王子と半分こ

瀬月 ゆな

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呼んだ名前、呼ばれた名前

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 シャルドネイト家の門を出てすぐ右手側のところに一台の馬車が待機していた。おそらくはこれがキースが用意した馬車なのだろう。
 さほど大きくない、というのが第一印象だった。もっとも、王家の所有物に対する相対的なイメージの比較なだけで、リリーナが家から乗って来た馬車と比べれば十分に大きい。
 一目でそうと分かるような派手さや豪華さはなくても、よく見ると細かな部分まで手が込んでいる。
 そこにキースの人柄が映し出されているのだろうか。リリーナも派手な装飾は好きではないし、少なくともその点に関しては気が合うと言ってもいいのかもしれない。

「馬車がどうかしたか」
「あ、いえ」

 思わず馬車に目を奪われたまま立ち止まっていると背後から声をかけられた。リリーナは慌てて首を振り、キースが支えてくれているドアから出来る限りの優雅な仕草で馬車に乗り込む。

 いちばん驚いたのは馬車の外観が黒ではなかったことだ。強いて言えば馬車を引く二頭の馬の毛並みは黒みがかった鹿毛であると言うくらいだろうか。若々しい輝きに満ちた馬たちが繋がれた馬車は艶を消したオークブラウンを基調とし、濃い目のアイボリーであつらえた繊細な模様で縁取られている。
 ただの偏見だがキースが好む色は黒だという思い込みがすでにあった。そして内装は彩度を抑えたアースカラーでまとめられており、小規模でありながら居心地の良さそうな空間が仕立てられている。

「……てっきり、キース殿下がご用意された馬車ですから黒いかと思っていました」
「麗しの姫君の期待に添えず申し訳ない」
「そんなつもりで申し上げたわけでは」

 キースは全く悪気を感じている風でもなく告げ、リリーナの隣に――それでも間に大人一人が余裕で座れるくらいの隙間はあるのだが――腰を下ろした。

「中も黒じゃないのですね」

 何となく押し黙ったまま家路に着くのも気まずくて、思ったままのことを口にしてみる。
 口にしてからすぐに後悔した。
 また馬車の色に関する話題を選んでしまった自分の学習能力のなさにがっかりする。
 窓枠にもたれかかるように頬杖をついていたキースは、その黒い目だけをリリーナに向けた。

「俺だって別に、何から何まで黒一色で固めてるわけじゃない」
「今はお召し物の色以外に判断材料がありません故、浅慮で失礼致しました」
「……気にしてない」

 そう言ってキースはまた、窓の外へと視線を戻してしまう。
 凛とした端正な横顔を眺め、やがてリリーナも窓の外を見た。
 話すことが何もない。
 そもそもキースが会話することを拒んでいるのだから、リリーナ一人ではどうしようもなかった。

 リリーナはシートに身体を埋めた。
 柔らかな革張りのクッションは長時間の移動にも疲労感を与えない為だろう。絶妙な固さに計算されたそれは、身体を深く預けようとするまでもなく自然と受け止めてくれている。
 鉄製の車輪が石畳を打ちつける音を遠くに聞きながら、白い街灯に照らされた街並みをぼんやりと眺めた。




「……い」

 まるで穏やかな水の中をゆらゆらと漂っているような感覚だった。この心地良さにもっと浸りたくて無意識に身体を縮こませ、さらに深く潜ろうとする。

「……おい」

 あきらかに人為的な力で身体を揺さぶられた。
 そこでようやくリリーナは自分が寝てしまっていたことに気がつく。
 初めて乗る馬車の中でうたた寝をするなんて、それこそ初めてだった。そんなに疲れている自覚は全然なかったが、寝ていたことに変わりはない。
 予想以上の快適さがもたらした、失態で済ませるにはあまりある行動に目を開けると、文字通り目と鼻の先にキースの顔があった。

「っ!?」

 ディアモント家に着いたのか。クッションのおかげで車輪の音と景色の流れでしか動いていることを感じさせなかった馬車が、いつの間にか止まっていた。
 ふとした弾みで互いの鼻が触れてしまいそうな距離に息が詰まる。たとえ指一本でも不用意に動かせば、さらに事態を悪化させると思った。
 目をぱちくりさせつつもキースが身を引くのを待つ。リリーナの意思は伝わっているだろうに、一向に離れる気配はない。むしろ逆に、伝わっていてわざと離れようとしないのではないだろうか。
 何となくキースなら、からかう為にそうしてもおかしくないように思えた。

 リリーナの両脇にヒジをついたまま、キースが唇の端を薄く上げて笑う。
 その表情で確信を持った。
 やはりわざと、そうしているのだ。
 しかしキースの意図が分かったところで、リリーナの心臓が爆発寸前なことに変わりはない。
 それはそうだろう。

 癪だが見た目そのものには文句のつけようがない。それはよほどの理由がなければ誰しもが認めるところだろう。

 中でも一際印象的な黒い目は特に人目を引いた。
 本当に質の高い黒曜石で出来ていると言われても信じてしまうかもしれない。夜空にも似た深い輝きを讃える目に間近から見つめられると吸い込まれそうな錯覚を覚える。
 ただし性格は悪い……とまでは言わずとも、決して良いとは言い難い。

 けれど。

 何故だかとても懐かしくて。

 悲しい。

「…………さま」

 自分でも心当たりのない名前が唇から紡がれる。

 今、自分は誰の名を呼んだのだろう。懸命に思い出そうとしても記憶の糸が掴めない。
 だがキースにはその名がはっきりと聞こえていたようだった。自信に満ち溢れていた目がほんの一瞬、別の感情を宿し揺らいだ。
 リリーナと同じく懐かしむような、悲しむような切なげな色が浮かんで見えたのは、気のせいなのだろうか。

 キースの唇が声も出さずに動く。

 今度はリリーナが名を呼ばれたのだと思った。
 聞き取れなかったけれど、リリーナではないリリーナの名を確かに呼ばれた。
 だってこんなに、心の奥底がそれに応えて震えている。

 しかしキースは目を伏せると両手を固く握りしめた。

「……だから嫌なんだよ」

 どこか忌々しげに振り絞られた声が、柔らかく解けかけていたリリーナの心を瞬時にすくませる。

 いくら心地良かったからとは言え王太子も同乗する馬車の中で寝たり、ほとんど無意識だったとは言え他の異性の名で呼びかけたり、これで不興を買わない方がおかしい。
 でも何故か、冷気すら感じさせるキースの怒りの矛先はリリーナではなく、キース自身へと向けられている気がした。

 リリーナから離れ、キースは無言のまま扉を開けて馬車を降りる。

「眠り姫様、到着致しました」

 淑女に対する紳士の礼儀として馬車を降りやすいように右手を差し伸べてくれているが、そこには先程垣間見えた甘やかな雰囲気は微塵もなかった。
 リリーナも優しく接し続けてもらえると期待していたわけではない。あれはリリーナではない誰かに、キースではない誰かが向けたものだ。それくらい分かる。
 だからこそリリーナは確かめなければいけない。互いの魂に刻まれた太陽と月の紋章で繋がっている運命の相手が、一体どういう存在なのかを。

 ちらりと窓の外を見れば淡く輝く照明の灯る、見慣れた自宅の庭園が見えた。
 馬車はリリーナが眠っている間に門を通り、玄関近くへ来ていたようだ。ならば悠長にしている時間はあまりないだろう。
 キースの独り言は聞こえなかった振りをすることに決めて馬車を降りると、傍らに立つその顔を真っすぐに見上げる。

「私、さっきどなたのお名前を――」
「覚えてないならそれでいい。聞いたところで分かりようもないのだから」

 意を決して尋ねた質問は途中で簡単に遮られた。
 キースの言うことは確かに間違ってない。
 もし適当な名前を言われてもリリーナは信じてしまうし、同時に疑いもするだろう。だから聞いたところで何も意味がない。それは理に適った答えだ。
 でもリリーナにも知る権利はあるはずだった。それを知りたいと思うことすら、許されないのだろうか。

 キースは知っている。今リリーナが知りたいと思っていることを、どこまで知っているのかは分からない。
 ただその一連の態度や反応は、リリーナの求めるものを多少なりともキースが知っていると明確に裏付けていた。
 諦めきれずに再び問いかけようとしたリリーナの唇は、質問を重ねることは出来なかった。時間切れだと言わんばかりの絶妙なタイミングで現れた人物がいたからだ。

「お嬢様お帰りなさいませ」

 予定よりずいぶん早く戻った話を門を守る衛兵から受けていたのだろう。
 ディアモント家に最も長く仕える老執事が扉を開け、エントランスに繋がる短い階段を下りて来る。
 王太子という、よほどの大貴族でなければ屋敷を訪れることなど一度もないであろう身分の客人相手でも落ち着き払った仕草でキースに敬礼を取り、次いでリリーナを出迎えた。

 もちろん老執事がタイミングを見計らっていたわけもないのだが、第三者が姿を見せたことにより追及する機会を逃してしまった。キースの表情を窺うまでもなく分かる。とても改めて聞けるような雰囲気ではない。

「こ、これはキース殿下、ようこそおいで下さいました」

 前触れのない王太子殿下直々の来訪というものは、やましいことなどなくとも慌てさせるようだ。
 バーバラの誕生パーティーで見たシャルドネイト伯爵と同様に、リリーナの両親のディアモント伯爵夫妻も何が何だか状況を全く把握出来ていない様子だった。戸惑いを隠し切れずにキースを出迎える。ディアモント家を支える柱ではあるがのんびりした性格の当主よりも老執事の方が、年の功もあってか冷静な対応だった。

「麗しの姫君を他の子息の目に長々と触れさせたくないあまり、無理を言って早めに帰ってもらった」
「おお、そういうことでしたか」

 伯爵は頷いたが、事情を飲み込めているのかどうかは正直怪しい。
 一方のキースはと言えば、よくもいけしゃあしゃあと心にもないでまかせを言えたものだ。

 リリーナは横目でキースを見たが、そんな小さな棘が刺さるはずもない。それこそ感情や思考を隠すことには手慣れているであろう王太子は、あまりの完璧さに憎らしさすら感じるほどに涼しげな面持ちでリリーナを見ていた。
 仲睦まじく視線を交わし合っていると錯覚させられる角度まで目線を落とし、淡く微笑みかける辺りも上手いと思った。リリーナとて、いちばん最初にそうされていたらまんまと騙されていたかもしれない。

「このまま殿下に立ち話をさせるわけにもまいりませんし、あいにくと、ろくなもてなしも出来ませんが中へとお入り下さい」

 自ら端に下がってキースの為に通り道を開けながらディアモント伯爵が促すが、キースは首を振って答える。

「リリーナ嬢を送るついでに、今日の振り替えになる登城の予定日を告げたかったに過ぎない。時間も時間だし気遣いは無用だ」
「登城の予定、ですか」

 ディアモント伯爵もその言葉でようやく、あれから何の話も聞いていないことを思い出したらしい。
 王太子との婚姻話をクレフが持ちかけて来たのは一週間前だが、不運続きの可愛い一人娘に幸せな結婚生活を送らせてやりたいが為の夢だったのではないかと思ってもいた。
 それはもちろん王家やクレフを疑っているからではない。伯爵位とは言え末端に等しいディアモント家にとって、単純に夢のような話だからだ。

「今日でなければいつでも良いとは聞いている。こちらとしても出来る限り早く話を進めたいというのが実情だ。急ぎではあるが次の日曜で良いだろうか」
「お心遣い滅相もございません。リリーナも、問題ないね?」
「はい」

 父に意思を問われ、リリーナは頷いた。
 先延ばしにしたい理由はないし、そうしたところで何が変わるわけでもない。それどころかリリーナの欲しい答えを得られるかもしれない機会が、いたずらに遠くなるだけだ。

「また会えることを楽しみにしてる」

 別れ際、キースはそう言ってリリーナの右手に恭しく口づけを落とす。
 けれどそれは今日だけでも何度も聞いた中身のない空虚な言葉だと、リリーナは見抜けるようになってしまっていた。

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