モブ令嬢は脳筋が嫌い

斯波

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五章

5.悠々自適な暮らし

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「ザイル様! 今日も来てくださったんですか」

「妻がマフィンを焼いたからイーディスさんに持って行けって言ってね」

 ザイルは馬の積み荷からバスケットを取り出すとイーディスに差し出した。ザイルの妻が編んだ籠である。花柄の布巾をずらせばふわっと甘い香りが鼻をくすぐる。ちらりと覗く大好物にイーディスの頬は緩んでいく。

「私、奥様のマフィンが一番好きなんです。今日の中身は何かな~」

「食べてからのお楽しみだな。それと頼まれていた本と来月の新刊リストも持ってきた。鍛錬が終わった後にでも欲しいものに丸を付けておいてくれ」

「ありがとうございます。たくさんあって迷っちゃいそう」

「全部でもいいんだぞ?」

「迷うのも読書の醍醐味の一つなんです。それに私の趣味はもう読書だけじゃありませんから!」

「イーディスさんはここに来てから随分とアクティブになったよな」

 ザイルはしみじみと、けれど嬉しそうに屋敷を眺める。

 イーディスがフライド家所有の別荘に越してきたのはもう二年も前のこと。

 初めの一ヶ月ほどは慣れぬ生活に戸惑っていたものだ。なにせ好きな作家の新刊は手に入らないし、新鮮な魚も手に入らない。なにより社交への参加と通学がなくなったことで、圧倒的に暇だった。好きな本を周回するのも限度というものがある。暇を持て余したイーディスはより快適な生活を求めて行動を起こすことにした。



 まず初めにキッチンに顔を出し、使用人の手伝いを申し出た。

 お菓子作りから始まり、野菜の下ごしらえを手伝わせてもらえるようになり、イーディスの手つきに危なげがないと分かってからは簡単な料理くらいは任せてもらえるようになった。掃除や花の手入れだってする。さすがに薪割りはやらせてもらえなかったが「運動がしたい! 体力が落ちる!」との主張をすれば、ザイルが鍛錬を付けてくれるようになった。専用の模擬剣をプレゼントされたのは一年前のことだ。幼い頃にリガロが祖父からもらった物とよく似たもので、リガロの瞳と同じ色の石があった場所には透明な石がはめ込まれている。水晶のような石はまるでイーディスの体調とリンクするように澄んだりくすんだりする。ただ単に気分の問題なのかもしれないが、健康管理の基準として役立たせてもらっている。



「鍛錬を始める前に剣を見せてもらってもいいかい?」

 ザイルはこうして屋敷にやってくる度に剣の状態を確認する。一人で素振りをする際に変な癖がついていないか、剣の形が歪んでいないかをチェックしてくれているらしい。手のあたる場所を重点的に、剣先が欠けていないかも見てくれる。最後に石を専用の布で拭いたらチェック終了だ。

「今回も問題ない。本当に、綺麗なものだ」

「ありがとうございます」

 イーディスがここに越してきたばかりの頃は「剣聖の座は孫に譲った。もう後は隠居暮らしだ」「自分が死んだ後もイーディスの生活水準が落ちないように手配しておく」なんて髭を撫でていたのに、今ではすっかり髭も剃り、若さも取り戻しているように見える。奥様曰く、騎士達の育成をして欲しいと頼まれているがイーディスの育成が楽しいからと突っぱねているらしい。イーディス自身も運動不足解消で始めた鍛錬は意外にも楽しく、どこでも剣を降り続けていたリガロの気持ちが少しは理解出来るようになっていた。今では読書やお菓子作りと並ぶ趣味の一つである。



「イーディスさんは長時間素振りしても全く芯がブレないし、基礎が良く出来ている。……まるで見本となる姿が明確にあるようだ」

「ザイル様の指導のおかげです」

 拳を固めて主張すれば、ザイルは複雑そうにと笑った。彼は分かっているのだろう。イーディスが見本としているのはザイルではなく、リガロだ。幼い頃から何度と見てきた姿は脳裏に焼き付き、小さな癖も取り込んでしまうほど。

 剣に慣れる度、イーディスはリガロと近づいているのだろう。だが意識したところで師が同じだからか、遠ざかることは出来ない。意図的にずらしていくなんて高等技術がまだまだ初心者のイーディスに出来るはずもなく、今日も何も気付かないフリをするしかなかった。



「ところで話は変わるんだが、ここに来る途中に綺麗な花を見つけたんだ。鍛錬前に一緒に見に行かないか?」

「花、ですか?」

 これ以上話を続ければ互いに触れたくない部分に触れることとなる。そう察しての話題転換にしてはやや表情が曇っている。何かあるのだろうか。それもこの場所では言いづらいようなことが。

「小さな白い花でね、イーディスさんにも是非見て欲しいんだ」

「ではケトラを連れてきます」

 イーディスはバスケットと新刊リストを使用人に預け、愛馬の待つ馬小屋に向かう。真っ黒の毛をしたケトラは半年ほど前にこの屋敷にやってきた。何か他にやりたいことはないかと聞かれ、乗馬がしたいと答えたのだ。人目に触れても困るため、ザイルといる時のみ・屋敷から離れすぎない範囲との条件はあるものの、イーディスはついに自分で馬に跨がることが出来るようになった。ケトラは優しい子ですぐにイーディスに懐いてくれた。彼と一体になって風を切った時の喜びは一生忘れることはないだろう。けれどイーディスはケトラに跨がる度、慣れた熱がないことに寂しさを覚えていた。この身体で彼の熱など感じたことはないはずなのに、不思議なものだ。
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