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3章
◆シェリリン=スカーレットの幸せ(後編)
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けれどダグラスはそう考えなかったらしい。
彼の顔からはみるみる表情が剥がれ落ちていった。
次第に『無』に近づいていくのである。無表情なんて生易しいものではない。
あれは本当に生きている人間なのだろうか。そう疑いたくなるほど血の気すら感じさせなかった。
シェリリンはその顔に恐怖を覚えた。
なにせ今のダグラスは、母が亡くなった日の父によく似ていたのだから。
サルガス王子はまだシェリリンを愛していない。
今しがたダグラスの彼の手から逃げ出した蝶のように、サルガスもいつか窓の外に飛んでいってしまうのではないか。
その時、残された自分はどうなるのか。
父は変わらず愛してくれるだろうが、父はほぼ確実に先に死んでしまう。唯一愛してくれる人が亡くなった時、何が残るのか。
ダグラスのように、無になってしまうかもしれない。
そう考えると恐ろしくてたまらなくなった。
それからサルガス王子の元に足を運ぶ回数を増やし、周りの令嬢達を牽制した。
けれど安心感で満たされることはなく、空しさばかりが募っていく。恐ろしくて眠れなくなった夜もあったほど。
そんなシェリリンの恐怖を解消したのは、ダグラスだった。
家族をけなし、攻撃をしかけてきた生徒を返り討ちにしたらしい。
お茶会ではその話題で持ちきりだった。
周りは恐怖を覚えたようだが、シェリリンは違った。心の底から安心したのだ。
シルヴェスター兄妹を自らと父に重ね合わせていたから、怒ってくれたことが嬉しかったのだ。長いこと歩いていた暗闇の中に光を灯してもらえた気さえした。
交流もなく、知らないことも多いのに、だ。
それからすぐ、父から婚約者の変更を告げられた。
シェリリンの婚約者と、シルヴェスター家のご令嬢の婚約者を取り替えるのだと。
もしも他の家の令嬢なら怒り狂っていたことだろう。
けれどあの黒髪の少女なら、ダグラスの妹ならとストンと受け入れられた。
父はシェリリンが怒るか悲しむかすると思っていたらしい。けれどこの時、シェリリンの中で最も父に近い存在はサルガスではなく、ダグラスだった。
婚約者が変わったことを聞かされてやっと、この思いが『恋』ではないことに気付いたのだ。
ずっと背負い込んでいた重たいものから解放された瞬間だった。
けれどこれはシェリリンの幸福の始まりにすぎなかった。
ある日を境に、サルガス王子がよく笑うようになったのだ。
彼の笑顔は何度とみてきたが、あれほど自然に笑うことはなかった。
そう感じたのはシェリリンだけではなく、弟のマーシャル王子も同じだったらしい。ろくな会話もなかった彼が歩み寄ってくれるようになったのだと。
彼は兄を変えてくれたウェスパル=シルヴェスターと彼女の召喚獣に心の底から感謝をしている、と。新たに婚約者になったばかりのシェリリンに息を荒げながら教えてくれた。
よほど嬉しかったのだろう。
シェリリンは、顔を赤らめながら兄の変化を語ってくれるマーシャル王子が愛おしく思えた。
きっと父も同じような思いを母に向けていたのだろう。
これは恋ではない。愛である。
愛おしい彼を守ってあげたいと強く思った。サルガス王子には一度だって感じなかった思いだった。
シェリリンはマーシャルのために変わる決意をした。
シェリリンのためと言いながら悪事を働く令嬢達とは縁を切り、今まで以上に真面目に王子妃教育に励むようになった。マナーもダンスも勉強も刺繍も。全て苦ではなかった。
幼い頃からシェリリンをよく知る幼馴染のディールは、急に変わった彼女を不気味に思っているらしい。遠目から妙なものを見るような目を向けてくる。けれどそれは他の令嬢や令息達も同じ。
サルガス王子が取られたことがよほど堪えたのだろう、なんて好き放題言われているが、それは今までのシェリリンの行動が招いた結果だ。
仕方ない。少しずつ時間をかけて、変わったことを示していくしかない。
長期的に物事を見られるようになったのは、興味の幅が一気に広がったから。
そして父が自分のことのように褒めてくれるから。
知識が身につく度に誰かと話すのが楽しくなった。
一番は父で、二番はマーシャル王子。
そしてすぐ、三番目にサルガス王子が加わった。
彼とは、婚約者ではなくなってから友人のような関係になれた。婚約者であった時よりもずっと近く、心地良い距離だ。
サルガスは顔を会わせる度に楽しかったことや嬉しかったことを伝えてくれるから、シェリリンも遠慮なく同様の感情をぶつけられる。その時間はマーシャルといる時とはまた違う、柔らかい黄色のような幸せを感じさせてくれた。
貴族として生きる以上、嫌みや妬みから完全に離れることは出来ない。シェリリンが向けずとも外側からはいくらでも飛んでくる。
それでももう一人になることを覚えなくても良い。
マーシャル王子の笑みを思い出せば怖さなんて吹き飛んでしまう。
だからシェリリンは怯えを脱ぎ捨てて、笑う。
自らの元に舞い込んできてくれた幸福を大事に抱えながら。
彼の顔からはみるみる表情が剥がれ落ちていった。
次第に『無』に近づいていくのである。無表情なんて生易しいものではない。
あれは本当に生きている人間なのだろうか。そう疑いたくなるほど血の気すら感じさせなかった。
シェリリンはその顔に恐怖を覚えた。
なにせ今のダグラスは、母が亡くなった日の父によく似ていたのだから。
サルガス王子はまだシェリリンを愛していない。
今しがたダグラスの彼の手から逃げ出した蝶のように、サルガスもいつか窓の外に飛んでいってしまうのではないか。
その時、残された自分はどうなるのか。
父は変わらず愛してくれるだろうが、父はほぼ確実に先に死んでしまう。唯一愛してくれる人が亡くなった時、何が残るのか。
ダグラスのように、無になってしまうかもしれない。
そう考えると恐ろしくてたまらなくなった。
それからサルガス王子の元に足を運ぶ回数を増やし、周りの令嬢達を牽制した。
けれど安心感で満たされることはなく、空しさばかりが募っていく。恐ろしくて眠れなくなった夜もあったほど。
そんなシェリリンの恐怖を解消したのは、ダグラスだった。
家族をけなし、攻撃をしかけてきた生徒を返り討ちにしたらしい。
お茶会ではその話題で持ちきりだった。
周りは恐怖を覚えたようだが、シェリリンは違った。心の底から安心したのだ。
シルヴェスター兄妹を自らと父に重ね合わせていたから、怒ってくれたことが嬉しかったのだ。長いこと歩いていた暗闇の中に光を灯してもらえた気さえした。
交流もなく、知らないことも多いのに、だ。
それからすぐ、父から婚約者の変更を告げられた。
シェリリンの婚約者と、シルヴェスター家のご令嬢の婚約者を取り替えるのだと。
もしも他の家の令嬢なら怒り狂っていたことだろう。
けれどあの黒髪の少女なら、ダグラスの妹ならとストンと受け入れられた。
父はシェリリンが怒るか悲しむかすると思っていたらしい。けれどこの時、シェリリンの中で最も父に近い存在はサルガスではなく、ダグラスだった。
婚約者が変わったことを聞かされてやっと、この思いが『恋』ではないことに気付いたのだ。
ずっと背負い込んでいた重たいものから解放された瞬間だった。
けれどこれはシェリリンの幸福の始まりにすぎなかった。
ある日を境に、サルガス王子がよく笑うようになったのだ。
彼の笑顔は何度とみてきたが、あれほど自然に笑うことはなかった。
そう感じたのはシェリリンだけではなく、弟のマーシャル王子も同じだったらしい。ろくな会話もなかった彼が歩み寄ってくれるようになったのだと。
彼は兄を変えてくれたウェスパル=シルヴェスターと彼女の召喚獣に心の底から感謝をしている、と。新たに婚約者になったばかりのシェリリンに息を荒げながら教えてくれた。
よほど嬉しかったのだろう。
シェリリンは、顔を赤らめながら兄の変化を語ってくれるマーシャル王子が愛おしく思えた。
きっと父も同じような思いを母に向けていたのだろう。
これは恋ではない。愛である。
愛おしい彼を守ってあげたいと強く思った。サルガス王子には一度だって感じなかった思いだった。
シェリリンはマーシャルのために変わる決意をした。
シェリリンのためと言いながら悪事を働く令嬢達とは縁を切り、今まで以上に真面目に王子妃教育に励むようになった。マナーもダンスも勉強も刺繍も。全て苦ではなかった。
幼い頃からシェリリンをよく知る幼馴染のディールは、急に変わった彼女を不気味に思っているらしい。遠目から妙なものを見るような目を向けてくる。けれどそれは他の令嬢や令息達も同じ。
サルガス王子が取られたことがよほど堪えたのだろう、なんて好き放題言われているが、それは今までのシェリリンの行動が招いた結果だ。
仕方ない。少しずつ時間をかけて、変わったことを示していくしかない。
長期的に物事を見られるようになったのは、興味の幅が一気に広がったから。
そして父が自分のことのように褒めてくれるから。
知識が身につく度に誰かと話すのが楽しくなった。
一番は父で、二番はマーシャル王子。
そしてすぐ、三番目にサルガス王子が加わった。
彼とは、婚約者ではなくなってから友人のような関係になれた。婚約者であった時よりもずっと近く、心地良い距離だ。
サルガスは顔を会わせる度に楽しかったことや嬉しかったことを伝えてくれるから、シェリリンも遠慮なく同様の感情をぶつけられる。その時間はマーシャルといる時とはまた違う、柔らかい黄色のような幸せを感じさせてくれた。
貴族として生きる以上、嫌みや妬みから完全に離れることは出来ない。シェリリンが向けずとも外側からはいくらでも飛んでくる。
それでももう一人になることを覚えなくても良い。
マーシャル王子の笑みを思い出せば怖さなんて吹き飛んでしまう。
だからシェリリンは怯えを脱ぎ捨てて、笑う。
自らの元に舞い込んできてくれた幸福を大事に抱えながら。
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