても、この場所だけは誰にも譲らない。それが、俺なりの愛なんだ」
隣に立つことは許されない。それどころかこの先、イーディスの顔を見ることすらなくなるのだろう。それでもいい。どこかで生きていてくれるのなら。
いつかイーディスが困った時に彼女の盾となれるのならば。
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