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①オビツキ村
35話 帰路
しおりを挟む暗く狭い空間からしばらくすると少し開けた場所に出た。
いつからそうしていたのか、ベルトから腰を宙に浮かせた状態の私はそっと建物の板の間に降ろされる。
ギギギギギッ――
「――ッ!」
不意に開かれた木戸から目映い陽光が射し込み、闇に慣れ過ぎた目を瞬時に眩ませた。
次第に順応していく視界に木々に囲まれた境内や石畳、鳥居が確認できる。
いつぞやと視点は違うが、ここは間違いなく御櫃神社の本殿に当たる建物らしい。
「すっかり朝になったな。体調はどうだ?」
「ええ。お陰様でとても元気……とは言えませんね。正直ものすごく眠いです」
あの縦穴の空間で突然に呆然自失となった私を洞窟から運び出してくれた耕太さんが不甲斐ない私の体まで気遣ってくれている。
お互いに丸二日は徹夜続きで、心身共に疲労し切っているというのに。
土足のまま本殿に上がっていることに引け目を感じながら観音開きに開かれた木戸に歩み寄り一歩だけ外に出た途端、先まで感じていた妙な違和感の正体が一目瞭然となった。
日は照るものの若干肌寒い外気。昨日まで見ていた森の木々より青さは劣るが、朽ち果てた社務所にまで繁茂した枝や足元に抱え込んだ草や苔の勢いはその比ではない。
顧みた本殿も長い年月の間に風雨に晒され続けたせいか至る所が腐食しており、いずれは朽ちて倒壊するだろう。
「木滝、きついようなら交代するぞ」
鳥居を潜った辺りから耕太さんに代わって沙智ちゃんを背負う私に声が掛かる。
確かに、一度踏み外せば大怪我は免れないだろう急な石段を女手一つで下って行くのは危険かもしれない。
しかしそれでも今はこれこそが私の役目なのだという責任感が危機感に勝っている。
勿論、私まで抱えながら縦穴を上ってくれた耕太さんに対する申し訳なさもある。
でもそれ以上に、どうにも言葉では表しきれないほど大きな空白、言い様のない虚無感が「何かしなければ」と強く私を駆り立てる。
舗装が為されず疎らに崩れた隙間から雑草の覗くアスファルトの道を進む。
記憶を頼りに順調に御櫃邸の方へと向かっているはずが、ほとんど森と同化した風景を目にすると時々不安な気持ちが込み上げてくる。
ドドドドドドド――……
遠くの方にバイクの排気音が聞こえる。
いつの間にか耳元で聞こえていたはずの穏やかな寝息はなくなり、背に感じていた温もりは背後を照らす朝陽のものに変わった。
――木滝、感謝する。
少し前を行っていた耕太さんの姿も霞にぼんやりと浮かぶ木々の内に消えた。
何故だか無性に目の奥が熱くなり、涙が溢れてきた。
言い様のない孤独感が不意に私を苛み、胸の方から喉の先まで委縮させる。
人々の営みを俯瞰し遠くに感じるとき、ふとこんな感覚を覚えることがある。
取り分け、すでに温もりが失われた遺物のみが残る廃墟を巡るときに強くそれが感じられる。
出会ったことは決してない。およそ交わることすらなかった遺物にさえ、人は虚無を覚え、営みを感じ、遠い過去へと思いを寄せることができる。
なら、私が今覚えた感覚はなんだ。ただただ深い喪失感に似た、けれど全く覚えがないが故に虚無とならざるを得ない酷く空しいこの気持ちはなんだ。
「あああああ――!」
もう何だか訳が分からなくなった私は叫びながら、ただ我武者羅に手足を振るい、縁もゆかりもなかった場所を駆け抜けていった。
*
見覚えのある門、着物姿の清代さんが見送ってくれた数寄屋門を前にし、汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。
今では木塀と一体となった支柱のみとなった門を跨ぎ、草木が繁茂した庭を抜け辛うじて原形を保っている母屋の木戸を叩く。
「――はーい」
返答はないだろうと高を括っていた私は、内から返ってきた予想外の返事に度肝を抜かれた。
ふと視線を庭園のあった方、縁側から見えるあの黄菖蒲があった橋の方に移すと、大型バイクが木の横に停められているのが分かった。
ガタガタガタッ
建付けの悪くなった引き戸が開き、中から三十代くらいの女性が顔を覗かせた。
「――沙智、ちゃん?」
「んー、えっと。どちら様ですか?」
面影がある。歳はずっと上のはずだが、ぱっと見た瞬間からこの女性があの沙智ちゃんであるという確信が持てた。
どうやら私が誰だか分からず笑顔で誤魔化すバイクスーツ姿の女性。
家の内側は汚れが目立つとのことで、一先ず外から回って案内された縁側に二人で並んで座る。
「あの、もしかして、ここに来る途中のコンビニでお会いしましたよね」
「……ああっ! そっかそっか、あの時の女の子かぁ! バス停にヴェルちゃんがいたから、まさかとは思ってたんだよね。で、結局こんな所まで来ちゃったわけだ」
幼い頃の快活さと人懐っこい性格は健在のようで、終始明るい調子で話す沙智さんと打ち解けるのにそう掛からなかった。
話をしている内、次第に沙智さん自身や村のことに触れることになり、やがて私の方からもこの三日間に起きた信じ難い出来事について語ることになった。
時々言い辛い場面や目を背けたくなるような光景を省きながらも、私はこの取り留めもない話を順を追って彼女に聞いてもらった。
話に耳を傾ける彼女は、喋るときとは打って変わり淑やかで、時々心地よい相槌を打ってくれることが嬉しくてついつい最後まで語り切ってしまっていた。
「――信じられませんよね、こんな話」
「ううん、信じるよ。だって私、その手の専門家だから」
沙智さんは胸ポケットから名刺入れを取り出し、内の一つを私に差し出した。
「あ、ごめんなさい。普段は持ち歩いていなくて」
「いいよいいよ。こんな紙切れ、今じゃ時代遅れだしね」
「そんなことありません――!」
名刺の内容を見た瞬間、自分の目を疑った。
そこに書かれた『ESP研究所』の文字には心当たりがあり過ぎる。
あの幻のような出来事と今のこの出会いが唐突に繋がったことがどこか滑稽で、思わず吹き出してしまった。
「まぁ、そうなるよね」
「いえいえ……違うんです。こうして『あの時のことが嘘じゃなかったんだ』って分かったことが嬉しくて――ごめんなさい」
彼女の優しさと偶然の出会いに安堵したのか、今まで溜め込んできたものが一気に溢れ出して、笑顔のまま流れ出る涙を隠そうと彼女から顔を背けた。
私はずるい女だ。
こうすれば心優しい彼女がそっと後ろから抱きしめてくれることを知っている。
だから私は全力で今のこの温もりに甘え、泣き尽くすことに決めた。今だけは流れる涙が取り留めのない雑念を忘れさせてくれる。
人の温かさが次の活力となっていく。
*
「じゃあ、落ち着いたら多嬉ちゃん家にも遊びに行くから」
「はい、お待ちしてます。その時はたくさんお礼をさせてください」
小気味好い笑い声を残して、沙智さんは後ろに手を振り颯爽とこの地を去っていく。
バス停にはあの日に去った時と同じ場所で私の帰りを待っていた相棒の姿がある。
現実では一晩を越えたばかりだけど、もう随分と久しぶりに再会したように思える。
沙智さんに整備してもらったばかりの羨ましい相棒の調子はすこぶる良い。
「さ、行こうか!」
タンデムするサイドボックスを一つ撫で、ゆっくりとあの鎮守の森のある町へと帰っていく。
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