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堕天使の罠
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「――どういうことだ」
リュシフェルから何かを持ちかけるのは非常に珍しい。文字通りの悪魔の誘惑に興味を抱かないわけではなかったが、ここぞとばかりに食いつくのも癪に障る。レイジはことさらゆっくりとグラスに再度ワインを注ぎ、コルク栓をはめたビンを棚に戻した。
だが背中に浴びせられる悪魔の視線は、レイジの本心など見抜いていると言わんばかりの楽しげなものだ。気取られないように軽く眉を寄せ、次にはいつもの顔でガラス戸を閉めて振り返った。
やはり宙に座る姿勢のまま、立てた右膝の上で頬杖をつくリュシフェルは唇の端を酷薄そうに歪める。
「天使共の根城にちょっとした罠を仕掛けて来た。数日中にはおそらく天使の女が引っかかるはずだ」
「天使の女?」
「男が引っかかる方が良かったか?」
「そういう意味じゃない」
不愉快そうにワインを煽るレイジとは対照的に、リュシフェルは愉快そうに笑った。
よほど気分がいいらしい。確かに神や天使と敵対する立場にいる彼としては、意図的に天使を堕落させられると考えるだけで上機嫌になるのだろう。
「天使の女が引っかかると何故分かる」
「仕掛けた罠が、天使の女共が好むものだからだ。お前だって《下界》に降りて来る機会の多い男より女の方がいいだろう?」
「それはどうも」
心にもない礼を投げやりに述べると、悪魔は喉の奥で低く笑った。
遥か昔、天使と悪魔と人間とが、広大で恵み豊かな大地である《下界》の支配権を巡って争いを繰り広げていた。
だが人間は種族としての数こそ多いが、天使や魔族と比べれば圧倒的に劣る。双方からの攻撃を受け、激しく疲弊していた。
そんな危機的な状況を、たった一人の男が救った。後にこの国の王家の祖となり、《英雄王》として名を語り継がれる者が現れて戦況は大きく塗り替えられたのだ。人ならざる者たちに対抗しうる強大な力を人間たちが得はじめ、三者の間には休戦協定が結ばれた。
今でも平和が続いてはいるが、それはあくまでも表向きの話だ。
《獄界》はもちろんとして、規律を求めるはずの《天界》ですら一枚岩ではない。《下界》に至っては、一人の王がもたらした栄華も遠い過去の出来事だ。偉大にして絶大な《英雄王》の威光も弱まり、国力と領土の拡大の為に水面下では他国への侵略を目論む国もあった。
大きな戦争は起こらずとも、天使や悪魔が何らかの欲を持って《下界》に降りたり、あるいは人間が様々な目的により召喚するということも珍しくない。
そして現王家に疎まれるレイジは、火種を起こす悪魔や天使を――時には同族の人間さえも力で制圧する為に生きているのだ。
「あいつらは過保護な神の呪いで男も女も得てして快楽に弱い。すぐ肉欲や殺戮の衝動に絡め取られて堕天する」
「お前もそうだったということか」
リュシフェルはそれに関しては何も答えず、笑みを深くした。
彼がいかに堕天したか。それは《下界》の文献にすら記されている。どこまでが真実なのかを知るのは彼だけだが、レイジにはどうでもいいことだ。
「で、俺に何をさせようとしている」
リュシフェル一人で楽しむつもりならレイジに話したりはしないだろう。
わざわざ女が好む罠を用意したのもそうだ。何らかの行動をレイジにさせる心づもりに違いない。そしてその想像もたやすくついた。
どれだけ表面を取り繕おうとレイジは誘いに乗る。ましてや今のように言い様のない燻りや渇きを抱えた状態ならなおさらだ。そんな悪魔の思惑通りに進むのは非常に癪だが、その読みは外れてはいない。
「言わずとも分かっていると思うが」
快楽に弱い天使の女が、リュシフェルの罠にかかって《下界》に強制転送される。
つまり――。
「俺に天使の女を犯せと?」
「悪くない話だろう?」
さも善意からの提案だと言いたげだ。悪魔の善意など何の冗談か。笑わせてくれる。
悪趣味で、だからこそ魅力的な話に乗ってやる気にはなっても、一も二もなく飛びつく滑稽さは持ち合わせていない。先程の召喚の代価をこの要求に応えることで支払うにしろ、レイジは表面上は気怠い反応を崩さずに肩をすくませた。
「お前がやればいいんじゃないのか」
「あいにくと、神の怒りを買った俺は神の愛し子の天使には性愛を抱けぬ」
「――へえ」
真偽を問い質すつもりもなく、レイジはグラスに残ったワインを飲み干す。
まだるっこしいのも嫌いだ。レイジ側に準備が必要とも思えない。さっさと話を聞いて終わらせるに限る。
「いいだろう。人間の女を抱くのも飽きて来た。たまには大悪魔殿が手ずから用意した女を醜く食い散らすのも悪くない」
わざと大げさな口調で告げると、悪魔は満足そうに目を細めた。
そして数日が経過した月のない夜、リュシフェルが用意した罠に一人の天使が引っかかった。
悪魔いわく、転送先は王都のはずれにある寂れた倉庫街にしたらしい。人目について他の人間に掴まっては罠にかけた意味はないし、どれだけ距離があろうと一瞬で移動できる悪魔に何ら問題はないからだ。
倉庫街に到着すれば、よほど状況が逼迫しているのだろう。普段は巧妙に隠されていることが多い人ならざる何者かの気配がする。こちらは気づかれることのないよう慎重に近づくにつれ、前方から複数の声が聞こえた。
だが、声だとは判別できるが何を話しているのかは全く分からない。あきらかに言語そのものが違っていた。
人間のレイジには聞き取れない、声と言うよりは音の塊と言うべきそれを繰るのはやはり天使だろう。悪魔であればリュシフェルとの契約の効力で言語を聞き取れる。探る目を斜め後方に浮かぶリュシフェルに向ければ、肯定するように頷いた。
腰の左に下げたホルスターから対天使用の黒い拳銃を外し、安全装置を解除する。
込められた弾丸は最大の六発。天使の数が三体以下なら、いつものように一体につき二発ずつ撃ち込んでも支障がない。四体以上いれば確実に一発で仕留めるか、次の弾丸を込めるまで時間を稼ぐ必要がある。
ふと、視界の隅を白い光がよぎった。
天使たちがいると思われる場所の、さらに奥だ。レイジの唇が自然と上がる。
「あそこにいるのが今回の成功報酬のお姫様ってことか」
「そうだろうな」
リュシフェルも同じ方向へと目を向けた。
すでに光は消えておりレイジの目では捕らえられない。それでも狩りの興奮に心がざわめいた。
天使たちも気がついただろうか。どちらにしろ、のんびりとしている猶予はない。素早く撃鉄を起こし、そのまま左手で持つ。六発撃ち切ってしまった時に右側の銃をすぐ外せるよう、右手を開けておく為だ。短い準備を終え、闇の中をしなやかな肉食獣のように駆けだした。
曲がり角の先に光が三つ見える。天使たちの前に飛び出せば、まるで無防備な様子で戸惑う群れがそこにいた。瞬時に判断をつけて手近な一体に銃口を向け、何の躊躇いもなく引き金を引く。黒い弾丸は左胸を撃ち抜き、鮮血と共に鉄錆に似たにおいが辺りに飛び散った。
残りの二体の視線が突如として現れたレイジに集まる。甲冑の類いは身に纏ってはいないが、神の尖兵を務める立場にはあるのか腰に携えた剣を抜いた。
無理にでも、もう一体撃つべきだったか。いや――外した後が面倒だ。だからこれで良い。
軽く舌なめずりして顔の前に右手をかざす。同時に見えない障壁が振り下ろされた剣を受け止めた。金属がぶつかる音がして火花が散り、天使が目を見開く。
「残念だったな」
リュシフェルとの契約を知る者は誰もいない。狩りの最中は姿を消して見物しているであろう悪魔の魔力を、レイジは自分の魔力を媒介にある程度は使っていた。
それだけの適正があるからこそ悪魔は契約を結んだのだ。そして、対峙した天使たちはたかが人間だと侮ってくれるのだからやりやすい。
二体目の左胸も撃ち抜き、残りの一体に目を向ける。一連の流れを目の当たりにして、どう動くか迷いが生じているようだった。三体の中では比較的年若く、戦いの経験が浅いのかもしれない。
「どうする?」
『………………』
天使側から働きかけなければ意思の疎通は不可能だ。だが下等生物と交渉しようとする天使は、建前だけで結ばれた会談の場でなければいない。
あるいは《下界》に降りて来る天使とは違い、尖兵を務める天使たちはそこまでの知能を持ち合わせてはいないのか。いずれにしろ目の前の天使は剣を捨て、両手を広げて膝をつくことで敵意がないと行動で示した。
人間相手に命乞いをするなど、このうえない屈辱だろう。従順なふりをしてみせても表情は憎々しげにレイジを見ている。
見逃せばおそらく、リュシフェルの罠にかかって地上へ落とされた女の元へ行くに違いない。まさか、見捨てて逃げはしないだろう。ならば後を追い、女の目の前で殺すという手もある。
――だが。
「面倒くせえな」
三つ目の破裂音が響いた。
レイジの持つ特殊な黒い弾丸に撃ち抜かれた天使は身体中が腐食しはじめ、放っておいてもいずれ死に至る。最初に撃たれた天使はそろそろ命を落とすだろう。
だがレイジは、もはや残された矜持から憎悪の目で見やるしかできない天使たちの頭に銃口を向ける。目的を察し、わずかに表情を引き攣らせるにも構わずに引き金を引いた。立て続けに真紅の花が三つ、命を代償に石畳の上に咲き誇る。
「相変わらず良い趣味だな」
見る影もなく頭部を破裂させた三体の天使を感慨もなく見下ろし、悪魔が評した。
頭部を打ち抜く必要はない。にも拘わらずそうするのは、人間のみが扱う銃という武器で、人間の手で理不尽に命を奪ったという確かな証が欲しいからだ。そしてレイジは自らが理不尽に生かされていると実感する。そんな些細な理由の為の行動だった。
先程感じた光へと、今度はゆっくりと歩み寄る。
果たして逃げ場のない箱の影に、その哀れな獲物はいた。
誰もが想像する"天使"という存在をそのまま形にしたような、夜目にも白く鮮やかな無垢で美しい天使の少女。
金色の長い髪は柔らかく風にたなびき、澄んだ青い目は怯えた色だけを宿してレイジを見ている。
小さな赤い唇は鈴の音のような心地良い高音を奏で、しかしその意味は理解できない。
もっとも、この状況で友好的な言葉を言ってはいないだろう。
そう思えば柔らかな音の中に、固く張り詰めた一本の線に似た響きを感じ取れないでもない。そしてレイジに対する拒絶の意志は、そこに込められているに違いなかった。
飾りけのない純白のワンピースに包んだ華奢な身体を震える手で抱きすくめ、何度もかぶりを振っている。
その背に生えた、穢れのない存在を象徴する一対の白い翼を力ずくでもいでしまいたい。強い衝動がレイジを捕らえて放さなかった。
「お迎えにあがりました。美しい姫君」
伝わらないと分かっているからこそ、冷ややかな笑顔で優しい言葉をかける。
愛らしい顔を苦痛に歪ませ、泣き叫ぶ様はきっと、レイジを強く、深く満たしてくれるに違いない。
その感情は、レイジが久しく他人に対して抱くことのなくなった"期待"だった。
リュシフェルから何かを持ちかけるのは非常に珍しい。文字通りの悪魔の誘惑に興味を抱かないわけではなかったが、ここぞとばかりに食いつくのも癪に障る。レイジはことさらゆっくりとグラスに再度ワインを注ぎ、コルク栓をはめたビンを棚に戻した。
だが背中に浴びせられる悪魔の視線は、レイジの本心など見抜いていると言わんばかりの楽しげなものだ。気取られないように軽く眉を寄せ、次にはいつもの顔でガラス戸を閉めて振り返った。
やはり宙に座る姿勢のまま、立てた右膝の上で頬杖をつくリュシフェルは唇の端を酷薄そうに歪める。
「天使共の根城にちょっとした罠を仕掛けて来た。数日中にはおそらく天使の女が引っかかるはずだ」
「天使の女?」
「男が引っかかる方が良かったか?」
「そういう意味じゃない」
不愉快そうにワインを煽るレイジとは対照的に、リュシフェルは愉快そうに笑った。
よほど気分がいいらしい。確かに神や天使と敵対する立場にいる彼としては、意図的に天使を堕落させられると考えるだけで上機嫌になるのだろう。
「天使の女が引っかかると何故分かる」
「仕掛けた罠が、天使の女共が好むものだからだ。お前だって《下界》に降りて来る機会の多い男より女の方がいいだろう?」
「それはどうも」
心にもない礼を投げやりに述べると、悪魔は喉の奥で低く笑った。
遥か昔、天使と悪魔と人間とが、広大で恵み豊かな大地である《下界》の支配権を巡って争いを繰り広げていた。
だが人間は種族としての数こそ多いが、天使や魔族と比べれば圧倒的に劣る。双方からの攻撃を受け、激しく疲弊していた。
そんな危機的な状況を、たった一人の男が救った。後にこの国の王家の祖となり、《英雄王》として名を語り継がれる者が現れて戦況は大きく塗り替えられたのだ。人ならざる者たちに対抗しうる強大な力を人間たちが得はじめ、三者の間には休戦協定が結ばれた。
今でも平和が続いてはいるが、それはあくまでも表向きの話だ。
《獄界》はもちろんとして、規律を求めるはずの《天界》ですら一枚岩ではない。《下界》に至っては、一人の王がもたらした栄華も遠い過去の出来事だ。偉大にして絶大な《英雄王》の威光も弱まり、国力と領土の拡大の為に水面下では他国への侵略を目論む国もあった。
大きな戦争は起こらずとも、天使や悪魔が何らかの欲を持って《下界》に降りたり、あるいは人間が様々な目的により召喚するということも珍しくない。
そして現王家に疎まれるレイジは、火種を起こす悪魔や天使を――時には同族の人間さえも力で制圧する為に生きているのだ。
「あいつらは過保護な神の呪いで男も女も得てして快楽に弱い。すぐ肉欲や殺戮の衝動に絡め取られて堕天する」
「お前もそうだったということか」
リュシフェルはそれに関しては何も答えず、笑みを深くした。
彼がいかに堕天したか。それは《下界》の文献にすら記されている。どこまでが真実なのかを知るのは彼だけだが、レイジにはどうでもいいことだ。
「で、俺に何をさせようとしている」
リュシフェル一人で楽しむつもりならレイジに話したりはしないだろう。
わざわざ女が好む罠を用意したのもそうだ。何らかの行動をレイジにさせる心づもりに違いない。そしてその想像もたやすくついた。
どれだけ表面を取り繕おうとレイジは誘いに乗る。ましてや今のように言い様のない燻りや渇きを抱えた状態ならなおさらだ。そんな悪魔の思惑通りに進むのは非常に癪だが、その読みは外れてはいない。
「言わずとも分かっていると思うが」
快楽に弱い天使の女が、リュシフェルの罠にかかって《下界》に強制転送される。
つまり――。
「俺に天使の女を犯せと?」
「悪くない話だろう?」
さも善意からの提案だと言いたげだ。悪魔の善意など何の冗談か。笑わせてくれる。
悪趣味で、だからこそ魅力的な話に乗ってやる気にはなっても、一も二もなく飛びつく滑稽さは持ち合わせていない。先程の召喚の代価をこの要求に応えることで支払うにしろ、レイジは表面上は気怠い反応を崩さずに肩をすくませた。
「お前がやればいいんじゃないのか」
「あいにくと、神の怒りを買った俺は神の愛し子の天使には性愛を抱けぬ」
「――へえ」
真偽を問い質すつもりもなく、レイジはグラスに残ったワインを飲み干す。
まだるっこしいのも嫌いだ。レイジ側に準備が必要とも思えない。さっさと話を聞いて終わらせるに限る。
「いいだろう。人間の女を抱くのも飽きて来た。たまには大悪魔殿が手ずから用意した女を醜く食い散らすのも悪くない」
わざと大げさな口調で告げると、悪魔は満足そうに目を細めた。
そして数日が経過した月のない夜、リュシフェルが用意した罠に一人の天使が引っかかった。
悪魔いわく、転送先は王都のはずれにある寂れた倉庫街にしたらしい。人目について他の人間に掴まっては罠にかけた意味はないし、どれだけ距離があろうと一瞬で移動できる悪魔に何ら問題はないからだ。
倉庫街に到着すれば、よほど状況が逼迫しているのだろう。普段は巧妙に隠されていることが多い人ならざる何者かの気配がする。こちらは気づかれることのないよう慎重に近づくにつれ、前方から複数の声が聞こえた。
だが、声だとは判別できるが何を話しているのかは全く分からない。あきらかに言語そのものが違っていた。
人間のレイジには聞き取れない、声と言うよりは音の塊と言うべきそれを繰るのはやはり天使だろう。悪魔であればリュシフェルとの契約の効力で言語を聞き取れる。探る目を斜め後方に浮かぶリュシフェルに向ければ、肯定するように頷いた。
腰の左に下げたホルスターから対天使用の黒い拳銃を外し、安全装置を解除する。
込められた弾丸は最大の六発。天使の数が三体以下なら、いつものように一体につき二発ずつ撃ち込んでも支障がない。四体以上いれば確実に一発で仕留めるか、次の弾丸を込めるまで時間を稼ぐ必要がある。
ふと、視界の隅を白い光がよぎった。
天使たちがいると思われる場所の、さらに奥だ。レイジの唇が自然と上がる。
「あそこにいるのが今回の成功報酬のお姫様ってことか」
「そうだろうな」
リュシフェルも同じ方向へと目を向けた。
すでに光は消えておりレイジの目では捕らえられない。それでも狩りの興奮に心がざわめいた。
天使たちも気がついただろうか。どちらにしろ、のんびりとしている猶予はない。素早く撃鉄を起こし、そのまま左手で持つ。六発撃ち切ってしまった時に右側の銃をすぐ外せるよう、右手を開けておく為だ。短い準備を終え、闇の中をしなやかな肉食獣のように駆けだした。
曲がり角の先に光が三つ見える。天使たちの前に飛び出せば、まるで無防備な様子で戸惑う群れがそこにいた。瞬時に判断をつけて手近な一体に銃口を向け、何の躊躇いもなく引き金を引く。黒い弾丸は左胸を撃ち抜き、鮮血と共に鉄錆に似たにおいが辺りに飛び散った。
残りの二体の視線が突如として現れたレイジに集まる。甲冑の類いは身に纏ってはいないが、神の尖兵を務める立場にはあるのか腰に携えた剣を抜いた。
無理にでも、もう一体撃つべきだったか。いや――外した後が面倒だ。だからこれで良い。
軽く舌なめずりして顔の前に右手をかざす。同時に見えない障壁が振り下ろされた剣を受け止めた。金属がぶつかる音がして火花が散り、天使が目を見開く。
「残念だったな」
リュシフェルとの契約を知る者は誰もいない。狩りの最中は姿を消して見物しているであろう悪魔の魔力を、レイジは自分の魔力を媒介にある程度は使っていた。
それだけの適正があるからこそ悪魔は契約を結んだのだ。そして、対峙した天使たちはたかが人間だと侮ってくれるのだからやりやすい。
二体目の左胸も撃ち抜き、残りの一体に目を向ける。一連の流れを目の当たりにして、どう動くか迷いが生じているようだった。三体の中では比較的年若く、戦いの経験が浅いのかもしれない。
「どうする?」
『………………』
天使側から働きかけなければ意思の疎通は不可能だ。だが下等生物と交渉しようとする天使は、建前だけで結ばれた会談の場でなければいない。
あるいは《下界》に降りて来る天使とは違い、尖兵を務める天使たちはそこまでの知能を持ち合わせてはいないのか。いずれにしろ目の前の天使は剣を捨て、両手を広げて膝をつくことで敵意がないと行動で示した。
人間相手に命乞いをするなど、このうえない屈辱だろう。従順なふりをしてみせても表情は憎々しげにレイジを見ている。
見逃せばおそらく、リュシフェルの罠にかかって地上へ落とされた女の元へ行くに違いない。まさか、見捨てて逃げはしないだろう。ならば後を追い、女の目の前で殺すという手もある。
――だが。
「面倒くせえな」
三つ目の破裂音が響いた。
レイジの持つ特殊な黒い弾丸に撃ち抜かれた天使は身体中が腐食しはじめ、放っておいてもいずれ死に至る。最初に撃たれた天使はそろそろ命を落とすだろう。
だがレイジは、もはや残された矜持から憎悪の目で見やるしかできない天使たちの頭に銃口を向ける。目的を察し、わずかに表情を引き攣らせるにも構わずに引き金を引いた。立て続けに真紅の花が三つ、命を代償に石畳の上に咲き誇る。
「相変わらず良い趣味だな」
見る影もなく頭部を破裂させた三体の天使を感慨もなく見下ろし、悪魔が評した。
頭部を打ち抜く必要はない。にも拘わらずそうするのは、人間のみが扱う銃という武器で、人間の手で理不尽に命を奪ったという確かな証が欲しいからだ。そしてレイジは自らが理不尽に生かされていると実感する。そんな些細な理由の為の行動だった。
先程感じた光へと、今度はゆっくりと歩み寄る。
果たして逃げ場のない箱の影に、その哀れな獲物はいた。
誰もが想像する"天使"という存在をそのまま形にしたような、夜目にも白く鮮やかな無垢で美しい天使の少女。
金色の長い髪は柔らかく風にたなびき、澄んだ青い目は怯えた色だけを宿してレイジを見ている。
小さな赤い唇は鈴の音のような心地良い高音を奏で、しかしその意味は理解できない。
もっとも、この状況で友好的な言葉を言ってはいないだろう。
そう思えば柔らかな音の中に、固く張り詰めた一本の線に似た響きを感じ取れないでもない。そしてレイジに対する拒絶の意志は、そこに込められているに違いなかった。
飾りけのない純白のワンピースに包んだ華奢な身体を震える手で抱きすくめ、何度もかぶりを振っている。
その背に生えた、穢れのない存在を象徴する一対の白い翼を力ずくでもいでしまいたい。強い衝動がレイジを捕らえて放さなかった。
「お迎えにあがりました。美しい姫君」
伝わらないと分かっているからこそ、冷ややかな笑顔で優しい言葉をかける。
愛らしい顔を苦痛に歪ませ、泣き叫ぶ様はきっと、レイジを強く、深く満たしてくれるに違いない。
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