モブ令嬢は脳筋が嫌い

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五章

2.『悪夢の書』

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『イーディス』を放置して、二人はその後も愛を育んでいく。聖女との儀式を乗り越えたリガロは無事、剣聖と呼ばれるようになった。『イーディス』の役目は果たされたのだ。この後はどうなろうと知ったこっちゃない。どうするのだろうとぼんやりと考えていた『イーディス』だったが、リガロは想定外の方向から話を切り出してきた。

 一年の修了式が終わった後、生徒達が残る場所でリガロは『イーディス』の元へとやってきた。メリーズの手を引き、彼女を愛しているのだと、『イーディス』のことは妹のように思っているのだと平然と言ってのけた。晒し上げもいいところである。『イーディス』が何と答えようとも、この瞬間に彼女は婚約者に捨てられた女であることが観衆に晒される。噂好きの貴族が周りに沢山いるのだ。噂は一週間もせずに国中に広まることだろう。聖女様と結婚したいのならば、わざわざこんなことをせずとも家同士で内々に婚約解消を済ませればいいだけだ。多少フライド家に不利な条件は付けられるかもしれないが、元よりフランシカ家は格下。政略的な婚約ですらない。『イーディス』が年頃であることがネックだが、それでも多くの貴族の前で晒し上げられて事実上の婚約破棄をされるよりもずっとマシだ。ここで『イーディス』が怒っても泣いても良い笑いものだ。



 馬鹿みたい。

 イーディスの脳内に『イーディス』の声が響いた。左手で覆うように隠した右手はぎゅっと拳を固め、手のひらには爪を立てる。けれど顔色は変えない。馬鹿にされることは、嗤われることは慣れている。物語のサブキャラにすらなれない彼女はこの場所で最良の言葉を吐く。



「お二人の未来に幸多き事を祈っておりますわ」

 婚約者もとい邪魔者である『イーディス』がその場所を譲ったことで会場は一気に沸き上がる。うるさいくらいの歓声から遠ざかり、ひっそりと会場を出たところで彼女を気にかける者はいない。馬車に乗り込み、早い帰りに戸惑う御者に屋敷に向かってくれと指示を出す。今日は付き添いのメイドもおらず、車内は『イーディス』ただ一人。ドレス姿なのも気にせずに大きく股を開き、膝を台にして頬杖をついた。



「ふざけんじゃないわよ、あの脳筋」

 腹の底から這い出た言葉はスルリと口から飛び出た。驚いたイーディスは両手を動かし、一人じゃんけんをしてみる。右手が勝って、左手が負けて。次はあいこで、と繰り返せば全てが思ったままの動きを見せた。冷静になってみれば、貴族の令嬢である『イーディス』が大股を開くことも、頬杖もつくこともあり得ない。



「あー、あー、本日は晴天なり。本日は晴天なり」

「あめんぼあかいなあいうえお」

「マルゲリータ、パンナコッタ、ビビンバ、チャーハン」

 思いつくままの言葉を吐けば、そのままイーディスの声で発せられる。

 一年と少しの間、一部共有だけさせてもらっていた身体が自由に動かせるようになったのだ。一体なぜ今なのか。思い当たるのは、学園を去ったことで乙女ゲームシナリオでの『イーディス=フランシカ』の出番が終了したから。また『リガロ=フライド』が新たな剣聖となり、癒やしの聖女と結ばれたことで『イーディス』が自分の役目としていたものも全てなくなったから。彼女自身がそう願ったように、『イーディス』は剣聖の養分となってしまったのだ。



 だがそれならなぜ夢は覚めないのだろうか。

 イーディスが一番見たくない光景、つまり悪夢と思いたい場所は乙女ゲームのシナリオ通りに捨てられるシーンである。それにゲームシナリオが終った時点でモブの役目もないはずだ。万が一ファンディスクで再登場するなんてことがあったとしても、それはそれで今の時点で自由になることはないだろう。





 夢から覚めない原因と、このタイミングで自由になったことには何かしら関係があるのだろうか。イーディスは腕を組みながらうんうんと唸る。けれどそれらしい理由は浮かばない。仕方ないので理由よりもまず先に現状整理をしつつ、数少ない乙女ゲーム知識を踏まえて今後の予測をしてみることにした。



 現在、『イーディス』もといイーディスは婚約解消(仮)状態に立たされている。屋敷に戻ってからイーディスが父に報告し、フライド家に伝えてもらうことで正式に婚約は解消されることだろう。数日中に婚約者がいなくなるイーディスにはもちろん友人はおらず、脳筋馬鹿が盛大にやらかしてくれたため、今後も好奇の視線を向けられることとなる。

 乙女ゲームは修了式後、一気に二人の結婚式までスキップしていた。婚約者の座を退いたモブキャラの今後なんて描かれてはいない。ファンディスクでは語られているかもしれないが、残念ながらイーディスはそれをプレイする前に死んでいる。この後のシナリオは攻略対象者とヒロインがハッピーエンドになった後のことしか知らない。

 だが円満? とはいえ、元婚約者が平然と社交界に出ていたら何かと問題がある。イーディスの父の性格上、文句を言ってくるということは考えられないが、どちらかを陥れる際に利用される可能性は大いにあり得る。剣聖の邪魔をするかもしれないこと、そして娘を利用される恐れを残しておくことはフランシカ家としては本意ではないはず。だからといってフランシカ家には捨てられた娘を他の貴族の元に嫁がせるだけの力はない。



 以上のことから、何かしら理由をつけて王都から離れた場所に隔離、つまり飼い殺しにされる可能性が極めて高い。前世でもインドア派とはいえ、冗談じゃない。用がないならさっさと元の世界に返してほしいところだ。

 イーディスは今後自分が取るべき行動は何か思考をフル回転させる。

 悪夢というのだからいつかは覚めるだろうなんて楽観視は出来ない。夢は夢でもこの夢は都合よく途中で場面が飛ぶなんてこともなく、『イーディス』が睡眠を取れば同じだけ眠った。体感ではあるものの、現在に辿り着くまでイーディスは現実と同じだけの時間を過ごしてきた。夢が覚めるまで身を預け続ければ、最悪この世界でイーディスは老女になってしまう。



 それに夢の中で現実に生きてきた以上の時間を過ごしたらそれは夢と言えるのだろうか。

 そもそもイーディスは異世界から転生してあの世界にやってきている。死んだのは二十歳前。ちょうどイーディスと同じくらいの年頃だった。それでも適応出来たのは乙女ゲーム世界と元に生きてきた世界がまるで別物だったからだ。知識はあるが、ゲーム一本分と他の情報に比べれば圧倒的に少なく、知識を混同せずに済んだ。けれどこの夢は違う。イーディスと『イーディス』が混じり合い、そして今し方二人のイーディスは一つにまとまってしまった。



 マリアが生きていた世界とマリアが死んだ世界。

 どちらの記憶も有しているイーディスは今はまだ別の世界だと認識出来る。けれどいつかそれは境界線を見失い、マリアが生きていた世界こそが夢だったと認識してしまうのではないか。あれはマリアと共に生きたかったイーディスが、リガロに愛されたかったイーディスが生み出した夢なのではないか。幸せの詰まった夢から覚めなければいけないイーディスが、現実に戻るための鍵に『悪夢の書』と名付けたのならーー考えるだけで背筋がゾッとした。

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