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第六章

34. 辿り着く先

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 最後の四日間は、瞬く間に過ぎて行った。

 その間ロゼリエッタは自室から一歩も出ずに過ごした。
 食事はシェイドと一緒にダイニングで摂るよう、オードリーが何度も勧めてくれたけれど頑なに拒んだ。そうして、何も口にしないよりは……と折れさせた挙句、食事の度に部屋へと運ばせてしまった。
 オードリーに迷惑をかけていると自覚はあっても、どうしようもない。最後のわがままとして押し通し続けた。

 再び別れが待っているのに顔を合わせたってつらくなるだけだ。シェイドだって、会わずに済むのならその方がいいに決まっている。

 それを裏づけるよう、シェイドも同様に部屋を訪ねて来ることもなかった。
 もっとも、彼がこの部屋に足を踏み入れたのは二回しかない。最初に案内してくれた時と、ロゼリエッタが熱を出した時。熱を出してから一週間ほどしか経っていないのに、もうずいぶんと前の出来事に思えた。

「短い間だったけれど、傍にいてくれてありがとう。オードリーがいてくれて本当に良かった」

 そろそろダヴィッドが迎えに来る頃合いだ。
 お礼を言うことしかオードリーに報いることは出来ないけれど、それでも思いのまま伝えるとオードリーは両目を涙で潤ませながら首を振った。

「滅相もございません。ロゼリエッタ様のお世話が出来て、私もとても幸せでした」
「ありがとう、オードリー」

 ロゼリエッタは精一杯の笑みを浮かべ、静かにオードリーを促した。
 このままでは別れがたくなってしまう。
 クロードの傍にいたいと、聞き分けのない子供のように泣き叫びながらここに蹲ってしまう。

 我慢せず、心のまま自由に振る舞えば良いと、何度思ったか分からない。
 本当に、これで最後なのだ。ロゼリエッタの心を伝えられる機会はもう二度と訪れることはない。

 でもだからこそ何も言えなくなった。
 想いが届くことなどないのだとしても、記憶の中でまで困らせたくない。

 オードリーは口を開きかけ、けれどすぐに噤んだ。恋人を死地に送るかのような顔で頷くだけに留め、部屋のドアを開ける。
 最後に部屋を見渡し、ロゼリエッタも後を続く。

(さようなら、クロード様)

 持って行くものは何もない。
 ロゼリエッタが家から持って来た数少ない荷物は、アイリと共にレミリアに預けられたと聞いている。
 この部屋から持ち出すものもない。

 ささやかな思い出が胸の内にあるだけだ。

(でも、それでもいいの。本来なら手に入れられなかったものだから)

 ロゼリエッタは毅然とした表情で顔を上げ、振り返らなかった。




 そうして図書室の地下から迷路さながらに複雑に入り組んだ道を、迎えに来てくれたダヴィッドだけを頼りに歩く。
 途中、分岐路の壁にダヴィッドの目の高さ辺りの場所に様々な図形と数字とを組み合わせた目印が薄く刻まれていることに気がついた。けれど、そもそもの位置関係が分からないロゼリエッタには、何の手がかりにもならなかった。同じ道を通って先程までいた離宮に一人で戻るよう言われても無理だろう。

 そうして進んで行くと、前方が行き止まりの道に出た。カンテラの灯りも届かない通路の奥は薄暗く、左右への曲道があるようにも見えない。
 本当にこの道で大丈夫なのだろうか。
 ロゼリエッタは進むしかできない。初めて心配からダヴィッドを見上げ、視線がその向こうの壁に止まった。王冠らしき絵と数字の五が並んで書かれている。王冠……つまり城内のどこかに出られるのかもしれない。

「大丈夫だよ、ロゼ。俺を信用して」
「もちろん信用しています」

 穏やかなダヴィッドの声に答えれば、心細い気持ちは完全に吹き飛んだ。
 いよいよ突き当たると、うっすらと四角い切れ込みが入っているのが分かった。

「少しの間カンテラを持っててくれるかな」
「は、はい」
「ありがとう」

 ロゼリエッタにカンテラを渡し、ダヴィッドは壁に両の掌をつけた。影にならないよう気をつけながらその手元を照らすと、一瞬だけ視線が重なる。それからダヴィッドは小さく頷くと手に力を込めた。

 薄闇がわずかに揺れ、ごとん、と何か重いものが動いたような音がする。それからダヴィッドが手を右側にスライドさせれば、行き止まりだったはずの空間に石段が現れた。
 途端に視界の明るさが増す。
 見上げればカンテラの灯りよりも強い光が差し込んでいた。

「あともう少しだから、頑張って」

 カンテラを再び自らが持ち、ダヴィッドが先に石段を上がった。
 いちばん上まで行くと踊り場のような空間に出た。何も入っていない大きな飾り棚の左半分が、回転扉の要領で地下通路にはみ出している。ロゼリエッタの腰の高さ辺りには、勝手に開くことのないように閂の役割を果たす金属の板が取りつけられていた。

 光は棚の向こうから漏れている。ダヴィッドが役割を終えたカンテラを消してもなお、周囲は明るかった。

 そして花の――バラの良い香りがする。
 ロゼリエッタも知っている香りだ。

 途端に鈍く軋む胸に大丈夫と言い聞かせるよう静かな呼吸を繰り返し、ダヴィッドと共に室内に入る。
 普段は倉庫として使われている部屋なのだろう。同じデザインで統一された棚には大中小の箱が整然と収めらている。離宮の隠し部屋よりずっと広いが圧迫感がするのは、窓もない壁一面を棚が覆っているせいだ。

 二人から少し離れた場所に、穏やかな笑みを浮かべた女性が立っていた。
 ロゼリエッタは凛とした一輪のバラのようなその姿を見やる。
 思った通り、目の前にいた人物はレミリアだった。

「ロゼ、あなたが無事で本当に良かった」

 気持ちの整理がまるで追いつかない。

 レミリアがダヴィッドに事情を説明したのも、まだ家に帰れないロゼリエッタを保護してくれることも聞いていた。だから顔を合わせるのも自然なことだ。
 分かっていた。でも、分かっていたつもりなだけだ。

 できることなら会わずにいたかった。

「身体が弱いのに薄暗い地下の道を歩かせてしまってごめんなさいね。馬車で迎えに行ければ良かったのだけど、人目は極力避けたかったものだから。ラウレンディス卿も、迎えを快く引き受けてくれて感謝致します」
「滅相もございません。こちらとしても従妹ロゼリエッタの身は心配ですし、この役目を一任して下さったご慈悲に深い感謝の念を申し上げます」

 王女の身でありながら、レミリアは自分の非を素直に認めて貴族子女の二人に詫びる。
 相変わらず身も心もとても美しい彼女は女神のようだった。
 自分と比較したってどうにもならない。それでも劣等感に揺れてしまう心を宥め、ロゼリエッタは前に踏み出す為に淑女の礼をして口を開く。

「お久し振りにございます、レミリア王女殿下。この度は私の為にお心を砕いていただきありがとうございます」

 声は震えなかった。
 それだけで少し強くなれた気がして、心が委縮してしまわないうちに言葉を続ける。

「恐れながら、殿下にお伺いしたいことがあるのです。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

 会ったのなら彼女が知っているであろうことを確認しておきたかった。
 確認したところで……という話ではあるし、それも秘密にされる事柄かもしれない。けれど、今を逃したらもう二度と聞ける機会はないだろう。その思いが躊躇いを抑え込んだ。

 ロゼリエッタの申し出にレミリアは意外そうに目を瞠り、すぐに柔らかな笑みで答える。

「――分かったわ。とりあえず、先にこの部屋を出ましょう」



 踵を返して先を歩くレミリアの後を黙ってついて行く。
 隣の部屋はレミリアの衣装部屋らしく、たくさんのドレスが部屋中を鮮やかに彩っていた。そこから左右の壁に一つずつある扉のうち、右側のものを抜けると応接室に出る。
 レミリアの私室の一つであり、ロゼリエッタはしばらくの間ここに滞在することになっているらしい。また後でレミリア自らが詳しく案内してくれるという。

 テーブルを挟んで向き合う二人がけのソファーにダヴィッドと並んで腰を下ろす。
 その正面のソファーにはレミリアが一人で座った。お茶の準備を終えたレミリア付きの侍女が退室すると、室内はしんと静まり返る。

 レミリアは急かさなかった。
 じっと、ロゼリエッタの言葉を待っている。けれどこれでは無言の重圧を与えてしまうと悟ったのか、赤みの強い褐色の紅茶が満たされたティーカップに手を伸ばした。
 砂糖とミルクを入れ、ゆっくりとかき混ぜる小さな音ですら空気を震わせる。でもその張り詰めた空気を生み出しているのはロゼリエッタだ。ややあって、ロゼリエッタは自らに重くのしかかる空気を振り払うように顔を上げた。

「単刀直入にお尋ねする無礼をどうぞお許し下さい、レミリア王女殿下」

 それから息を一つ飲み込む。
 祈るように両の指を組み、レミリアを見つめた。

「クロード様は投獄……あるいは処刑されてしまうのでしょうか」
「何故急にそのようなことを?」

 レミリアは質問で返しながらもダヴィッドに視線を向けた。
 その表情も声色も変わらない。
 突拍子もない発言に驚いた様子もなく、この反応こそが答え――疑問の肯定なのだと思った。

 もし事実だとして、クロード本人が伝えるわけがない。だからダヴィッドを情報の出どころとして疑うのはもっともだろう。しかし、彼は悪びれることなく王女の視線を真っ向から受け止めた。

「殿下。失礼ながら我が従妹ロゼリエッタの恋も、人生も、希望も――絶望も、全て彼女のものだと思うのです。ロゼが願うなら、何も知らずに生きて行くことが最善でしょう。ですが、今の彼女の想いはそこにありません。殿下やクロード様がそれを本意とはせずとも、巻き込まれた以上は知る権利があると考えます」

 ダヴィッドとレミリアの強い光を秘めた視線が交錯する。

 先に折れたのは、やはりと言うかレミリアだった。溜め息を吐き、だから私は反対だったのよ、と小さく首を振る。

「好きな人のことだもの。気になるわよね」
「はい」

 今まででいちばん慈愛のこもった目だ。
 ロゼリエッタは強くしっかりと頷き返した。そこに覚悟と決意を見て取ったのか、レミリアが初めて表情を変える。
 顔なじみの少女への親愛の情を消し、誰に対しても公正な王女として毅然とした面持ちで口を開いた。

「では、ロゼリエッタ・カルヴァネス嬢にお話し致しましょう。あなたの危惧していることは残念ながら事実です。クロード・グランハイムは隣国の王太子マーガス殿下の暗殺を企てた実行犯として、近日中に身柄を拘束されることでしょう」

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